Side Sinclair.「進む者、残る者」
※シンクレール視点の三人称です。
限りなく闇色に近い緑の葉裏。鬱蒼とした枝葉の下、集落は薄闇に包まれていた。真夜中よりはずっと明るいが、それでも樹海の内と外では光量が圧倒的に異なる。シンクレールはまだ自分が夜のなかに閉じ込められているような気分になった。この地で数日過ごしているが、木漏れ日すらほとんど射さない土地柄に慣れるには、まだまだ時間がかかりそうだった。
時刻は昼前。広場だけは亡骸を移動してスペースを作ったが、死の臭いまでは消えてくれない。蔓延する死に包まれて、シンクレールは当然のごとく憂鬱な気分になっていた。
その一方で――。
「バァカ! バァカ」
「はぁい旦那様ぁ、お口開けて? あーん」
「みっともない真似するんじゃねえ、シーラ」
「バカバカ、バーカ!」
「やん! みっともないだなんて! もっと言って!」
シンクレールの後を追ってきたらしい、例のカラフルな鳥。そして昨晩打ち倒した『緋色の月』の五番手バアルと、その妻のシーラ。悲劇にべっとりと塗りたくられた状況にあって、その能天気なやり取りは滑稽さを通り越して奇妙な癒やしを生んでいた。
バロックによる支配魔術でバアルの行動を操り、末端集落に『緋色の月』の生き残りを集めさせたのだ。といっても、タテガミ族の生存者はバアルとともに行動していた十数名のみで、『灰銀の太陽』側の生き残り――数体の半馬人、竜人のアレク、有翼人のアポロとイカロス、クラナッハとシンクレール――とあわせても大した人数ではない。言うまでもなく亡骸の数のほうが圧倒的に多かった。
家屋の外壁を背に座り込み、シンクレールは広場を眺めてため息を押し殺す。油断するとあっという間に気分が黒々と沈み込んでしまう。彼は頑なに、今後の行動についてのみ考えるよう自分自身に内心で言い聞かせた。失われた命について、自分の選択と結びつけて後悔しても益はない。自傷行為のような追憶は、物事がひと段落してからすればいい。それまでは行動を過剰に省みることなく、未来を見据えて邁進すべき――そんな具合に彼は考えていた。
そんなシンクレールの眼前に、なにやら楕円形の紫が大写しになった。
「シンクレール。なんでもいいから腹に入れたほうがいいんじゃねえか?」
「ありがとう、クラナッハ。これは?」
「芋だよ。集落に備蓄してあったのを見つけたんだ」
芋を受け取り、まじまじと眺める。それは平凡な紫芋で、シンクレールもこれまで何度か口にしたことのある食べ物だった。焼くなり蒸かすなりして食べたことはあるものの、生で食した経験はない。
シンクレールは、まったくと言っていいほど空腹を感じていなかった。むろん精神的な理由である。
彼の隣で、クラナッハが紫芋を皮ごとバリバリ食べている。なんだか自棄になったような食いっぷりだった。そんななか、シンクレールはふと疑問を感じて彼の腹部を眺める。
「そういえば君の腹にはバロックがいるんだろう? 食事とかはどうなってるんだい?」
「平気平気。食い物の通り道とバロックの収まってる場所は別なんだよ。もちろん、あいつに食事を届けることだって出来るぜ」
言って、クラナッハは紫芋を三個まるごと口に収めた。すると喉が大きく波打ち、大きなゲップをひとつ。
「気になってるんだけど、それは君の魔術だよな……?」
クラナッハとバロックの肉体を比較すると、どう考えても後者のほうが大きい。それが今クラナッハの体内に収まっている事実は、通常の理屈では説明のつかない現象である。
「さあ、知らねえ。姉ちゃんは魔術を使えたから、オイラも実は使えるのかもな」
気のなさそうな口振りで返すクラナッハを、シンクレールはしみじみと見つめた。世の中、分からないことで溢れている。格納魔術は王都にもノウハウがあるものの、自分の体内を格納庫として用いた事例は聞いたことがない。
「君のお姉さんは魔術師だったのかい?」
「そんな大層なモンじゃねえよ」クラナッハは照れ臭そうに一笑し、視線をやや上向けた。「オイラは身体が弱くてずっと寝たきりだったんだけどよ、姉ちゃんが魔術で色んな景色を見せてくれたんだ。壁とか天井に幻を浮かせてさ。……でっかいキノコの生えてる森とか、木造の城とか、緑色の光る沼とか、まあ、色々だよ。実際の景色とかじゃなくて、全部姉ちゃんの妄想だけどな。物語を幻つきで聞かせてくれたりしたんだ」
頭のなかに存在する景色を幻として共有する。シンクレールはぼんやりと想像を働かせてみた。薄暗い湿った室内に浮かぶ幻燈の数々。姉の口から紡がれる不思議な物語。
姉の幻想と物語は、クラナッハを豊かな旅路へと誘ったことだろう。そこで彼は自分じゃない存在になり、いくつもの冒険を味わったに違いない。獣人の扱う魔術への興味から質問したシンクレールだったが、すでに知識欲は引っ込んでいた。クラナッハの口調も眼差しも、大切な思い出を語る人のそれでしかない。だからこそシンクレールも、個人的な宝箱を二人きりの場所で覗かせてもらっているような気分になったのである。
ひとしきり思い出を語ると、クラナッハは急に肩を落とした。そして呟く。「ああ、駄目だ」
「駄目って?」
「いや……オイラは姉ちゃんに顔向け出来ねえなって思ってさ……」
クラナッハの視線は広場の一点に注がれていた。それをたどったシンクレールは、奥歯を噛み締め、かぶりを振る。
「イカロス。ほら、木の実だよ。少し酸っぱいかもしれないけど、お食べ。大丈夫。なにも怖くない。そう、そう。それでいいんだよ、イカロス」
自分の膝をイカロスの枕にして、食事を摂らせるアポロ。二人の様子を眺めていると、シンクレールは身を引き裂かれそうな苦痛と屈辱を感じてならなかった。憎悪は吹き出してはいないが、それが身の内で息を潜めている感覚はあった。イカロスを痛めつけた奴を同じ目に遭わせてやりたいと思うが、それと同じくらいの強さで、復讐の無益さを感じてもいる。
イカロスの全身に傷を刻み、木製の眼球を嵌め込み、そして片翼を奪ったのがシーラであることは、彼女自身が白状した。そしてもう片方の翼を奪ったのがシャオグイであることも聞かされている。シンクレールはシーラに対して憤りをぶつけてはみたものの、益はなかった。彼女は『痛みは快楽に転化する』との奇妙な論理を恥ずかしげもなく披露し、その態度を翻さなかったのである。
シーラが反省をみせたところでイカロスは元通りにならない。それでもシンクレールは、彼女の口から悔悟の言葉があれば、となかば無意識に願ってしまったのだ。だが、結果としてそれが得られることはなかった。
「早く全部終わらせねえと」
クラナッハの呟きに、シンクレールは頷きを返す。
もう間もなくシンクレールとクラナッハは、半馬人のゴーシュとともに集落を出ることになっている。
アポロとイカロス、そしてアレクと数体の半馬人は集落に残ってタテガミ族を監視する役目を担う手はずだ。本来ならかなりの戦力となるはずのアポロとアレクだが、生憎どちらもひどく弱体化している。アポロは攻撃手段である武器を失い、アレクは逆鱗の喪失によって歩くのでやっとの状態だった。そんな彼らに監視を担わせるのはどうかとも思ったが、実質タテガミ族を制御しているのはバアルであり、彼はクラナッハの腹に収まったバロックによって自由意志を制限されている。
『灰銀の太陽』を傷付けてはいけない。
『緋色の月』が集落に接近したら排除に努める。
集落を離れない。
以上を、部下およびシーラに遵守させる。
この四点が、バアルに刷り込まれた内容だ。支配魔術がいかに強力なものであるかはシンクレールも嫌というほど理解している。だからこそ、前線に立てないアポロたちを、むしろ彼らに保護してもらうべきだった。
不意に、シンクレールの前にゴーシュがやってきた。彼は真剣な面持ちで二人を見据える。
「そろそろ時間です」
シンクレールとクラナッハは顔を見合わせ、同時に頷いた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。クロエが騎士団を去ってからナンバー4に昇格した。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『バアル』→山吹色の毛を持つ、巨躯のタテガミ族。投てき能力に優れ、筋力に恵まれている。シーラの夫。シンクレールに敗北し、オオカミ族の酋長バロックの支配魔術で抵抗を封じられた。詳しくは『Side Alec.「使命と憎悪」』にて
・『シーラ』→女性のタテガミ族。バアルの妻。頭部、手足、胸部、局部を除いて毛がなく、全身に傷を負っている。イカロスの全身に義眼を埋め込み、道具として扱った。詳しくは『Side Alec.「黒の剣鱗」』『Side Alec.「氷の剣、獣の拳」』にて
・『ゴーシュ』→『灰銀の太陽』に所属する半馬人。清き魂は死を通過し、再び清き肉体に宿るというイデオロギーを信奉している。規則や使命を重んじ、そこから逸脱する発言や行為には強い嫌悪を示す。要するに四角四面な性格。言葉遣いは丁寧。腕を盾に変える魔術を使用。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『バロック』→オオカミ族の集落の長。知的で冷酷。相手を屈服させることに興奮を覚える性格。支配魔術および幻覚魔術の使い手。詳しくは『Side Mero.「緋と灰の使者」』にて
・『クラナッハ』→灰色の毛を持つ獣人(オオカミ族)。集落には属さず、『黒の血族』であるリリーとともに行動していた。気さくで遠慮がない性格。二度クロエたちを騙しているが、それはリリーを裏切ることが出来なかった結果として行動。可哀想な人の方でいたいと日頃から思っている。詳しくは『613.「饒舌オオカミ」』『650.「病と飢餓と綿雪と」』
・『アレク』→青みを帯びた緑の鱗を持つ竜人。興奮すると鱗の色が変化する。サフィーロ同様、次期族長候補であり派閥を形成している。詳しくは『685.「開廷」』にて
・『アポロ』→有翼人の族長。金の長髪を持つ美男子。優雅な言葉遣いをする。基本的に全裸で過ごしているが、『灰銀の太陽』に加入してから他の種族のバッシングを受け、腰布だけは身に着けるようになった。空中から物体を取り出す魔術を扱う。詳しくは『742.「恋する天使の[検閲削除]」』にて
・『イカロス』→有翼人の青年。怠惰な性格で、他の有翼人から若干煙たがられている。実は情熱的だが、なかなか素直になれない。『緋色の月』およびシャオグイによって翼を奪われ、道具として利用された。詳しくは『Side Cranach.「毛と翼の捜索隊」』『Side Icarus.「墜ちた翼」』『Side Icarus.「おしまい」』『Side Gorsch.「集落の夜~飛来する異常~」』にて
・『シャオグイ』→生息圏、風習、規模も不明な他種族である、オーガのひとり。千夜王国の主。『緋色の月』に所属しながら『灰銀の太陽』への協力を誓った。一時期シャルという偽名を使っていた。詳しくは『750.「夜闇に浮かぶ白い肌」』にて
・『支配魔術』→使用の禁止された魔術。他者の自由意思に介入する魔術。詳しくは『117.「支配魔術」』『Side Johann.「ドミネート・ロジック」』にて
・『半馬人』→上半身が人、下半身が馬の種族。山々を転々として暮らしている。ほかの種族同様、人間を忌避しているが『命知らずのトム』だけは例外で、『半馬人の友』とまで呼ばれている。察知能力に長け、人間に出会う前に逃げることがほとんど。生まれ変わりを信仰しており、気高き死は清い肉体へ転生するとされている。逆に生への執着は魂を穢す行いとして忌避される。詳しくは『436.「邸の半馬人」』『620.「半馬人の友」』にて
・『竜人』→全身を鱗に覆われた種族。蛇に似た目と、鋭い爪を持つ。王都の遥か西にある山脈に生息している。弱者には決して従わない。鱗の色で階級が二分されており、『純鱗』は気高く、『半鱗』は賤しい存在とされている。詳しくは『626.「血族と獣人」』『幕間.「青年魔術師の日記」』にて
・『有翼人』→純白の翼を持つ他種族。別名、恋する天使の翼。種族は男性のみで、性愛を共有財産とする価値観を持つ。年中裸で過ごしている。王都の遥か北西に存在する塔『エデン』で暮らしている。『灰銀の太陽』に協力。詳しくは『742.「恋する天使の[検閲削除]」』にて
・『タテガミ族』→獣人の一種。男はタテガミを有し、女性は持たない。獣人たちの中央集落『ルドベキア』はタテガミ族の暮らす地
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。周囲を壁に囲まれた都。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




