神代翡翠(温泉旅館)
商店街を通り過ぎて旅館やホテルが集中してる区画をしばらく歩いていくと、翡翠の親戚がやっている温泉旅館に到着した。
「さすがにそろそろ手を離して貰ってもいい?」
手を繋いだままで、翡翠の親戚に挨拶はしたくない。
「……名残惜しいけど、仕方ないわね」
翡翠は俺の手を離す。
俺達は趣のある温泉旅館の入口の自動ドアをくぐった。
「いらっしゃいませ……あらー、翡翠ちゃんじゃないの! お久しぶりー」
ロビーで俺達を迎えてくれたのはこの旅館の女将、翡翠の親戚の叔母さんだった。翡翠の亡くなった母親の妹さんで、翡翠が歳をとったらこんな風になるんだろうと思わせる和服美人だ。
「お久しぶりです、叔母さん」
「しばらく見ないうちに随分と女らしくなって、姉さんの若い頃にそっくりよ。翡翠ちゃんがこんなに大きくなるなんて、私も歳を取るわけだわ」
「そんなことないですよ、叔母さんは相変わらずとっても綺麗で憧れます」
「あらあら、こんなおばちゃんをおだてても何も出てこないわよ。ところで、そちらがお連れさん?」
「はじめまして、私は如月アリスと申します。よろしくお願いします」
「アリスは学校の友達で帰国子女なんです」
「随分と日本語が上手なこと。それにしても安心したわ。翡翠ちゃんが二人でうちに泊まりたいって相談があったものだから、てっきり男の子と二人で来るのかと思って心配してたの」
「そんなことしませんよぉ」
「この前来たときに一緒にいた男の子、翡翠ちゃんはてっきりあの子のことが好きなんだと思ってたんだけど、勘違いだったかしら?」
……勘違いじゃないてす。
「そうだったんですけど……ついこの前に振られちゃいました」
翡翠はそうペロッと舌を出して言う。
「あら、ごめんなさい。今日は傷心旅行だったのね……全くこんないい娘振るなんて見る目の無い男ねぇ」
「本当ですよね。ねぇ、アリスもそう思うでしょ?」
「……ええと、うん、そうね……」
振った当人である俺に同意を求めないで頂きたい。
……気まずいにも程がある。
「翡翠ちゃんの為に特別いい部屋を用意してあるから、今日はゆっくり癒やしていくといいわ。料理も頑張っちゃうから」
「秋のいい時期に無理を利いていただいてありがとうございます。これ、父からです」
翡翠は手土産を女将さんに渡す。
「ご丁寧にありがとう……それじゃあ、お部屋に案内するわね」
女将さんに連れられて旅館の廊下を歩く。案内された部屋に入った途端、俺は感嘆の言葉を漏らす。
「うわぁ……」
入ってすぐの所で履物を脱いで障子を開けると、正面に中庭が一望できる八畳間の和室がある。中庭には本格的な岩造りの露天風呂が中央に備え付けられていて、並々とお湯を溢れさせている。
思わず目を奪われる光景だった。
『……すごいです』
「うちの旅館の自慢の部屋よ。ここまで立派な内風呂はこの界隈でもなかなか無いわよ」
「素敵! 叔母さんありがとう!」
部屋を見た翡翠は彼女にしては珍しいくらいにテンションが高い。無理もない、かくいう俺自身もここまでの部屋だとは思っていなかった。前回泊まったときは雑魚寝の四人部屋で、お風呂は共同の大浴場を使った記憶がある。
「気に入って貰えたようでよかったわ……ご飯は七時に持って来ますから、それまでゆっくりくつろいでいって下さいね。それでは失礼します」
女将さんは綺麗な動作で流れるように一礼して退室する。慌てて俺達も姿勢を正して礼を返す。
跪いた女将さんが内扉の襖戸を閉めた。それから、少しの間があって、部屋の入口の鉄のドアが閉まる音がした。
俺は荷物を下ろして、和室の中央のテーブルの周囲に置かれた座布団に座る。眼前には湯気をたてた内風呂が広がっていた。
「それにしても、本当にすごいね」
『綺麗ですね……自然との調和を考えて作られた配置、ここから見るとまるで絵画のようです』
背後に見える山々は紅葉に染まっていて、ここが山の中に作られた観光地だと実感させられる。
「それじゃあ早速露天風呂にしましょうか。アリスが先でいいわよ」
「翡翠、ありがとう!」
俺はバッグからお風呂道具一式を取り出して脱衣所に向かった。普段よりも急いで服を脱いで脱衣籠に服を放り込んむと、髪をバスタオルで巻いてから浴場に向かう。
脱衣所から続いている洗い場で、まずは簡単に体だけ洗ってしまう。どうせ何回かお風呂に入る事になると思うので他は後回しだ。
洗い終わったら待望の温泉に向かった。何も身に着けていない肌にひんやりと冷たい秋の風が吹きつけてくる。俺は体をふるわせると、天然の岩で作られた浴槽に足をそろりと差し入れた。
温泉のお湯は少し熱めでピリピリする。しばらくすると温度に慣れてきたので、俺は少しづつ体をお湯に沈めていった。
全身をお湯につかった俺は、お湯の中で段になっている岩肌に腰掛ける。
そのまま浴槽の縁の岩を枕にして頭を預け、手足を伸ばして体をお湯の中で弛緩させた。
「ふぃぃ、極楽だあぁ……」
『これは……なかなか気持ちの良いものですねぇ』
上を向いた俺の眼前に広がるのは青空で、俺は心の底から開放感を感じていた。
耳に入る音は温泉に注がれるお湯の音と風で葉がそよぐ音くらいでとても静かだ。先程までの商店街の喧騒とのギャップに、騙されているような非現実的な気分になる。
「湯加減はどうかしら?」
脱衣所のドアが開く音がして翡翠の声がした。
様子でも見に来てくれたのかな?
そう思って視線を入口の方に向けて……俺は慌てて視線を逸らした。
「翡翠!? なんで何も着てないのさ!」
ちらりと見た翡翠は全裸で、暴力的な肌色が一瞬視界に入り脳内に焼き付いて離れない。
「私も温泉に入るからに決まってるじゃない」
さも当然のように翡翠は言う。
「でも、さっき、私が先に入っていいって言ったよね!?」
洗い場でお湯を出す音がする。体を洗っているようだ。
「うん、だから私は後から入って来たわよ」
どうやら、翡翠は最初っから一緒に入るつもりだったようだ。
「ダメだよ……だって、私と翡翠なんだよ?」
「昔は一緒にお風呂入ってたじゃない」
そんなの年齢が一桁の頃の話じゃないか……
「それに、今は女同士でしょ? 私は見られても気にならないわ」
「そこまで言うなら、いいけど……」
プールのときも肌は見たけど全裸を見ることはなかった。だから、性を意識するようになって以来、家族以外の女性の裸を見るのははじめてだった。
しかも、相手は幼い頃から知っている翡翠で。
……まだ温泉に入って間もないというのに、のぼせてしまいそうだった。




