9月
9月のある日。俺が住む地域に台風が襲来していた。
お陰で学校は休み。合法的に引き篭もって、朝からだらだらと過ごしている。
トイレに行くついでに、リビングで紅茶を入れて部屋に戻る。
「ただいま――って、アリシア!? 何やってるの!?」
部屋に入った瞬間、驚いてお盆を取り落としそうになった。
この台風の中、アリシアがベランダに出ていたからだ。
銀色の長い髪が強風に煽られて、バサバサと激しくたなびいている。
アリシアは、こっちに気づいたらしく俺の方を見てニコニコ手を振ってきた。
違う、そうじゃない。
俺はお盆をテーブルに置いて、ベランダに繋がる掃き出し窓を開ける。
瞬間、ぶわっと強風が吹き込んできた。髪が靡いて引っ張られる。
雨除けの魔法を使い、ベランダに出て窓を閉める。
「イクトさん、台風ってすごいですね! こんなの初めてです!」
強風でかき消されないよう、常ではない張り上げた声を出すアリシア。
彼女は自然の猛威を前にテンションが上がっているようだった。
好奇心が旺盛な彼女は、時折こんな風になることがある。
「いろんな物が飛んで来るかもだから危ないよ? 部屋に戻ろう」
一時間くらい前から暴風域に入っている。
まだ昼間だというのに外は暗く、風雨が吹き荒れていた。
「……すみません、ついはしゃいでしまいました」
心配した俺の様子を見て我に戻ったらしく、アリシアは恥ずかしそうに頬を染める。かわいい。
不意に、アリシアが真剣な顔をした。
ベランダの外側に足を進める。
「何か聞こえませんでしたか? 子供が泣いてる声のような……」
「風の音じゃないかな?」
俺はアリシアを追ってベランダに並んだ。
真剣に遠くを真剣に見ている姿を同じ目線の高さで眺める。
二人共髪が大変なことになっていた。
水魔法で雨は防げても風は防げない。
耳を澄ませてみるーーが、酷い風の音に紛れてそれらしい音は聞こえない。けど、
「いえ、また聞こえました……女の子の泣き声、助けを求めてます!」
言うが早いか、アリシアは室内へと踵を返す。
俺は慌てて後を追った。
階段を駆け下りて、運動靴を履き、玄関から飛び出す。
魔法で身体能力を向上させたアリシアは、雨を掻き分けるようにして迷わず進む。
ステップを踏む度、全面水たまりとなった道路に、岩を叩きつけたような波紋が広がった。
長い髪を見失わないように、俺も魔法を使って追随する。
二分くらい走った頃、俺の耳にも泣き声が聞こえてきた。
そして、その声の主の姿も直ぐに見つかった。
小学生低学年くらいの女の子が、一人で道端に立ち尽くして泣いていた。
「……どうしたの?」
先に辿り着いたアリシアが、しゃがんで女の子に声を掛ける。
「うええ……お兄ちゃんがぁ……」
「どうしたの? 迷子になっちゃった?」
「お兄ちゃんが消えちゃったの」
そう言って少女は、道の端を指で刺す。
「消えた……?」
一見そこには何もないように見える。
このあたりは少し土地が低いようで、道路全体が冠水して川のようになっていた。
水位は足首のあたりまで来ている。
そして、思い出す。
「ここには、側溝があったはず!?」
道に沿って流れている、大人の腰くらいしかない小さな川。
だけど、増水している今、境界は定かではない。
もし、子供が足を滑らせてしまっていたとしたら……
「イクトさん!」
動揺したのだろう。
アリシアは二人きりのときにしか呼ばない筈の名前で俺を呼ぶ。
「ああ!」
俺は迷わず川に飛び込んだ。
「っと!?」
思ったよりも深かった。水の高さは胸のあたりまである。
押し寄せてくる水の量はかなりのものだ。
魔法で水流を抑えていなければ、俺も押し流されて溺れていただろう。
魔力を水中に流し込んで人の気配を探る。
近くには見つからない。
「流されたか……?」
慎重に探りながら下流に足を進める。
と、20メートル程先の水中に人の気配を見つけた。
「……やばいな」
あの辺りは道路の下に入り込んだ暗渠になっている筈だ。
少年は流されて、嵌まり込んでしまったのだろう。
普通に考えたなら助け出すのは絶望的な状況である。
「けど、俺ならーー」
小柄な今の体躯なら、側溝の中に入りこむこともできるはず。
俺は川に身を投げた。
一瞬、アリシアの悲鳴のような叫び声が聞こえた気がした。
視界が暗い泥水に包まれる。
両手両足を伸ばして、水流を若干制御しつつ身を任せた。川を高速で下っていく。
視界は全く効かないが、魔力を浸透させて周囲の状況を把握できた。
目の前に暗渠が迫っている。
大人なら引っかかって動けなくなるだろう狭い空間に、俺の体はスルリと潜り込んでいった。
視界が完全な暗闇に包まれる。
俺が異世界転移する切っ掛けとなった夜の海の記憶が脳裏に過る。死の気配に一瞬体が強ばった。
目を閉じて首を振り、恐怖を振り払う。
濁流で満ちた暗渠の奥、引っかかっている少年の気配の場所に到達する。
身体能力向上を使って腕を掴んだ。
『よしっ!』
後は戻るだけだ……どうやって戻ろう。
体を入れ替えて泳ぐのが一番だけど、この狭い空間では体を入れ替えることも、できそうにない。ならば――
『うおおおおお!』
水の流れを止めて、俺の周辺の流れを無理矢理反転させた。ゆっくりと足から後ろに向けて体が動き出す。
けど、途中で動かなくなってしまった。少年が何かに引っかかっているようだ。
引っ張っても動かない。
魔力で少年の周囲を観察すると、上着が何かに引っかかっているようだった。
『水刃!』
水の一部を超高圧にして、慎重に上着の引っかかっている部分を切り裂く。
無事、引っ掛かりは解消して、少年を動かせるようになった。
狭い暗渠を二人で逆流していく。
『兄が、妹を泣かせてるんじゃねぇよ!』
死なせるものか!
両手で掴んだ少年は既に気を失っているらしく抵抗はない。
救命処置を至急施さなければ手遅れになるだろう。
一刻を争う事態だ。
だが、水流操作を駆使してもじりじりとしか進まない。
さらに、押し寄せる水量はすごい勢いで増えていて、逆流するために必要な魔力量も併せて大きくなっている。
『やばっ、このまじゃ、魔力が……』
少年を諦めて、俺一人ならなんとかなる。
魔力さえ残っていれば俺は水中に一日でも留まり続けることが可能だった。
だけど……
『諦められっかってーの!!』
暗渠から出るまであと半分を切っている。
ここから出ることが出きれば、後は立ち上がって、引っ張り上げるだけだ。
魔力を振り絞り、水流操作の出力を上げる。
『いっけぇぇぇぇ!!!』
ぐいっと引っ張られる感触。
足が暗渠から出た。
後少しーー
『あっ……ダメだ……!?』
――魔力切れ
水流の勢いが落ちる。
魔法によって無理矢理反転していた水流は、本来の流れに戻り始めた。
こんなところで、俺は……
暗渠の奥の闇が、俺たちを吸い込もうと口を開いている。
『イクトさん!』
そのとき、脳内に声が響いた。直後、俺の足がガッシリと掴まれる。
俺が少年を離さなければーー
グイッと力強く引かれて、暗渠の中から引き摺り出される。
そのまま、引き上げられて、水中から顔が出た。
「アリス、大丈夫ですか!?」
道路に引き上げられた俺を心配そうに見下ろすアリシア。
「助かったよ、アリシア――俺は大丈夫。それより、この子を」
「はいっ!」
引き上げた少年をアリシアに託す。
「お兄ちゃん!」
女の子が少年に駆け寄った。
「……心肺停止、水も大量に飲んでしまっていますね」
俺は道路に座り込む。
魔力を使い切って消耗してしまっていた。
後はアリシアに任せておけば大丈夫だ。
人体の殆どは水でできている。
故に水魔法の使い手の最高位である水の巫女アリシアは異世界では最高峰の魔法医療の専門家だった。
さらに、趣味で医学書も読み込んで現代医学の知識も補強されている。
アリシアが対処してダメだったら、他の誰でもダメだろう。
「心肺蘇生、開始します」
アリシアは少年の胸に手を当てて魔力を注いでいく。
魔力で直接心臓に働きかけている……のだと思う。
「ごひゅっ! ごぼっ! ごびゅ!?」
少年が咳き込んで口から水がこぼれた。
「体内に入り込んだ水を吸い出し、残った汚れを浄化します」
アリシアが少年の口に手をかざす。
「げほっ! がぼっ! ぐひゅ!?」
「お兄ちゃん!?」
口の中からスライム状になった水の塊がどろりと次々に溢れ出てくる。
しばらくそれが続いて、徐々に出てくる水の量が少なくなっていく。
初めは酷く苦しそうにしていた少年だったが、やがて水が出てこなくなると、段々と呼吸が落ち着いてきた。
「……これで、取り敢えずは大丈夫だと思います」
ふぅ……と大きく息を吐くアリシア。
「後は、専門の方に――」
遠くから救急車と消防車のサイレンが聞こえてきた。
どうやら、俺が側溝に潜っている間にアリシアが携帯で呼んでおいてくれていたらしい。
救急車が到着して、降りてきた人にアリシアは状況を説明する。
少年は担架で運ばれて、女の子と一緒に救急車で連れて行かれた。
座り込んでいた俺も大丈夫かと訪ねられたが、体に支障は無かったので平気だと伝える。
救急車が去ったのを見届けて、俺たちは帰宅の途に着いた。
「二人とも、台風の中どこに行ってたのよ!?」
玄関には仁王立ちになった優奈が待っていて、怒られてしまった。
アリシアと二人で、ただひたすら謝る。
「本当に、心配したんだから……」
泣き崩れる優奈に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
……いや、本当ふがいない兄貴でゴメン。
それから、俺とアリシアはお風呂に直行した。
途中から水除けの魔法どころじゃなかったので、すっかりずぶ濡れになってしまっていたからだ。
お湯は優奈が沸かしてくれていた。
浄化を使ってさっとお湯で体を流したら、湯船に浸かる。
すっかり体が冷え込んでいた。
いつもはアリシアと向かい合って入ることが多いけれど、今日はアリシアの希望で、アリシアが俺を後ろ抱きする体勢で入ることになった。
「ふぃぃ……」
程よい温度のお湯に浸かって、思わず声が漏れる。体を預けているアリシアと触れ合っている肌の柔らかさが心地良い。
体の熱を分け合って、お互いを癒やし合っているような感覚。
「大丈夫だったかな……?」
「幸い溺れてからそれほど時間は経ってなかったようなので、回復すると思いますよ」
「そっか……良かった」
安心する。
「良くないです」
後ろから思わぬ非難の声がして背中を仰ぎ見た。アリシアが頬を膨らませている。かわいい。
「あんな無茶をして……本当に心配だったんですから」
「……ごめん」
水に関することならなんとかなる、そんな風に楽観的に考えていたのは事実だ。
けれど、自然の猛威の前では、人の力でできることなんて微々たるものでしかないと思い知らされた。
魔法が有ってもそれは変わらない。
それでも、アリシアと二人なら。今回みたいにどんな困難でも乗り越えられると思った。
「……あんまり、反省してませんね?」
「そんなこと……ないよ?」
じとーとアリシアに見られて、俺は慌てて目を逸らす。
「ふぁ!?」
不意にアリシアの手が腕の下に入り込んできて、両脇をこしょこしょと擽られた。
「ちょ!? ……何を、アリシア!?」
「反省しない子にはお仕置きです」
そして、そのまま――
願わくば、吹き荒れる外の暴風が、浴室の喧騒を掻き消してくれていますように。




