8.「月夜の丘と魔物討伐」
ネロがベッドに入って五分と経たないうちに、すうすうという穏やかな寝息が聴こえた。頬杖をついてネロの寝姿を眺めていると、理由の分からない胸の痛みを感じた。それはじくじくと、うずくようにささやきかける。場違いだ、なぜこの場所にいるんだ、と。なすべきことは山ほどあるんじゃないか、と。
痛みを振り切るように、立ち上がった。気ばかり焦っても苛立つだけだ。今は落ち着いて、できることからひとつずつ積み上げていくしかない。まず、王都への道を探らなければ。
ふと窓の外を見ると、ハルが丘を向いてたたずんでいた。ときどき空を見上げたり、左右に目をやったりしている。やはり彼女は人形ではないし、したがってネロも人形使いではない。
人形は操り手に依存する。睡眠などで主の意識が消えれば、人形は動きを停止するのだ。自律制御できる人形魔具は存在しないはず。仮に制御が可能だとしても、それは魔力の絶え間ない漏出によって維持されるに違いない。眠りに落ちたネロから一片の魔力も感じない以上、やはり彼は人形使いではないことになる。分かりきっていたことだが、子供らしいごっこ遊びでしかないのだ。
部屋を見回すと、ベッド横に置かれた小ぶりの本棚に目がいった。ネロを起こさないように忍び足で近づいて、背表紙を見る。植物大全、箒の倫理学、メイド入門、おそうじ博士、食べられる雑草図鑑……。
ほとんどがハルの所有物であることはタイトルだけで分かった。地図や地史に関するものはなく、生活感のある書物ばかりである。多少気落ちしながらタイトルをたどっていると、ふと一冊が目にとまった。音を立てないよう注意しながら引き抜き、ぱらぱらとめくってみる。
自然と笑みがこぼれてしまう。
『人形使いの冒険』。人形使いの主人公が、魔具であるはずの人形を人間として大切に扱いながら、共に危機を乗り越えていく。そんな内容の絵本だった。
口元に手を当てて笑いをこらえる。思わず吹き出してしまいそうになったのは、人形の名前がハルだったからだ。なるほど、ここからきていたのか。ネロの子供らしい空想と、それに付き合うハルの健気さを微笑ましく感じた。
絵本を本棚に戻し、大きく伸びをする。目先のことを考えながら進むなら、とりあえずは着替えのことを心配すべきなんだろうなあ、とため息をつく。白地のシャツは土で汚れていたし、ゆるくヒダのついたひざ下までのスカートは裾が少し破れていた。清潔感はもちろんだが、この一着のみで王都へ行くのはどうにも惨めな気分になる。軽くて動きやすい素材のズボンでもあれば、それで充分だ。さりげない箇所にリボンや飾りがついていれば文句なし。明日は町へ行って、服を買おうと決めた。銀貨はおろか、銅貨すら持っていなかったがアテはある。
耳に手を当て、それがまだ存在していることを確かめる。金の耳飾り。耳の内側のくぼみを挟むように引っかけたその飾りは、全体が純金製であることに加え、たれ下がった先端部分には加工した瑪瑙石の粒が付いている。絹のドレスを買ってもお釣りがくるくらいだ。売ってしまうのはもったいなかったが、衣類の優先度のほうが高い。
小さく耳鳴りがした。肌がぞわりと粟立ち、背筋にじわじわと寒気が広がる。立ち上がり、辺りを見回した。玄関のそばにあった大きめのスコップを手に取り、ドアを開ける。
遠くに魔物の気配を感じる。丘の方角に目を凝らし、感覚を研ぎ澄ました。
間違いない。あの丘の周辺に魔物がいる。五、六体といったところか。
丘から視線を外さずに駆けると、中腹あたりに魔物の姿が見えた。紫色の体表と、異様に前傾したシルエット。牙と両手足の鋭利な爪が、月を反射して鈍く光っている。一般的な魔物――グールのようだ。連中と交戦するハルの姿も、そこにあった。
掌底や回し蹴りで応戦するその姿に、思わず息を飲む。しかし、足だけは止めなかった。
ハルの周囲には魔力が溢れていた。制御しきれない魔力の奔流。魔術師を名乗ってしかるべき質量のエネルギー。
逆だったのか、と納得する。ハルが魔術師で、ネロはただのあどけない子供なのだ。魔力を持たないネロを不憫に思うからか、あるいは純粋な優しさからか、その魔術師ごっこに付き合っていたに違いない。本物は自分自身であるのに。そして夜な夜な、自身の魔力に引き寄せられて現れた魔物を討伐しているのだ。
たったひとりで。武器さえ持たずに。
スコップの柄を強く握り直す。
一瞬だ。それ以上は必要ない。
駆け寄るわたしに気付いたのか、ハルはこちらに視線を向けて驚いたように目を見開いた。何事か言おうと口を開く様子が見えたが、スピードをゆるめない。スコップを両手で振りかぶった。
スコップといえども、速度さえ満たせば刃物と同様の切断力にはなる。相手がグールというのも幸いだった。連中の肌は人と同じ程度の硬さだから。
胸を両断されて倒れるグール。その亡骸は蒸発するように大気に溶けていった。
スコップを握り直し、丘の向こうを睨んだ。五体のグールがゆらゆらと身体を揺らしながら迫ってきている。いっぺんに相手をするには少々厄介な数ではあったが、躊躇している時間はない。ニコルの微笑と、魔王の無関心な表情が脳裏に焼き付いている。
あいつらを倒せるほど強くなる必要がある。たとえ命の瀬戸際に立とうとも、迷ってはいけない。
丘を駆けるわたしの隣に、ハルが並んだ。
「助かりマス」と聴こえた気がする。
待ち構えていたのか、わたしが切りかかるとグールも爪で応戦した。
――遅い。止まっているみたいだ。一体切りつけ、もう一体の胴にも刃を突き立てる。どちらも致命傷にはならなかったようで、流れる血も気にせず爪を立てて襲いかかってくる。
ハルが片方のグールを拳で殴り飛ばした。よろめいた敵の鳩尾を膝で突き、一拍置いて回し蹴りを放った。首に命中し、グールは吹き飛ばされる。
わたしはもう一体のグールと対峙し、スコップを片手に握り直した。少しだけ本気でやろう。二、三度スコップで空を切る。問題ない。
グールには切りかかったわたしの姿が見えたことだろう。それを認識し、爪で応戦するときにはもう戦闘は終わっている。一瞬で三撃。両腕と、胴体。全て切断した。
さらに二体が襲いかかってくる。一体の足を浅く切りつけて動きを鈍くし、もう一体を切り刻む。そうして残ったほうも真っ二つにした。
やっぱり片手のほうがずっと良い。威力こそ下がるがスピードは段違いだ。グール程度ならこれで充分だろう。剣があれば動く暇さえ与えないのだが、贅沢は言ってられない。
ほどなくしてハルのほうも終わったようだった。首があらぬ方角に捻れた二体のグールが転がっている。ひと段落して落ち着いたのか、ハルは呆然とした様子でわたしを見つめた。
「……クロエ。アナタは何者なんですか」
昼間の硬質な口調が消えていた。それだけ驚かせてしまったということだろう。それも当然か、と思う。華奢な見た目にもかかわらず、スコップでグールを切り裂く姿を見て納得の出来る人間は少ないだろう。
スコップを地面に突き立てた。
「王立騎士団ナンバー4、華のクロエ」
月夜に風が心地良かった。
【改稿】
・2017/11/14 口調及び地の文の調整。ルビの追加。
・2017/12/21 口調及び地の文の調整。ルビの追加。




