92.「水中の風花」
人型魔物の横顔に感情らしきものはなにも表れていなかった。平然とラーミアを見つめている。
ラーミアの腹からはどろどろと血が零れて、深々と刺さった大剣の柄を深紅に染め上げていた。
「ああ……なんてこと。……畜生」
弱々しい声。ラーミアは自らの腹に触れ、真っ赤になった手のひらを見つめて絶望的な吐息を漏らした。
死。奴の頭にはそれが充満しているのだろう。
村から供物を得て安穏と長い時を過ごしていた魔物にとって、死の気配は刺激的過ぎるスパイスなのかもしれない。知恵のある魔物は、まるで人間のように言葉を使って感情を表現する。死に対する実感もまた、人のそれと同様の表れ方をするのだろう。
だからといってなんら同情は湧き起らない。
奴らは死すべき存在であり、容赦など微塵も感じない。それが普通だ。敵に情けをかけて自らの命を危険にさらすなど愚か者のすることである。勿論、例外もいるにはいるが……。
王立騎士団ナンバー3、トリクシィ。通称『落涙のトリクシィ』。魔物の討伐にあたって常に同情を絶やさない稀有な人間。ただ、彼女が敵を仕留め損なったことは一度として見たことも聞いたこともない。油断は微塵も持ち合わせず、ただ激しい同情だけを湛えている騎士。正直なところ、彼女を好きにはなれなかった。同情しつつ殺すという矛盾をどうしても理解出来なかったのだ。歪んでいる、とさえ思った。
ラーミアを討伐した後のことが頭をよぎる。共闘相手である人型魔物も、やはり討伐対象だった。あの大剣が彼の手に戻れば少し不利になるかもしれない。加えて、奴には呪術がある。どれだけのバリエーションを持っているのかは定かではないが、ドローレスにかけた防御呪術は見事な練度だった。月並みな呪術ではラーミアの一撃を防ぐことは出来ないだろう。
勝てるかどうかは分からない。しかし、彼を仕留めなければこの村に平穏は訪れないだろう。彼がどういった経緯でラーミアと敵対しているのかは知りようがないが、人間にとって脅威であることは変わらない。
闇夜は終わりに向かっていた。半時間もすれば空が白むだろう。そうなれば人型魔物を取り逃がしてしまうかもしれない。その前に決着をつけなければいけなかった。
ともあれ、今はラーミアに集中すべきだ。奴はまだ絶命していない。
ラーミアの口からは長い呻きが漏れていた。それは死の恐怖に囚われた嘆きとも、わたしたちに対する呪詛とも捉えられた。
サーベルを両手に握り直し、わたしの周囲に突き刺さった尻尾を斬り裂いた。血潮が飛び、肉片がぼとぼとと落ちる。しかし、ラーミアには変化がなかった。腹の傷が余程気になるのだろう。
ラーミアの上半身は弱点の塊である。人間の肉体と同様に無防備で、容易には再生出来ない。だからこそ、それを補うべく知能を持つのだと研究書物には載っていたっけ。目の前のそいつは確かに知を動員して戦闘に活かしてはいたが、やはり限界はある。
「畜生……あたしは死なない。絶対に死なない。これからも、ずっとずっとずっと旨い物を食って永遠に生きるんだ……」
旨い物、か。
ある種の魔物にとって人は食い物でしかない。永久に相容れないし、許すことも絶対にない。
「自業自得よ、化け物。あなたは村人を屈服させて安心しきっていた。だからこそ油断も隙も生まれるのよ」
「うるさい……馬鹿娘。……たかが人間と、哀れな馬鹿男に……殺されてたまるか……!」
ラーミアは、ぐっ、と身体を沈み込ませてから大きく伸び上がり、そのまま跳躍した。奴は人型魔物とわたしの頭上を越えていく。
着地点は――泉だ。
腹には大剣が刺さったままだったが、このまま逃走させるわけにはいかない。
「ヨハン!!」
振り向きざまに対岸のヨハンに呼びかけたが、彼は依然として蛇を相手にナイフで応戦していた。数こそ減ったものの、ハンバートを放置してこちらの戦闘に混ざることは出来なかったのだろう。
「残念ながら手が離せません! ご自分でなんとかして下さい!」
直後、ラーミアは着水した。大きな飛沫が上がる。
駄目だ。ここで逃がしたら悲劇は終わらない。また命を失う者が出る。
考えるより先に身体が動いていた。
泉へと駆け、水際で跳び上がる。そしてラーミアの尾にサーベルを突き刺した。柄を固く握り、振り切られまいとする。
大きく息を吸ってその瞬間に備えた。
やがて身体は水中へ引きずり込まれた。
音が歪む。視界は不透明。泉の冷たさに肌が強張る。
泉は深みへと続いているようで、どんどんと下降していった。心臓が妙な圧迫を受けている。胃も酷く重たい感じだ。
じきになにも見えなくなった。暗闇が視界を閉ざしている。
水底だろうか、ここは。引きずられる感覚がなくなり、ラーミアが下降をやめたことが分かった。
直後、全身に衝撃が広がった。前面から、おそらくはラーミアの尾がしなるようにぶつかり、その衝撃でサーベルが抜けたことが分かった。
逃げられる、と思ったが、ラーミアの気配は少し距離を置いた場所に感じ取れた。奴は水中で静止している。
そうか、と思い至る。水中でわたしを仕留めて逃げ切るつもりなのだと。
ラーミアが水中でも活動出来るのかどうかは、文献には記載されていなかった。従ってこの状況が奴にとって有利なのか不利なのかは分からない。
とはいえ、今まで奴は陸で戦闘していた。水中戦が得意ならもっと早い段階で逃げ込み、水中から攻撃を仕掛けていたはず。
どのくらい息が持つだろうか。水中での実践経験は僅かである。サーベルがどれだけ役に立ってくれるかも分からない。
魔具訓練校での水中訓練を思い出した。
講師の水魔術によって陸に創られた巨大な水槽を延々と泳がされ、その中で幾度も剣を振らされた。泣き言や諦めには「水を操る魔術ごときに対抗出来なくて魔物が討伐出来るか」という叱咤が飛び、訓練生の間では随分と評判が悪かったことを覚えている。わたし自身は泣き言を口にしたことはなかったが、苦手意識は持っていた。腕に絡みつく水の抵抗を受けてまともに剣を振るうのは非常に困難である。
その経験が『最果て』で役立つとは思わなかった。
意識を研ぎ澄ませ、限界まで集中する。
視覚は不要だ。漆黒の水中にあっては物を正確に見ることなんて叶わない。ならその分、魔物の気配を読む力に集中力を注ぎ込むべきだ。
ラーミアは約五メートル前方。尻尾の先まで把握出来るほど研ぎ澄ませろ。過集中だ。その反動や代償に苦しめられたって構わない。ここでなにも出来ずに敗北するよりは何倍もマシだ。
「やっぱり馬鹿娘だねぇ、あんたは。自分から不利な状況に飛び込むなんてさ。……あの馬鹿男は、そのうち殺してやる。今はあんたをぐちゃぐちゃにして傷を癒すよ。それで次は村をぶち壊してやる。ハンバートと死にたがりも、他の馬鹿な奴らも、全部全部殺してやる。あたしの胃袋の中で後悔するんだ……アハハハハハハ」
ラーミアの声が歪みつつも聴こえた。根本的な発声器官が異なっているのだ。嫌味なことに。
当然のことながら、こちらは声を出すことなんて出来ない。だから、内心で奴に返す。『わたしは絶対に負けない。あなたがその醜い胃袋に人を収めることは二度とない』と。
気配が変わる。
奴が尻尾を引いたのが把握出来た。大丈夫、察知の精度は加速度的に高まっている。その分、脳の酸素やらなにやらを消費しているのは間違いないが、そこにこだわっている余裕はない。
尻尾の先がわたしを突き刺すように伸ばされた。
身をかわす。
水流の変化が肌に感じられた。尻尾は目の前五十センチの位置。
剣を振るえ。
びりびりと水が震えた。ラーミアの絶叫である。どこまでもヒステリックな奴だ。
確かな手応えと、それを補完するようなラーミアの叫び。上々だ。尻尾の細い箇所なら水中であっても問題なく切断出来る。
「くそ!! 馬鹿娘!! なぜ斬れる!?」
尻尾がわたしの身体を絡め取るべく、周囲に輪っか状に広がった。そして一気に狭まる。
やや上方へと泳いでかわし、サーベルを片手に持ち直す。そして尻尾を斬り裂きつつラーミアの上半身――敵の弱点へと泳いだ。
サーベルの刀身よりも太い箇所の攻撃がもし繰り出されても八つ裂きに出来る自信があった。それは無謀な過信ではない。
意識が冴え渡り、世界を一歩引いて見ているような感覚になることが稀にある。キュクロプス戦のときと似て否なる感覚だ。自分から意識してその状態に持っていくのではなく、自然と風花のイメージが流れ込む。その状態にあると斬撃は冴え、相手の動きが何パターンも先読み出来る。その中で最善手が瞬間的に浮かび上がってくるのだ。後はそれをなぞるように身体をコントロールすればいい。
案の定、ラーミアの胴が大きく振られる。
避けるつもりはない。必要ないからだ。
頭の中には、草原が広がっていた。涼やかな風と、舞い散る花弁。良い景色だ。本当に。
片手でサーベルを振る。何度も何度も。
ああ、なんて軽いんだ。まるで紙を裂くように容易い。
「なんで!! あんた、さっきよりも強いじゃないか!! 畜生!! 卑怯者!!」
卑怯でもなんでもいい。どう捉えようと自由だ。その認識を阻害するものはなにもない。ただ、そちらが勝手に読み違えて勝手に喚いているだけ。悪いだなんてこれっぽっちも思わない。
だって、あなたは魔物だから。
もはやラーミアに抵抗する手段はないように思えた。
下半身は先ほど八つ裂きにした。上半身――腹には大剣が刺さっている――だけで抵抗する手段が奴にあるだろうか。
奴の口に呪力が集中していくイメージが広がる。
そうか。その手があったか。
直後、全身を撃ち抜かれるような衝撃が広がった。
身体が痺れる。
水中を通した叫びの呪術は、そのまま衝撃波としてわたしを襲ったのだ。下半身の再生に使用出来るほどの、ありったけの呪力を込めて放たれたそれは、わたしの肉体の細部まで無感覚にさせた。魔物の気配を読む力も含めて。
奴の下半身は使い物にならない以上、次に訪れるのは最後にして最大の反撃であろう。
自分がサーベルを握れているのかどうかも分からない。ただ、イメージ通り身体に信号を送ればいい。出来ることはそれだけだ。
身体を旋回させ、サーベルを振るった。おそらく、問題なく振れているだろう。
鈍くなった触覚に僅かな手応えが伝わる。
サーベルはラーミアを斬り裂いただろうか。
――ラーミアの毒牙。無防備な上半身で繰り出せる唯一の攻撃。奴ほど狡猾なら、それは背後に回って繰り出されるはず、と読んだ。先ほどの叫びによって気配を読む力も麻痺してしまった以上、経験を材料にイメージして、その想像を一途に信頼するほかなかった。
そして暗闇の水中で目を開いたわたしが捉えたのは、牙を剥いて揺蕩うラーミアの首だった。
それは綺麗に切断されていた。
勝利を確認すると、わたしの頭に広がっていた草原は霞んで消えた。
我に返ると、どこまでも無感覚な自分に違和感を覚えた。これでは泳ぐのも難しい。正確に、イメージ通りに身体を動かそうとしてもなかなか指示が行き届かない。
生き残ってはじめて勝利に意味が生まれる。そんな考えがぼんやりと浮かぶ。
ふと思った。わたしは今、どのくらいの時間を水中で過ごしたのだろう。とっくに限界を過ぎていないか。
もし感覚が残っていれば、もがき苦しむのだろうか。
村のことが頭に浮かぶ。もう犠牲になる哀れな子供はいない。心残りは例の人型魔物だが、そのことについて憂えるのも億劫だった。
やがて視界が、闇さえも正確に捉えなくなった。
頭ぼんやりとし、ふっつりと、なにも分からなくなる。




