母親
気がつくと俺はソファーに横たわっていた。
アリシアとアニメを見ている間に、俺はいつの間にか眠ってしまっていたようだ。
俺の体には記憶にないブランケットが掛けられていた。
……優奈が掛けてくれたのかな。
キッチンから人の気配がする。
リズミカルな包丁の音、それは生まれてから15年聞き続けた馴染みの深い音だった。
懐かしさが込み上げてきて、俺はソファーから立ち上がって振り返る。
――母さん
キッチンカウンター越しにその姿を確認する。
いつも俺たち兄妹を見守ってくれていた、自慢の母親。
「あら、起きたの幾人? ……体は大丈夫?」
何と声を掛けるのが良いか言葉が出てこなかった俺に、母さんは当たり前のように話しかけてくる。
「えっと、母さん……その……なんで……?」
俺が幾人だとわかったのだろう?
「優奈に聞いたの。最初は半信半疑だったけど、あなたの寝顔を見たらすぐに判ったわ」
「……全然共通点なさそうに思えるんだけど」
「そんなことないわよ。小さい頃は幾人だって可愛かったんだから。私は産まれてからずっとあなたのことを見てきたのよ?」
「そうなんだ……」
ともあれ、母さんと信じてもらうためのやり取りをしないで良いのは正直助かった。
手間や時間以外にも、家族に他人を見るような視線で見られるのはかなりしんどい。
「おかえりなさい、幾人……帰ってきてくれてありがとう」
母さんはそう言って目元を手で拭う。
「ただいま、母さん」
「今日は幾人の好きなハンバーグ作るから。楽しみにしててね」
それは朗報だ、素直に嬉しい。
『イクトさん、わたしお母さまに挨拶してもいいですか?』
「えっと、アリシアが、母さんに挨拶したいんだって……いい?」
「わかったわ。……私は幾人の母の優希子です。アリシアちゃんのことは優奈から聞いてるわ……うちの息子を連れて帰ってくれて本当にありがとう」
「お母さま初めまして、わたしはアリシアと申します。イクトさんには大変お世話になりました。わたし達の世界を救ってもらったことで、お母さまには大変ご迷惑をお掛けしました……申し訳ありません」
頭の中に聞こえてくるアリシアの言葉をトレースして母さんに伝える。
背筋を伸ばして、アリシアの動作を思い出しながら。最後にお詫びと共に頭を下げる。
「アリシアさん、頭を上げて下ください。幾人が溺れ死ぬところを救っていただいたと聞いています。こうして息子が無事帰ってこられたのはあなたのお陰です。本当に、ありがとう」
母さんはアリシアに深々と頭を下げた。
「それにしても、優奈の言う通りアリシアちゃんって凄くかわいくて良い娘ね……息子がお嫁さんを連れてくるってこんな感じなのかしら」
『ふぇっ!?』
「突然何を言い出すんだよ……」
「だって、アリシアちゃんは今は幾人でもあるんでしょ? だったら、娘のようなものじゃない」
母さんはキッチンから出て俺に近づいてくる。そして、そのまま俺を抱きしめた。
アリシアになった俺は母さんより頭一つ分身長が低くて、抱きしめられると胸元に包み込まれてしまう。母さんにこんな風に抱きしめられたのは小学生の頃以来だ。
「お母さま……ありがとう……」
頭の中で聞こえてきたアリシアの言葉をそのまま母さんに伝えた。
ありがとうに俺の気持ちも加えながら。
※ ※ ※
「「「いただきます」」」
家族の声がリビングに響いた。
それぞれの食卓には、ご飯が盛られた茶碗、味噌汁の入った椀、それからハンバーグに野菜のサラダがのった丸皿が置かれている。
それは、異世界で夢にまで見た我が家のご飯だった。
まずはハンバーグを箸でひとかけら、口に放る。
『はぅ……美味しいです……』
次にご飯をひと口、箸で口に運ぶ。
『これが幾人さんの話していたお米なんですね……ほんのり甘くておいしいですね』
続けて汁椀を持って味噌汁を啜る。
『このスープは独特の風味が特徴的……でも、とても優しい味です』
俺は無言で味わっていた。
かつては日常的に口にしていた味。ありふれたメニュー。
去年までの俺は、母親にご飯を作ってもらえることを当たり前と考えていた。
だけど、それがどれだけありがたいことだったのか、俺は異世界で嫌と言うほど実感させられた。
『これは……ご飯と一緒に味わうとどれもさらに美味しいですっ!?』
苦しい旅の途中、硬い干し肉を噛んで飢えを凌ぎながら、いつかもう一度我が家のご飯を食べるんだってそう思って日々を乗り越えてきたんだ。
『サラダもかかってる酸っぱいソースが食べやすくて美味しいですね!』
だから、俺は再び味わうことのできたこの食事を、噛み締めながらいただいていた。
『はぅ……どれも美味しい……しあわせです……』
茶碗に残った最後の一粒を口の中に入れ、俺は静かに箸を置いた。
両手を合わせて、俺の食事の様子を気に掛けてくれている母さんにまっすぐ向き直った。
「ごちそうさまでした……母さん、すごく美味しかったよ」
それは、俺が産まれ育った16年の中で、一番心を込めて言ったごちそうさまだった。