809.「不動の黒山羊」
『骨の揺り籠』は騒然とした雰囲気に包まれていた。ひしめく家屋のそこかしこから獣人が首を伸ばし、集落の中央を見ている。ひそひそと交わされる会話が重なり合って、浮ついたざわめきを作り出していた。
彼らの見つめる先にあるのは例の高台だ。わたしたちが眠らされていた場所である。
獣人たちはわたしたちの姿を見るや否や、露骨に道を開けた。目的地に向かうぶんには都合がいいのだけれど、怯えや警戒心をたっぷり含んだ目付きに晒されるのは気持ちのいいものではない。まあ、気にしても仕方のないことなんだけど。
家々を区切る隘路を通り抜け、ようやく高台の足元へとたどり着いた。そこにも獣人が群をなしていて、高台を見据える者が半分、闖入者たるわたしたちを見る者が半分。
高台を見上げると、背筋を伸ばして立つ一本の影があった。光沢のある黒のタキシードを着込んだ、黒毛の他種族。頭には内巻きの角が二本。顔立ちは山羊そのものだ。
さっぱり見たことのない相手だ。『灰銀の太陽』にあんなメンバーはいなかったはずである。
リリーとジェニーに顔を寄せ、声を潜めた。「ねえ。あんな獣人見たことある?」
「知らないわ」「見たことないにゃ」
リリーはともかく、獣人として樹海で暮らしていたジェニーも知らないか。すると何者なんだろう。あまりにも希少な他種族とか……?
生唾を呑み、粗い梯子に手をかける。
高台の上にたどり着くと、おや、と思った。すでにハックとキージーの姿があったのである。どちらも背丈が低いので、下からはちっとも分からなかった。
「ん、来たか」キージーはわたしたちに苦笑を向ける。「話は聞いておるか?」
「ええ」
言葉を返しながら、山羊顔の獣人をじっと観察する。見る限り男の他種族で、背は二メートル超。さっきまでは分からなかったけど、黒革の靴を履いている。袖から伸びる手には白手袋。上から下まで、あまりにもキッチリとしていた。近頃他種族ばかり目にしているせいもあるけれど、なんだか彼が異常者のように見えて仕方ない。
山羊頭の男は微動だにしなかった。視線の先になにがあるというわけでもない。ゆるく足を開き、右手をポケットに突っ込み、左手をだらりと垂らして立っている。
「ずっとこの調子じゃ」キージーがため息を漏らす。「ここに真っ直ぐ落ちてきたんじゃがな、すぐに起き上がってからは一切動いておらん」
それはまた……随分と不気味だな。
ふと振り返ると、崖に空いた大きめの穴――峡谷から『骨の揺り籠』へと至る唯一の入り口であり、五メートルほどの大きさをしている――から、リフがちょっぴり顔を覗かせていた。おそるおそる、といった具合に高台を観察している。
わたしと目が合ったからだろうか、リフはぴょいっと影に隠れた。
まるで小動物みたいな人だな……。巨人じみた体躯とかけ離れ過ぎていて、なんだか和んでしまう。
「なんだか気味が悪いわね」
ぼそり、とリリーが呟く。
同感だ。同感だけど。「ちょ、もし聞いてたら――」
焦って山羊顔に向き直ったが、彼は相変わらずぴくりともしなかった。いつか見た剥製の半馬人――デビスを思い出す。
どうやら山羊顔にはこちらの声も届いていないらしい。まあ、それもそうか。音が聴こえているのなら、とっくにキージーやハックがなんとかしていたはずだ。
「困ったのう。このままにしておくわけにもいかんし……本当にお前さんがたの知り合いではないのか?」
キージーはどうやら本気で困惑しているらしい。長老として、このまま動かなかった場合の処置に頭を悩ましているに違いない。下手に触れるのもなんだか躊躇われるだろうし。
高台の一角にしゃがみ込んで山羊顔を見上げるハックが、口を開くのが見えた。「何度も言ってますですけど、僕は知りませんです。『灰銀の太陽』に彼のような獣人はいませんです」
相変わらず落ち着いた口調だ。得体の知れない存在を前にしているというのにちっとも乱れがない。まあ、ハックの度外れな冷静さには慣れっこだけど。
彼が取り乱したのを見たのはたった一度だけだ。ルドベキア脱出の糸口が断たれた、あの瞬間だけ。もはやすっかりハックは元の通りだ。
「わたしも知らないわ」
「ううむ……すると、こやつは何者なんじゃ」
するとリリーが、すぐさま口を挟んだ。「『異形の穴』に放り込まれたんでしょ。不気味だから」
失礼にもほどがあるけど、そう思ってしまう気持ちは肌で理解出来た。
「動かないにゃ」
これまた失礼なことに、ジェニーは山羊顔の周囲をひょこひょこと移動し、彼の身体を指先でツンツンとつついた。それでもなんの反応も示さない。まばたきさえしなかった。しかし、息はしている。さっきから薄い呼吸音は聴こえるのだ。
「『異形の穴』に捨てられるとも思えん。五体満足で『骨の揺り籠』に来る者は少ないからのう」
確かに、山羊頭は見る限りなんのハンデも負ってないように見える。高台の周囲を取り巻く住民たちと比較すると、その差は甚だしい。
「ええと……この獣人は落ちてきたのよね?」
「そうじゃ」
「……なんで怪我ひとつしてないのかしら?」
地上からここまで途方もないほどの距離があるのはわたしにも分かる。それなのに傷ひとつ負っていないというのは明らかにおかしな話だ。
もしかしたら、なにか魔術を使ったのかも。よく見れば身体に魔力を帯びてるし。だとすると、この奇妙な静止も魔術によるなにかなのだろうか。
「っ!! まばたきしたわよ!!」
リリーの悲鳴が『骨の揺り籠』に反響した。
唐突なまばたきは、わたしもちょうど見た。右手の指先が自然とサーベルの柄の感触を届ける。
山羊男は再びまばたきをした。そして今度は、それだけじゃ終わらない。ぶるりと身を震わし、ゆっくりと顔を動かしたのだ。まず『骨の揺り籠』を取り巻く崖を眺め、次に高台の下に集った住民を見下ろし、それからようやくわたしたちを順繰りに見た。
「……」
なにか言うかと思ったが黒山羊は黙ったままである。わたしの手のひらは、今やぴったりと吸い付くように柄を握っていた。
「目を覚ましたかの?」
キージーがやんわりと問う。すると山羊頭はそちらに顔を向け、小さく頷いた。どうやら声もしっかり届くようになったらしい。
「まだ混乱しておるじゃろうが、まずは安心するといい。ここにはお前さんを脅かす者はひとりもおらん。誰もが虐げられた者じゃ」キージーはするすると流暢に言う。たぶん、ここに落ちてきたすべての者に同じことを伝えているのだろう。「もしお前さんさえ良ければ、この地でともに暮らそうではないか。『骨の揺り籠』は捨てられた者たちの村じゃ。ここには異形の生存権がある」
口当たりのいい言葉を紡ぐキージーを横目に眺める。彼の表情には、恐怖を取り繕ってなんとか浮かべた笑みが貼り付いていた。山羊男の得体の知れない雰囲気に怯えているのは明らかで、けれども手を差し伸べようとする彼がなんだか眩しい。
山羊男は自分の胸に手を当て、流れるようにお辞儀をした。
そして――。
「え……」
白手袋の指が宙を踊る。彼の指先は金色の軌跡となって、流麗な筆致の文字を描き出した。
『ごきげんよう、皆様方』
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ジェニー』→『毒食の魔女』の邸にメイドとして住み込む少女。愛嬌たっぷりで天真爛漫。語尾に「にゃ」を付けて喋る。『ケットシー』と呼ばれる獣人の一種。興奮すると耳と尻尾が出てしまう。故郷の村をルドベキアの獣人に滅ぼされている。手引きしたのは友人だったケットシーのクロ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『600.「或るケットシーの昔話」』『601.「たった二人の生き残り」』参照
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『デビス』→剥製となってマダムの邸に捕らわれていた半馬人。現在は剥製化の呪いが解かれ、『灰銀の太陽』の一員としてハックとともに行動している。詳しくは『624.「解呪の対価」』にて
・『半馬人』→上半身が人、下半身が馬の種族。山々を転々として暮らしている。ほかの種族同様、人間を忌避しているが『命知らずのトム』だけは例外で、『半馬人の友』とまで呼ばれている。察知能力に長け、人間に出会う前に逃げることがほとんど。生まれ変わりを信仰しており、気高き死は清い肉体へ転生するとされている。逆に生への執着は魂を穢す行いとして忌避される。詳しくは『436.「邸の半馬人」』『620.「半馬人の友」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて




