810.「語る金文字」
『私はゲオルグと申します。皆様と同じく、人でも血族でもない存在です』
『きっとご存知ないでしょうが、黒山羊族という種でございます』
『私たち黒山羊族は、ラガニアの奥地で血族とともに暮らしております』
『なかなか文化的な土地でして、ゆえにこのような格好をしているのです』
白手袋の描く金文字。それらは十秒ほど空中に浮かんでから、鈍く明滅して霧散した。次から次へと綴られては消えていく言葉の数々を見つめて、わたしはそっと息をつく。
空中に文字を描き出す魔術は知っている。確かテレジアがその魔術を使ったっけ。
脳裏に浮かぶ寂しげな微笑。ガラス細工のように繊細な指先が宙を撫でるその様。月光色の長髪が黒の修道衣に映えて、ひどく美しい。記憶のなかの彼女を見つめていると、心臓のあたりにぎゅっと圧されるような痛みを覚えた。もちろん、現実の痛みではない。追憶のもたらす苦々しい痛痒だ。
……ああ、いけない。記憶に浸ってる場合じゃない。
小さく首を横に振る。すると、記憶の肖像は意識の網目をこぼれていった。
『こうして文字を綴るのには理由があります』
ゲオルグと名乗った山羊顔の男は、相変わらず優雅な筆致で金色の文字を浮かべる。
『私は声を出せないのです。生まれながら』
手をとめて、ゲオルグは自分の喉を絞める仕草をして見せた。
声が出せないからこそ、彼は文字を浮かべる魔術を体得したのだろう。なんだか胡散臭い見た目だから鵜呑みには出来ないけど。
「ゲオルグって言ったかしら?」
リリーは先ほどよりはいくらか得意気な調子を取り戻していた。ようやく山羊頭の男が動き出したのでホッとしたのだろう。彼の身を案じていたわけではなく、生物らしい動きをしているので多少なりとも不気味さが軽減したという意味で。
ゲオルグはじっとリリーを見つめた。先ほどよりもずっと穏やかな眼差しで。山羊顔だからか、孫を見守る祖父母のような雰囲気があった。
「ワタクシは人呼んで『高貴なる姫君』――リリーよ。ごきげんよう」
髪を掻き上げて言い放つ彼女は、いかにも自信たっぷりな様子だった。たぶん、先ほどまでの怯えがすっかり反転したに違いない。ゲオルグは依然として正体不明の他種族だけれど、今のうちに優位に立っておこうという計算があるのかもしれない。いずれにせよ、健気なものだ。
ゲオルグは返事を紡ぐことなく、すいっとリリーの目の前に進んだ。
リリーは「な、なによ」と気圧されたように返す。すると――。
「え、や、やめ、やめにゃさいよっ! 変態!」
わしゃわしゃわしゃ、と髪を撫でられ、顔を揉まれるリリー。ゲオルグの手付きに敵意は感じない。それどころか、愛しさすらある。
……なんだろう。子供が好きなんだろうか。いや、でも、リリーはそこまで幼くもないし、だとするとやっぱりアレだろうか。ロリコンとかいう……。
「ちょ、ホント、やめなさいよ! ちょっと!」
ぼす、と重たい音が広がる。お腹に膝蹴りを受けたゲオルグがよろよろと後退した。そして元の位置に戻ると、背筋をピンと伸ばす。
白手袋の先が宙を掻いた。
『私がここを訪れた理由をお伝えしましょう』
あ、なにもなかったことにしようとしてる。
さすがにリリーが気の毒に思えたけれど、ゲオルグの綴る言葉に吸い寄せられてしまう。黒山羊族なる聞いたこともない種族を名乗る彼が、どうして樹海に足を踏み入れたのか。それもこのタイミングで。……どうしたって偶然には思えない。
「ぜひとも聞かせていただきたいものじゃな」と、キージー。
『先ほど申し上げた通り、私は声を喪失しております。誤解なきように説明しますと、黒山羊族がすべて声を持たないわけではございません。声は所有していて然るべきものなのです。私には当たり前のものが欠如しているのですよ。皆様がたと同じように』
散りゆく金文字の先で、ゲオルグは目を細めた。
『私は排斥されたのです。特に理由もなく。いえ、声がないというだけで立派な理由になるのかもしれませんね』
彼の指先は一拍置いて、再び文字を紡ぐ。
『私はあてもなく旅をしてきました。この樹海まではるばると。特に目的地があったというわけではありません。さして深く考えることもなく足を動かしていたらたどり着いたというだけのことですから』
「して、どうして『異形の穴』に? 地上の者どもに追われでもしたのか?」
『いいえ。私は自ら望んで落ちたのです』
望んで?
思わず首を傾げると、ゲオルグと目が合った。山羊の目が線のように細くなる。不意に彼はするするとわたしの前まで来て――。
「んえ!?」
頭に伝わった感触に、我ながらなんとも間の抜けた声を発してしまった。いや、でも、わけが分からなかったのだ。人間、不意の出来事には妙な反応を示してしまうものである。
ゲオルグは三秒ほどわたしの頭を撫でると、スタスタと元の位置まで戻っていった。
『そう、望んでここまで来たのです』
「え、ちょっと。なんで撫でたの?」
『樹海に来た私は、身を隠しながら日々を過ごしていました』
「いや、無視しないで頂戴」
『ある日私は獣人の会話を小耳に挟んだのです。曰く、畸形の捨てられる穴があると』
うん、何事もなかったことにしたいようだな。まったく。人にちょっかいを出しておいて無視はさすがにひどいじゃないか。
とまあ、モヤモヤした気持ちを抱えながらも目の前の男に集中した。しっかり意識していないと金文字はすぐに消えてしまうから。
『実に素晴らしい場所だと思ったのです。ぜひ私も仲間入りしたいと。そして勇気を出して飛び込んだ次第です』
最後の一文字を書き終えると、ゲオルグは胸に手を当てて一礼をした。これで説明は終わり、といった具合に。
正直、なんとも眉唾な話である。ハッキリとした矛盾は見えないものの、頭のなかで違和感が膨れ上がっている。どうしてこのタイミングなのか。どうして無傷なのか。さっきの硬直はいったいなんだったのか……。聞きたいことはいくらでもあるのに、言葉にするのは躊躇われた。頭を撫でられて警戒心がさらに強まったからじゃない。わたしがどんな疑問を投げかけようとも、素直に答えてくれないような気がしたのだ。もし彼が『灰銀の太陽』の敵――すなわち『緋色の月』のメンバーか、あるいはその回し者なら、言葉を濁されるだけだ。問答自体が無意味になってしまう。
「経緯は分かりましたです」とハックが発する。「つまり貴方は『骨の揺り籠』の一員になるためにここまでやって来たと、そういうことですね?」
ゲオルグはゆっくりと頷き、ニンマリと口の端を持ち上げた。なんとも不気味な笑顔である。なかなかどうして形容しがたい異物感がある。その笑みのせいか、ゲオルグの言葉は一切の信憑性を失っているように思えた。
「よかろう。お前さんがわしらの仲間に入りたいと言うなら、喜んで受け入れよう」
そう簡単に決めていいことなんだろうか。いや、これまでは被害者しか『骨の揺り籠』に落ちてこなかったんだろうけど、ゲオルグは例外だ。自分自身の意志で落ちたのである。
とはいえ、長であるキージーの判断だ。部外者のわたしがどうこう出来るものではない。
まあ、少なくとも数日程度様子を見れば、彼が本当に『緋色の月』と繋がっていないのかどうかは分かりそうだ。たとえば交信魔術を使っていたりとか。なんにせよ、偵察目的ならどこかでボロを出すはずである。
そんな気持ちでじっと眺めていたら、またしても撫でられた。ふわりと。ちょっとだけ。
「だから、なんで撫でるのよ」
黒山羊はなんとも気さくに肩を竦めて見せた。そして空中に文字を描く。
『ともかく、よろしくお願いします。ぜひとも皆様と昵懇になりたいものですね』
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。魔王の血を受けており、死後、『黒の血族』として第二の生命を得たが、クロエに討伐された。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』『第二章 第三話「フロントライン~①頂の街の聖女~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『ラガニア』→かつてはグレキランス同様に栄えていた地域。今は魔物の跋扈する土地と化している。魔王の城は元々ラガニアの王城だった。初出は『幕間.「魔王の城~書斎~」』




