90.「黒の血族」
黒の血族。
紫の体表を持ち、深紅の血液とは別に、漆黒の血を体内に宿している。魔物の祖となる一族のみが持つ特徴――らしい。わたしが実際に黒の血族を目にしたのは一度だけだ。
魔王の城。窓から差し込む青白い月明かりの下。ドレスを纏った魔王。わたしが遭遇した黒の血族はそいつだけだ。
血族にも本家や分家があるらしいが詳しくは知らない。ともあれ、魔王をはじめとして強大な呪力を持つと半ば伝説的に語られていた。実際に書物で確認出来た黒の血族は極北の地に居を構える魔王と、その血を引く分家の当主『夜会卿』と呼ばれる男である。その二人に関してのみいくつか資料を確認出来たものの、やはり確証に欠ける伝説めいた噂話の域を出ない。
紫の体表。それがどの程度黒の血族を証立てしているのかもはっきりとしない。ただ、フードの男の肌にその不吉な影を感じずにはいられなかった。未知の魔物の気配も黒の血族なら納得出来る。魔王に一度遭遇しただけで血族の持つ魔物の気配を類別出来るはずもないからだ。
だとすると、彼はとんでもなく厄介な敵かもしれない。寧ろラーミアと共闘して討つのが妥当であるほどに。
「ああ、あんたアレかい。気味悪いねぇ。可哀想に」
ラーミアはニタニタと嗤った。その体表を確認し、奴もフードの魔物の正体が把握出来たのだろう。しかし、可哀想とはどういうことだ。黒の血族に哀れむべき要素などあったろうか。
「俺はカワイソウなのか」
大剣をぶら下げ、男は言う。いかにも淡白な口調だった。
「そりゃあそうだろうよ。哀れな奴だ。自分でもそう思わないのかい?」
「思ったことはない。あんたが俺について知っているなら、教えてくれないか?」
言って、男はゆっくりとラーミアに歩み寄った。相変わらず大剣は構えていない。
「馬ァ鹿! 嫌だね!」
ラーミアの尻尾の先端が彼に直撃し、またもその身は巨木に叩きつけられた。
ゲホゲホと何度か噎せて男は立ち上がる。その表情に諦念の色が垣間見えた。「教えてくれない、か。なら構わない」
「随分と諦めが早いねぇ! 諦めの早い男は嫌いだよ!!」
今度は縦に尻尾が振り下ろされる。彼は咄嗟に大剣を盾代わりにしたが、力負けしてその身を地に打ち付けた。
黒の血族か、否か。傍観すべきか、否か。
このままでは男はラーミアに殺されるだろう。注意深く観察すれば、ドローレスの守護に殆どの呪力を割いてしまっていることが分かった。ラーミアの尻尾を八つ裂きにすることは出来ても、結局は敗戦濃厚だろう。既にラーミアはある程度の落ち着きを取り戻している。狡賢い奴が冷静さを取り戻したときは、この上なく厄介な存在になるものだ。
男を殺させれば、心に生まれた靄は消え去るだろう。余計な心配や葛藤、あるいはリスクを背負わずに済む。男が致命的な傷を負った段階で、もはやマークされていないわたしがラーミアに不意打ちを食らわす。それで終わり、とはいかないまでも先ほどよりも有利に立ち回れるであろう。
地を這う蛇の数は減ってきている。ヨハンはハンバートの守護で手が放せない様子だが、二重歩行者で思わぬ助力を得られるかもしれない。そうなれば勝率はぐっと高まる。
それら一切が、あの不可解な人型魔物の死で得られるのだ。リターンは大きい。
呼吸を整え、サーベルを引き抜いた。手足に集中力を注ぐと、仕上げに研ぎ澄ました神経を適度に整える。
さて、馬鹿な空想は終わりだ。
「くたばれ! 馬ァ鹿!!」
ラーミアの振るう尻尾の嵐を男はなんとか大剣で凌いでいた。深いダメージを負わすだけの隙がないのだろう。せいぜい大剣で尻尾に軽い傷を作る程度の抵抗だ。重い攻撃が連続で繰り出され、この嵐から抜け出すことが出来ないようである。隙あらば、という思いはあるだろうが、その隙が見当たらないのだ。
やがて男の動きに疲弊が表れる。ドローレスを助けた際の俊敏な斬撃はどこにもなかった。今や完全に追いつめられた状況である。
「アハハハハハ」
ラーミアの哄笑が闇夜を裂くように響き渡った。愉悦。逆襲はさぞ愉しいだろう。
「アハハハハハ! ハハハ、は? ぎゃあああああぁぁぁぁ」
ラーミアの笑いが止まり、尻尾の動きも停止した。そして、痛みによる絶叫が取って代わる。
サーベルの手応えは充分。背の痛みは継続していたが、ひとりのターゲットにのみ集中する相手の隙を突くことは容易い。
わたしの丁度対岸に位置するフードの男に注視していたラーミアの胴を、背後から深く斬り裂いたのである。真っ二つにすることは叶わなかったが、たとえ傷は塞がろうとも痛みは継続するような、そのくらい深い傷をつけてやった。
ラーミアがこちらを振り向いたので、ニッコリと笑いかけた。「寂しいじゃない。仲間外れにしないでくれる?」
「あんた、あの男の味方をするのかい!? 人間じゃないあいつの!!」
「そうよ。あなたよりもずっとマシだからね」
「あああ、くそ!! どいつもこいつも狂ってる! あの馬鹿婆ァも、ハンバートも、英雄気取りの馬鹿男も! あんたもだよ、馬鹿娘!!」
「どういたしまして」
言って、斬撃を更に加える。一度深く斬り裂いた箇所の周辺を削るような細かい斬撃を。
ラーミアは身を翻し、尻尾をこちらに向けて槍のごとく放った。身をかわし、両腕に力を込める。そして一気に振り下ろした。
迸る血潮。絶叫。ヒステリックな罵倒。
ラーミアは痛みに顔を歪めた。尻尾の先端部を斬り落とされた痛みばかりではない。奴の背後では先ほどのわたしと同様に、フードの男がラーミアの裂かれた胴を追撃していた。
敵は丁度、わたしとフードの男に挟まれたかたちになっているわけだ。
大剣を振るう彼と一瞬目が合った。たった一瞬のことだ。
彼に協力しようと決めた理由は、明確に言い表すことが出来ない。まあ、不合理だろう。フードの男は魔物であり、間違いなく敵である。それは変わらない。
しかし、彼はどのような理由があってか知らないがドローレスの命を繋いだ。わたしが救うことの出来なかった死にたがりのドローレスを、だ。そして貴重な呪力を割いてまで防御魔術を施したのである。
ドローレスに特別な感情や恩義でもあるのだろうかとも思ったが、そうであれば彼女だけを救ってこの場からは立ち去るのが至当である。
加えて、彼はわたしの武器をそれとなく返したのだ。それも二度続けて。大変器用なことに、すぐ傍の地面に突き刺さるように。
裏を読もうと思えばいくらでも出来る。それこそヨハン的に物事を考えれば、この男の助力をするのはナンセンスかもしれなかった。相討ちを見込んで傍観しつつ身体を休めることだって出来たのだ。ラーミアを討ち倒した後のことを考えても、奴が黒の血族である可能性を考えても、手助けをするのはどうにも合理的とは思えなかった。
いつかとんでもないしっぺ返しが来るような、そんな気がしてならない。
けれども加勢せずにはいられなかった。男はリスクを負ってわたしたちの状況を変えたのだ。彼の立場に立って考えてみれば、まるっきり合理的でない。もしかすると、本気で英雄になりたいだなんて考えているのかもしれない。
元騎士として、これが正しい選択なのかは分からない。いや、そもそも正しいかどうかなんてどうでもいい。わたしの感情の問題として、彼を見殺しにするのが嫌だったのだ。
「あんたら絶対に殺してやる!! 殺してやるからなぁ!!」
ラーミアの罵声が梢を震わせた。
「倒されるのはあんたよ、ラーミア」切っ先を奴の顔に向ける。
「同感だ。あんたはもう終わりだな」男も大剣の先をラーミアの顔に向けた。
共闘。その報いが来るのなら、来い。後悔なんてしない。




