818.「力だけでいい」
激しやすい自信家。まだ遭遇して間もないが、これまでの言動を鑑みるに、ドルフはそんな性格に思える。そんな彼が拳を止めて距離を取ったのは決して意外ではない。奇怪な物事が発生すれば後退して様子を見るのが自然である。戦闘に集中しているからこそ、アクシデントには敏感にもなるものだ。
目と鼻の先でふよふよと不安定に浮かんだ球体は、わたしと彼との戦闘に割って入った紛れもない異常事態と言えるだろう。
なんだろう、これは。
薄い黒をベースとして、表面には墨のごとき漆黒が渦巻いている。渦の具合も宙を漂う動きも、決して一定ではないが激しさもなかった。
この球体がドルフの仕業ではないのは明白だ。もし彼が仕掛けたなにかなら、彼自身が警戒するのは道理に合わない。
確かなのは、この物体が魔術であるという点のみである。球体には、視る限り高濃度の魔力が凝縮されていた。これがなんであれ、簡単に作り出せるとは思えない。
球体はわずかに上下しながら、わたしから一メートルほど離れると静止した。続いて、球体とわたしとの境に金色の線が閃く。
『それは暗黒球といって、触れた箇所はたちまちに分解されます。ご注意ください』
思わず高台へ顔を向けると、ゲオルグが親指を立てて見せた。……言葉通りだとしたら、なんて危険なことをするんだ。もし彼の忠告を待たずに触れていたら、わたしの一部が消滅したってこと?
視線をドルフへと戻す。なんであれ、ゲオルグの助勢に救われた。あのままだったらドルフの拳を受けて意識が飛んでいたかもしれない。
「分解だと……?」
訝しげにドルフが言う。滑らかな短い毛に覆われた眉間が、柔らかく隆起している。
ゲオルグの展開した金文字はわたしへのメッセージにほかならないのだけれど、当然敵にも見えている。言葉を発することが出来ない以上、仕方のないことだ。説明せざるを得ないほどに物騒な代物であることも事実。
ドルフは身を屈めて屋根の一部を拳で破壊すると、木片を掴んだ。そして間を置かず放り投げる。もちろん、球体に向けて。
木片は球体に激突すると特にかたちを失うこともなく、当たり前のように屋根に落ちた。
「嘘じゃねえか!!」
『無機物に効果はありません。悪しからず』
ドルフは金文字を見ると、周囲を見回した。放り投げることの出来る都合のいい生贄はいない。『骨の揺り籠』の住人は家屋の隅で身体を震わせているか、タテガミ族から逃げ回っているかだ。悲鳴はそこかしこで起こっているけれど、ドルフの身近にその姿は見えない。
しばしドルフは球体を睨んでいた。わたしもまた、球体と彼とを視界に収めている。次に取るべき行動を頭のなかで計算しながら、意識を研ぎ澄ましている。
花弁散る世界に没入すれば――『風華』を使えば、魔術によって鋼鉄のごとく硬化した肉体にダメージを与えられるだろうか。あるいは、サーベルに纏わせた氷の魔術を有効に使えば。
氷も斬撃も、彼にとって有効打とならないことは証明されている。そして衝撃で怯ませることも今のところ成功していない。たとえば、敵の硬化魔術にヒビでもあれば別なのだけれど……現状そんな分かりやすい弱点はないし、魔術の亀裂を作ることさえ出来ていない。
わたしが歯を食い縛って攻撃手段を考えているさなか、ドルフに動きがあった。ゆっくりと、視線をゲオルグのいる高台に向けたのである。どうやら彼は、この状況に対する有効な策を考えついたらしい。彼の頭になにがあるか、すぐに分かってしまった。
……思えば単純な話だ。厄介な魔術が存在するとして、それを消滅させるのにもっともシンプルなのはひとつ。
術者を消してしまえばいい。
ドルフとわたしが高台へと跳躍したのは、ほとんど同時だったと思う。着地のタイミングもほぼ同じで、しかし、ゲオルグへと疾駆するスピードは彼のほうが上だった。
「逃げて!!」
必死で叫んだ瞬間、心の奥が鋭く痛んだ。
まただ。またわたしは叫ぶだけだ。この状況を自分でどうにかすることが出来なくて、見れば分かる程度の危機を叫んでいる。こんなことでは駄目なのに、けれども叫ぶことしか出来ない。そんな経験ばかりが積み重なっていく。
自身の非力に歯を食い縛ることが成長だなんて、そんな言葉を騎士見習い時代耳にしたことがある。非力を知り、屈辱を力に転化せよ、と。悔しさを自らの教師にせよ、と。人に前を向かせるための常套句だ。それを本気で信じていたわたしは、本当の苦しみをなにひとつ知らなかったことになる。自らの非力が糧となるような時間さえくれない、そんな苦難が確かに存在する。顔を上げるために必要な準備が整う前に、前進を強いる状況が存在する。
行儀のいい考えなんて、雨のごとく降り続ける悲劇の前ではなんの力も持たない。必要なのは目前の状況を変えるための確実な力だ。
力。
それだけでいい。それ以外のものは、捨てたっていい。
自分の無能で誰かの命が失われてしまう。そんな経験、もうしたくない。
ゲオルグへと駆けるドルフ。その背がみるみる近付いてくる。いや、わたしが接近しているんだ。
荒い呼吸が耳の奥で鳴っている。それがほかならぬ自分のものだと気付くのに、しばらく時間がかかってしまった。わたしの視線は地面――高台と水平になっていて、身体がうつ伏せの状態。そして、なにやら背と頭に強い圧迫がある。それだけの状況を把握したのは、不安定な呼吸の正体に気付いた直後のことだった。
身を起こそうとすると、背中の圧迫が消えた。そして視界に白手袋が現れる。その指先は確かな魔力を帯びており、軌跡が金色の文字を描いた。
『意識は確かですか?』
「ええ……」
先ほどまでわたしの背を押さえていて、そして今も頭を押さえている者。それがゲオルグであることはすぐに分かった。
それにしても、口のなかがやたらと錆臭い。なんだろう。
不意に頭の圧迫がなくなり、手を突いて半身を起こした。立ち上がろうと足に力を入れた瞬間――。
「う……あっ」
身体の奥から痛みがせり上がり、否応なく崩れ落ちた。堪えきれずに咳が溢れ、真っ赤な液体が高台の床に散る。深紅は枝に付着し、ゆっくりと浸透していった。
どうして自分がゲオルグに押さえつけられていたのか。そしてなぜ吐血してしまったのか。なにより、身体の中心――肺の奥に感じる強烈な痛みはなんなのか。
金の粒子が目の前で揺れる。
『無茶をしないでください。敵の攻撃を真正面から受けたのですから、安静に』
なにを言ってるんだろう。真正面から攻撃を受けた? わたしが?
「どういうこと……?」
『覚えていないのですか?』
痛みを堪え、なんとか頷く。
『貴女は敵に追いつき、敵もそれを察して方向転換したのです。貴女が胸を殴られ、それでも踏み込んで敵を突いたのですよ。その刃で』
手に握られたサーベルに、自然と目が落ちる。
最後に覚えているのはドルフの背中だ。その後になにが起こったのか、わたしはなにひとつ覚えていない。自分自身の行動なのに。
背中をゆっくりとさする手のひら。そこには確かに労わりが籠っていた。
やがて白手袋がゆっくりとわたしの視線を誘導するように、『骨の揺り籠』を囲う絶壁の一角を指した。
顔を上げると、『骨の揺り籠』の上部――蜘蛛の巣状に張りめぐらされた網の一部が裂けていて、その先にクレーターが出来上がっていた。壁にめり込んでいたのは、先ほどまでわたしを絶望させていた張本人、ドルフである。
『緋色の月』の四番手は壁に身をうずめ、ピクリとも動かなかった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『風華』→花弁の舞う脳内世界。集中力が一定以上に達するとクロエの眼前に展開される。この状態になれば、普段以上の速度と的確さで斬撃を繰り出せる。詳しくは『53.「せめて後悔しないように」』『92.「水中の風花」』『172.「風華」』にて
・『タテガミ族』→獣人の一種。男はタテガミを有し、女性は持たない。獣人たちの中央集落『ルドベキア』はタテガミ族の暮らす地
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて




