鄙びた茶屋―あやかし達の夏の陣―
某県の街道沿いを走る、川の中流付近。往来が案外ある街道の死角に、幾筋かの糸を束ねたように、細く滝が落ちている。地元民もあまり知らない滝壺のそばに、旧盆前の二ヶ月程の期間、小さな茶屋が川床をこしらえている。
日の高い頃合には、滝をはじめとする風景や水しぶき、四隅の柱の近くに飾られた風鈴の透明感と、影をつくる番傘の赤、補色に当たる深緑のコントラストを堪能する。空が茜色に染まる頃合には、紅白の和紙で作られた提灯で灯りが点されて、光がゆらゆらと水面を揺らす、幽玄な光景が客を楽しませる。
そして時は関係なく、風鈴の音と、どどうと落ちる滝音の重奏が、川床にいる者の耳を打つ。
そんな川床には、日の高い中だというのに、疎らながら涼を楽しむ客がある。彼らをもてなす店員は、狐の面を被る、おかっぱ頭の女が一人。目が線の様に細く、所々に朱色の点が踊る、やけに目を惹く面だった。女性らしい丸みを帯びた身体に、紺色の浴衣に生成りの前掛けを着ていたように思うけれど、狐の面の印象深さに、衣服の柄なんて、人の頭に残ってくれない。
「あらぁ、朱鷺、三年ぶりだったかな」
店員らしからぬ、ぞんざいなものの言い方だけど、狐面をつけた女には妙に似合っていた。彼女は新しい来訪者、暫く振りに訪れた客の名前を、迷うことなく吐き出していた。
朱鷺と呼ばれた男は、かなり大き目のリュックサックに、夏にしては暑苦しい長袖長ズボンという装備以外に、特にこれといって特徴のない存在だった。
「しばらくだね、ミヤコさん。あれ? ……面を、変えたんだね」
朱鷺の中で生じた違和感。彼は即座に正体に気付き、述べていた。
彼の記憶が正しければ、ミヤコのつけていた狐の面の差し色は、もう少しくすんだ、臙脂のような色合いだった。それに覚えのない花模様が散っていた。季節にそぐわない、桃の花のように思えるものだった。
「前のが割れてしまったからね。翁に頼んで作り直してもらったんだよ。一週間前に納品されたばかりの品でねぇ」
ミヤコという名の店員の表情は、当然ながら分からない。けれども、彼女の声の弾みようから、男が指摘したこと、あるいは翁の作品に対する好印象が伺える。
彼女は、慣れた手つきで胸元から藍色の縮緬の張子がなされたバインダーを取り出した。無地の鉛筆と、素朴なつくりの和紙が挟まったそれで、ミヤコはいつも注文をとる。
「ミヤコさん。注文するよ。かき氷。宇治抹茶……は、今もまだメニューにあるのかな」
朱鷺は、適当に空いている席に腰を下ろした。彼のチノパンと擦れて音を奏でる真新しい畳からは、ほのかにい草が香る。
「あるよ」
清涼ながらも激しい滝の音に張り合うように、ミヤコは声を上げる。そしてすぐに、和紙の上に鉛筆を滑らせる。朱鷺が考えを変えるつもりがなさそうだと踏んでの事だろう。
「じゃあ、それと……何か目新しいものが増えたりしていないかな?」
川床の卓上には、品書きらしきものは置かれていない。客がまばらなこの店では、注文の際に店員に尋ねたら、全て事足りてしまうからだ。
「今夏の新商品は、店主謹製、わらび餅だね」
「これはまた、古典的なものを」
この茶屋にはこれまでなかったものの、透明感のある涼しげな、愛らしいフォルムも相俟って、夏には人気の和菓子だ。
今更説明されるまでもなく、想像がつくほどだ。
「ただのわらび餅じゃないんだよ。黄粉にわさびが少し混ぜられていて、ほんのり刺激的」
説明するミヤコの声が弾む。
冷たくてふるふるとした、ほんのり甘い夏の味。黄粉をまぶして、蜜を絡めて頂くものが多いけれど、そこにわさびが加わるという。粉にせよ、おろしたてにせよ、冬のものと比べて、辛味が穏やかになっている筈だ。独特の辛味をあわせるのは、案外、悪くはないように思えた。
「なるほど。じゃあそれも」
「ありがとね。じゃあ、まずはこれでも飲んで、涼んでいてくれたまえ」
おどけた口調で、仰々しい語尾を唐突に使うミヤコ。よくあることだから、朱鷺は特に反応しなかった。
ミヤコは面の上からでも分かりやすく、面白くなさそうな態度で、朱鷺の前にグラスを置いた。
この時期、この茶屋で和菓子を注文した客にまず振舞われるのは、清水でじっきくりと時間をかけて抽された緑茶だ。それは今年も変わりないようで。透明な中に、ほのかに青色のさす切子のグラスに注がれる。
朱鷺は早速口をつけた。冷たい故に、香りは弱い。湯で供されるものと比べて苦味が少なく、円やかで優しい口当たりで、火照った身体に優しく染みていく。
ミヤコが注文を持って川床から辞すと、間もなく、朱鷺に一人の男が近づいてきた。川床の先客の一人だった。
背丈は朱鷺より十センチばかり低く、横幅は倍ほどある男だ。纏っている甚平は、だらしない男の皮膚でのばされており、太陽光を反射しそうな程の頭と、黒のサングラスがやけに目立つ。
「やあ。君、ミヤコ君と親しいみたいだね」
どうやらこの客は、店員のミヤコに執心のようだ。彼の言葉の端々に、ねっとりとした狂気が見え隠れする。
「さあ、どうでしょう。店員と客以外の何ものでもないと、僕は思うのですけどね」
対する朱鷺は、ミヤコと言葉を交わしていたときと変わらない、のどかな口調。
彼自身が鈍いのか、坊主頭の男の牽制ごときと気にしていないのかは、定かではない。
「さて、どうかな? 男と女なんて、何が切欠で関係が変わるかなんて、変わってみないとわからないものだからなぁ」
「同感です。痛感する出来事に遭遇したもので」
傍を流れる清流のような朱鷺の調子に、男は面食らっていた。
「……へえ。そうだったのかい」
「ええ、つい先日、一気に堕とされてしまいました」
先程の朱鷺とミヤコの会話から、朱鷺が執心しているのはミヤコ以外の存在だと察したのだろう。男は一気に相好を崩した。
「然し、イイ出会いじゃなかったのかい? それなら遭遇という言葉は相応しくない」
ふんぞり返った坊主の男の胸で、甚平の藍染の生地が悲鳴を上げる。
「いえ。僕が堕ちるべき相手ではないもので……」
「ああ、お前さんも『こちら側』、なのかい? で、お嬢さんがあちら側、と」
朱鷺が持つグラスの中で、緩やかに溶ける氷がからりと音を立てる。合図にするかのように、彼は口を再度付けて、今度は中のお茶を一気に干した。
「……仰るとおりです」
朱鷺は、息を吐くように告げる。すると、坊主頭の男は、愉快そうに右側の口の端をつり上げた。坊主頭の男の背後で、何かがふわふわと揺れた。
「かき氷は氷を削っている最中で、まだ時間がかかるから、とりあえずわらび餅ね。おや、団三郎さん。随分とまた珍しいね。他人とつるんで、しかも尻尾……」
団三郎と呼ばれた男と朱鷺が一瞬硬直した。ミヤコが気配無く現われたからだ。
彼女は、朱鷺が注文したわらび餅と、熱い抹茶を持っていた。この茶屋では、冷たいものには季節問わず、熱い茶を供す。
「ああ、やってしまっていたか。これは失礼! しかし、相変わらずこの店の感性は素晴しい。信楽の素敵な器ではないか」
揺れたものの正体は、団三郎の尻から伸びた尻尾だった。全体的に太い尾で、茶色の毛並みで、先の色が根元より暗い……たぬきの尾。
「ありがとね。主にも伝えておくよ。じゃあ、ごゆっくり」
手の中の盆が空になったミヤコは、狐の面をずらして軽く会釈した。彼女の口元が弧を描く様が見えた。
ぷくぷくと桃色の、艶のある唇は、この場にいる者達には大層魅力的に映っている。
ミヤコは、幾人かが見惚れていることを分かっていながら、余裕たっぷりの様子で、その場をあっさりと辞していった。
「わざと、……ですね。貴方がこんな失敗をするわけがない」
団三郎という名前と、たぬきの尻尾。
佐渡の有名な化狸に、団三郎狸という者がある。その変化で人をからかい遊んで、幾星霜を経たのやら。
「話のたねになるじゃろ? まあ、今ここにいるのはこちら側の者ばかりだから、偶には良いじゃろうて」
男の口調ががらりと変わった。見た目以上に歳を重ねたかのようなものに。伴って変わった声のトーンと相俟って、あまり違和感はない。
やはり名のある件の化け狸なのだろう。朱鷺は確信した。
「なるほど。わらび餅がきたので、僕は頂戴しますね」
「ああ、ワシが勝手に絡んだだけだからのう。ワシの戯言を気にせず、早く食べなされ」
団三郎の言うとおり、炎を髣髴とさせる温かみのある赤は、典型的な信楽焼の特徴だ。この赤と、抹茶の渋みある緑がバランスの良い茶器となっている。
細かな泡がぷちぷちと弾け、その度に泡に隠された緑の濃さが増していく。
わらび餅は、硝子の器に盛られている。その内側に最中に挟まれたわらび餅が顔を出している。
黄粉のまぶされた餅は、透明感のあるものと、茶色を帯びたものが混在している。わらび粉をしっかりと使うと、くすんだ色のものができるという。透明なものは、葛や他のデンプン質が多く含まれている。本格的なものと、見た目の涼しさ両方どりを考えた末のものだろう。
ほのかに清清しさのある、独特の香りが朱鷺の鼻腔に届く。ミヤコが触れていたので、わさびのものだと、すぐに気付いた。
そして、盛り付けられた器には、細かな水滴がびっしりとついていた。器がよく冷やされた状態で供されているのだと、朱鷺は嬉しくなる。
ともあれ、品がきたからと団三郎が遠慮してくれているのだ。出されたものは美味しいうちに頂戴したい。
朱鷺は手を合わせて軽く頭を下げ、早速わらび餅を口にした。ふんわりと被された最中を崩すと、ざくりと小気味良い音を立てる。当然、それごと頂くつもりなのだ。
はじめは黄粉の香ばしさ、次いで本当にわずかながら、わさびのつんとくる独特の刺激、それを和らげるかのように甘さが口いっぱいに広がってくる。所々最中の食感と、優しい味わいがアクセントになる。
一歩間違えたら悲劇になりかねないと思う組み合わせだけれども、長年妖連中をうならせてきた店主だ。絶妙の配合で攻めてきた。美味しい。そう思える一品だった。
甘さが広がったところで、お抹茶を頂戴する。作法なんて何のその、飲みたいように飲むのが、朱鷺という男だ。
お茶を口に含むと、苦味と甘味が闘いだし、わさびのつんとくるすがすがしさが合間に戻ってくる。これをも狙っての匙加減だったのだろう。
「うん。これはいい」
一人唸っているところへ、もう一つ、朱鷺に近寄る影があった。
「キミ、ィっ、アタシと、どーるい、かナ?」
わらび餅に熱中していた朱鷺は、しぶしぶ顔を上げた。彼の隣に座り込み、拙い日本語で彼に話しかけたのは、褐色髪の巻き毛が印象的な少女だった。
顔は大きなマスクで覆われていて、よく確認することが出来ない。
『初めまして。僕は朱鷺と申します。で、どうしてそう思われたのでしょうか、フロイライン』
朱鷺の言葉を聞いて、少女は僅かに顔を上げた。。
いかにも典型的な日本人、しかも妖の気がある彼の口から、到底飛び出すとは思えなかった言語、ドイツ語だったから。
『え、あなた、私の国の言葉が分かるの? ニッポンであまり通じなかったから、頑張って日本語で声をかけたのに! そもそも、私、ドイツ語を使うなんて一言も言っていないわ』
「さあ、どうしてでしょうね」
朱鷺には、水を得た魚の様に、生気が漲り始めた。彼もかなり齢を重ねているものの、古き時代の益荒男というよりは、飄々としていて、今時の日本の若者に上手く馴染んでいるように思える。
『ちなみに、アタシが同類と推測した根拠は、あなたのその装備よ。日光が苦手でそんな格好をしているのかと思ったから』
女が触れたことで、朱鷺はようやく、彼女もしっかりと服で肌を覆っていることに気付いた。
ただ、彼女の場合は、徹底的に日光を避ける目的のものだと一目で知れたので、若い娘さん特有のポリシーに起因するものだと勝手に判断していた。彼女は日光に肌を曝したくないのではなく、曝すことができないのだと、ようやく気付いた。
『忠告しておきますよ。苦手なものは、迂闊に人に明かすものではない。貴女を敵視しているものが、どこでどんな方法で聞き耳を立てているのか見通すのに、限界があるでしょう?』
『そ、それは……そうね』
穏やかながらもしっかりとした口調で述べる男に、少女はぐうの音も出なかった。
朱鷺は、彼女の出自を何となく把握した。西洋生まれで、日光が極端に苦手。他にも材料があれば確定するけれど、この二つだけでも、彼女が何者かをある程度絞るには十分だった。
『ここにおられる方々は、大抵年季の入っている妖なので、血の味には期待しないで下さいね』
『なっ……!!!』
どうやら図星のようだ。
川床の日陰が幾分和らげてくれているとはいえ、茹だるような猛暑の中だ。時間をおいたわらび餅からは、冷たさが損なわれ、小気味良い音を立てていた最中も、くしゅりと情けない音を立てる始末。
団三郎でさえ気を利かせてくれたのに、と、朱鷺は目前の赤毛の少女を怨みたくなった。
『話に興じてしまったからか、折角のわらび餅が台無しですね』
『わ、悪かったわ。ごめんなさい』
ちょっと空気が読めないながらも、指摘された事には申し訳なさを覚えたのか、少女は素直に謝罪の言葉を口にしていた。
そんな彼女を見ても、気が一向に晴れない朱鷺は、あることを思いついた。
『僕は、次に頼んだかき氷に期待しているので、残りは貴女が食べてください』
『え、でも……』
『お願いしますね』
少女の罪悪感につけこんで、朱鷺はおだやかながらもどこか強い口調で、少女に有無を言わせない。
『……わかったわ。つくもがみに、よろしくね』
食べ物に限らず、ものを大切にする精神を糧とする、『お仲間』の名を引き合いに出す少女。
彼女は一つ溜息をつくと、マスクをずらして口を露にした。やや青白い肌に、唇だけやけに赤くて目立つ。その毒々しい唇が、特製のわらび餅を含み、口の中へと吸い込まれていく。
『なっ……なによ、これっ!』
少女の全身が震えて、赤の濃い唇が歪む。
日本で過ごす日が浅くて、わさびの香りに気付けなかったのだろうか、甘味と信じて口にした少女は、思わぬ刺激に雫をぽろりと零す。
『わさびくらい、貴女も知っているかと思ったのですけどね。西洋わさびと同じ辛味成分が入っているそうですよ』
『あれは、肉料理の付け合せにするものであって、そういうものをお菓子に入れるものじゃないわ。辛いなんて、狂ってる!』
ぎゃんぎゃんと喚きたてる少女を尻目に、朱鷺の眉間がわずかながら寄った。それもほんの刹那のこと。
『そういう味わいを売りにしているのに、失礼だ。とにかく、他にもモノのいるところで、大声を出すのはやめて頂きたい。はしたないですよ、お嬢さん。きみは、手弱女という言葉を学んだほうがよろしいのでは』
攻勢に入り、涼しい顔をしている男の横で、ぎりりと唇を噛む少女。やけに発達した彼女の犬歯が、彼女の血色の悪そうな肌に食い込んでいる。
朱鷺という男は、なよなよしているように見えて、案外毒のある言動をするようだ。
「トキとやら。おぬしも随分と人の悪い」
この様子をしっかりと見ていた団三郎が、朱鷺にそっと耳打ちをする。
「おや。いたずらは貴方の流儀ではないのですか?」
「ワシがいたずらするのは、主に人の子相手だからのう」
団三郎は言葉ではたしなめている風でも、くつりくつりと、愉快そうな笑いを止めない。
悪戯のために人を化かす化け狸にとって、自らを対象としない軽微な悪戯は、他者によるものだとしても憩いになる。
川床の傍にあるのは、細いとはいえ、なかなかの高低差のある滝だ。水しぶきと水面への大きな衝突音を奏でて、視覚的、聴覚的に触れたモノを楽しませる。
妖たちが少々騒いだところで、自然の遮蔽物が、茶屋を、ヒトの世から切り離してくれる。
もっとも、茶屋の店主の異能さえあれば、ヒトから身を隠すのは非常に容易いけれど、敢えて自然任せにしている。うっかり紛れ込んでしまった人の子をもてなしたいという、店主のイイ趣味を体現するために。
そして、滝の反対側には、鬱蒼と生い茂る木の群れ。夏の燦燦と降り注ぐ光をうけて、大きな葉が深く色付いている。
ふと、朱鷺は少女から目を離し、森の方へと視線を向ける。
「月、日、星、ホイホイホイ」
唐突に朱鷺が口ずさんだ言葉を耳にして、少女はわけがわからないと言わんばかりに、口を僅かに曲げる。
からかわれたと思ったのか、憤怒の色が見え隠れする。
「三光鳥かね。暑い折にはたまに見るわい。……今は、姿が見えぬようだが」
朱鷺が口ずさんだのは、鳥の鳴き声の空耳。和名の由来にもなった、三つの光を放つ天体を並べたものだ。
この国での人との交わりにおいて、相当年季の入っている団三郎は、それとすぐに気付き、反応する。
「いえ、あちらにいますよ」
朱鷺が指したのは、緑深い木が生い茂る森。滝の音に負けないように、蝉がけたたましく鳴く木の群生に、団三郎の目は、目の周りを青く染める鳥の姿をとらえることが出来なかった。
「お主、相当な目の持ち主だのう」
「これでも、視えていないほうなのですけどね」
朱鷺は、苦笑いを浮かべながら、すっかり温くなった抹茶を干した。そのまま、注文した宇治抹茶のかき氷の到来を待っている。
多くの妖が集う、鄙びた茶屋における、日の光に侵されそうな日の一幕。
最後まで目を通して下さり、ありがとうございます。