Side Grimm.「桶に揺られて」
※グリム視点の三人称です。
グリムは壁にもたれて三角座りをし、天井をぼんやりと眺めていた。アルビスのいる広間からも小人たちのいる小部屋からも隔たった場所――通路の突き当たりでグリムはじっとしていた。道に迷ったわけではないし、たそがれたかったわけでもない。
彼は頭にかぶった『透過帽』に触れ、細く長い息をした。
アルビスと小人たちの幽閉されている地下空間。その入り口はたったひとつである。ルドベキア付近の家屋、その中心にどっしりと配された大きな石。それをどかせば、地下へと入ることが出来る。今まさにグリムが見上げているのは、その大きな石のお尻である。
――もうすぐなので。
何度繰り返したか分からない呟きを、グリムは頭でなぞった。
もう間もなく朝食が運ばれてくることだろう。その際は当然入り口を塞いでいる石が取り払われ、すなわち外への道が開かれる。食事当番の獣人――エルドが入り口を開放し、小人に食料を与えてから戻ってきて、再び地下を閉ざす。それまでの時間は短いものではないだろう。五分か十分。アルビスとの世間話が挟まれば、戻ってくるまでもっと長くかかるかもしれない。なんにせよ、脱出するには充分すぎる時間がある。
ただし、グリムはエルドを待たずしてこの場所から抜け出すことは不可能である。
グリムは視線を真正面に戻し、それからゆっくりと天井に移動させていく。壁も天井も、じんわりと黄色の光を帯びている。ただ、天井の一部だけは光もなければ、材質も違っていた。
天井まではグリムの身長では届かない。仮に壁をよじ登れたとしても、脱出口はこちらの壁と向かいの壁との中間地点にある。さすがに天井を移動するような技術も道具も、グリムは持ち合わせていなかった。
ゆえに方法はひとつ。エルドとともに脱出するほかないのである。しかも、相手に決して気付かれないように。
やがて重たい擦過音が頭上で響いた。グリムは壁にぴったりと身を寄せ、じっと天井を睨む。
外へと続く穴からエルドが降り立ったのは、石がどかされてすぐのことだった。彼は透明になったグリムにはちっとも気付いていない様子で、黙って通路を歩いていった。小さくなっていく後ろ姿を、グリムの視線がじっくりと追う――。
脱出方法について、さして迷う必要はなかった。『透過帽』以外になにひとつ道具を持たないグリムは、どうしたってエルドの身体か、食料を入れている木桶にしがみつくしかない。当然、後者のほうが安全である。
『透過帽』以外の荷物はすべてアルビスに預けてある。『共益紙』や『密会針』の入った肩掛けの布袋。それがいかに大事かはグリム自身もちゃんと理解している。本当なら、出会ったばかりのアルビスではなく小人族の長老に預けるべきなのだろう。ただ、そうするわけにもいかなかった。グリムは仲間たちに黙って今ここにいるのである。
――みんなはきっと、とめるので。
グリムは唇をきゅっと結んで天井の穴を睨む。これからまた、まとまった時間ひとりぼっちになってしまう。けれども寂しさはない。上手くいくだろうかという不安や、屈強な獣人に対する恐怖はあれど、寂しさはなかった。
――ボクは弱いので、とめられたら折れちゃうかもしれないので。
甘く、温かく、賢明な言葉。それに抗うだけの強さが自分にあることをグリムは知っていた。ただ、臆病さは依然として彼の心のなかで確固たる領域を占めている。葛藤の末に決意を覆す自分の姿がイメージ出来てしまったがために、グリムは仲間たちへの説明もなしに行動をはじめたのだ。
五分少々が経過して、通路をこちらへと歩いてくるエルドの姿が見えた。黄色の光の中心を行く橙の毛の獣人。歩くたびにゆらりゆらりと空を撫でるタテガミ。それを見つめるグリムの頭に、燃え盛る炎が想起されたのはごく自然なことだろう。
――タイミングが大事なので。
自分自身に言い聞かせる。心臓は今にも口から飛び出してしまいそうなくらい、胸の内側で暴れていた。口がやたらと乾き、呼吸が安定してくれない。エルドが近づいてくるにつれ、それら諸症状は顕著になっていった。
――ボクが自分で決めたことなので。
グリムはことさら自分を鼓舞する意味で、その言葉を頭に響かせたのではなかった。単なる事実の確認である。自分で決めたから逃げられない。ならばやるしかない。そんな単純な理屈を、必死に頭で繰り返す。
ついに絶好のタイミングがやってきた。エルドが穴の真下まできて、桶を床に下ろしたのである。そして大きく伸びをして、首を鳴らす。エルドが再び桶を持ち上げたときには、小人一体分だけ重くなっていた。
「ん?」
桶を覗き込むエルドと目が合い、グリムは咄嗟に口元を押さえる。叫ぶ気遣いはなかったが、呼吸の音ひとつでも発覚する危険がある。限界まで自分の音を消す目的で口を塞いだのだ。
エルドは怪訝そうに眉間に皺を寄せてから、天井を見上げた。どうやら桶の異常は気のせいにすることにしたらしい。無理もないことだ。桶は見た目には、つい数瞬前までとなんら変化がないのだから。透明になった小人が隠れているなんて思うほうが却って不自然である。
――上手くいったので。
ほっと息をつくにはまだ早い。外に出ることが出来て、なおかつエルドが立ち去るまで安堵の深呼吸はお預けである。それくらいのことはグリムもちゃんと分かっていた。ただ、理解していたところで彼になにが出来ただろう。
エルドは桶を引き、そうして穴の先へと雑に放り投げたのだ。桶はゆるやかな弧を描き、穴の真横に転がった。グリムとしてはたまったものではない。急な浮遊感と、全身を襲った回転。天地が逆になり、それから元に戻ることなく桶は横倒し。なかのグリムは桶の縁に額をぶつけることとなった。が、それでもグリムは耐えた。声ひとつ上げることなく。なんとか沈黙を守ったのだ。
「なんだこりゃ? ……まあ、いいか」
穴の下――地下通路からなにか聞こえる。グリムは木桶越しにエルドの声を耳にしながら、痛む額と、ぐわんぐわんと揺れる視界、そして朦朧としかかる意識をなんとか保っていた。
――早く桶から出なきゃなので。
そうこうしているうちにエルドはすでに地下を抜け出していて、石をはめるところだった。グリムは重く頭に響くそのノイズでようやくエルドの脱出を知ったのである。
一刻の猶予もない。すぐにでも桶から這い出て、家屋の隅でじっとしなければ。そんなグリムの思惑は、無残に敗れ去った。
桶を出ることには成功した。が、すでにグリムは決定的な問題に晒されていたのである。彼自身、気付かぬうちに。
「小人……! いつの間に!」
桶の横をずりずりと這うグリムの姿を見て、エルドが小声で叫んだ。
無理もないことである。今やグリムの姿は誰の目にも明らかなのだから。頭にかぶっていた『透過帽』は、先ほどの回転で運悪く地下通路に落ちてしまったのである。
べしゃり、と地面に押し付けられるかたちで捕まったグリムは、不運と迂闊さの両方を嘆いた。
「おいチビ。なんでここにいる? どんな方法を使った?」
エルドの声は低く、明らかに脅しの響きを含んでいた。
どう答えればいいのか。そもそも、答えていいものか。すっかり混乱したグリムには、冷静な判断など出来なかった。
「アルビスさんに頼まれたので! ゾラさんを倒すので!」
瞬間、冷えた沈黙が殺風景な室内に流れた。
精一杯の叫びののち、グリムの意識はふっつりと途絶えた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『グリム』→『岩蜘蛛の巣』に暮らしていた小人。かぶっている間は姿を消せる帽子型の魔道具『透過帽』を持つ。竜人の至宝とも言える存在『竜姫』の結婚相手。詳しくは『597.「小人の頼み」』『第四話「西方霊山」』にて
・『エルド』→ルドベキアに住むタテガミ族の戦士。アルビスを信奉している。詳しくは『Side Grimm.「鳥籠の老人」』『Side Grimm.「ルドベキア今昔物語」』にて
・『アルビス』→ルドベキアの元酋長。優秀な魔術師であり、多くの獣人に魔術の手ほどきをした。戦争への参加に反対したが、ゾラとの決闘に敗れ、地下に幽閉された。温和な性格であり、同じく幽閉された小人族の信頼を得ている。詳しくは『Side Grimm.「鳥籠の老人」』『Side Grimm.「ルドベキア今昔物語」』にて
・『密会針』→球状の魔道具。手のひらサイズ。内部にいくつもの針があり、それぞれが別の『密会針』の方角を示している。『灰銀の太陽』の主要メンバーがそれぞれ所持している。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』にて
・『共益紙』→書かれた内容を共有する紙片。詳しくは『625.「灰銀の黎明」』にて
・『透過帽』→かぶっている間は姿を消せる角帽。魔道具。気配も消すが、物音までは消えない。詳しくは『597.「小人の頼み」』にて
・『小人』→人間とは別の存在。背が低く、ずんぐりとした体形が特徴。その性質は謎に包まれているものの、独自の文化を持つと語られている。特に小人の綴った『小人文字』はその筆頭。『岩蜘蛛の巣』の小人たちは、人間を嫌っている様子を見せた。詳しくは『第七話「岩蜘蛛の巣」』にて




