830.「途方もない冒険に終止符を」
戦闘開始の合図を送ってから、約二十分が経過していた。
その間、わたしたちは藪のなかでじっとしていたわけではない。
「このあたりでいいです」
そう囁いて、前を行くハックが足を止めた。彼に倣ってわたしも足を止める。背後で鳴っていた足音も止まる。
わたしたちは窪地の縁に沿って、二十分かけて西へ移動したのだ。わたしとハック、そしてゲオルグの三人で。
『骨の揺り籠』の住民とジェニーには北から侵攻するよう伝えてある。二重のブラフを仕掛けるよう提案したのはゲオルグだった。それにすぐさま賛意を示したハックによって、急ごしらえの作戦が現実のものとなっている。
もし敵が南側の勢力が囮であることを看破したのなら、すでに北に人員を配置している可能性がある。雑兵ならばリフをはじめとする『骨の揺り籠』の獣人に任せる選択も可能だが、『緋色の月』のなかでも脅威となるような者を差し向けてくる危険もあった。その場合全員が足止めを食い、ゾラへの接触が遅れ、結果として流れる血の総量が増えてしまう。それを懸念するなら、わたしたちだけが西から侵攻すべきである。そんなふうにゲオルグは論理を展開した。
実際にどうなるかは見えないが筋は通っている。しかしながら、いかにハックが合意しても『骨の揺り籠』の人々の不安は増す一方だった。自分たちだけで敵に立ち向かうのはもちろん、そこに『緋色の月』のなかでも猛者とされるような強者が流れ込んでくる可能性を聞いて、一気に士気が下がってしまったのである。そこでジェニーが、自分が残って彼らとともに戦うと宣言したのだ。ジェニーの実力はすでに『骨の揺り籠』で存分に発揮されている。タテガミ族を複数体相手にしても遅れを取らない力が彼女にはあった。
かくして、わたしたちはたった三人で『黄金宮殿』を目指すこととなったのである。ゲオルグの想定通りなら、一直線で目的地にたどり着くことが出来るはずだ。
「『骨の揺り籠』のみんなが動き出したようです」
ハックが目を細めて睨んだ方角には、窪地の縁から大股で進軍する巨大な影があった。リフの姿は敵にとっても畏れるに足るものだろう。だからこそ、有力な人員を割いてくる可能性が高い。夜闇に浮かぶ巨躯を見据えて、ゲオルグの見立ての正しさを感覚として理解した。
「こっちも動きますです」
そう言ってハックは振り返った。彼の足はまだ動いていない。
左右異なる綺麗な瞳が、間近にある。張り詰めた無表情が、ほつれるように崩れ去って――。
ああ、まただ。また、あの顔だ。泣いてるみたいな微笑。途轍もない不幸を背負っているようでいて、しかも幸福の欠片を感じさせる表情。眉尻が心持ち下がって、頬は柔らかに持ち上がり、遠くを見据えるように細くなった目。
樹海へと出発する前日の尾根。『骨の揺り籠』の巣の上。何度か目にしたハックのその表情は、いまだによく理解出来なかった。ただ、切実で、誠実で、無防備に本心を曝け出しているように感じる。その本心の正体がどうしても見えてこないというだけのことだ。
彼の瞳は、わたしとゲオルグの両者に向けられていた。
「ありがとうございますです」ぺこり、と彼は頭を下げる。「ここまで助けてくれて、本当に感謝してますです」
言葉自体も、それを発するタイミングも、決しておかしくはないはずだった。自分に協力してくれた相手に対して、最後の出陣の際に感謝を述べる。なにも間違っていない。なのにわたしは、どうしようもなく強く、驚いてしまった。返事が出来ないくらいに。
――なんで今それを言うの。そんなのまるでお別れみたいじゃない。
きっとわたしは目を丸くしていただろう。それからなんとか表情を引き締めて、ぎりぎりの微笑を作ったに違いない。そしてそれら全部がわたしの感情とともにハックの目に看破されたことだろう。
「頑張りましょう。これで最後だから」
ハックの旅路は、これで終わらせてあげなきゃいけない。なんとしてでも。彼の目的は人間殲滅の抑止であり、他種族同士の和解だ。『灰銀の太陽』と『緋色の月』とのぶつかり合いにそれら目的のすべてが籠められている。
だからこそ今度の交渉を上手く運び、この子の途方もない冒険に終止符を打たなければ。彼がどう思っているかは分からないけれど、ハックはもっとわがままに振舞ったり、誰かに甘えたり、大声をあげて泣いたり、同じ年頃の相手と恋に落ちたりすべきなのだ。誰かの運命を背負って自分の感情を徹底的に制御しなければならないような、そんな状況から早く解放してあげなきゃならない。たとえわたし自身がそれと反するような絶望的な道を歩んでおり、これからも歩み続けなければならないとしても。
ハックは言葉を返すことなく俯いた。そして数秒後に顔を上げると、そこにはいつもの使命感に満ちた冷静な無表情があった。
「行きますです」
そう言って、ハックは窪地の縁を早足で降りはじめた。
呆気に取られたりしない。彼と同じように、わたしも切り替えなければいけないのはちゃんと分かっているから。
ハックに遅れることなく、彼の横を並走する。ゲオルグはというと、足音から察するにわたしたちの背後を大股で進んでいるようだった。
北と南。それぞれで侵攻がはじまっている。たった三人による西側からの進行が、『緋色の月』にとって予測不可能なものであるよう願った。
わたしたちは順調に歩を進めていた。ゲオルグの狙い通り、西側にはほとんど獣人の影はない。何度か住居の影から彼らの姿が見えたが、いずれも一目散に北か南に向かっている者ばかりで、しかも声を張り上げて呼びかけ合っていたり、大仰な足音を立てていたりしたので、やり過ごすのは容易だった。
隘路を選んで中心地へと進んでいく。その道中で、ぽっかりと空いた窓から、家屋の隅で震える獣人を見つけた。女性で、しかも子供を抱いている。すぐにわたしは身体を低くして隠れたのだけれど、一瞬の光景が目に焼き付いてしまった。
きっと途轍もなく怖いだろう。ルドベキアはこれまで樹海で覇権を握っていた。つまり、ほかの集落の者からの襲撃などほとんど経験していないわけだ。安寧のなかですくすくと育つはずだった我が子を抱えて、必死に目をつぶる女性。いよいよとなったら、なんとしてでも子供を守るために死力を尽くすだろう。きっと。
前線で戦っている者ばかりが傷を負っているわけではない。家々の隅に蹲っている獣人たちもまた、ひどい恐怖に晒されている。
わたしは歯噛みし、足を踏み出した。なんて重い一歩だろう、と思う。様々な責任がこの足にある。一方では救世主的な責務、他方では糾弾されるべき罪科。いずれにせよ立ち止まってはいけないし、無自覚であってもいけない。全部を理解したうえで進まなければならない。それだけが、いずれの陣営から見ても確かな責任として存在するだろう。
『黄金宮殿』までの道を半分ほど過ぎた頃、わたしたちは異様なものに行き当たった。
「なにこれ……」
数十メートル先に立ち昇る炎の壁。
自然発生したものではない。なぜならそれは膨大な魔力を湛えていたのだから。
「誰かが壁を作ってるんです、きっと」
ハックが絞り出すような口調で囁く。
見る限り魔力は一定ではなかった。ある地点を中心にして、弱まった魔力を補強するように魔力の波が伝播していくのが視える。つまり、その地点で魔力の維持がなされているというわけだ。この魔術を行使している奴はそこにいる。
魔力の維持地点はちょうど大通りのあたりで、ここからそう離れてはいないようだった。
「倒さなきゃならないわね。……わたしが行ってくるわ。二人は隠れてて」
「……分かりましたです。ただ、お姉さんはゾラさんとの交渉に立ち会ってもらいますから、近くまでは行きますです」
少し迷ったが、頷いて見せる。戦闘に巻き込まれない範囲であればかまわない。
サーベルを抜き放ち、深呼吸をひとつ。意識が瞬間的に研ぎ澄まされ、全身が凛と整う感覚を得た。
行こう。相手が誰であれ、道を阻むなら倒さなきゃならない。
幸福と不幸は、ときにまったく同じ表情をしているらしい。
この場合もそうだ。
「おや、クロエじゃないか! 数日振りだな! ふむ! どうやら当たりを引いたらしい。クロは北へ、そしてこちらは西と東どちらかを選ぶことになったが、なるほど、霊感は常にこの魂とともにあるようだ」
「オッフェンバック……それにミスラも……」
炎の壁を背景に、純白の毛をふさふさと生やした獣人――オッフェンバック。
そして淡いブルーの衣服に身を包み、両手に曲折した剣を携えた優美な女性の獣人――ミスラ。
二人ともゾラに命を奪われたものだと思っていた。だからこそ、生存を心から嬉しく思う。
ただ、それと同じくらいの強度で、わたしは悲嘆に暮れなければならなかった。
「……そこを通してくれない?」
「悪いが、このオッフェンバックは道を譲るわけにはいかん。恋と芸術の終着点が『緋色の月』だと知ったのだよ。クロエ。君には悪いが、このオッフェンバックは『灰銀の太陽』を徹底的に排除せねばならんのだ。我が妻となるミスラを守るためにも」
頑強な笑顔を前に、わたしは薄く長く息を吐き出した。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『ジェニー』→『毒食の魔女』の邸にメイドとして住み込む少女。愛嬌たっぷりで天真爛漫。語尾に「にゃ」を付けて喋る。『ケットシー』と呼ばれる獣人の一種。興奮すると耳と尻尾が出てしまう。故郷の村をルドベキアの獣人に滅ぼされている。手引きしたのは友人だったケットシーのクロ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『600.「或るケットシーの昔話」』『601.「たった二人の生き残り」』参照
・『ゲオルグ』→『黒山羊族』なる、黒山羊に似た獣人。黒のタキシードに白手袋、黒革の靴といった出で立ち。言葉を発することが出来ないらしく、文字の魔術を用いてコミュニケーションを図る。『灰銀の太陽』と『緋色の月』の両方を救うと豪語している。詳しくは『809.「不動の黒山羊」』『810.「語る金文字」』『821.「怒りと使命を掌に」』にて
・『リフ』→『骨の揺り籠』の住民。巨人の魔物キュクロプスと、タテガミ族とのハーフ。巨大な身体を持ち、頭には林檎の樹が生えている。夜会卿の統べる街で女性研究者によって生み出された。夜会卿の妾を誤って殺してしまった結果、使用人をしていたキージーとともに街を追放された。臆病な性格。幻覚の魔術を使うことが出来る。詳細は『806.「骨の揺り籠」』『813.「巨獣の起源」』『814.「狂気と墜落と」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『オッフェンバック』→純白の毛を持つタテガミ族の獣人。『緋色の月』に所属。自称音楽家の芸術至上主義者で、刺激を得るという動機でハックの和平交渉を台無しにした。クロエとの戦闘に敗北し、あわや絶命というところを彼女に救われた。それがきっかけとなって『灰銀の太陽』への協力を申し出ている。詳細は『774.「芸術はワンダー哉!」』『780.「君が守ったのは」』にて
・『ミスラ』→女性のタテガミ族。しなやかな黒毛。多くの獣人と異なり、薄衣や足環など服飾にこだわりを見せている。オッフェンバックの元恋人であり、わけあってゾラに侍るようになった。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』『789.「絶交の理由 ~嗚呼、素晴らしき音色~」』『797.「姫君の交渉」』にて
・『タテガミ族』→獣人の一種。男はタテガミを有し、女性は持たない。獣人たちの中央集落『ルドベキア』はタテガミ族の暮らす地
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて
・『骨の揺り籠』→身体的ハンデから、口減らしの目的で『異形の穴』に捨てられた獣人のうち、生き残った者たちで作り出した集落。『異形の穴』の底に存在する。詳しくは『第五話「緋色の月~③骨の揺り籠~」』にて
・『黄金宮殿』→獣人たちの中央集落『ルドベキア』の中心にある宮殿。玉座には財宝が大量に集められている。歴代酋長が使用する私室や、浴場、ゲストルームが存在する。全体に魔術除けが施されており、魔術を一切通さない。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて




