814.「狂気と墜落と」
『ママ……? なにしてるの?』
『リフ! 私の可愛い可愛いリフ! 今日もお目々がクリクリで素敵よ』
『ねえ、ママ?』
『どうしたのリフ? 大丈夫だからね。私がアナタを守ってあげるんだから。もうヴラドなんかには渡さないんだから! なにが夜会卿だ。あんな奴、殺してやる』
『ママ、やめてよ、ママ。なにしてるの』
『なにって、うるさいな。私の研究に口出しするなよ』
『ママ、怖いよ』
『あらぁ、リフぅ。なにが怖いのぉ? ちっとも怖くないわ。安心なさい。たかが麻痺瓶をぶちまけただけのことじゃない。アナタも痺れると思ったんだけど、やっぱりリフちゃんは丈夫ねぇ。大好きよ』
『ママ……?』
『なに怯えてんだよ! 木偶の坊! オマエなんて実験体なんだよ! うぅぅぅ……アタシに口出しすんじゃねぇよ!!』
『っ……ごめんママ……叩かないで……痛いよ』
『痛覚! ご立派! ねぇ聞いてよ! コイツには痛覚があるのよ! なんて、なんて素晴らしい……』
『ママ、どうしちゃったの……ぼく、ぼく、つらいよ』
『リフ、リフ。私の愛するリフ。よく聞きなさい。これから獣人たちみんなヴラド様に捧げるのよ。これだけの量があれば、きっとアナタも私も許して下さるわ。お優しい方ですもの。ああ、でも、半分は実験に使いたいわねぇ』
『……』
『まずはお金が必要……クソ!! あのクソッタレの富豪!! アタシを見捨てやがって! リフの馬鹿がクソビッチを殺したからアタシがいると外聞が悪い!? ふざけんな豚野郎!! アタシを抱いたくせに、アタシを抱いたくせに、アタシを……うぅあ!!』
『ママ、もう聞きたくない。ママ、お願いだから、ママ……』
『リフぅ……オマエはアタシを捨てないよねぇ? 捨てないよねぇ!? ……分かったらとっととケダモノを運ぶんだよ』
『そんなこと、出来ないよ』
『早く!! 早くしろウスノロ!! ……おい、リフ。なんだその手は。アタシを叩き潰すのかい? 虫みたいに。アンタを創り出した神に手を上げるんだね? 馬鹿だよ、大馬鹿だ。アンタみたいな奴はヴラド様に殺されときゃよかったんだ。ちっとも可愛げなんてありゃしない、薄気味の悪い化け物め!! なにがママだ! テメェを産んだケダモノを殺したのはテメェだろうが――』
重い地鳴りに紛れて、なにかが砕ける音。
これが、身体の自由を奪われたキージーが耳にした一切である。今も研究者の甲高い叫びとリフの悲痛な呼びかけが頭を離れてくれないと、憂鬱な調子でキージーは言った。
キージーによると、研究者はおそらく集落に足を踏み入れた時点で気が狂っていたようである。夜会卿への憎悪を息巻いたその口で夜会卿への屈服を漏らし、リフへの愛を語った直後に化け物呼ばわり。錯乱していたことは明らかだった。
研究者は食料に麻痺薬を染み込ませたようで、リフを除くすべての獣人が身体の自由を奪われたのだ。彼女ひとりで多くの獣人を運ぶなんて不可能だが、一体一体手にかけるだけのことはしかねない雰囲気ではあった。そもそも彼女がどんな算段を持って事におよんだかは闇のなかである。狂人の論理なんてそもそも分からないものだし、彼女の口も永久に封じられてしまった。
研究者を殺したリフは、しかし裁きを受けることとなった。研究者を集落に置いて欲しいと頼んだのはリフと、そして彼を哀れんだキージーの二人である。死んだのは研究者だけだったが、誰が殺されていてもおかしくはなかった。現に研究者は怪しげな薬をいくつも手にしていて、毒薬のひとつやふたつ所持していたところでなにも不思議ではない。
当初はリフだけが罰の対象だったが、キージーも自ら同罪であると叫び、かくして二人は処刑されることとなったのである。かくして、今では『異形の穴』と呼ばれる奈落へと突き落とされたのだ。
「集落の者どもは行き場のない怒りを持っておった。誰かの血が流されねばならなかったんじゃよ」
キージーはわたしをじっと見つめて、弱々しく笑う。たぶんわたしが、憤りをそのまま顔に出していたからだろう。確かに悲劇を招き入れた原因はリフにあるかもしれないけど、それで命を差し出さなければならないだなんて、ちょっと納得出来ない。
けれどもキージーの表情を見ていると、もうなにも言えなくなってしまった。過ぎ去った物事への諦めが、その瞳に棲んでいたのだ。
「わしらは運良く命があった。リフが下敷きになってわしを受け止めてくれたんじゃ。……穴の底では、動物やら鳥やらの骨が朽ちておったよ。同胞の骨があったかは定かではない。なにせ、一面骨ばかりだったからのう」
その頃にはまだ、『骨の揺り籠』は存在していなかったのだろう。
ゲオルグの指先が金色の軌跡を描く。
『それで、貴方がたは穴の底に住処を作ったのですね。しかし、当初聞いていた話とは事情が違いますね。推察するに、麻痺の餌食になり、結果として貴方がたを処刑しようとした集落はルドベキアでしょう?』
「聡いな、ゲオルグよ」
『お褒めに与り光栄です。しかし、異形を捨てる習慣はルドベキアが最初だったと伺っておりますが、今の話を聞く限り、貴方がたが処分された理由はまったく異なる。すると、その後でルドベキアが習慣を作って口減らしをしたと?』
キージーはゆるゆると首を横に振った。
「ルドベキアが落とした獣人は、わしらが最初で最後じゃ。真偽のほどは分からんが、それから『異形の穴』に落とされた獣人からの話を繋ぎ合わせるに……どうもわしらを穴に落とした場面を他の集落の獣人が見ておったらしい。当時のルドベキアは今ほどの権力を持っておらんかったからのう、同胞を奈落に突き落とした理由が必要じゃった。おそらくルドベキアのタテガミ族どもは、血族を集落に匿おうとした事実が露見するのを恐れたのじゃろうな……別の理由をでっちあげたんじゃ」
なるほど。
「それが異形の口減らしってわけね……」
「うむ。それを聞いた別の集落も、好都合だと判断して同じ行為をするようになっただけのことじゃ……」
「『骨の揺り籠』のなかで、そこまで詳しく説明してくれなかったのって――」
老いた顔が縦に揺れる。
「『骨の揺り籠』のなかでも、これを知っておるのはわしとリフだけじゃ。そしてリフはすっかり忘れておる」
自分たちが『異形の穴』に放り込まれる要因となった存在が、『骨の揺り籠』の頂点に君臨している。やむを得ないことであるし、キージーやリフの関知しないところで様々な要素が働いているので、一概に裁くことは出来ない。それでも、この事実を知った『骨の揺り籠』の住民はどうするのだろう。少なくとも、なにかよからぬ騒動に発展する可能性はある。
「……なんでそんなに大事なことを、わたしたちに?」
すると老人は深いため息を吐いた。長いまばたきのあとで現れた瞳には、リフのそれよりもずっと弱々しい光が宿っていた。
「お前さんがたが普通ではないからじゃ。片や人間で、片や黒山羊族なる種……。理解してもらおうとは思わんが、わしもいい加減腰が曲がってしまってのう。重荷を背負い続けているのにも疲れたんじゃよ」
キージーの、どこか憑き物の落ちた顔を見つめて、今夜の話は口外しないよう心に決めた。少なくとも『骨の揺り籠』にまつわる者の耳に入らぬように、と。ひどく傷付き、捨てられ、ようやく支え合って生きているこの地の獣人たちに、争いは相応しくない。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『夜会卿』→名はヴラド。『黒の血族』のひとり。王都の書物でも語られるほど名が知られている。魔王の分家の当主。キュラスの先にある平地『中立地帯』を越えた先に彼の拠点が存在する。極端な純血主義であり、自分に価値を提供出来ない混血や他種族は家畜同様に見なしているらしい。詳しくは『幕間.「魔王の城~ダンスフロア~」』『90.「黒の血族」』『幕間.「魔王の城~尖塔~」』『565.「愛の狂妄」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『タテガミ族』→獣人の一種。男はタテガミを有し、女性は持たない。獣人たちの中央集落『ルドベキア』はタテガミ族の暮らす地
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて




