95.「個人的な英雄」
シェリーは顔を上げてニッコリと笑った。偽りや努力など欠片もない、本物の笑顔。
「スパルナは私の……私の英雄なんだから」
ああ、と吐息が漏れた。シェリーの気持ちは痛いほど理解出来た。曇りない瞳に、いつかの自分を見るようだ。
「シェリーを助けた晩も同じことを言ってくれた。それではじめて思い出したんだ。僕は昔、英雄になりたかった、と。それは記憶と呼べるほど確かなものじゃない。ただ、その感情が随分強かったのは分かる」
「だからラーミアと対峙したときに英雄見習いだなんて名乗ったのね」
「そうだ。僕はまだ英雄と言い切れるだけのことはしていないから」
それを聞いて、シェリーは大きく首を横に振った。彼女の髪がさらさらと踊る。「スパルナは英雄だよ」
スパルナはシェリーのほうを向いて、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、シェリー」
そんなにも親密な表情が出来るとは。案外彼も、心を開けば多彩な感情を見せるのだろうか。
それからスパルナはラーミアについて語った。ぽつりぽつりと、不器用に言葉を区切りながら。
シェリーを連れ去って間もなく、彼女から風習についての話を聞いたのだそうだ。スパルナがシェリーを救出したのは魔物の出現時刻ではなく、従ってラーミアの姿も見ていない。それを聞き、スパルナは村の北側を守護するようになったらしい。怒り狂ったラーミアが村を襲わないように。万が一出現したら、自分が命をかけてでも倒すために。なぜそこまで必死になるのか、というわたしの問いに対しては、やはり「英雄になるために」という答えのみだった。
そして昨晩の共闘に繋がる、という流れである。
「ひとつ相談がある。一緒に戦ってくれたあなたたちにしか出来ない相談だ」
スパルナはシェリーを一瞥し、それからわたしとヨハンに真剣な眼差しを向けた。
「シェリーを今後どうすればいいか、あなたたちの意見が聞きたい」
瞬間、シェリーは目を丸くしてスパルナを見上げた。なんでそんなことを言うのか。そんな疑問に満ちた表情。
「あなたたちも見た通り、僕はシェリーと一緒にいられる存在じゃない。クロエさん……から見れば僕は魔物なんだろう」
「スパルナ!」とシェリーはたまらず叫んだ。「なんでそんなこと言うの!? 一緒にいようよ……」
「……実はシェリーの話を聞いたときから考えていたんだ。泉の化け物を倒したら君を村に帰そうかって」
シェリーは首を何度も横に振った。「村は嫌だ。お父さんもお母さんも死んじゃって……それでこの村に連れて来られたんだもん……」
連れて来られた。その意味が分からないではなかった。
慎重に、彼女の機嫌を刺激しないよう訊ねた。「ねえ、シェリー。あなたは馬車に乗ってここまで来たの?」
「うん」
「それって、『ユートピア号』っていう名前の馬車で、行き先はハルキゲニアっていう場所じゃなかったかしら?」
シェリーは首を傾げ、やや沈黙してから「多分、ゆーとぴあ、って言う名前は聞いた……かも」と答えた。
すると、彼女の本来の行き先はハルキゲニアというわけだ。ノックスと比較すると魔力量はあまり感じられなかったが、魔術師になるかどうかは今後次第だ。落第しても問題なく生活を送ることが出来ると聞いているので、少なくとも辺鄙な村の生贄少女という馬鹿げたストーリーは待っていない。
決心して口を開く。
「シェリー。お姉ちゃんたち、これからハルキゲニアに行くところなの。『ユートピア号』と同じ行き先よ。なんでかって言うとね、シェリーと同じように途中で馬車から降ろされちゃった男の子がいて、その子をハルキゲニアにちゃんと届けるためなの」
なんとか伝わってくれるだろうか。
しかしシェリーは「行かない!!」と答えた。「スパルナと一緒がいい!!」と続けて叫ぶ。
泣き声が小屋に反響する。
ああ、泣かせてしまった。こういうとき、どうすればいいのかさっぱり分からない。
「シェリーは、その場所で幸せになれるのか?」とスパルナは聞く。大泣きを背景に、その口調は突き刺すような威圧を放っていた。本当に彼女のことを想っている証拠だ。
「幸せになるかはシェリー次第よ。けれど、ここにいるよりはずっと正しい生き方が出来る」
ヨハンは隣でぼそりと「正しい生き方、ね」と呟いた。彼には彼の考え方があるのだろうけど、どうせまともな提案など返ってくるはずもない。茶々を入れるだけだ。
スパルナは暫し沈黙していた。号泣はやがて、啜り泣きに変わる。
どのくらい経過しただろう。疲労からか、時間の流れが正確に掴めなかった。
不意にスパルナはシェリーを見つめ、頭を撫でた。何度も、何度も。そして言い聞かせるようにゆっくりと話した。「シェリー。僕は彼らを信用することに決めた。僕は永遠に君と一緒にいることは多分出来ない。だから、なるべく早くに――お別れしよう。でないと辛くなるばかりだ」
少女は幾度も「嫌」と繰り返したが、スパルナに抱きすくめられ、頭を撫でられているうちに、ようやく一度だけ小さく頷いた。
「いい子だ」とスパルナは笑う。それからこちらに向き直り「シェリーを頼む」と頭を下げた。
「分かったわ。絶対にハルキゲニアまで無事に連れて行く」
安心したのか、スパルナは長い息を吐いた。一方でヨハンは、なにやら複雑な表情をしている。それが正しいのか誤っているのか判断がつかないといった具合だ。ヨハンでも迷う物事があるのだろう。ここのところヨハンにはやられっぱなしだったので、少し自信が恢復した。
シェリーは「困ったら呼ぶから助けに来てね」なんて無茶なことを言っている。それに笑顔で応じるスパルナもどうかと思うが、別れの光景としては上々だ。万事円満。
小屋を出る頃には昼になっていた。随分と長く話したことになる。
人型魔物――スパルナは森のなかほどまで送ってくれた。わたしはシェリーの手を引き、ヨハンはよろよろと眠たげに歩を進める。
村に着く前にいくつかヨハンに確認した。まず、ハンバートとドローレスの行方についてだ。ヨハン曰く、彼らはわたしが目を覚ましてスパルナを追った少し後、村へと戻っていったらしい。既に魔物の発生時刻は過ぎていたので見送りは控えた、とも説明した。
生乾きの服を改めて意識して、スパルナについて考えた。彼はあわや溺死というわたしを、泉に潜って救出したのだろう。ご丁寧にサーベルまで回収してくれたのである。とんだ魔物だ。まるで英雄ではないか。
スパルナについての判断は既に決まっていた。わたしはわたしの思うように動く。そしてその判断が誤っていようとも構わない。
ヨハンはさすがに疲労が溜まっているのか、今夜は村に泊まって明日出発することを提案した。無論、断る理由はない。わたしだって徹夜明けで乗馬は避けたい。
村に帰り着いて自警団長の小屋に戻ると、丁度クルスとノックスが食事を摂っているところだった。食欲を刺激される良い匂い。テーブルにはサラダと、じゃがいもや人参を粗く切って豆と一緒に煮付けた大皿と、丸パン。それからゆで卵が山のように盛られていた。
「クロエ! ヨハンさん! おかえりなさい!! 村長から話は聞いていますよ! 本当に、なんと申し上げたらいいのやら……」
激情に駆られたのか、クルスは溢れた涙を袖口で拭った。歓喜と感謝の情がテーブルの昼食同様に山盛りで伝わってくる。ノックスは食事の手を止めて、ぼんやりとこちらを眺めていた。彼に「ただいま」と告げてからクルスに向き直った。
「いいのよ。わたしは自分のしたいようにしただけだから」
「いやいや、そうであってもこの村が救われたことは事実だ。さあ! ご馳走を用意してますから、どうぞ召し上がってください! それともひと眠りしますか? 夜通しの戦いでしたからね」と捲し立て、ようやくシェリーの存在に気付いたのか、クルスは固まった。
生贄少女。その姿に見覚えがあるのだろう。
クルスの目から止めどなく涙が溢れる。彼はそれを拭いもせず、その場に崩れ落ちた。
「ああ……ああ……生きてる! 奇跡だ! なんて奇跡だ! ありがとう! 生きていてくれてありがとう!!」
責任の棚上げについては、どうこう言うつもりはない。その感謝が上滑りしていることは、事情を知る者の目には明らかだ。
しかし、彼の言葉に嘘はない。本当に、誠実に、シェリーが生きていることに感謝しているのだ。そして力になれなかった不甲斐なさも、やはりクルスの胸を焼いている。そんな彼を責める必要などどこにもない。
シェリーの手を取り、ノックスとクルスに向けて微笑んだ。「紹介するわ。シェリーよ」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『ユートピア号』→子供を乗せてハルキゲニアへ向かう馬車。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』にて




