823.「謝罪と和解」
さながら怪物が大口を開けたかのような縦の亀裂。谷底へと続くその穴に歩む獣人たちを眺めながら、わたしはうつらうつらとしていた。キージー曰く、『骨の揺り籠』の住人は毎日谷底で物資や食材を探すのを日課にしているそうだ。しかし今日ばかりは谷に向かう意味も普段と違うだろう。『骨の揺り籠』に留まる者たちへの食料探し。そして、ルドベキアへと発つ者のための武器探しが主な目的だ。
『上手くいったようでなによりです』
目の前に流れてきた金文字に、なんだかため息が出そうになった。
「洗脳魔術でも使ったんじゃないの?」
『まさか。洗脳なんてしませんよ。扇動しただけです』
ルドベキアへの反撃なんて提案は、『骨の揺り籠』の人々にとって簡単に受け入れることの出来ない内容に思えたけれど、事態はわたしの想定とは真逆に推移した。彼らはルドベキアとの対決を選んだのである。ゲオルグの書いた『生者として認めさせる』という言葉が彼らに響いたらしく、谷へと歩み人々や家屋を修繕する人々の間から、ときおり「俺たちは生きてるんだ」なんて聴こえた。
住民の意志はキージーにも無視出来なかったようで、彼は手早く今後のことを取り決めた。まず、戦力になる者はルドベキアへと向かい、戦うことの出来ない者は『骨の揺り籠』に残ること。捕虜はルドベキア侵攻のための戦略の一助とすべく、殺さずにおくこと。
そして、肝心の取り決めがひとつ。
作戦が成功した場合にも、『骨の揺り籠』の住民はこの地で暮らし続けること。
地上で暮らすほうが物資も食料も容易に得られる。にもかかわらず、彼らは地の底に住み続けることを選んだ。ただし、これまで通りではない。地上への道を作り、他の集落とも対等に交流することをキージーは提言したのだ。死の臭いの充満した地ではあるけれど、彼らにとって『骨の揺り籠』は安息の地なのだ。
キージーをはじめとする住民の判断を批評するつもりはない。周囲の状況と自分自身の生命とを照らし合わせて冷静に導き出した結論を、おいそれと否定出来るほどわたしは偉くもなんともないのだから。もちろん、わたし自身の倫理と照らし合わせて受け入れられないものには声を上げるけど、今のところその必要はなさそうだ。
高台を振り返ると、ジェニーとリリーが仲良く並んで眠っているのが見えた。二人とも夜通し神経を尖らせて、『骨の揺り籠』内部に魔物が出ないか見張っていたらしい。交代で睡眠を取ればよかったのにとも思ったけど、野暮なので口にするのはやめておいた。
二人から少し離れた位置にハックの姿がある。彼は真剣な表情で黙々と干し肉を頬張っていた。わたしがルーカスから貰った餞別である。空腹だろうと思って彼にあげたのだ。
ハックが目を覚ましたのは、ジェニーとリリーが寝入ってすぐのことだった。つまり、キージーが住民に諸々の説明をしたあとのことである。ざっとではあるが状況を説明したところ、ハックはすんなりと把握してくれたのだった。
今まさに肉を咀嚼するハックを見つめ、少しばかり胸の痛みを覚えた。昨晩のダメージや疲労のせいばかりではない。ゲオルグが彼の感情を操作した事実が、胸の痛みの一因となっている。
実を言うと、ハックには洗脳魔術のことをすでに伝えてある。知ってしまった以上、それを本人に黙ったまま進むなんてフェアじゃないし、とてもじゃないが誠実な態度とは思えなかったからだ。ゆえに思い切って暴露したのだけれど、ハックは平然とこう答えたのである。『だとしても、なにも問題はないです』
洗脳の結果なのか、はたまたもともとの性格なのか、ハックは自分の感情が操作されたことをむしろ好都合に思っているらしい。『使命感を高めるだけなら悪影響はないでしょうし、むしろ今後の戦略としては理に適っていますです』とまで言ってのけたのである。結果わたしは閉口してしまい、胸の靄を抱えたままになったのである。確かにハックの存在は『灰銀の太陽』のなかでは大きい。彼が他種族をまとめあげなければ、こうして『緋色の月』と対峙することなんてありえなかっただろう。
「ご馳走様です」
気が付くとハックがすぐ目の前にいて、余った干し肉をわたしの手に置いた。
「まだお腹減ってるんじゃないの? 遠慮しなくていいわ」
干し肉はあまり減ってはいなかった。たぶん、彼が口にしたのはほんの数切れだろう。育ち盛りだろうに。
「もう充分です。ありがとうございますです」
「ちゃんと食べなきゃ駄目よ。ほら、まだまだ余ってるし」
「お姉さんは相変わらず心配性です」
そう言ってハックは柔らかく微笑んだ。そんなふうに笑顔を向けられると、それ以上なにも言えなくなってしまう。
ドルフが襲撃する寸前の複雑な表情を思い出して、今のハックの笑顔と比べてみた。片やガラス細工のように脆く、片や鋼鉄のように堅牢だ。これが使命感によるものなんだろう、きっと。
「今のところ、順調に進んでいます」
そう言って、彼はポケットから折り畳んだ紙をこちらに手渡した。綺麗に畳まれてはいるけれど、いくつもの折り目や皺がついてしまっている。ぐしゃぐしゃになったこの紙を、ハックはキチンと伸ばして、それから丁寧に畳んだのだろう。その姿が目に浮かんで、また別の種類の胸の痛みを感じた。
わたしが最後に見た『共益紙』の内容は、ハックのシンプルな返答だ。『灰銀の太陽』のおよそ半分が犠牲になったことに対する、ほとんど無関心なまでに単調な返事。
『共益紙』には、新たに幾つかの報告が上がっていた。半馬人代表のデビスと、竜人代表のサフィーロ、それからトロール代表のエルダーからそれぞれ届いている。全員ルドベキア侵攻組で、本来はともに行動しているはずなのだが、なんでも道中でトラブルがあってそれぞれ別ルートをたどることになったらしい。詳細は不明だが、そんな報告がデビスによって記されていた。有翼人代表のアポロからは淡泊な生存報告のみである。
人魚代表のメロからは、末端集落のひとつを占領した旨のメッセージ以来、報告が途絶えている。なにかあったのでは、とも思うけれど、彼女なら『ウチらは充分働いたし! ギャハハ!』なんて開き直って悠々自適に集落でのんびりしているかもしれない……いやいや、それはさすがにないか。
「メロは……人魚は大丈夫かしら。ちっとも報告がないけど」
「成果を上げた場合か、必要な場合だけ『共益紙』を使うよう言ってありますです。あれ以来、報告すべきことは起きてないと考えるしかないです」
そう返して、ハックは手のひらを差し出した。
『共益紙』を渡す。すると彼はやんわりした笑顔を崩すことなく、折り目正しく畳むと再びポケットに収めた。
リリーが身を起こしたのは、それから間もなくのことである。
「ふぁ……」
彼女は大きな欠伸をひとつしてから、少し恥ずかしそうに口元を覆った。
「おはよう、リリー。まだ眠いでしょ?」
「平気よ。ワタクシは高貴だもの。高貴な――」
リリーの視線がハックを捉え、言葉が中途で絶えた。表情が段々と険しくなっていく。純粋な怒りや軽蔑の表情というわけではなく、どう反応していいか自分でもよく分かっていないがゆえの顰め面に見えた。
先に動いたのはハックだった。彼はリリーの視線を数秒間受け止めたのち、滑らかに頭を下げたのである。
「リリーさん、ごめんなさいです。もちろんクロエさんも、ジェニーさんも。これまであまり相談せずに物事を進めてしまって、結果的に皆さんの信用を失ってしまったのは事実です。もちろん『灰銀の太陽』の半分が犠牲になってしまったことを哀しく思っていることは確かですけれど、あの文面では誤解されてもしょうがなかったです。ごめんなさいです」
ジェニーはいまだに寝入っているし、わたしはもうそのことを重視していない。ハックはリリーに対して、和解を申し出ているのだろう。
わたしとハック。そしてゲオルグも含めれば三者の視線がリリーへと集まる。彼女は何度か口を開いたり閉じたりしたのち、盛大なため息を吐き出した。
「分かったわよ。もういいから」
それが彼女の精一杯だったのだろう。リリーは立ち上がり、わたしの肩を叩いた。
「水を浴びに行くから、付き合ってくれてもよくってよ」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ジェニー』→『毒食の魔女』の邸にメイドとして住み込む少女。愛嬌たっぷりで天真爛漫。語尾に「にゃ」を付けて喋る。『ケットシー』と呼ばれる獣人の一種。興奮すると耳と尻尾が出てしまう。故郷の村をルドベキアの獣人に滅ぼされている。手引きしたのは友人だったケットシーのクロ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『600.「或るケットシーの昔話」』『601.「たった二人の生き残り」』参照
