821.「怒りと使命を掌に」
薄靄のなか、しばしの時間を谷底で過ごすことに決めた。夜間戦闘の疲労から、あまり動く気にならなかったのだ。いや、もちろん高台の上でもいいからどこかで横になりたい気持ちはあったけれど、なかなかどうして身体が動いてはくれなかった。お尻は地面に、背中は岩肌に、ぴたりと吸い付いて離れないのである。
隣にはともに夜を凌いだ山羊顔の獣人――ゲオルグ。先に戻るよう伝えたのだけれど、彼は休憩がてら話し相手になると進言したのだ。お節介焼きなのか、それとも妙な目的でもあるのか判然としない。が、アレコレと疑念を膨らませるには疲れ過ぎていたし、それに、なんだかんだ彼のことをほんの少し信用してもいいんじゃないかとも思いはじめていた。
「そういえば、ゲオルグ」
呼びかけると、彼はほんのりとこちらに顔を向けた。山羊以外の何者でもない顔である。表情もよく分からない。今にもベエベエと鳴き出しそうな感じだ。
いけないいけない。意識が散漫になっている。顔の観察をするために彼の名を呼んだわけじゃない。
「昨日はありがとう」
山羊顔が首を傾げ、白手袋が宙を撫でた。『魔物との戦闘のことですか?』
「それもあるけど、ドルフと戦ったときのことも。あなたが手助けしてくれなきゃ顔を殴られてたわ」
『ああ、そのことですか。どうか気にせず。結局殴られたことには変わりないですし、最終的にはリフさんが決着をつけてくれたのですから。私は玉遊びをした程度のことですよ』
結論から言えばそうかもしれない。ただ、結果が伴わなかったからといって感謝しないというのは絶対に違う。
「それでもありがとう」
しばしの間を置き、ゲオルグはゆっくりと空中に返事を描いた。『どういたしまして』
ゲオルグの金文字を眺めて、ほんの少し頬がゆるむのを感じた。これまでずっと端正な筆致だったそれが、わずかではあるけれど丸みを帯びていたから。
リフが目を覚ましていたら、彼にも感謝を伝えよう。彼がいなければドルフに負けていたかもしれない。
思って、生唾を呑んだ。身体が少しずつ強張っていく。その理由は脳裏に浮かんだリフの表情にあった。ドルフを撃退したときの、あの憤怒の形相。彼の臆病な優しさがそのまま憎悪に逆転したかのような、そんな顔付き。『骨の揺り籠』の襲撃はそれだけ彼にとって重大事だったに違いない。怒り狂うのも当然。……だけれど、あまりにギャップがあり過ぎたのだ。
「リフ、すごかったわね」
『ええ。さすが巨人と獣人のハーフです』
「いえ、そういうことじゃないの。ほら、なんだか様子が全然違ったじゃない。意外だな、って……」
『それは』と描いて、ゲオルグの指先が止まる。わずかな躊躇いののち、彼は筆を続けた。『私がそうなるようにコントロールしただけのことです』
……コントロール?
「それ、どういうこと?」
『感情の操作です。怒りの感情のツマミを捻っただけですよ』
「つまり……洗脳魔術を使ったのね」
ゲオルグの描いた『ご名答』という文字から目を逸らし、ため息をついた。洗脳魔術にはあまりいい思い出がない。そもそも、魔術の分野として決して好きになれない。わたし自身、何度も洗脳にかかった経験がある。『最果て』の旅では、カエル頭の魔術師ケロくんに辛酸を舐めされられたし、ハルキゲニアの頂点に君臨していたエリザベートは洗脳魔術の一種である支配魔術で住民をコントロールしていた。洗脳に関しては苦々しい記憶ばかりである。だからゲオルグに対しても、先ほどのような穏やかな感情を抱くことは難しかった。
そんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、彼はさらに続ける。
『例の球を出したのも、実を言うとリフさんを仕上げるための時間稼ぎでしかなかったのです。彼は怒りの目盛りが随分と低かったようで、かなり時間がかかってしまいました』
ああ、なんだか頭が痛い。
「……後遺症はないんでしょうね?」
『感情は元通りにしてあります。ただ、記憶まではどうにも出来ませんでした。些細な印象であれば忘却させることも魔術で可能ですが、いかんせんショックが大き過ぎたようです』
「でしょうね……」
リフの昏倒は、おそらく洗脳魔術の解除が原因なのだろう。あまりにおぞましい自分自身の行為に、彼の心が耐え切れなかったに違いない。
『行くんですか?』
立ち上がったわたしの前を文字が泳ぐ。
「ええ。リフが心配――」
踏み出しかけた足が止まる。そして振り返ると、ちょうどゲオルグが立ち上がったところだった。なんとも間の抜けた山羊顔が、今は途轍もなく不気味なものに思えてならない。
「もしかして、ハックにもなにかしたの……?」
沈黙。
『骨の揺り籠』からは、一定のリズムで軽く乾いた音が鳴っていた。早起きな住民か、あるいは一睡も出来なかった者が家屋の修繕に努めているのだろう。
『なにもしていない、と答えて納得していただけますか?』
「悪いけど、それは難しいわ」
意固地になっているわけではない。これはただの直感で、だけれど否定するにはあまりに強すぎた。
ゲオルグはなにかしらハックに施した。それはもう、わたしのなかで確信に近いほど強大になってしまっている。
『では、真実をお伝えしましょう』
黒山羊の指が宙を踊る。滑らかに、ときに鋭角に。迷いはない。どこまでも明瞭で正確な文字を紡いでいく。
やがて記されたひとまとまりの言葉を、わたしはじっと見つめた。
『リフさんと同じく、ハックさんの感情も操作しました。使命感を極限まで上げて、それはまだ戻しておりません。そして戻すつもりもありません』
使命感。なぜそれを上昇させる必要があるのか。そしてなぜ戻そうとしないのか。
「どうして」
疑問のすべてを籠めたつもりだ。正直に答えてくれるかは分からない。その指先で綴られた答えを、わたし自身が信用出来るかも定かではない。それでも聞かずに済ますつもりはなかった。
『どうしても』
「どうしてもじゃなくて……!」
そう叫んだ刹那、彼の腕がわたしの肩を掴んだ。抵抗したいのだけど、どうしてか身体が満足に動いてくれない。蓄積された疲労のせいだ。きっと。
そして奇妙なことに――あるいは、認めたくないことには――肩を掴まれているという事実がそれほど不快でもなかったのだ。いや、もちろん嫌だし逃げたいのだけれど、得体の知れない相手にそうされるのとはまったく違った感覚なのだ。
もしかするとわたしは、また洗脳魔術にかかっているのかもしれない。……ありそうな話だ。思えばゲオルグがわたしとともに夜間戦闘に参加したのも、わたしを油断させるためだったのかもしれない。だとしたら悔しいけど大成功だ。わたしは彼を信用しつつあったのだから。
それにしても洗脳されているというのに、こんなに冷静に物事を考えられるものだろうか。ましてや、洗脳魔術にかけられていることの自覚を許すような、そんなガードのゆるい洗脳があるだろうか。確かなのは、彼への嫌悪感がさほどでもないということだけだ。
不意に、彼が片手をわたしの目の前まで持ってきた。そこには小さな金文字が刻まれている。
『よく、理解してください』
頷くことなく、山羊の瞳を睨み続ける。やはりというかなんというか、ちっとも感情が読めそうになかった。だからこそわたしは金の文字に注目するしかない。
『私は灰銀と緋色、その両方を救おうとしているのです』
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『ケロくん』→カエル頭の魔術師。正式名称はケラケルケイン・ケロケイン。本名はアーヴィン。詳細は『第三話「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」』『幕間.「ハルキゲニア~時計塔最上階~」』参照
・『エリザベート』→ハルキゲニアの元女王。高慢で華美な人間。ルイーザの母。詳しくは『174.「ハルキゲニアの女王」』にて
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『支配魔術』→使用の禁止された魔術。他者の自由意思に介入する魔術。詳しくは『117.「支配魔術」』『Side Johann.「ドミネート・ロジック」』にて
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる土地。正式名称はハルキゲニア地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて




