811.「捨てる者、捨てられる者」
灯りひとつない薄暗闇の室内で、わたしとゲオルグは向かい合っていた。やたらとぐらつくテーブルにはたくさんの染みや傷がついている。部屋のどこを見回しても装飾ひとつない。薄板で仕切られた隣室からは、先ほどから囁き声がしている。
窓を兼ねた穴が部屋の上部に円く空いていて、そこからちょうど高台の一角が見えた。距離と角度のせいで高台の上がどうなっているのかは分からないけど、ハックとジェニーとリリーは今もそこにいることだろう。本来高台は特別なときに特別な住民しか登れないらしいのだが、キージーはわたしたちが高台で過ごすことを例外的に認めてくれた。というより、そうしてほしいと言われたのである。
『本来はすぐに家を割り当ててやるんじゃが、生憎今は空きがないんじゃよ。なに、数日で空くじゃろう。それまではここで過ごしておくれ』
キージーは好々爺然とした声色でそう告げた。もうわたしたちは『骨の揺り籠』の住人扱いなのだろう。まあ、ハックがここでの逗留を決めた以上、否定したって角が立つだけである。そんなわけで高台生活がはじまったのだ。わたしとハック、ジェニーとリリー。そして、ゲオルグで。
「すみません、急にお招きしてしまって……」
隣室から戻ったラップが、木箱を椅子代わりにしてテーブルについた。
「いいのよ。わたしもあなたとゆっくり話がしたかったし」
わたしが言うのと、ゲオルグが空中に『お招きいただき光栄です』と描くのはほとんど同時だった。
わたしたちが高台を離れてラップの自宅にいるのには、そう深い理由はない。高台での生活が決まってすぐ、ゲオルグが散歩に出ようとしたので、すかさず同行を申し出ただけのことだ。そして二人で隘路をぶらぶらしていると偶然ラップに出くわし、家に招かれた次第である。
ラップは上目遣いにわたしを一瞥した。「すみません、クロエさん」
「なに?」
「昨晩は、情けないところを見せてしまいましたので……」
ルドベキア、と聞いて震えあがった彼を思い出す。あのときは訝しく感じたけれど、今となっては納得だ。彼は同胞に捨てられてここで暮らすようになったのだ。そして不要な存在を『異形の穴』に捨てる習慣を作り出したのはルドベキアの獣人である。恐怖心を覚えるのは自然だ。
「いえ、むしろごめんなさい。あなたのことをちっとも分かってなかったわ。怖がらせるようなことを言っちゃってごめんなさい」
「そんな……ボクがちゃんと全部説明しさえすれば……」
ラップはふるふると遠慮がちに首を横に振った。
『なにがあったのかは知りませんが、そう落ち込まないでください。ほら、仲直り』
ゲオルグの金文字を眺めて、頬がゆるんだ。
「そうね。別に仲違いしたわけじゃないけど、そう怯えなくて大丈夫よ。気楽になんでも話して頂戴」
「あ、いえ、ボクはその……元々こんな感じですから……」
自分の口元に苦笑が浮かぶのを覚えた。てっきり怯えと警戒からそんな態度になっているのかと思ったけど、そうじゃないのか。
『それはそうと』指先が描く文字が、控えめな会話を遮る。『母君の具合はいかがでしたか?』
「ご心配ありがとうございます……。相変わらずですね」
わたしたちを自宅に招いてすぐ、ラップは『母の様子を見てきますので、ここで待っていてください』と残して隣室へ行ったのだ。仕切り板一枚の空間なので、会話はわたしたちのいる居間にも当然届いたわけだけれど――。
ただいま、母さん。
調子はどう?
今日は『骨の揺り籠』の仲間が増えたんだよ。
五人も増えたんだ。みんな面白い人たちだから、きっと賑やかになるね。
実は今、お客様が来てるんだ。
誰だと思う? なんと、新入りの仲間だよ。
ひとりは黒山羊族って言ってたっけ。なんだか山羊に似ててね、洋服を着てるんだよ。びっくりだね。
もうひとりは、なんと人間。
驚いた? 人間が『骨の揺り籠』に来るだなんてね。
でも、いいんじゃないかと思うよ。『骨の揺り籠』は傷で繋がってるから。長老が認めたってことは、きっと彼らにも傷があるんだよ。
あ、そうそう。薬草を取って来たから、あとで煎じてあげるね。
それは会話と呼べるものではなかった。一方通行の、優しい呼びかけ。返る言葉はなく、声の隙間には冷えた沈黙が流れていた。
まるで独り言のようだけれど、そうではない。隣室のベッドには今も獣人が横になっている。悪いとは思いつつも、さっきちらりと覗いてしまったのだ。天井を仰いで微動だにしないその姿は、痛ましいものがあった。薄く開いた口元の毛は、こぼれた涎が固まって見るからにガサガサしていた。
息はある。呼吸以外のすべてがないだけだ。
「ボクは、母と一緒にここまで来たんです……。その、言葉にしにくいんですが……」
『母君の障害が原因で、集落を追い出されたのですか?』
あまりに露骨な、歯に衣着せぬ金文字にドキリと心臓が高く打った。
「いえ……ボクのいた集落は、病人を追い出すようなしきたりなんてありませんよ……」
そう、だよね。
樹海に存在する全集落が、弱者を排斥する考えを持っているわけではあるまい。
確かクラナッハも生まれながらに病弱で、ずっと寝たきりだったって言っていたような。すると彼の暮らしていたオオカミ族の集落も、『異形の穴』を使うことを良しとしなかったのかも。いや、考えすぎか。深刻な食糧難に晒されれば、きっとそうも言っていられない。
「ねえ、ラップ。あなたは集落でお母さんの世話をしながら暮らしてたのよね?」
「ええ……まあ……」
「じゃあどうしてここに?」
ラップは俯いて、身を堅くした。
十秒。
二十秒。
じわじわと積もっていく沈黙のなかで、不意にラップは顔を上げて弱々しい笑みを見せた。
「お母さんを捨てるために……穴まで来たんです。そのついでに、ボクも落ちただけなんです……」
それって――。
『心中ですか』
わたしが頭に浮かべた言葉が、文字になって表れたのかと思った。もちろんそれは一瞬にも満たない錯覚で、ゲオルグの指先が描いた言葉である。
「心中なんて……そんなものじゃないです。お母さんを捨てて、ボク自身も捨てただけです……」
そして地の底で命が繋がった。もしかするとラップにとっては『生きながらえてしまった』感覚なのかもしれない。
本来投げ出したはずの生命が続いてしまう。それを頑なに祝福したがる自分と、否を突き付ける自分がいる。
なんだか息苦しくなって、慌てて言葉を紡いだ。「昨日摘んでた花――『熱取草』だったかしら。あれはお母さんのために?」
「ええ……。あれを煎じて飲ませないと、母はすぐに熱を出してしまうんです……」
なるほど。夢中になって薬草を摘んでいるうちに夜が来てしまったというわけか。
「お母さん想いなのね」
「そんなこと」
言いかけたラップを手で制す。「誰がなんと言おうと、わたしはあなたのことを母親想いの優しい人だって思ってる。だから、あんまり自分を責めたりしないで」
わたしは上手く笑えただろうか。ちょっと自信がない。もしかすると、頬が引きつっていたかも。
「ありがとうございます……でも、それ以上言わないでください……」
そう言ってラップは、長いこと俯いて目を閉じていた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ジェニー』→『毒食の魔女』の邸にメイドとして住み込む少女。愛嬌たっぷりで天真爛漫。語尾に「にゃ」を付けて喋る。『ケットシー』と呼ばれる獣人の一種。興奮すると耳と尻尾が出てしまう。故郷の村をルドベキアの獣人に滅ぼされている。手引きしたのは友人だったケットシーのクロ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『600.「或るケットシーの昔話」』『601.「たった二人の生き残り」』参照
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『クラナッハ』→灰色の毛を持つ獣人(オオカミ族)。集落には属さず、『黒の血族』であるリリーとともに行動していた。気さくで遠慮がない性格。二度クロエたちを騙しているが、それはリリーを裏切ることが出来なかった結果として行動。可哀想な人の方でいたいと日頃から思っている。詳しくは『613.「饒舌オオカミ」』『650.「病と飢餓と綿雪と」』
・『オオカミ族』→獣人の一種。読んで字のごとく、オオカミに似た種
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて




