829.「行動開始」
ルドベキアは緩やかな窪地になっている。そして樹海内のほかの土地に比べるとひどく明るい。陽光を遮断する緑の天蓋から下がる『森ぼんぼり』や、光を明滅させながら飛び交う虫。あるいは衝撃を受けると発光する『灯り苔』。それらの微小な光が集い、この地を幽玄に照らし出している。
窪地の縁にほど近い場所まで到達したのは、陽が落ちてからだった。鬱蒼とした枝葉に覆われていても、夕と夜は判別出来る。葉裏に滲む微光や、これまでの人生で培われてきた時間感覚によって。
あたりを藪に囲われた空間に、わたしたちはいる。『灯り苔』の自生していない箇所を選び、待機しているのだ。藪から顔を出せば窪地を見下ろすことが出来る絶好の位置である。
「前回よりも獣人の数は多いですね」とハック。
「そうね」
遠目からなのではっきりとは言えないが、確認した限りでは前回よりもずっと数が多い上に、種族のバリエーションも豊富だった。つまり、『灰銀の太陽』の襲撃に備えて、ルドベキアに『緋色の月』を集めたのだろう。
「とにかく、『黄金宮殿』まで行って再びゾラさんに会わなければならないです」
わたしたちははじめから戦うためにここまでやってきたのではない。ある程度の戦闘はやむを得ないとしても、目的は再交渉だ。結果がどうなるにせよ、まずはゾラの前まで歩を進める必要がある。前回のように人質はいないし、警備も手厚い。
『骨の揺り籠』の住民を順繰りに見つめる。彼らは程度の差はあれど、ほとんど全員が怯えている様子だった。でも、それだけではない。瞳には怒りの火が揺れている。
キージーも同じだ。恐怖と復讐心からか、臆病で獰猛な硬い表情をしている。リフだけが例外で、なんだか泣きそうな顔をしていた。
「リフ、大丈夫?」
巨体を半分ほど藪に埋めつつ、膝を抱えて縮こまったリフに呼びかける。彼は俯きがちにこちらへ視線を寄越した。
「……うぅ……へい、き」
彼は言葉の直後に、ぐすり、と鼻を啜った。心なしか目が潤んでいる。
『戦力』の二字が頭に浮かんだが、首を横に振って払い落とした。
おそらくここにいる誰よりもリフは強い。ゲオルグの洗脳にかかっていたとはいえ、ドルフを天高く殴り飛ばしてしまえるほどの拳を持っているのだ。彼の活躍次第で、『黄金宮殿』への道のりの険しさが随分と変わってくることだろう。しかしながら、リフが抱く感情を無視するなんてわたしには出来ない。
「もし駄目そうなら、ここに残っていてもいいわ」
戦う心づもりが出来ていないのに前線に出て、いたずらに傷付き、あるいは傷付け、そして傷付けてしまったことに心が傷付き、下手を打てば命を失ってしまう。後戻りは出来ないけれども、無理矢理戦わせるわけにはいかない。
「がん、ばる」
そう呟いたリフの足を、キージーがゆっくりと撫でた。
リフとキージー。二人はかつてルドベキアで暮らしていた。もとは『黒の血族』に捉えられ、肉体を玩具にされ、夜会卿の屋敷で飼われていたのだけれど、なんとか逃げ出して樹海までやってきたのである。しかし、リフを追ってきた血族がいた。二人は彼女に情けをかけ、その結果として『異形の穴』に落とされる憂き目に遭ったのだ。
「またこの地を踏むことがあろうとは……」
キージーはぼそり、と独白した。憂いと薄暗い怒り。両方が瞳に灯っている。
ふわり、と視界を淡い黄色の塊がよぎった。それはリフやキージーをはじめ、『骨の揺り籠』の住民たちの真ん中で静止する。
『戦って自由を勝ち取りましょう。そのためにここまで来たんです。穴の底に残った者のためにも、必ずや勝たねばなりません』
普段よりも光量を抑えた金文字が数秒間空中にとどまり、やがて霧散した。
「そうだ。オイラたちは頑張って自由になるんでぃ」
タヌキ顔の獣人の言葉に、頷きが波のように広がる。やがて彼らの表情は、怯えに掻き消されないほどの活力を帯びた。
……ゲオルグの激励は効果覿面だ。間違ったことはなにひとつ言っていないし、なにより彼らの意思を尊重している。
それでもゲオルグを正しいと思えないのは、なんでだろう。しかも奇妙なことに、正しくないと思いながらも信用してしまっている自分がいる。
……ううん。わたしもだいぶ混乱してるのかも。考えたって仕方ない。集中しろ、集中。ここは敵の本拠地で、どんな些細な音や気配も見逃してはいけない。なにかに気を取られて反応が遅れれば、たとえそれがどんなに短い時間であっても命取りになりかねない。
わたしが不信と信用のあわいで惑っているうちに、ハックはペンを取り出して『共益紙』になにやら書き綴っていた。
そろりそろりと、なるべく音を立てないように彼の隣へと移動する。ハックは顔を上げず、ペンの動きも一切止めなかった。
今朝届いたらしいルドベキアの先代酋長アルビスのメッセージと、ハックが今しも書いている内容。その間に、わたしの知らないメッセージが記されていた。
『各種族合流。ルドベキアの南にて待機。デビスより』
今わたしたちのいる地点は北西で、彼らと合流するには移動しなければならない。が、ハックはそもそも合流することを考えていないようだった。
せっせと動いていたペン先が止まり、薄く長い吐息とともに紙面を離れる。
『じき合図を出すので、本隊はそれを待って南から中央の宮殿へ侵攻。革命勢力も合図とともに行動を。ハックより』
すると、すぐにふたつのメッセージが紙面に浮かび上がった。
『承知。デビスより』
『把握した。アルビスより』
ありがたいことに、両陣営とも『共益紙』をちょうど見てくれていたらしい。
ハックの視線が持ち上がる。彼は『骨の揺り籠』の住民たちに素早く視線を送った。そのなかにはわたしやジェニー、そしてゲオルグも含まれている。
色の異なる両の瞳と視線が交差した瞬間、肌に心地よい痺れが広がった。
何度も経験のある感覚だ。騎士時代、夜間戦闘に繰り出す直前、決まってこんなふうに肌に緊張が走ったものである。まだ経験の浅かった頃は不快に思った感覚だけれど、戦闘を重ねるにつれて肯定的に受け入れるようになっていった。心のうちで確かに存在する覚悟が、現実のものとして肉体を叱咤する。そんな感じ。
「じき、行動に移りますです」
ハックの言葉に、一斉に頷きが返る。
「今、僕たちと正反対の位置に『灰銀の太陽』の本隊がありますです。まず彼らが行動を開始しますです。それから、ルドベキアにも僕たちの味方をしてくれる獣人がいるようで、彼らも同じタイミングで動きますです。赤い布を右腕に巻いているらしいので、それは味方だと思ってくださいです」
革命勢力の総勢は未知だが、あえて確かめないあたり、やっぱり強く信頼しているわけではないらしい。実際、どの程度の人数であろうともわたしたちの取る行動は変わらないはずだ。
「戦闘の中心は本隊のいる南側になりますです。彼らを囮にして、僕たちは少数で中央の宮殿に向かいますです」
囮。露骨な表現だけれど、実際その通りだ。彼らがどの程度犠牲になるかは、わたしたちの交渉にかかっている。速やかに宮殿にたどり着き、速やかにゾラを説得しなければならない。もし交渉に応じないようであれば、速やかに――ゾラを討つ。
数日前、『黄金宮殿』内で味わった敗北が脳裏に蘇った。こちらの攻撃はまったくと言っていいほど通用せず、たった一撃でわたしはダウンしてしまったのだ。本気の戦闘となれば、前回の比ではないだろう。
勝たなきゃ。絶対に。なんとしてでも。
不意に、水音が響いた。ハッとして音の方向を見ると、ハックのそばにメロがいた。彼女は半身を地中から出して、にやにやと笑みを浮かべている。
「探したぜ~ハックちゃん」
「メロさん、行動前に会えてよかったです」
人魚たちはルドベキア内で戦闘がはじまった際に、可能な範囲で攪乱してもらう運びになっている。それを示し合わせたのは今朝『骨の揺り籠』を発つ前のことだ。つまり、革命勢力やら本隊の現在地やらについては伝達が不足している。ハックもそれを理解しているのか、素早く彼女に現在の状況を伝えた。
「ふぅん。革命ねぇ。ま、いいんじゃね? ウチらはウチらで出来ることをやるだけだし」
「南側にまとまった水源はありますですか?」
「南ね。ちょうど太い川が流れてるし、枝分かれしてルドベキアにも支流が行き渡ってる。南でちょっかいを出せばいいんだろ?」
「ええ、お願いしますです」
「オッケーオッケー」
メロは相変わらず軽い。その態度が、なんだかとてもありがたかった。
「メロ、気を付けてね」
手を差し出し、呼びかける。すると彼女はちょっぴり舌を出して、それから満面の笑みを浮かべた。「もっちろん。クロエちゃんも怪我しないようにな~」
温度の低い、人魚の手のひら。でも、力強かった。飄々としているけれど、メロだって腹を括っているのは間違いない。
「それじゃ、また」
そう言い残して彼女は地中に消えた。
それから数分だけ待って、ハックが『共益紙』に短い言葉を綴る。
『行動開始。幸運を祈る。ハックより』
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『ジェニー』→『毒食の魔女』の邸にメイドとして住み込む少女。愛嬌たっぷりで天真爛漫。語尾に「にゃ」を付けて喋る。『ケットシー』と呼ばれる獣人の一種。興奮すると耳と尻尾が出てしまう。故郷の村をルドベキアの獣人に滅ぼされている。手引きしたのは友人だったケットシーのクロ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『600.「或るケットシーの昔話」』『601.「たった二人の生き残り」』参照
・『メロ』→人魚の族長。小麦色の肌を持ち、軽薄な言葉を使う。口癖は「ウケる」。なにも考えていないように見えて、その実周囲をよく観察して行動している。地面を水面のごとく泳ぐ魔術を使用。詳しくは『745.「円卓、またはサラダボウル」』『746.「笑う人魚」』にて
・『デビス』→剥製となってマダムの邸に捕らわれていた半馬人。現在は剥製化の呪いが解かれ、『灰銀の太陽』の一員としてハックとともに行動している。詳しくは『624.「解呪の対価」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『キージー』→『骨の揺り籠』の長老。かつて夜会卿のもとで使用人をしていたが、リフとともに追放された。詳しくは『806.「骨の揺り籠」』『813.「巨獣の起源」』『814.「狂気と墜落と」』にて
・『リフ』→『骨の揺り籠』の住民。巨人の魔物キュクロプスと、タテガミ族とのハーフ。巨大な身体を持ち、頭には林檎の樹が生えている。夜会卿の統べる街で女性研究者によって生み出された。夜会卿の妾を誤って殺してしまった結果、使用人をしていたキージーとともに街を追放された。臆病な性格。幻覚の魔術を使うことが出来る。詳細は『806.「骨の揺り籠」』『813.「巨獣の起源」』『814.「狂気と墜落と」』にて
・『アルビス』→ルドベキアの元酋長。優秀な魔術師であり、多くの獣人に魔術の手ほどきをした。戦争への参加に反対したが、ゾラとの決闘に敗れ、地下に幽閉された。温和な性格であり、同じく幽閉された小人族の信頼を得ている。詳しくは『Side Grimm.「鳥籠の老人」』『Side Grimm.「ルドベキア今昔物語」』にて
・『夜会卿』→名はヴラド。『黒の血族』のひとり。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『中立地帯』を越えた先に彼の拠点が存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』にて
・『灯り苔』→刺激を受けると光を放つ苔。初出は『201.「森の中心へ」』『205.「目覚めと不死」』
・『森ぼんぼり』→樹に寄生する植物。樹上から球状の灯りを垂らす。詳しくは『205.「目覚めと不死」』にて
・『共益紙』→書かれた内容を共有する紙片。詳しくは『625.「灰銀の黎明」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『人魚』→女性のみの他種族。下半身が魚。可憐さとは裏腹に勝手気ままな種族とされている。『灰銀の太陽』に協力。詳しくは『741.「夜間飛行」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて
・『骨の揺り籠』→身体的ハンデから、口減らしの目的で『異形の穴』に捨てられた獣人のうち、生き残った者たちで作り出した集落。『異形の穴』の底に存在する。詳しくは『第五話「緋色の月~③骨の揺り籠~」』にて
・『異形の穴』→樹海に空いた巨大な穴。身体的にハンデのある獣人を葬るべく、暗黙のうちに使用されている。詳しくは『807.「一度死んだ者たち」』にて
・『黄金宮殿』→獣人たちの中央集落『ルドベキア』の中心にある宮殿。玉座には財宝が大量に集められている。歴代酋長が使用する私室や、浴場、ゲストルームが存在する。全体に魔術除けが施されており、魔術を一切通さない。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて




