Side Grimm.「命を救われたから」
※グリム視点の三人称です。
グリムは浴槽に浮かんで、黄金色に輝く天井を見上げていた。全身を包む温かさに、自然と頬がゆるむ。
「いい湯加減なので」
のんびりと口に出した言葉が浴場に反響する。天井から一定の間隔で落ちる水滴が、火照った身体に心地良い。
広大な浴場をひとり占めしている事実に、グリムの心は弾んだ。
「湯浴みの好きな奴に悪人はいない」
不意な声にも、グリムは決して驚かなかった。たったひとりだとばかり思っていたから意外ではあったけれど、不快感や恐怖心、不安や猜疑心はちっとも浮かんでこない。身体も脱力したままである。
少しばかり顔を動かすと、視界に声の主が見えた。
「ゾラさんも湯浴みなので?」
「うむ」
浴槽の縁にだらりと腕を投げ出した巨躯の獣人――ゾラは、くすりとも笑うことなく答えた。威厳たっぷりな表情は変わらない。そしてグリムの気の緩みも相変わらずだった。浴場にゾラがいることを、却って自然に感じたほどである。
「ゾラさんは一日何回湯浴みするので?」
「一日ずっとここにいるときもある」
「ふやけちゃうので」
「ふやけるほど好きなのだ」
それなら仕方ない、とグリムは納得した。好きならふやけたってかまわないのだ。好きというのは、なににも増して強い力になるものだから。
「そろそろ上がるといい」
ゾラにそう促された瞬間、グリムは心に影が差すのをありありと感じた。まだ湯に浸かっていたいし、このひどく曖昧で温厚な時間に身を委ねていたい。
「まだふやけたいので」
「あまり浸かっていると溶けるぞ」
「溶けちゃうので!?」
「冗談だ」
遠くで、重たい音が鳴った。地鳴りにしては短く、足音にしては大きすぎる。グリムの意識はまるで吸い込まれるように物音へと向かっていき――。
目覚めると、グリムは身震いした。手足がすっかり冷えている。寝起きの気怠さが全身を覆っていたが、瞼だけは軽やかだった。
がらんどうの家屋に満ちた朝の空気。それをのんびりと吸い込んでいるほど、グリムは悠長ではなかった。彼の瞳は室内の一点に釘付けになっている。
――開いてるので。
地下への入り口を塞いでいた岩がどかされ、淡い黄色の光が室内にこぼれていた。
心臓が徐々にペースを速めていく。きっと今は朝で、エルドが食事を届けるために地下へ降りたのだ。そうに違いない。グリムは寝起きの身体を叱咤して、穴へと飛び込む。
意識に反して身体は覚醒していないらしく、グリムは上手く着地出来ずに尻もちを突いてしまった。
「あうっ!」と否応なく声が溢れ――。
「……ん?」
数メートル先で振り返った獣人。その姿を目にして、なんだかグリムは泣きそうな気持ちになってしまった。炎のように鮮やかな橙色のタテガミの男――エルド。彼がいなければ鍵を奪取することは出来なかっただろう。
「エルドさん」
グリムは尻もちを突いたまま、ゆっくりと『透過帽』を取る。刹那、エルドの瞳が大きく見開かれた。
「やり遂げたか?」
彼の問いかけに、グリムは二度三度と頷きを重ねる。服の上から鍵の存在を確かめながら。
「これでアルビスさんを出してあげられるので……!」
エルドはグリムの前まで寄ると、膝を突いた。
「鍵を見せてくれ」
「これなので」
鍵を受け取ると、エルドは長いことそれを見つめていた。真贋を確かめているような様子はない。なにか、物思いに耽っているような雰囲気がある。
「……どうしたので?」
「いや、なんでもない」エルドは首を振り、グリムに鍵を返した。そうして彼の身体を抱き上げる。「よく頑張ったな。礼を言う」
「こちらこそなので。早く助けてあげたいので」
「ああ、行こう。すぐに……」
エルドはしばしその場に佇んでから、またぞろ首を横に振り、広間へと足を向けた。グリムを抱えたまま。
エルドの様子はどこか違和感があったが、あまりに漠然としていて、グリムには問いただすことが出来なかった。胸に靄がかかるような気持ちになりながら、いや、と考える。いや、気のせいなので。僕が臆病だから、こんなふうになんでも疑ってしまうので。
エルドの歩調は絶えず変化したが、グリムはそれに気付かなかった。やがて広間にたどり着くと――。
「アルビスさん!」
「おお、チビすけ。生きておったか。昨晩、エルドから事の次第は聞いた。もしや死んだのかと思ったぞ」
グリムはエルドの腕から飛び降りると、銀の鍵を頭上に掲げた。
「鍵をとってきたので!」
アルビスは檻に寄りかかったままだったが、目を細め、グリムの頭上を見つめた。そしてひと言。「でかした」
「これで『灰銀の太陽』に協力してくれるので?」
「……ここまでしてもらって否とは言えん。よかろう。儂の力を貸そうではないか」
グリムは有頂天だった。すべてが上手くいっている。これで『灰銀の太陽』は勝利を収めることが出来るかもしれない。人間の殲滅も、戦争の参加もなし。すべてが丸く収まる。
錠はグリムには手の届かない高さにあった。なんとか鍵穴に差し込もうと跳ねてみたものの、ちっとも駄目である。
「エルドさん、お願いなので」
「ああ。開ければいいんだな」
エルドは受け取った鍵を差し込んだ。
一秒。
五秒。
十秒。
刻々と時間が流れていく。何度目かのため息が流れ、ようやくガチャリと金属音が響き渡った。
「アルビス様」鳥籠を開けて、エルドは呟く。「私は貴方の忠臣です。今までずっとそうでした。貴方には小さい頃から世話になってきましたし、成長してからは戦士としてお傍に仕える許しまでくださった」
異様なほどあらたまった顔をするエルドを見上げ、グリムは胸の奥が不穏にざめつくのをはっきりと感じていた。
エルドはこれまでずっと、アルビスの解放を願ってきたはずだ。否、ゾラが玉座を占めてなお、彼はずっとアルビスの復権を望んできたはずである。
「言いたいことがあるのなら、はっきりと口にするのだ。エルドよ」
「……ゾラを殺すのですか?」
「そうでもせんと止められんだろう」
しん、と広間に沈黙が降りる。二人の交わす視線は、まるで互いを刺す針のようにグリムは錯覚した。
「……私はゾラに命を救われました。今回の一件で私は、殺されても文句を言えないほどの失態を冒したのです。しかしゾラは――」
「それがあやつの手管だろうに。お前はまんまと情を突かれただけだ」ふぅ、と短く息を吐き、アルビスは話頭を転じる。「地上に儂の支持者は残っておるか? 速やかに呼びかける必要がある。これまでは穏当にしておったが、いよいよゾラの寝首を掻かねば――」
ガァン、とけたたましい音が鳴り響いた。
エルドは今まさに檻へと叩きつけた拳を、ゆっくりと手元に引く。
「アルビス様。私は貴方の忠臣であるとともに、ルドベキアの奉仕者でもあります。私が手伝えるのは、申し訳ありませんがここまでです。……どうか、お元気で」
エルドは踵を返し、広間の入り口に向かって歩を進めた。その足取りは決然としていて、なんの淀みもない。
「エルドさん!」
グリムの叫びに、彼は短く一度振り返っただけだった。決して足を止めることなく。
やがて入り口を塞いだであろう重い擦過音が遠くで鳴った。もはやエルドの姿はどこにもない。それでもグリムは、彼の消えた通路の先をじっと見つめずにはいられなかった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『グリム』→『岩蜘蛛の巣』に暮らしていた小人。かぶっている間は姿を消せる帽子型の魔道具『透過帽』を持つ。竜人の至宝とも言える存在『竜姫』の結婚相手。詳しくは『597.「小人の頼み」』『第四話「西方霊山」』にて
・『アルビス』→ルドベキアの元酋長。優秀な魔術師であり、多くの獣人に魔術の手ほどきをした。戦争への参加に反対したが、ゾラとの決闘に敗れ、地下に幽閉された。温和な性格であり、同じく幽閉された小人族の信頼を得ている。詳しくは『Side Grimm.「鳥籠の老人」』『Side Grimm.「ルドベキア今昔物語」』にて
・『エルド』→ルドベキアに住むタテガミ族の戦士。アルビスを信奉している。詳しくは『Side Grimm.「鳥籠の老人」』『Side Grimm.「ルドベキア今昔物語」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『透過帽』→かぶっている間は姿を消せる角帽。魔道具。気配も消すが、物音までは消えない。詳しくは『597.「小人の頼み」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて




