808.「成長期だもの」
家屋の影に隠れているが『骨の揺り籠』にはいくつもの横穴が開いており、そのうちのふたつが水場へと続いている。ひとつは生活用水や飲み水に使っている小川に繋がっており、もうひとつは――。
五メートルほどの崖から落ちるカーテンのごとき滝を見つめ、自然と気分の高まりを覚えた。ジェニーとリリー。二人と顔を見合わせて頷く。
その場所は、谷底の退廃した景色からは比較にならないほど緑豊かな渓流だった。地上は遠く、ゆえに光は靄に散乱された些細なものでしかなかったが、それでも緑の濃さが鮮やかに映えていた。水の青と、苔や木々の青。それらに生命の彩りとでも言うべきものを感じている自分がいる。たぶん、峡谷で目にしてきた粉っぽい灰色の風景との対比でそう思ってしまうのだろう。
なんにせよ、ありがたいことだ。
「んにゃ! 冷たいにゃ!」
我先に渓流に飛び込んだジェニーが、ぶるりと全身を震わした。
「きゃっ! 本当に冷たいじゃない!」とリリーがやけに嬉しそうに文句を飛ばす。
なんだかんだ身を清める機会は貴重なものだし、祝福して然るべきである。たとえどんな状況にあろうとも。
爪先を水に浸すと、冷気が脛から腿へと駆け上がってきた。うう、本当に冷たい。
水中に半分ほど身体を浸してじっとしていると、段々身の内に染み込む寒さにも慣れてきた。
「それにしても」リリーは『骨の揺り籠』へと続くほら穴をちらちらと振り返りながら、胸を隠すように腕組みをした。「よかったのかしら。ふたつ返事だったけど……」
「あの場で断ったら面倒なことになるのは間違いないし、きっとこれでいいのよ。それに、いざとなればすぐに脱出出来るわ」
『骨の揺り籠』を治める長老キージーは、わたしたちへの無期限の逗留を要求した。わたしたちの実質的なリーダーであるハックは、それに対して即座に承諾したのである。彼の決断については当然訝しく思ったけれど、あとでちゃんと説明してくれた。曰く『あの場で渋って見せれば、キージーさんはきっとなにか仕掛けてきたに違いないです。また眠らされたら厄介ですからね、一旦は従っておくべきだと判断しましたです。それに、万が一のときにはリリーさんの力で抜け出すことも出来ますですから』。
巨大な獣人リフは臆病そのものの態度を示していたけれど、キージーの命令でどんな行動をするか分かったものではない。もし吹っ切れてわたしたちと戦うつもりになったのならば、そう簡単に退けることは出来ないだろう。なにせ十メートル近い体躯だ。巨人の魔物――キュクロプス――を討伐した経験があるわたしでも、それなりに苦戦するだろう。そしてキージーと敵対したのならば、『骨の揺り籠』にいるすべての住民が敵となる。集落の中心にある高台でそんなことになれば、無事な脱出は難しかったはずだ。たとえ身体的にハンデを負ってはいても相手は獣人なわけで、人間よりもずっと体力がある。それを鑑みれば、ハックの判断は妥当なものだ。
しかしながら『灰銀の太陽』として、この場所で時間を浪費するのは悪手ではないかとも思ったけれど、それさえハックは問題視していないような口振りだった。『みんなにはちゃんと連絡を取って行動を示してありますです。僕たちはタイミングを待ちますです』。……相変わらずの秘密主義にうんざりしかけたけれど、『骨の揺り籠』で口論するわけにもいかず、今のところ有耶無耶になってしまっている。なにか考えはあるんだろうけど、はたしてどうなることやら。
なんにせよしばしの滞在が決定したわけで、わたしたちは水浴びをしているわけである。
「ジェニー、ちょっとじっとしててくれるかしら?」
「なんにゃ? リリー」
冷気が頭に浸透して、思考が透き通ってくるような感覚だった。考えるべきことは多く、時間は有限だ。身を清めている間や、眠りに就くまでの時間、あるいは食事中であっても常に物事を考え続け、自分なりにまとめておく必要がある。
「なんでおっぱい触るにゃ? リリー」
「うぅん……不思議ね」
『黄金宮殿』でハックは、ルドベキア再訪を宣言した。『緋色の月』を弱体化させて再び交渉に出る、と。確かに、戦争への参加がほとんど不可能なまでに人員が減ってしまえば、ゾラも考えを改める必要が出てくるだろう。
「なにが不思議にゃ?」
「だから、胸よ」
しかし、ゾラの口にした『契約』の二字がどうしても気になってしまう。それがヨハンの持つ契約の力に相当するものか、それそのものなら――ゾラの意志を覆すのは困難というか不可能になるだろう。ヨハンの契約の力は、不履行が確定した時点で対象者の命を奪う代物だ。仮にゾラにも同じ縛りがあるとして、彼は自らの死と引き替えにしてでも戦争参加を諦めるだろうか。
「おっぱいがどうかしたにゃ?」
「ジェニーって、クロエよりちょっぴり年下よね?」
ルドベキア再訪。そして再度の交渉。その結果が前回とまったく同じだったら、やはり戦闘にならざるを得ないはずだ。そのときわたしは、はたしてゾラに勝てるのだろうか。
正直、暗いビジョンしか描けない。あのときのわたしは、ほとんど太刀打ち出来なかったのだ。サーベルに宿る『魔術を再現する力』をフルに活用し、シンクレールの氷の魔術をさながらコピーして戦ったのだけれど、まったくと言っていいほど通用しなかった。そしてわたしの地力でも、遠くおよばなかった。
どうすれば勝てる?
どんな方法がある?
なかなか答えは出てくれそうにない。
「たぶん、そうだにゃ」
「なのにどうして、クロエはあんなにおっぱいがちっちゃいの?」
「はぁ!?」
黙って聞いていれば、なにをいきなり失礼なことを。まあ、ほとんど耳に入っていなかったのだけれど、さすがに無視出来ない単語が流れ込んできたのだ。
「悪意はないのよ」とリリーはちっとも悪びれずに乾いた笑いをこぼす。「ほら、ワタクシ成長期ですもの。もしこのまま胸が大きくならなかったらと思うと不安で仕方ないの」
言って、リリーは自分の身体を見下ろした。滑らかな紫の肌に、形のいい小ぶりの丘陵がふたつ。……もしかしてわたしの胸とそう変わらないかもしれない。いや、そんなわけないでしょ。だってわたしのほうが彼女よりも年上なわけで……。
うん。考えるほどに落ち込んできてしまう。よそう。
「大丈夫にゃ。おっぱいちっちゃくても死なないにゃ」
「そりゃそうだけどね、ジェニー」なんだかため息が出てしまう。「悩ましい問題なのよ、実際」
わたしだって成長の余地はある……と信じたい。というか、信じている。シャオグイにちくちくと馬鹿にされたからか、余計に意識してしまっている自分が情けないけど。
「あ、ラップだにゃ」ジェニーがぶんぶんと手を振ったので、思わず胸を隠してしまった。ちらと振り返ると、例の犬っぽい見た目の獣人が、びっこを引き引きゆっくりとこちらに歩いてくる。
「ちょっと! 入浴中よ! 出て行って頂戴!!」
リリーの悲鳴交じりの声が森閑とした空気に吸い込まれていく。
するとジェニーが、きょとんと首を傾げた。「なんで出て行かせるにゃ?」
確かに、獣人には獣人の風習がある。姿かたちは人間そのもののだけれど、本来はケットシーであるジェニーは獣人の側の論理で動いていることだろう。一緒に水を浴びるのも裸を見せるのも平気と言うわけだ。
むう。となると、恥ずかしがって色々隠したり拒絶したりするほうがおかしなことなのかもしれない。郷に入ってはなんとやら。しかし、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。だからわたしは頑なにラップに背を向け、肩まで水に浸かった。
「あの、ごめんなさい、ちょっといいでしょうか……」
ラップは相変わらずおずおずした調子で言う。声の距離感からして、おそらくは十メートルくらいは離れた場所で立ち止まっているに違いない。
「なによ! 早くいいなさいな!」とリリー。
「い、いえ、あの、その……先ほど『骨の揺り籠』に落ちてきたかたがいまして……それがちょっと、見たことのない姿で……もしかして皆さんのお知り合いかと……」
落ちてきたというのは、『異形の穴』に捨てられたということだろうか。しかし、見たことのない姿とはいったいどういうことだろう。獣人じゃないってこと?
「どんな姿なの?」
「ええと……二本角で、服を着てまして、真っ黒な毛で……なんだか山羊に似てました」
わたしたちは顔を見合わせ、同時に首を傾げた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ジェニー』→『毒食の魔女』の邸にメイドとして住み込む少女。愛嬌たっぷりで天真爛漫。語尾に「にゃ」を付けて喋る。『ケットシー』と呼ばれる獣人の一種。興奮すると耳と尻尾が出てしまう。故郷の村をルドベキアの獣人に滅ぼされている。手引きしたのは友人だったケットシーのクロ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『600.「或るケットシーの昔話」』『601.「たった二人の生き残り」』参照
・『ハック』→マダムに捕らわれていた少年。他種族混合の組織『灰銀の太陽』のリーダー。中性的な顔立ちで、紅と蒼のオッドアイを持つ。詳しくは『438.「『A』の喧騒」』『453.「去る者、残る者」』『623.「わたしは檻を開けただけ」』にて
・『リリー』→高飛車な笑いが特徴的な、『黒の血族』の少女。自称『高貴なる姫君』。『緋色の月』と関係を築くべく、『灰銀の太陽』をつけ狙っていた。無機物を操作する呪術『陽気な浮遊霊』を使用。夜会卿の愛娘を名乗っていたが実は嘘。彼女の本当の父は夜会卿に反旗を翻し、殺されている。夜会卿の手を逃れるために、彼の支配する街から逃げ出した。詳しくは『616.「高貴なる姫君」』『708.「亡き父と、ささやかな復讐」』にて
・『ゾラ』→別名、『獣化のゾラ』。勇者一行のひとりであり、『緋色の月』のリーダー。獣人(タテガミ族)の長。常に暴力的な雰囲気を醸している。詳しくは『287.「半分の血」』『336.「旅路の果てに」』『702.「緋色のリーダー」』『790.「獣の王」』にて
・『キュクロプス』→巨人の魔物。『51.「災厄の巨人」』に登場
・『ケットシー』→獣人の一種で、猫に似た姿をしている。しなやかな毛で小柄。五感が優れている
・『緋色の月』→獣人を中心として形成された組織。人間を滅ぼし、血族と他種族だけになった世界で確固たる地位を築くことが目的とされている。暴力的な手段を厭わず、各種族を取り込んでいる。詳しくは『610.「緋色と灰銀」』『625.「灰銀の黎明」』『626.「血族と獣人」』にて
・『灰銀の太陽』→半馬人を中心にして形成された、他種族混合の組織。『緋色の月』に対抗するべく戦力を増やしている。詳しくは『第三章 第一話「灰銀の太陽」』にて
・『黄金宮殿』→獣人たちの中央集落『ルドベキア』の中心にある宮殿。玉座には財宝が大量に集められている。歴代酋長が使用する私室や、浴場、ゲストルームが存在する。全体に魔術除けが施されており、魔術を一切通さない。詳しくは『787.「青き魔力の光」』『788.「黄金宮殿」』にて
・『ルドベキア』→獣人の集落のひとつ。もっとも規模が大きい。タテガミ族という種が暮らしている。『緋色の月』はルドベキアの獣人が中心となって組織している。詳しくは『608.「情報には対価を」』『786.「中央集落ルドベキア」』にて




