822.「棄民の選択肢」
『骨の揺り籠』は喧騒に満ちていた。悲鳴によく似た怒りの声があちこちで噴出している。それらは一様に壁の一角――リリーの作り出した岩石の牢獄へと向いていた。
「リリー、ジェニー。いったいなにが起きてるの?」
高台へ上ると二人の姿がそこにあった。片や動転しており、片や苦々しく拳を握っている。
「にゃにゃにゃ! クロエ!」ジェニーがわたしの腕を取り、焦りの籠った様子で言う。「さっきキージーがみんなに色々と説明したんだにゃ。それでみんな怒ってるにゃ……」
なるほど。確かに、喧騒に耳を傾けると、彼らは彼ら独自の論理で反抗を示しているのが分かる。「あいつらを食わせていく余裕なんてねえよぉ」だとか、「一体ずつ殺して胃袋に収めようぞ!」だとか、果ては「タテガミを食ったら俺も強くなれるんだ!」なんて叫ぶ声まであった。どこまで本気かは分からなかったが、留まる気配はない。
ふと周囲に目を向けると、壁際に小山のような身体が見えた。言うまでもなくリフである。どうやら目を覚ましたようだけど、彼は悄然と俯いたまま少しも動かなかった。周囲の喧騒さえ耳に入っていない様子である。
振り返ると、ゆっくりと高台を登ってくるゲオルグの姿が見えた。
『灰銀』と『緋色』の両方を救う。そのためにゲオルグはハックの挫折の影を読み取り、使命感の目盛りを目一杯引き上げたらしい。もちろん、洗脳魔術を用いて。
ハックはいまだに高台の一角で眠っている。いつ目覚めるのか、そして目覚めた彼が最初になにを感じるのか、わたしにはちっとも分からない。ただ、もし彼の精神にほんの少しでも瓦解の影が見えたら、ゲオルグを締め上げてでもハックの感情を元に戻そうと決めている。すべての仕事を遺漏なく完遂し、晴れて『緋色の月』が戦争への参加を見送ったとしても、ハックの心が取り返しのつかないほど壊れてしまうのは看過出来ない。
たぶんというか間違いなく、ゲオルグは悪党だ。悪党が常に間違ったことをするというわけではないのは、これまでの旅の経験でよく知っている。ゲオルグはたまたまわたしたちに近い立場にいるというだけのことだ。
「やれやれ」
ゲオルグが高台にたどり着くのを見守っていると――というより監視していると――老いた声がした。見ると、キージーである。
「皆に言い聞かせたんじゃが、この有様じゃ。もはや殺すほかあるまい。たとえタテガミどもが襲ってくるとして、生かしておくのは得策ではないじゃろうな」
キージーはするすると淀みなく言う。おそらくはこの事態になってから、わたしたちを説得するために幾つかの言葉を頭のなかに用意しておいたのだろう。
「なんとかみんなを説得出来ないかしら……」
「無理じゃよ。ここで食料の問題は切実じゃ。生きるか死ぬかを左右する一番の問題になる」
「生き死にの問題だとしたら、殺すのは横暴よ」
そう返した瞬間、キージーが鋭くこちらを睨んだ。
「お前さんはわしらのことをあまり理解しておらんように見える」
ふう、とひと息ついて、キージーは少しばかり語調を弱めた。それでも非難するような、軽蔑に近い口調は残っている。
彼はさらに続ける。
「わしらは故郷から……同胞から見捨てられ、死の穴に放り込まれたんじゃ。地の底で送る二度目の生は、傷を舐め合うようなものじゃった。寄り添い合って暖を取り、幾ばくかの食で命を繋いでいく生活じゃ。それでも、糸は切れる。ときにゆるやかに、ときに一瞬で。もしかするとお前さんがたの目には、わしらが絶えた命を糧にすることに慣れ切っているように映っておるかもしれん。……事実は違う。わしらは、そうでもしなければ生きることが出来んかっただけじゃ。皆の叫びが残酷に響いたか? それを哀れに思うか? だとしたらお前さん、それは傲慢じゃ。試しにひと月、雨水だけで凌ぐといい。地を這う蟻や、腐った木切れを口に入れることじゃろう。ミミズがご馳走に見えるじゃろう。腹がわずかに満ちたあとで感じるのは、決まって虚しさじゃ。枯れた目から幻想の涙が落ちるんじゃ。……いいか、お前さん。わしらにはわしらの在り方がある。あまり干渉してくれるな」
老人は言い終えると、長く目をつむった。顔に刻まれた皺は思慮深さを失うことなく、途方もない疲労をありありと表現している。なにか返そうと口を開きかけたが、なにも言葉が浮かばなかった。
正論や倫理はここではなんの価値も持たない。簡単な話だ。それらで腹は膨れない。
『なるほど。貴方がたらしい、一流の論理です』
キージーが瞼を開け、じっとりとゲオルグに視線を向けた。
「納得したなら、もういいじゃろう。『骨の揺り籠』を襲った下手人どもはわしらの胃に収まる。それで良いな?」
『ところが、そうはいきません』
ゲオルグは淡々と文字を綴る。金色が整然と並んでいく。『昨晩も申し上げましたが、ここは敵のターゲットになっています。良くて数日後、運が悪ければ数時間後にはさらなる敵が現れることでしょう』
指先の動きを止め、ゲオルグは頭上を見上げた。蜘蛛の巣状に張りめぐらされた紐。その一部が裂けて垂れ下がっている。そしてドルフたちが降下のために使ったロープもそのまま残っている。
早晩、昨日と同じ危機が『骨の揺り籠』を襲うのは確実だ。そのためにどうするか、それは捕虜の扱いと併せて考えねばならない問題だろう。ただ、画期的な解決策を思いついても、今のキージーたちを説得するのは容易ではない。ヒートアップする住民たちはもちろん、キージーの意志も覆す必要がある。
ひらり、とゲオルグの指先が彼の頭上を泳いだ。すると軌跡がたちまち金の文字となり、それがみるみる大きくなっていく。文字は、あっという間に『骨の揺り籠』を見下ろす金の照明となった。
『近いうちに再び敵がやって来ます』
『我々は今回のように、上手く連中を捌けるとは限りません』
『たった一度、数十名の襲撃でこの地がどれだけ疲弊したことか』
断片的な言葉が次々と空中に浮かんでは消える。五秒ほど宙で存在感を示したあと、別の文字に取って代わる。
『貴方がたは、否、私も含め、この地にいるのは死者です』
『呼吸し、生存を心から望む、捨てられた存在です』
『これまでも苦しい日々が続いていたことは、昨日まで部外者だった私にも容易に想像出来ます』
『苦痛はこれからも続き、やがていつか終わりが訪れます』
『タテガミ族たちは、終焉が明確なかたちとなって表れたものに他ならないでしょう』
怒号がざわめきへと変わり、いつしか静寂に席を譲った。ふと周囲を見渡すと、誰もが頭上を見上げている。
『このまま死を待つのもいいでしょう。それもまたひとつの在り方です』
『タテガミ族の襲来で、貴方がたには選択の余地が生まれました』
『ここで提案をひとつ』
『私たちと手を組み、反撃に出るのはいかがでしょう。この地を、そして虐げられた者の存在を、連中に認めさせるのです』
息を呑む音が、そこここでしている。
キージーの声がぽつりと聴こえた。「愚かな」と言ったようだが、あまりに小さな呟きだったので定かではない。
『成功すれば、貴方がた死者は生者として認められます。失敗したら、もちろん死が待っています』
『決めるのは貴方がたです』
『ただ、ひとつだけ申し上げておきますと、タテガミ族を食ってわずかな生を得たところで、そう長くは延命出来ません。襲撃は確実に訪れるのですから』
『タテガミ族を捕虜としながらルドベキアへ向かう。どうかこの選択肢を真剣にお考え下さい』
ゲオルグの最後の文字は、十秒以上空中にとどまった。そののち、『ご清聴、ありがとうございました』と一瞬だけ出て、それきり金の文字が表れることはなかった。
朝の空気のなか、文字の神々しい光が消えた『骨の揺り籠』は、薄闇のなかで静寂を湛えていた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ジェニー』→『毒食の魔女』の邸にメイドとして住み込む少女。愛嬌たっぷりで天真爛漫。語尾に「にゃ」を付けて喋る。『ケットシー』と呼ばれる獣人の一種。興奮すると耳と尻尾が出てしまう。故郷の村をルドベキアの獣人に滅ぼされている。手引きしたのは友人だったケットシーのクロ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『600.「或るケットシーの昔話」』『601.「たった二人の生き残り」』参照
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『タテガミ族』→獣人の一種。男はタテガミを有し、女性は持たない。獣人たちの中央集落『ルドベキア』はタテガミ族の暮らす地
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて




