94.「灰色の片翼」
足音がして背後を振り向くと、ヨハンが戸口に現れた。
「おやおやおや、これはこれは。お嬢さんがご迷惑おかけしたようで申し訳ないですねぇ」
薄気味悪い笑みを浮かべてお辞儀する彼を見ていると、屈辱を通り越して情けない気持ちになった。彼にしてみれば、わたしは猪突猛進した挙句へたり込んでいるようにしか見えないだろう。事実、その通りだ。
少女はきょとんとした顔でヨハンにお辞儀を返した。
「なに、私はこのお嬢さんの手綱みたいなもんでさあ。失礼があったんじゃないかとお詫びに来たのです。そのついでに、少しお話しでもいかがです?」
「なにが手綱よ。あなたに操られるくらいなら舌を噛み切るわ」
「まあまあ、あんまり無理してやり返さなくてもいいです」
なにもかもお見通しというわけか。確かに身体の痛みも精神的な疲労も酷い。
スパルナは椅子を手で示した。「座ってくれ」
「ああ、どうもどうも」と返すと、ヨハンはわたしに手を差し伸べた。
「お気遣いどうも」と返して自力で立ち上がる。一瞬眩暈に襲われたが、なんとか椅子まで辿り着けた。ヨハンは肩を竦めて苦笑いしている。わたしが意地っぱりなことくらい知っているだろうに。
スパルナを向いて「……椅子……どうもありがとう」と呟くと、彼は小さく首を横に振った。
魔物に礼を言うなんて、と我ながら嫌気が差したが、礼に非礼で返すのはどうも性分に合わない。判断を保留にした以上、スパルナに関してはフラットに扱うべきだろう。
椅子は丁度四脚あった。お誂え向きなことに。
ヨハンもわたしに倣って腰かけ、次に少女、最後にスパルナが座った。
三人の顔を見回す。実に異様だ。出自の不明な少女、元騎士、狡賢い魔術師、そして魔物。こんな取り合わせは、金輪際ないだろう。
「さて、なにからお話ししたものか……」とヨハンは天井を仰いだ。
「お名前は……?」と、少女はおそるおそるといった調子で訊ねた。なんともいじらしい。
「おや、失礼。自己紹介が遅れましたな。私はヨハンと申します。以後お見知りおきを。そこのお嬢さんはクロエにゃんです」
噛みついてやろうか、骸骨男。
全く、口が減らない。どうせ迂闊に、好奇心のままに動くことをなじって言っているのだろう。
「私はシェリー。それと、スパルナ!」
少女は魔物を指さしてにこやかに笑った。「私が名付けたの! いい名前でしょ?」
「ええ、実に素晴らしい名です」とヨハンは頷く。嫌味で言っているのかどうか分からない真面目な口調だった。
少女がじっとわたしを見つめている。これは、なんとも困る。「え、ええ。素敵なお名前ね」
それを聞いてにっこりと「でしょお」と顔を綻ばせる彼女は随分と愛嬌があった。
ひと区切り、といった調子でヨハンが手を叩いた。張りのない音が小屋に響く。
「さてさて、私も、そしてお嬢さんも聞きたいことがたくさんあります。なに、あなたたちの生活を邪魔しようってんじゃありません。疑問があるとついつい掘り下げたくなってしまうのが性分でして、ご勘弁を」
「そうだろうな」と呟いてスパルナはわたしとヨハンを交互に見た。「あなたたちの質問には答える。だが、先に言わせて欲しい」
直後、スパルナは深々と頭を下げた。
おや、と思って隣に座ったヨハンを見ると、目が合った。唖然とした表情。
どうやら彼にもスパルナの行動は意外だったらしい。珍しいことに。
「ありがとう……あなたたちの助けがなければ、あいつに勝てなかった」
あいつとはラーミアのことだろう。魔物同士とはいえ、人間と協力してまで戦う因縁があったのか。
シェリーはぽかんとスパルナを見上げていた。いたたまらない。
「顔を上げて頂戴。……お礼なんていいの。わたしはわたしがしたいようにしただけだから」
「だとしても、助かった」
顔を上げたスパルナには、表情らしい表情は浮かんでいなかった。感情表現は苦手なのだろうか。
シェリーがもじもじと三人を眺めまわした。それから拗ねるような口調で言う。「仲間外れにしないで。なにがあったか知りたい! 全部話して!」
口を開きかけて固まるスパルナ。頭を掻くヨハン。全く……と思いつつもどこからどう話していいのやら、見当がつかない。
シェリーの頬が膨らむ。そして目が潤んだ。
まいったなあ。この子はノックスやスパルナと違って感情表現が巧みだ。
そしてわたしは一晩の物語を――血の臭いが漂わぬよう努力しながら語った。
語り終え、おそるおそるシェリーの反応を窺うと、彼女は安心したように満面の笑みを見せた。「お姉ちゃんとスパルナで悪い奴をやっつけたんだね! すごいねえ」
「私も――」と口を挟みかけたヨハンを遮る。ささやかな仕返し。
「そう。お姉ちゃんと……スパルナで悪者を倒したのよ」
スパルナは「あなたたちのおかげだ」と繰り返す。律儀な魔物なんてこの世に存在するのだろうか、と思ってしまう。演技ではなく、本心から言葉を口にするような魔物がいるなんて信じられない。
「ひとつ聞きたいんだけど、あなたは一体何者なの? わたしには魔物としか見えないんだけれど……」
シェリーに遠慮しつつ、しかし直球で訊いた。濁していたらいつまで経っても真相に辿り着けない。
不意にスパルナは立ち上がった。そしてコートを脱ぐ。その下の、フードのついた上着も取り、シャツ一枚になった。それすらも取り去って、彼の上半身を覆う物はなくなった。
破廉恥! ――なんて思う暇はない。目を覆うような恥じらいを見せることすら忘れていた。
その肌は紫の細かい斑が散っていた。ベースの肌色と比較すると半々くらいの表面積だろうか。
思い出したくはなかったが、魔王の姿を頭に浮かべる。奴の体表と比べると、スパルナのそれは濃淡の統一感がなかった。場所によって若干の差異がある。
紫の皮膚のみで魔王の一族――黒の血族の血を引いていると考えるのは早計かもしれない。
そして彼は予告なく、くるりと背を見せた。
隣から「ぁ」と小さな叫びが聴こえた。ヨハンが思わず叫んでしまった気持ちはよく分かる。わたしだって声が出そうになったのをなんとか押しとどめたのだ。
スパルナの背――丁度右の肩甲骨の辺りに、灰色の翼が生えていた。
――片翼。肩から腰の上までのサイズ。畳まれているせいもあるだろうが、両翼揃っていても飛翔に耐えない小ささに見えた。ハルピュイアのそれと比較しても少し粗末な気がする。
スパルナはこちらに向き直り、服を手に取った。
それをシェリーがとめる。「着ちゃ駄目。濡れてるから干すの」
スパルナは肩を竦めた。「この格好のままでいるのは失礼だ」
「そうね……せめてコートは羽織って頂戴」
肌の色や翼に気を取られてしまうとはいえ、半裸で話されるのは気分が良くない。
シェリーは、仕方がない、といった調子でスパルナにコートを手渡した。
「見てもらった通りだ」コートを着たスパルナは椅子に戻った。「僕は、自分が魔物かそうじゃないかは知らない。こういう身体をした存在、というだけだ」
「けれど、記憶を辿れば自分の生まれくらいは見えてくるんじゃないの?」
わたしの疑問に、スパルナは首を振って否定した。「昔のことは殆ど思い出せない。気が付いたら大剣を持って森にいた。毎晩魔物が襲ってくるので倒していたんだが、ひと月前の晩に泉の辺りまで行ってみたら、そこにシェリーがいた」
彼の言うことをどれだけ信じればいいだろう。記憶がないのか、ひた隠しにしているのか。ヨハンを一瞥すると、彼は虚言を見抜くべく、例の気味の悪い目付きをしていた。子供がいてもおかまいなしなあたり、人格が滲み出ている。
「それで、シェリーをどうしたの?」
「この小屋まで連れてきた」
「なんのために?」
「……シェリーは十字架に架けられて、それから――泣いていた。だから、手足を結んだ縄をほどいて連れ帰ったんだ。そのままにしておくわけにはいかなかっただけだ」
善意……なのだろうか。彼は風習については全く知らないようだった。ただ、十字架にかけるというのは折檻にしては惨い。だからこそ放置出来なかったのだろう。
スパルナをどう捉えていいか分からなかった。たとえば子供を養って、それから食うような魔物? それともシェリーを非常食と考えているだけかもしれない。
分からない。だからこそ掘り下げる必要がある。
「そのままにしておくことが出来なかったのはどうして?」
わたしの問いに、スパルナは淀みなく答えた。川のせせらぎのような穏やかな口調で。
「泣いてる子を放っておくことが出来なかっただけだ」
聞いたことのある言葉だった。胸の奥深く、宝物として大事に仕舞っていた言葉。ときどき思い出しては、温かさと切なさを与えてくれる。
幼い少年――ニコルの背を想った。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『ハルピュイア』→半人半鳥の魔物。狡猾。詳しくは『43.「無感情の面影」』にて
・『例の気味の悪い目付き』→真偽を見抜こうとする場面でヨハンがする目付き。威圧的で不気味。初出は『11.「夕暮れの骸骨」』




