819.「憤怒の拳」
意識が途絶え、記憶に空白が生じた経験はこれがはじめてではない。今までもあった。サフィーロとの決闘がまさにそうだ。あのときも意識を取り戻したときにはすべてが終わっていた。
「わたしはっ……」肺がひどく痛む。それでもなんとか堪え、半身を起こした。「どのくらい意識を失ってたの?」
『貴女が分からなければ誰にも知りようがない事柄です。が、敵と相打ちしてからという意味なら、まだ二分も経過しておりませんよ』
ゲオルグの金文字は、相変わらず規則正しい筆致だった。妙な感慨だけれど、今のわたしが文字を書いたらきっとガタガタだろうな、なんて思ってしまった。整然と並ぶ魔力製の文字が彼の冷静さ示しているように感じる。それがなんだかとても羨ましい。
「たった二分……」呟いて周囲に目を向けると、ハックの姿が見えた。「ハック……? ハック!」
高台の一角。中心からやや外れた位置に、ハックが横たわっていた。深く目をつむっている。
彼のもとへ向かおうとして片足を突いた瞬間。
「あうっ!」
痛みが動きを阻み、わたしは無様に倒れ伏してしまった。
それでも前進すべくなんとか顔を上げると、眼前には金文字が浮かんでいた。
『気を失っているだけです。特に攻撃を受けたわけではありません。精神的なものか体力的なものかは分かりませんが、限界だったのでしょう』
さらさらと消えていく文字の名残を見つめ、神経が段々と鎮まっていくように感じた。ゲオルグが正体不明の存在なのは相変わらずだけれど、彼の言葉にはどうしてか気を落ち着かせるなにかがあるようだった。
限界、か。ハックが苦労続きであることは明白だけど、窮地で気を失うようなタイプには思えない。……いや、わたしはそもそも勘違いしているのかも。彼はまだ子供だ。いくつものショッキングな場面を経験しながらも冷静に立ち振る舞ってはいても、子供であることに違いはない。本当の彼が別にあるとして、それがどんなものなのかは分からないけれど、これまで見てきた一側面だけがすべてだなんて思うのは傲慢だ。
落ち着いた気持ちで高台の周囲を眺めやる。わずかであっても動かすたびに痛みが駆け上がる身体を恨めしく感じながら。
まだあちこちで悲鳴が上がっていて、タテガミ族の姿も散見出来た。彼らは少なからずドルフの敗北に動揺しているようで、足を止めて壁の一角を見上げている者もいる。そして数体は、怒気と警戒に満ちた視線を高台に送っていた。
「よくもドルフ様を!!」
一体のタテガミ族が、咆哮を上げてこちらへと向かってくる。住民には目もくれず、一直線に。
ジェニーとリリーがそれぞれ離れた場所でタテガミ族と戦っているのは、先ほど確認した。猛進する戦士を阻む者は――。
不意にタテガミ族の進行方向に金文字が出現し、屋根の上からするすると球体が移動した。先ほど屋根に浮いていたゲオルグの魔術である。
『この球体は触れた箇所を消滅させます。そしてご覧の通り、私の意志で自由に移動が可能です。このまま突っ込んで来るのなら貴方の命はないでしょう』
タテガミ族はゲオルグのメッセージを確かに見たはずだ。その視線が文字をなぞるのを、わたしははっきりと確認している。が、それでも敵の勢いは止まらなかった。彼の走っているのは家屋に挟まれた隘路で、行く先に球体が立ちはだかっている。タテガミ族はさらに速度を上げ――。
「あっ! ……え?」
タテガミ族の身体に球体が触れたのを、わたしは間違いなく見た。しかも、身体の中心だ。球体はタテガミ族に弾き飛ばされ、虚しく路地を跳ねた。
どういうこと?
隣を見ると、ゲオルグがちょうど肩を竦めたところだった。『あらら』とでも言いたげな仕草である。
……つまり、最初からブラフだったというわけか。球体には消滅の力なんてなくて、ただただ過剰な魔力で作られたハリボテというわけである。それに救われたのは事実なので文句はないけれど……。
ハックは気を失っていて、ゲオルグはこれ以上魔術を行使する様子はない。そもそも彼が攻撃魔術を会得しているのかどうかさえ分からない。この状況をなんとか出来る者がいるとすれば、自分以外にいないじゃないか。
振り絞れ。体力は残ってるはずだ。痛みには慣れっこじゃないか。
なんとか立ち上がり、サーベルを引く。手元が震える。視界が歪む。たぶん、ちゃんとした攻撃が出来るのは一度きりだろう。それ以上は身体が持ってくれないことは、体感的に分かった。
タテガミ族が高台へと跳躍する。隆起した筋肉は暴力の気配を濃く漂わせていた。彼の瞳は敵であるわたしへと真っ直ぐに注がれている。
タテガミ族が疾駆の最初の一歩目を踏み出した瞬間、わたしの後方からなにかが一直線に飛来し、タテガミ族を壁まで吹き飛ばした。
「え……」
高台の一角。粉塵のなかに細いシルエットがあった。頭の部分には枝によく似た角が生えている。
『厄介なことになりましたね』
同感だ。
先ほどまで壁にめり込んで気絶していたはずのドルフが、そこに立っているのだから。
「オレ様の獲物を横取りするんじゃねえよ、ゴミクズ!!」
粉塵が晴れると、ドルフはタテガミ族の吹き飛んだ方角へ怒声を放った。それから忌々しそうに口から血の混じった唾を吐き、こちらへと向きなおる。殺意の迸る瞳がそこにあった。
「オレ様が退治してやるよ、化け物め……」
ゆらり、と彼の身体が揺れる。まだ先ほどのダメージを引きずっている様子ではあった。全身を覆う硬化魔術にもヒビが視える。ただ、溢れ出る憎悪はそれらに異様な迫力を与えていた。
勝てるだろうか。……正直なんとも言えない。ただ、勝機はある。相手も万全でないのは明らかで、それはこちらも同じだけれど、勝てるチャンスはある。一撃にすべてを籠めれば、彼の防御を完全に破壊出来るはずだ。
意識を研ぎ澄ます。呼吸は一定で、痛みが段々と遠ざかっていく。
しかし、決定的な瞬間は今度も訪れなかった。
重たい破砕音が後方で鳴った直後、ドルフが大きく目を見開いた。視線の先は、わたしのずっと上である。
「邪魔すんじゃ――」
巨大な風切り音が頭の上を通り過ぎ、巨大な手がドルフの身体をがっしりと掴むのが見えた。
手の正体は、紛れもなくリフである。
呆然と後ろを振り仰ぐ。そこにいたのは案の定リフだったが、彼は歯を剥き、憤怒の形相を浮かべていた。これまで目にしてきた温厚で臆病な様子からは考えられない表情である。
「離せ! 離しやが――ぐっ!!」
ばき、と太く乾いたなにかが折れる音がした。と同時に、リフに掴まれたドルフが冗談のように口から血飛沫を上げる。わたしはというと、ぽかんと口を開けて、目の前で展開される異常な光景をただただ目に焼き付けることしか出来なかった。
続いてリフは、ドルフを宙へ放った。そして拳を引き――。
「があああぁぁぁぁぁああああ!!!」
空気を引き裂くような咆哮。そして異常な風圧とともに、天を斜めに突き刺すような角度で放たれた拳。ドルフはあっという間に空の彼方に飛んでいってしまった。どれだけ上空まで打ち上げられたか分からないが、硬化魔術が木端微塵になったのは間違いなく、奇跡でも起きない限りまず助からないだろう。殴打の瞬間に絶命していてもおかしくない。それほど強烈な一撃だった。
あちこちで悲鳴が上がる。それは住民のものではなく、襲撃者であるタテガミ族のものだった。見上げるリフは、段々と憤怒の形相を鎮め、やがてふっと、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ジェニー』→『毒食の魔女』の邸にメイドとして住み込む少女。愛嬌たっぷりで天真爛漫。語尾に「にゃ」を付けて喋る。『ケットシー』と呼ばれる獣人の一種。興奮すると耳と尻尾が出てしまう。故郷の村をルドベキアの獣人に滅ぼされている。手引きしたのは友人だったケットシーのクロ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『600.「或るケットシーの昔話」』『601.「たった二人の生き残り」』参照
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『サフィーロ』→蒼い鱗を持つ竜人。『純鱗』。次期族長候補と噂されている人物で、派閥を形成している。残酷な性格をしているが、頭も舌も回る。シンクレールと決闘し、勝利を収めている。詳しくは『第四話「西方霊山~①竜の審判~」』にて
・『タテガミ族』→獣人の一種。男はタテガミを有し、女性は持たない。獣人たちの中央集落『ルドベキア』はタテガミ族の暮らす地