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『デビス』→剥製となってマダムの邸に捕らわれていた半馬人。現在は剥製化の呪いが解かれ、『灰銀の太陽』の一員としてハックとともに行動している。詳しくは『624.「解呪の対価」』にて
・『サフィーロ』→蒼い鱗を持つ竜人。『純鱗』。次期族長候補と噂されている人物で、派閥を形成している。残酷な性格をしているが、頭も舌も回る。シンクレールと決闘し、勝利を収めている。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて
・『エルダー』→トロールの族長。槌の魔具を所有している。詳しくは『745.「円卓、またはサラダボウル」』にて
・『アポロ』→有翼人の族長。金の長髪を持つ美男子。優雅な言葉遣いをする。基本的に全裸で過ごしているが、『灰銀の太陽』に加入してから他の種族のバッシングを受け、腰布だけは身に着けるようになった。空中から物体を取り出す魔術を扱う。詳しくは『742.「恋する天使の[検閲削除]」』にて
・『メロ』→人魚の族長。小麦色の肌を持ち、軽薄な言葉を使う。口癖は「ウケる」。なにも考えていないように見えて、その実周囲をよく観察して行動している。地面を水面のごとく泳ぐ魔術を使用。詳しくは『745.「円卓、またはサラダボウル」』『746.「笑う人魚」』にて
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『ルーカス』→『魔女の湿原』の北に広がる高原に住む『黒の血族』。銀色の梟面を身に着けた小太りの男。父である『巌窟王』と一緒に暮らしている。同じ血族であるマダムに攫った人間を提供していた。血族のみ参加出来るオークションで司会をしていたが、クビになった過去を持つ。クロエをオークションに出品する優先権を持っている。詳しくは『472.「ほんの少し先に」』『609.「垂涎の商品」』にて
・『共益紙』→書かれた内容を共有する紙片。詳しくは『625.「灰銀の黎明」』にて
・『半馬人』→上半身が人、下半身が馬の種族。山々を転々として暮らしている。ほかの種族同様、人間を忌避しているが『命知らずのトム』だけは例外で、『半馬人の友』とまで呼ばれている。察知能力に長け、人間に出会う前に逃げることがほとんど。生まれ変わりを信仰しており、気高き死は清い肉体へ転生するとされている。逆に生への執着は魂を穢す行いとして忌避される。詳しくは『436.「邸の半馬人」』『620.「半馬人の友」』にて
・『人魚』→女性のみの他種族。下半身が魚。可憐さとは裏腹に勝手気ままな種族とされている。『灰銀の太陽』に協力。詳しくは『741.「夜間飛行」』にて
・『有翼人』→純白の翼を持つ他種族。別名、恋する天使の翼。種族は男性のみで、性愛を共有財産とする価値観を持つ。年中裸で過ごしている。王都の遥か北西に存在する塔『エデン』で暮らしている。『灰銀の太陽』に協力。詳しくは『742.「恋する天使の[検閲削除]」』にて
・『竜人』→全身を鱗に覆われた種族。蛇に似た目と、鋭い爪を持つ。王都の遥か西にある山脈に生息している。弱者には決して従わない。鱗の色で階級が二分されており、『純鱗』は気高く、『半鱗』は賤しい存在とされている。詳しくは『626.「血族と獣人」』『幕間.「青年魔術師の日記」』にて
・『トロール』→よく魔物に間違えられる、ずんぐりした巨体と黄緑色の肌が特徴的な種族。知能は低く暴力的で忘れっぽく、さらには異臭を放っている。単純ゆえ、情に厚い。『灰銀の太陽』に協力。詳しくは『741.「夜間飛行」』にて
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて




