Side Jade.「正しさの在り処」
※ジェイド視点の三人称です。
コルニオラの全身は、今やぬらぬらとした光沢のある緑に染まっていた。粘性の液に漬け込んだ薬草のせいである。
「ごめんなさい」
もう何度目か分からない呟きが、彼女の口元から微かに漏れ出す。それを耳にした『半鱗』が「いいえ、覚悟の上です」やら「後悔はありません」やら涙交じりに返すのもまた、何度も聞いたやり取りだった。
決闘の勝者はジェイドであり、『半鱗』を含めてこの場にいる『緋色の月』の生殺与奪は『純鱗』に握られている。
コルニオラの治療に皆の意識は向いていたが、それが終わった今、そろそろ動かねばならないとジェイドは自覚していた。それでも獣人に機先を制されたのは、朦朧とする意識のせいだろう。
「オレは認めんぞ……! 大人しく死ぬくらいなら戦って散ってやる……!」
その言葉を皮切りに、次々と同意が返る。
「そうだ!」
「オレたちには大儀がある!」
「従うべきはゾラ様であって、竜人ではない!」
それらの声を阻んだのは、『半鱗』だった。
「私たちは一蓮托生だったはずだ。敗北したから覆すなど笑止千万」
「黙れトカゲ! お前らは承知の上でここまで来たのかもしれんが、オレたちは巻き込まれたも同然だ! 綿密に吟味する時間も与えずに勝手に決めたのはお前らだ!」
「この場にいる一切の指揮権はコルニオラさんにある。勝手な真似は許さん!」
獣人は牙を剥き出しにして威嚇し、対する『半鱗』もまた身構えていた。殺気立った空気があたりに充満している。
ジェイドは途絶えそうになる意識の糸を繋ぎとめ、一同を見渡した。獣人の表情には、死に対する抵抗の意志が滲んでいる。
こうなることは予想がついていた。そう簡単に事が収まるはずがない。
自分が為すべきこと。たったひとつの確信。
ジェイドは痛みを堪え、大きく息を吸った。
「俺たちは誰も殺さない」
瞬間、周囲が水を打ったように静まり返る。特に獣人と『半鱗』は唖然としていた。
が、それもわずかの間だけである。
「なにを言っているんだ、貴様! 我々『純鱗』は『半鱗』どもに侮辱されたのだぞ!? サフィーロ様も深手を負った! 死をもって償いとするのが至当だ!」
一体の『純鱗』の声に遅れて、ほかの者からも「そうだ!」「殺せ!」と同意が返る。それらが募っていくにつれ、一度は鎮まった獣人の殺気も俄かに立ち昇った。
――そのうち全部が良くなるから。
コルニオラの言葉が耳に蘇る。『霊山』の入り口付近で横たわるジェイドに、そう声をかけた彼女の表情が蘇る。
そしてもうひとつ。音楽家を名乗るタテガミ族を水中から救い出した人間の姿も、蘇る。自分を『純鱗』に戻すと約束し、その通りに事を為した人間。
クロエ。
「馬鹿ども!!」
ジェイドの視界が歪んだ。
情けなくて、情けなくて、涙が出たのだ。
「コルニオラは、『半鱗』は、『霊山』で革命を起こすことだって出来たのだ! だが、それを選ばなかった!」
コルニオラの実力をもってすれば、ヒエラルキーの逆転も不可能ではなかっただろう。もちろん、多くの屍の上に成立する物事ではある。
「憎悪を、苦しみを、哀しみを消すために、『半鱗』は『霊山』を出ることを選んだのだ!! それを阻んで血を流させた上に、逃げ出した連中を殲滅する道理がどこにある!!」
一瞬気圧された顔をした『純鱗』が、すぐに言葉を返す。
「それが我々の正義だ! 屈辱を晴らし、誇り高く生きるために必要なものだ!」
「そんな馬鹿げたもの正義であってなるものか!!!」
空気が震える。ジェイドの眼前の『純鱗』は、歯噛みして一歩後退した。口をきつく結んで。
見下ろすと、ジェイドとコルニオラの視線がぶつかった。なんと丸い目だろう。そして、なんと呆けた表情だろう。戦闘中の彼女からは考えられないほど、緩み切った顔だ。
「コルニオラは」とジェイドはトーンを落として続ける。「俺に手心を加えた。あのままでは殺してしまうと思ったんだろう」
紅の一本槍。あの状態のまま彼女が猛進してきたならば、ジェイドは間違いなく身体を引き裂かれて絶命していたことだろう。彼女は相手を殺してでも勝利をもぎ取ろうとはしなかった。急所を外して身体を貫くよう、自分自身に強いたのだろう。サフィーロのときと同様に。
コルニオラはなにも言わず、何度かまばたきをしただけだった。
「敵が本気でやっていなかったとでも言うのだな? それゆえ勝利は情けの報酬であり、こちらも情けで返すべきだとでも?」
先ほどジェイドに噛みついた『純鱗』が、信じられないといった顔で言う。
「違う。必要のない殺生は避けるべきだと言っているのだ」
「我々『純鱗』の誇りのために連中の犠牲が必要だと言っている!! さっきから何度も何度も――」
「呑めばいい」
「……は?」
「屈辱なんぞ、呑み込んでしまえばいい」
「なにを馬鹿な――」
「ここで『半鱗』を殺して晴れる程度の誇りなど、たかが知れている」
その『純鱗』は忌々しそうに顔を歪めてジェイドを睨んでいた。ほかの仲間も、程度の差はあれ似たような表情をしている。それらを俯瞰して、ジェイドは途方もない虚しさを覚えた。
『純鱗』としての誇りをかつて信奉していた者として、彼らの反応は痛いほど分かる。が、それがどれほど矮小なものかも分かる。
このやり取りが永久に平行線だということも、分かってしまう。
肩を落としたジェイドの耳に、厳めしい声が飛んだ。
「『半鱗』および、この場の獣人は殺さないだと?」
見ると、腹部に薬草を貼りつけたサフィーロがよろよろと歩いてくる。
ジェイドは苦々しく俯いた。
――もう駄目だ。サフィーロ様が気を失っているうちにすべてを済ましてしまえればよかったのだが……。
無言のジェイドに痺れを切らしたのか、サフィーロがさらに言葉を重ねる。「それで、この者たちの処置はどうなる?」
「金輪際『灰銀の太陽』に危害を加えないことを誓ってもらいます。そして、俺たちはこの道を通ってルドベキアに向かうだけです」
「ふん……日和見主義の阿呆め」
サフィーロの侮辱に、ジェイドは返す言葉がなかった。先ほどまで『純鱗』に息巻いていたのが嘘のように。
サフィーロはようやくジェイドの前まで来ると、ゆっくりとした動きで一同を見やった。『純鱗』はもちろん、『半鱗』や獣人、そして地に横たわるコルニオラまでも。
たっぷり黙したのち、サフィーロは平然と言い放つ。
「勝者の言葉は絶対だ」
ジェイドは思わず顔を上げ、サフィーロを見つめた。そこには冷徹な、普段通りのサフィーロがいるだけだった。
「我々はこの者たちを殺さぬ。危害も加えぬ。ただし、そちらも『灰銀の太陽』に一切手出し無用と心得よ」
しばしの間があって、呆然とした頷きがまばらに返った。『半鱗』も獣人も、そして『純鱗』までも呆けた顔をしている。
ひと足早く我に返ったのは、先ほどジェイドと口論を繰り広げていた『純鱗』である。
「しかし、サフィーロ様! それでは我々の屈辱は――」
「勝者が呑めと言っているのだ。呑めばよかろう。それとも、神聖なる決闘の末に勝った者に物申すとでも?」
「く、悔しくはないのですか!?」
瞬間、『純鱗』はサフィーロに頭を掴まれた。蒼の鱗に覆われた顔――そこに嵌まった宝石のような瞳は、憎悪に燃え盛っている。
「悔しいに決まっているだろうが、愚図め!!!」
びり、と痺れるような感覚がジェイドの身体を走った。サフィーロの怒号は紛れもなく本心だろう。だからこそ迫力がある。
「しかし」サフィーロは『純鱗』の頭を離し、淡々と口にする。「従うほかあるまい。すでに勝敗は決した。私は負け、ジェイドは勝った。勝者の意志以上に重んじられる物事など存在しない」
「サフィーロ様……」
「なんだ、ジェイド」
「……ありがとうございます」
「頭を下げるな日和見主義の阿呆め。貴様がどれだけ私を侮辱したか分かっているのか? 感謝など虫唾が走る」
だろうな、とジェイドは落胆交じりに納得する。自分がどれだけの非礼を働いたかは理解していた。
――最後にもうひとつだけ、非礼を働かなければ。
ジェイドは意を決し、顔を上げた。
「サフィーロ様。俺はここに残ります」
「……『半鱗』になると言うのか?」
サフィーロの瞳には怒りが燃えている。が、ジェイドは怯まなかった。
「いいえ。竜人として残りたいのです。コルニオラに恩義があるので」
コルニオラだけではない。かつて『半鱗』の烙印を押された自分の手を引いてくれた、すべての者に恩がある。結局彼らの誘いに乗ることはなかったが、そうした経験がなければ今この瞬間、自分が本当に正しいと思える決断を口にすることは出来なかった。
「貴様……どれほど私の顔に泥を塗りたくれば気が済むのだ」
「……すみません」
サフィーロは「好きにしろ」と吐き捨て、踵を返した。向かう先はルドベキアへと続く道である。
ジェイドは膝を突き、その後ろ姿に土下座する。決して振り返らないと分かっていても。
「お世話に……お世話になりました!!」
返事などあろうはずがない。そこまで望むのは過剰だ。そう諦めたジェイドは、サフィーロの声に、思わず顔を上げた。相変わらず背を向けたままだったが、蒼の歩みは止まっていた。
「黙れ阿呆め。……ほとぼりが冷めたらこれまでの非礼を詫びに来い。『霊山』まで」
ジェイドは涙声にならぬよう必死で堪えながら、声を張り上げた。
「必ずや、参ります」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『サフィーロ』→蒼い鱗を持つ竜人。『純鱗』。次期族長候補と噂されている人物で、派閥を形成している。残酷な性格をしているが、頭も舌も回る。シンクレールと決闘し、勝利を収めている。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて
・『ジェイド』→碧の鱗を持つ竜人。サフィーロの部下。『純鱗』だったが、サフィーロの怒りを買い、一方的に『半鱗』に格下げされた。煽られるとつい反応してしまう性格。詳しくは『681.「コツは三回」』『684.「鱗塗り」』
・『コルニオラ』→心優しい女性の竜人。深紅の鱗を持つ。被差別階級である『半鱗』のなかで、戦士長のポジションを与えられている。クロエとともに竜姫を捜索する役目を受けた。詳しくは『682.「紅色の施し」』『693.「半鱗の戦士長」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『竜人』→全身を鱗に覆われた種族。蛇に似た目と、鋭い爪を持つ。王都の遥か西にある山脈に生息している。弱者には決して従わない。鱗の色で階級が二分されており、『純鱗』は気高く、『半鱗』は賤しい存在とされている。詳しくは『626.「血族と獣人」』『幕間.「青年魔術師の日記」』にて
・『純鱗』→竜人たちの優遇階級。誇り高い存在とされている。生まれた時点で鱗の色により『純鱗』か『半鱗』かに選別される。次期族長を決める乱闘に参加出来るのは『純鱗』のみ。詳しくは『683.「純鱗と半鱗」』にて
・『半鱗』→竜人たちの被差別階級。賤しい存在とされている。基本的には生まれた時点で鱗の色により『純鱗』か『半鱗』かに選別される。『純鱗』の権力者によって、一方的に『半鱗』と決めつけられて転落するケースもある。詳しくは『683.「純鱗と半鱗」』にて
・『タテガミ族』→獣人の一種。男はタテガミを有し、女性は持たない。獣人たちの中央集落『ルドベキア』はタテガミ族の暮らす地
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて
・『霊山』→竜人の住処。王都の遥か西方にある雪深い山脈の一角に存在する。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて




