93.「少女とスパルナ」
昔の夢を見た。
その日は凍えるほど寒かった。指が痺れたように上手く動かなくて、それがもどかしくも面白い。
空は赤紫に染まっていて、なんだか凄いことが起こりそうな気がした。その特別な夕景をいつまでも眺めていたかったが、お腹は減る。それにニコルが傍にいないので、なんとなく詰まらない。
この景色を目に焼き付けておこう。帰ったら真っ先に彼に語ってやるんだ。
ひとしきり夕焼けを眺めると、うきうきした気持ちで孤児院に帰った。
孤児院の玄関口には厳めしい服装の大人たちがいた。彼らは院長となにやら話し込んでいるようだった。なんのことやらさっぱり分からなかったが、院長の横にいるニコルは今まで見たことがないような不安な表情をしている。
やがて男たちは院長に紙包みを渡し、深く礼をした。そして彼らのうちのひとりがニコルに手を差し伸べる。ニコルは唇を固く結んで、今にも泣き出しそうな顔でその手を取った。
なんだかおかしい。変だ。そう思ってぞわぞわした気持ちに覆われる。
それからニコルは院長に「さよなら」と、いかにもぶっきらぼうに言った。
さよなら? なんで?
わたしは咄嗟に彼らの間に割って入り、ニコルにしがみついた。
彼がどこかへ行ってしまう。遠いどこかへ。
きっと二度と会えない。そんな気がして、いつの間にか涙が滲んでいた。
大人たちと院長は一様に困った顔を浮かべていた。
そして彼らのなかのひとりが遠慮がちに『ニコルは王都の学校に行くのだ』と教えてくれた。
学校については、わたしもよく言い聞かせられていた。選ばれた子供だけがそこに入ることを許される。けれど、今よりずっとずっと苦しい目に合う、と。なかには死んでしまう子供もいる、と。院長は正直で優しい人だったのだ。
学校。そこに行くのは怖い。けれどニコルに会えなくなることのほうが何倍も怖かった。
たったひとりの友達。いじめられていたわたしを救ってくれた英雄。
「わたしも行く」
気付いたときには口走っていた。
ニコルは「駄目だよ」としきりに言っていた。僕だけが学校に行くんだ、と。大人たちも苦笑いを浮かべていた。
それでも彼から離れようとしなかったわたしに根負けして、ニコルと一緒に王都行きが決まったのだ。
彼と一緒なら、そこが地獄であろうともわたしは幸せだ。
わたしの英雄。たったひとりの友達。
ニコル。
あなたに会いたい。あのときの、あなたに。
遠くで声が聴こえた。誰だろう。うるさいな。わたしはもっと眠りたいのに、なんで邪魔するんだろう。
やがてわたしの瞳は、実に不健康な顔をした男を捉えた。まるで骸骨みたいなその顔。
「ああ、目を覚ましましたか。お嬢さん、お手柄ですよ」
全身が鈍い痛みと気怠さに覆われていた。
徐々に記憶が戻る。わたしはもう孤児院時代の幼い自分ではない。
ニコルに裏切られ、王都の危機を救うために旅をしているのだ。そこで生贄を風習とする村に立ち寄り、その馬鹿げた掟を壊すために戦ったのだ。蛇の魔物ラーミアと。
「ラーミアは……ラーミアは倒した……」
上手く声が出なかった。耳に水が入っているのか、自分の声が不快に歪む。
「ええ、存じていますとも。あの魔物くんが教えてくれました」
ヨハンの指の先には、全身ぐっしょり濡れた人型魔物が今しも森へと去っていくところだった。
助けられた? 魔物に? わたしが?
頭の歯車が噛み合わない感覚があった。疑問について深く考えることが出来ない。しかし、どんな状況であっても、わたしは騎士としての誇りを守らなければならない。長年の習慣だ。
立ち上がると喘ぎが漏れた。全身をじくじくと刺激する痛みに耐えて、地面に落ちているサーベルを手に取る。
「お嬢さん? 一体なにを仕出かそうとしているんですか?」
人型魔物は立ち上がったわたしを一瞥し、森へと走り去っていった。
吐き気を堪え、こちらも駆ける。足が悲鳴を上げているが知ったことではない。視界がぐらぐらと揺れるのも構っていられない。
魔物は全て殺す。でなければ駄目なんだ。
魔物の背を失わないよう、必死で駆けた。何度も躓き、頭が危険信号を送っているのも無視した。
わたしは元騎士で、奴は魔物だ。それだけで肉体を酷使する理由になる。
やがて奴を見失った。それでも、集中力を維持して奴の気配を追う。ノイズが混じっているように不安定ではあったが、辿ることは不可能ではない。極限状態での戦闘訓練は山ほど受けた。死に至るような戦闘も経験済みだ。何度も、何度も。この程度、もう慣れきっている。
気配を辿ると開けた場所に出た。そこにぽつんと粗末な小屋が建っている。
魔物は人の住まいを奪う。特に、黒の血族はその傾向が顕著だ。魔王の城も元々は他国の王城である。そこで人間の振りをして、グロテスクで悪趣味なごっこ遊びが繰り広げられているのだ。
空は薄っすらと白んでいた。その小屋には依然として奴の気配がする。そして、ランプだろうか、橙色の灯りが漏れていた。
これで終わりにする。奴を倒して、この村でのわたしの責務は終わりだ。
責務?
頭に自然と浮かんだ疑問を振り払い、小屋へと向かった。
警戒しつつ木戸を開き、サーベルを構えた。わたしは戦える。大丈夫だ。戦える。
奴は小屋の中央に立っていた。その手には大剣。奴も臨戦態勢ということだろう。
人型魔物に斬りかかる寸前、甲高い声と共に小さな身体が前に立ちはだかった。子供である。ほんの小さな女の子が、きっ、と唇を結んで、両手を大きく開いている。
「やめて! スパルナをいじめないで!」とその少女は叫んだ。
スパルナ? いじめる?
頭はますます混乱していく。眩暈がした。
人型魔物――スパルナというのは奴のことだろう――は少女の前に歩み出る。大剣も構えずに。
サーベルを振り下ろすべく力を込めた瞬間、またしても少女がちょこちょこと人型魔物の前に歩み出て両手を広げた。
どういうわけだか知らないが、その少女は魔物を頑なに庇っている。理由は分からない。
サーベルを下ろした。熱が冷めるように、冷静さが頭に戻って来る。どうしてこんなことになっているのやら。
気を抜いたら自然と身体から力が抜け、へたり込んでしまった。精一杯の集中力でなんとか維持していた目的意識が薄れていく。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
少女は心配そうにわたしの肩を揺すった。「……大丈夫。少し気分が悪くって……」
「スパルナ、お姉ちゃんに水を持ってきてあげて」
少女は本当に心配そうな顔をしている。なんだろう、この子は。さっきまでわたしは、あなたが必死で守ろうとしていた彼を殺そうとしていたのに。理解出来ない。
少女の顔を見ていると、なんだか懐かしくなった。孤児院時代のわたしと同じくらいの年だろうか。
魔物――スパルナは木製のカップを差し出した。頷いて受け取ると、中の水を一気に飲み干した。
「スパルナも、お姉ちゃんも、どうしてずぶ濡れなの?」
少女がスパルナに問いかけるのが聴こえた。
「色々あったんだ」とスパルナは答える。
そう、色々あった。簡単には言葉に出来ないような出来事が、たくさんある。
深呼吸をすると、凝り固まった感情がほぐれるとともに気分が落ち着いた。
簡素なテーブルや椅子、ベッドや棚が目に入った。質素な山小屋だ。天井付近には子供服が干されている。少女の背では届かない位置に。
スパルナはじっとこちらを見据えていた。その目に敵意は感じない。
彼をどう捉えるべきか、判断は一旦保留にしよう。少なくとも、この場で刃を振るおうものなら親切な少女の心を酷く傷つけてしまうことになる。




