鳶と秋空
「ふぁああああああああああああああああ!」
「うるさいよ啓悟……」
「ごめん。あ、いや……やべっ……」
「それ、見せてよ」
僕史上18回目の冬の終わりかけ。来週にも春一番が吹くかとテレビの天気予報で言っていた。
引越しの荷造りの最中に本棚から零れ落ちた薄っぺらい手帳に意識を根こそぎ吸い寄せられた。
思わず奇声を上げる程度には黒歴史の詰まったその手帳を急いで拾い上げる。
開くまでもなく、中身は知り尽くしていて、手を差し出す彼女においそれと受け渡すわけにはいかなかった。
「これはダメ。恥ずかしい」
「えー?手帳に恥ずかしいことなんて書いてないでしょ」
「あるの。恋する若かりし日の僕がそこにあるの」
「去年のか」
「やめてって」
「じゃ、見せてもいいくらいに月日が過ぎてからにしよう」
「30近くの僕が赤面してのたうちまわるビジョンが浮かぶよ」
「その隣には私がいるんだよね?」
「居てもらわないと困っちゃうよ」
「そっか。ふふっ」
ここに記されたのは、一人の男が恋に落ちた話。
何の変哲もない、どこにでもある、ありふれたお話。
と、手帳の最後のページからするりと写真が落ちる。
「これは……?」
拾い上げた彼女は頭に疑問符を浮かべる。
「それは、僕らの始まり」
そこに何が写っているのかも、見るまでもなく、目に浮かぶ。
赤から青へ、鮮やかにグラデーションになった、雲も電線もない純粋で美しい空。
写真に導かれるように、あの日を思い出す。
何と言うか。
心は此処にあらず。ポカーンと口をあけたまま空を見上げていた。抜けるような快晴とはこのことを言うのだろうか。
組み上がった足場に腰掛けたまま、そんな事をぼんやりと思い浮かべるけど、それも泡沫のように消える。
と、先輩が声を掛けてくる。その時の僕の頭には全く届いていなかったけれど。
「おーう、啓悟。休憩そろそろ終わりだぞー」
「…………」
「どしたー?昼飯でも食いすぎたか」
「……こい」
「来い?啓悟ちゃんよぉ。俺が先輩っぽくないとは言え、流石にそれはないじゃなーいのー?」
「……これが……恋……マジで?」
「あ、これあれだ!知ってるぞ!来いと恋を間違えたやつだ!リアルにあるなんてやべぇ!……ん?」
「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!うあ?」
「うおっ!馬鹿!」
叫び声を上げて頭を抱えてシェイク。
それだけの動作でも、不安定な足場ではどうなるかなど小学生でも分かりそうなものだが、その時の僕の頭は違うことでいっぱいだった。
キャパシティオーバーどころか、そもそも役割が違う。恋なんて僕の担当じゃないと思っていたんだから。
色恋をこの歳まで避けてきたこの僕が、今更恋だなんて、都合が良すぎるだろう。
そんなこんなで冷静な対応など出来るわけなかった。
もちろん、身体はバランスを失い、重力に引かれる。視界は上下反転。やばい、と思った時には間に合うはずもない。
大地が降ってきて、空は落ちていく。あぁ神様、僕の人生はたったの17年で終わるのですかそうですか。ま、それならそれで。
しかし、大地ではない温度のあるものに受け止められて僕の人生は強制終了を逃れた。僕にしつこく絡んできた先輩ではない。
作業場に入る少ない若人をまとめ、仕事を仕切る自身もまだ若い親方である。
「おい、啓悟。恋に落ちるのは構わないけどな、足場からは落ちんな」
「あ、あはははっ……すみませんです」
「照れた顔、姉ちゃんそっくりだな……」
親方こと母さんの弟、つまりは僕の叔父さんは寂しげにそう呟いた。その意味がわかるからこそ、ちょっと軽率な行動だったな、と後悔。
僕の母さんは病気で亡くなった。 忘れもしない中三の十月。持病があって、病院通いの欠かせない人だった。
元々物心付いた時には父親と呼べる人間は居らず、代わりに叔父さん夫婦がよくしてくれた。母さんと二人だった時も……その後も。
「……ごめんなさい」
「気にすんな。俺もお前も無事だったし、問題ねぇよ。次から気ぃつけろよ」
「押忍。すみませんでした」
「よし。じゃあ、午後の作業にかかれ」
「押忍!!」
叔父さんとは、幼い時に空手を習っていた関係で、気合いを入れて返事をするとどうしてもこうなる。
「あ、その前に飯食ってなかったっす」
「……啓悟、今日は許すけど、明日もそれだったらシバくからな」
「大丈夫です。寝たら忘れますきっと」
そんな風に、軽く思っていた。
頭にはもやがかかって、考えが浮かんでは霧散していた。
それでも体の方は勝手に動くものらしく、仕事も問題なくこなしていたし、風呂入った時には少しは頭のもやも消えかけていた。
日課としている手帳に記した三行もない日記。ふと思い出して、その隅に『恋?』と小さく書いた。
まさか。それだけで。それくらいで。
『ありがとうございました』『……どうも』
仕事に決まっている。営業スマイルだろ。
『この前、助けてくれた……』『た、たまたまですよ』
この娘だったか?いやいや、そんな偶然。
『是非、お礼を……』『あ、いや。しっ、仕事があるんで』
あんな……あんな笑顔向けられて。
僕は……僕はっ!
「うああああああああああああああああ」
「何事だ!大丈夫か!」
翌朝。目覚めたばかりのベッドの上。頭を抱えていた。
叫び声を聞きつけた叔父さんは僕の様子を見るなり、表情を焦りから怒りへと変える。
「頭に焼き付いて離れないようわああああああああああああああああ」
「朝っぱらからうっせーぞ啓悟!」
「すみませええええええええええええええええん」
「うっせぇ!」
すぱーん!と僕の頭から快音が響く。
叔父さんに床に投げてあった雑誌で叩かれて我に返る。
「昨日言っただろ。明日はちゃんとしろって」
「すみません……」
「はぁ……まぁそんなことだろうと思ったよ。姉ちゃんも似たようなことがあったよ」
叔父さんは母さんと仲が良かったらしく、母さんにそっくりな僕のことは大抵予測出来る、と言っている。
「今日はな、ゆっくり休め」
「えっ?でも、一昨日現場入ったばっかりだし、僕まだ全然動けます」
「どこの誰に恋しちゃっても、俺がどうこう言うことじゃないけどさ。解決出来るならしてこい」
「当たって砕け散れ、と」
「それでもいい。今のお前じゃ危なっかしくて現場にいれらんねーよ」
僕的には全然よくないんですが。というか、砕け散ったら更に腑抜けてしまいそうですけど。
「とにかく、今日一日、猶予をやるから何とかしてこい」
「押忍」
そうとなれば、朝御飯を食べなくては。腹が減っては戦が出来ぬ。
尋常ではない空腹感に首を傾げてみたが、何のことはない。
一晩寝て頭がはっきりした僕が辿った昨日の記憶には、夕食を食べた記憶がなかった。
無意識に体を動かしていたから、それなりに疲労していたんだろう。
とは言っても腑に落ちない。風呂入った時に気がつきそうなものだし。
もやは消えかけたと思っただけってことか。
と、仕事に出ようとした叔父さんが振り向き一言。
「あ、一つだけいいか」
「なんすか」
「どこの誰だ」
「どうこう言うんじゃないですか」
「……すまん」
「終わったら教えてあげますよ」
「んなとこまで姉ちゃんそっくりだな……」
そんなわけで、昨日色々あった(あくまで僕の内面だけだけど)コンビニに来た。
隣町だったけど、チャリではなく歩いて向かってみた。普段は叔父さんの軽トラだから、ひさしぶりに歩いた。
気候的には涼しくなってきていたのもあったけど、考え事をするのに、自転車は危ないと思ったから。
薄手のパーカーにジーパンで歩いても汗もかかない、すがすがしい秋の日だった。
色々言葉を捜すけど、学業から1年半離れた罰か、ひとつとしていい言葉が見当たらない。
外からチラッとのぞき見るが、レジにはパートのおばちゃんと店長らしきやる気のなさそうな20半ばの男性。
駐車場もない住宅街のコンビニにそう多くの店員はいない。いない可能性のが高そうだ。
「シフト制だよねそりゃ。馬鹿か僕は」
独りごちるも返事はなし。てかあったら怖い。
コンビニの前をうろついていたため、背中に近所のおば様方の視線がこっちに集まり始めたので仕方もなくコンビニに入る。
手に持つはホットココアとチュッパチャップス。僕は甘党です。
レジで再び店内を見渡すも気配はない。そもそも30分も歩いててそんなことにも気がつかないとか。
駐車場に出て、缶のプルトップを上げる。開くときのカシュッという音は割と好き。
歩いている30分の間、何か話せるようにとイメージトレーニングなんてしたせいで、どうでもいい思考がよぎる。
「ココアなんてよく飲めるねー啓悟ちゃん」
ぼーっとココア片手に佇んでいると、作業服姿の先輩と遭遇した。先輩は甘い物ダメな人なんだっけ。
「先輩。休憩っすか」
「おう、買出し。お前がいないから久々だぜ」
すっかり休んでいる自覚がなかった。先輩は嫌な顔せず、むしろにやにやしているけど。
「すみません、休んじゃって」
「朝聞いた時は、何言ってんだふざけんなって思った」
「ホントスミマセン……」
「でも、今のお前見たらわかるわ」
隣で煙草に火をつけた先輩はくくくっと喉の奥から楽しそうな笑い声をあげる。
僕もココアを飲み終わったので、そのまま並ぶようにチュッパチャップスを口に含む。
「お前、ココアの後にそれってどうなん?」
「普通に美味いっすよ」
「棒付きキャンディー似合うな」
「それ、叔父さんにも言われました。だって煙草吸えませんし」
「よく言うわ。ま、でもそりゃそーだな」
ふーっと、紫煙をくゆらせる先輩は現場での姿に比べて大人っぽい。
四つ年上の先輩から見ても僕には違和感があるんだろうか。
「見たらわかりますか?」
「わかるよ。お前、その子のこと以外頭にありませんって顔してるぜ」
「どんな顔ですか……」
顔に書いてあるんだろうか。「只今恋愛(一方通行)中」とか。
「ま、実際顔っていうよりか、オーラ?ピンク色に包まれてて、テレビ出てた何とかさんじゃないけど、俺でも見える」
「そこまで……」
「だがな、恋なんてのはそんなもんだ」
煙草の火を消しながら、先輩はにやっと笑う。
「おにーさんが人生の先輩として教えてやろう」
「なんすかおにーさん」
「恋には盲目であれ!」
「おおーっ」
先輩からも、俺いいこと言ったでしょオーラが見える。
しかし、きっとそうなんだろう。無理に自分の位置なんて確かめなくていいのかもしれない。
と、先輩からやべぇオーラが立ち上る。つーかあんな顔されたら誰でも何かあったのかって思う。
「やべぇ。休憩終わっちまう」
「あ、本当だ、急いだほうが」
そんな僕の圧倒的他人事感の漂う気の抜けた返答にも反応せず、店内に駆け込む先輩。
と、二分ほどで大量の飲み物と数種類の煙草の入ったレジ袋を提げて戻ってきた。
「じゃ、これ俺からの餞別。見つかんねーなら店員に聞くなりして、絶対あきらめんなよ!」
手渡されたチュッパチャップス。さわやかに手を振り、颯爽と去っていった。
仕方がない。あきらめようかと思ったけれど、これでは先輩と明日から顔見せできない。
店員さんに聞いてみるか。そう思い半分以上小さくなったチュッパチャップスを噛み砕き、飲み込む。
先輩からもらったほうをパーカーのポケットにしまい、左胸を二回、右手のこぶしで軽く叩く。
昔から大事な場面で、無意識に気合を入れるときにこういう癖があった。
よし、と意気込んで踏み出したタイミングで後ろから肩を叩かれた。
「あー、やっぱり昨日の!」
「ぼっふぁあ!」
気合、暴発。
声でわかってはいたけど、振り向いて改めて認識。
モカ系の濃い茶髪は肩にかからないくらいのストレート。ボブ?だったっけ?
淡い色のカーディガンに黒のチノパン。僕の肩くらいに頭が来る。推定150ちょっと。少し華奢な肩と白い頬。
てかコンビニの制服では分からなかったけど、年上……?
「ど、どうも」
「今日はお仕事じゃないんですね」
微笑む彼女に見蕩れて3秒たっぷり静止。睫毛なげぇ。
「……大丈夫ですか?」
「あ……はい。大丈夫っす。仕事じゃない、です」
「さっきの人は?」
「あ、同僚っす。先輩です」
「優しそうな先輩ですね」
「はい。少し単純なところも素敵ないい人なんです」
「ふふふっ」
僕の軽口にこらえきれなかったのか笑う彼女。
その笑顔を見ただけで、頭が真っ白になり、固まってしまう。
それを見た彼女は焦ったような顔をする。
「あ、ごめんなさい。笑うつもりはなかったんですけど」
「いや、見蕩れてしまっ……て……」
ぽろりと口からこぼれ落ちた本音。
な、何言ってるんだ俺。落ち着こう。うん。
「あはは。冗談」
「わ、割と本気っす」
ものすごい勢いで顔に熱が集まる。うわわわ。
と、彼女の方も顔を赤らめたかと思うと恥ずかしそうに言った。
「お、お話したいことがあるんですが、ここに用があるので……」
「あ、今日はずっと予定もないので、待ってます」
「ほ、本当ですか!でもここで待っててもらうのはちょっと……」
「じゃあ、駅前のマックで待ってます。ちょうどお昼時ですし」
叔父さんからのアドバイス。ご飯に誘え。
どうせお前は立ち話でかっこよく誘えやしないんだから、ゆっくり話せるように、と。
「いいですねぇ。あ、じゃあ連絡先だけ一応渡しておきます」
そう言うなり、ペンを取り出すとキョロキョロしだす。普通に戸惑ってる姿も可愛い。
「メモ出来るもの……持ってませんか?」
「あ、だったら読み上げてくれます?多分覚えられるんで、こっちから空電話します」
「え!あっ……分かりました……」
驚いたような反応を見せると、顔を赤くして小声で11桁の番号を読み上げる。それを素早く携帯電話に打ち込む。
そのまま発信。彼女の手元から着信音。
「ありがとうございます。で、では後ほど」
そういうとコンビニへ入っていく後ろ姿を……はっ!
「あ、あのっ……!」
「は、はいっ……!」
びくっと跳ねるような反応を見せて振り返る彼女に、僕は重大な忘れ物を告げる。
「あのー、名前……聞いてませんでしたね」
「あ……」
彼女ははっと思い出したような顔をして僕に向き直った。
「僕は篠木啓悟。天啓の啓、ですが悟るで啓悟です」
「秋野深空。深い空、でみそら」
「深空……さん。素敵な名前ですね」
「……初めて言われました。あ、もうこんな時間!じゃあ行きますね!また後ほど!」
ようやくコンビニの中に消えた彼女を見届け、僕も駅へ向かおうと歩き出す。
名前を登録する僕は間違いなくにやにやしていた。電話番号と名前を聞いてしまった、うおお!
……何やらご近所のおば様方の目線がとても微笑ましい雰囲気なのはこの際無視して置こうと思う。
ついでに、何故か駅前のマックまで走って行ったことも秘密にしておきたい。
「深空さん……かぁ……」
駅前のマックはまだ昼前なのもあり、そこそこ空いていた。禁煙席にてコーヒーを右手に、携帯を左手に。
電話帳の中に在る『秋野深空』の文字にやはりにやけが止まらない。
「あらら、篠木じゃん。久しぶり」
と、声を掛けてくる私服で長身の少年。
空気の読めないやつだ、と思い顔を見上げると、そこには割と付き合いの深い同級生の顔があった。いや、元同級生、か。
「……赤間か」
「何だよー。がっかり、みたいなのやめてよ」
「いや、もっと関係性のうっすーい奴なら追い払えるけど」
「ここ相席してもいいか?」
「隣空いてるじゃん!」
「えー?……もしかして待ち合わせなのか。それは悪いことをした。隣に座るよ」
僕の手元の携帯とホットコーヒーに目をやると、察したような顔をして隣のテーブルに斜め向かいになるように座る。
おおよそその細身からは考えられない量のハンバーガーを食べ始めるそいつにため息しか出ない。
相変わらず鋭いやつ。でも、去年会った時よか雰囲気が違う。
「それよりさ、仕事はどうよ。もう慣れた?」
「まぁな。叔父さんもサポートしてくれてるし。それより、お前学校は?」
「んー?サボった」
「サボったぁ?」
その返答は予想の斜め上をいかれて、思わず声が大きくなる。
昔は品行方正で誰もが認める善人だった彼に、一体何の変化があればこうなる?高校でなんかあったのか。
困っている人は放っておけなくて、頼まれたら断れなくて、でも嫌々やるわけでもない、人助けが大好きで。
トラブルに巻き込まれたって、赤の他人ですらわかるくらい傷つくことがあっても変わらなかったこいつが……。
僕が高校進学を断念した時もやたら駆け回って奨学金やらなんやら情報をかき集めてくれたっけ。
まるで僕以外から頼まれていたかのようだったな。私的な感情で走るやつじゃないから不思議だった。
「意外だねぇ。他人のために全力で生きていける男はどこへ行った」
「んー?海の彼方に流されてったんじゃない?」
「海?」
疑問符を頭上に浮かべた僕を一瞥すると、一瞬悩んだような顔をして、再び口を開いた。
「彼女に会いに行ってた。今帰りなんだ。朝帰りだから」
「そっか、お前、今度はどこのお姉さんに手を出したんだ」
「中三」
「ぶっ!」
思わずコーヒーを吹き出す寸前だった。中学生?どうなってしまったんだこいつ。
「可愛いよ?頭もいいし」
「……さーて、110番110番っと」
「待て待て、大丈夫だ、不純なことはしてない」
「お前、自由さに拍車がかかったな。リミッターぶっ壊しちゃったか」
「褒めんなよ」
「褒めてねぇ」
こいつもこいつで、色々やってるんだろう。中学の時なんて、もう昔の話なのかもなぁ。
「……だって、夜中に電話越しに泣かれて、会いたいって言われたら行くでしょ?」
少し頬を赤らめつつも、それが当然のような顔でそんなことを宣うこいつを見てて、恋ってすげぇなって思いました、まる。
ぽそっと、「危うく襲うところだった……」とか犯罪臭がにわかに漂っていたけどスルー。
ころころと百面相のように表情を変えていた赤間の顔がふとニュートラルに戻る。これはまずい。
「ところで、深空って誰?彼女?」
「その不意打ちは変わらねぇな……これから会う人。今好きな人」
「中学ではそのハイスペックに擦り寄る女子を百人斬り状態だった篠木に好きな人、かぁ」
「やめろその雛鳥を見守る顔」
にやにやとこちらを見つめていた赤間は何かを思いついたような顔をしたかと思うと、突然立ち上がった。
「そうか、みそらさん……」
「今度はなんだよ」
「荷物見ててくれ。五分で戻る」
そう言うと颯爽と出て行った。相変わらずフットワークの軽さは健在のようで安心。
それにしても、朝帰りでこの時間ってどういうことだ。携帯の時計では11時半なんだが。
ハイスペック、か。昔の話だなそれも。
思わぬ友人との接触に、少しだけ心が落ち着く。
と、そこへ着信あり。表示は秋月深空。
危うく携帯をぶん投げそうになりつつも、抑えて電話に出る。
「もしもし?」
『あ、篠木さんですか?これからそちらへ向かいます』
「あ、はい!禁煙席の端の席にいますんで」
『分かりましたー』
通話だけでこんなにドキドキしてたら、直接会った時どうすりゃいいんだよ、僕。
そこへタイミング良く戻ってきた赤間の手には、一枚の紙切れ。そのままそれを僕に差し出してくる。どうやら写真みたいだが……
「なんだよこれ……」
「今日の朝、彼女と撮った写真。綺麗だろ」
「相変わらず器用だな、お前」
「まぁな。お守り代わりかな。みそらさんに仲良くしてもらえるように」
こいつ、なんでこう……普通なら恥ずかしくって出来ないことをさらっと……
「これ、海?」
「うん。下側は海、上は空。朝日が登るその直前」
きっと、空と言う名前を聞いて、こいつなりのエールを送ってくれてるんだ。
「……お前に好かれる人間は幸せ者だよな」
「おっと、そいつは違うぜ、篠木」
ぼそっと呟いた僕に赤間は真面目な顔で言う。声のトーンだけはなんか芝居がかってたが。
「僕の好きな人には幸せでいてほしいから努力をするんだ。当たり前だろ?お前だって、好きな人の為に努力出来るやつじゃないか」
「僕がか?そんなわけないじゃん」
「お前ほど、親を思って努力をしていた人間を僕は知らない」
真剣な言葉に息が詰まる。本当に同級生かと、疑いたくなるほどの言葉。
「そろそろみそらさん?来るんだろ。僕は帰るよ」
「お、おう」
「また今度、話聞かせろよ?」
「お前のも、聞かせてくれよ」
「おうともよ」
するりと姿を消した赤間が置いて行った写真をもう一度見る。
鮮やかなグラデーションが美しい写真は鞄にしまう。
結局色々悩んでみたけど、いろんな人に会って、学びました。
ありのままの僕で行こう。他の何者でもない、僕で。
やがて、店の扉が開き、深空さんの姿が見えた。
「お待たせしました」
わざわざ急いで来てくれたのか、少し赤い顔をしている深空さん。
さっきより表情が固いようにも見える。
「いえ、全然待ってませんよ。じゃあ、僕が買ってきます。何がいいですか?」
「あ、じゃあ一緒に行きます」
そう言われたら断る理由はない。席もレジから見える位置だし、ちょっと荷物を置いてても大丈夫だろう。
「そしたら行きましょうか」
「はいっ」
僕の少し後ろをちょこちょこと付いて来る。もうめっちゃ可愛い。色々吹き飛びそう。
とりあえず昼食を購入し、席に戻る。僕より明らかに量の多いトレーに気がついたのか、今日一番の赤面を見せる。
「あ……つい……」
「……いいんじゃないですか?気にしないで下さいよ」
「意外によく食べるよねって、よく言われます」
「あぁ、僕の友達にもいます。そういう人に限って量食べても太らないとか不公平っすよ」
「……あ、あはは」
苦笑いを浮かべ、食べ始めた細めな彼女にふと気になったことを聞いてみる。
「……失礼ですが、おいくつですか?自分、17なんすけど、年上……ですよね?」
ハンバーガーを頬張ったまま、驚いた表情を見せる。タイミングが悪かったけど、これはこれで。
「…………んん」
「あー、食べ終わってからでいいです」
「私、大学生です。今一年生で、19才……です」
ふむ、まぁ年なんて関係ないけど。大学生か。
「やっぱり。あ、別に老けてるとかじゃなくて、年上のオーラを感じたというか……」
「別に気にしてませんよ?」
「すみませんです……」
「あ……それで、この前助けてもらって」
「……あぁ、あれ」
助けてって、ナンパしてたのがちょうど知り合いでみっともなかったから、なんだけど。
別に言及するほどでもないわな。
「……私、お礼が言いたくて。でも」
「あれは、たまたまです。僕はそこまで優しくありません」
事実だ。実際、助けた人間は暗がりで顔も良く分からなかったし。
「でも、助けて良かったって思います」
「……はい?」
今は、素直にそう思う。悩んでここまでたったの一日だけれど、悩んだ時間なんて大したことじゃないんだろう、きっと。
僕のありのままは、素直に物を言えること。僕は、僕らしく。
「あなたを好きになりました。僕とお付き合いを前提に、友達になってもらえませんか」
「えっ……」
なんと、あれだけ意気込んだのに友達からとは日和ってるなぁ僕。
それじゃあ意味が無い。そんな関係になりたいんじゃない。
「……いや、やめました。取り下げます。僕とお付き合いしてください」
言ってしまった。彼女の方は、顔を赤らめるわけでもなく、ただただ驚いた顔をしていた。
衝撃が強かったのか、口をパクパクさせて、声が出ないようだ。
「…………ぃ」
「そうですよね!僕みたいなやつ、大学生のお姉さんには似合わない……」
「はい。喜んで」
笑顔が戻った深空さんに対して、僕の方がフリーズしてしまう。
「…………マジで?」
「はい、大マジです」
「え、どうして」
「君は知らないでしょうね」
深空さんの遠い目。それは、回想シーンでも挟んでいるんでしょうか。
おっと、OKが出て調子に乗ってしまった。
目に見えて喜ぶ僕を見て、深空さんはクスッと笑い、切り出してきた。
「……ふふ。私の用事が終わってない」
「そういえばそうでした」
そもそも声をかけて来たのも、用があるっていうのも、向こうからだった。
喜ぶのも束の間、ということなんだろうか。
「私は君のことを随分前から知っていました」
「……え?」
「とは言っても一方的に、です」
一方的に。その言葉を考えてみるけど、もちろん深空さんに出会った記憶はなかった。
いつだろう、と首をひねる。僕が二つ年上のお姉さんに知られる機会?
「私、同じ中学なんですよ?知ってました?」
「え?……本当に?」
「はい」
でも二つ年上なら被っているのは僕が一年の時だけで。
「でも、一年生の時なんて……」
「私、部活動が吹奏楽だったんです。よくOGとして顔を出していて」
僕は中学生の時、合唱部とサッカー部の掛け持ちをしていた。
理由はあった。合唱もサッカーも小学校からやっていたことで。どちらも大好きだった。
中学校は音楽に強い学校として有名で、吹奏楽と合唱はよく賞を取っていた。
音楽室が二つあり、それぞれ別々に使っていた。おそらくは合唱部の方で見かけたのだろうか。
「じゃあ合唱部で見かけたってことですか?」
「そう。練習に顔出す度に、二年の篠木くんがって言われててね」
「はぁ……」
「成績優秀で歌も上手くて、サッカーも出来る、すごい人気者なんだって」
昔、赤間に自覚のないハイスペックはそれはそれで腹が立つって言われたことを思い出す。
今から思い返しても、合唱とサッカーをやって、成績も悪くなかったし、頑張ってたよね、僕。
公立の進学校の推薦を取りたかった。サッカーも歌もやりたかったから。
今となっては、それもなんの意味もないと思ってたけど、見てた人はいたんだなちゃんと。
茶々を入れても仕方ないので、黙って深空さんの話を聞くことにした。
「ある時、気になって合唱部の練習をのぞきに行ったことがあるの。
素敵な歌だった。声も確かに良かったけど、何より歌が好きっていうのがすごくわかった。
高二の時、うちの高校にスカウトしたくて、君の同級生に聞いてみたんだ。
彼は高校はどこをうけるのって。そしたら、君は高校を受けないんだって聞いて。
家庭の事情なんて言われたら、どうしようもなかった。高校生の私には。
でも、スカウトなんて建前でどうでもよくて、君が好きだったんだって後から気がついて。
気がついた時には遅い。いつまで経っても、歌う君が頭から離れなくて、諦められなくて。
そのまま、大学に入って、バイトを始めた。それが、あのコンビニ。
始めて見かけたのは六月。あの時も先輩と二人で買い物に来てて。貴方はレジには来なかった。
きっと外で飴を舐めていたのね。最初は喫煙してるのかと思って焦っちゃった。
次に見かけたのが、私が男の子に絡まれてる時。
心底うんざりしたような顔だったけど、私を庇ってくれた。
一昨日にも見たんだ。私は裏に居たから君は気が付かなかったみたいだけど。
そして昨日。やっと会えたと思った。君は固まっていたけれど。
お礼が言いたかった。でもそれ以上に接点が欲しかった。
あなたから会いに来てくれるなんて思いもしなくて。
今日も来るんじゃないかと、店長に無理言って裏で待機させてもらおうとしたんだけど。
店の前でいざ会ったらびっくりしちゃって、お店に逃げちゃった。
話は長くなっちゃったけど、私が伝えたいことは一つだけ。
私は篠木君とお付き合いしたい。
友人なんてステップは必要ない。私は君が好きなの。」
茫然自失。息が止まる。たっぷり三分は固まっていたか。
「本当に……?」
やっと出たのはその一言だけ。脳細胞は完全にショートしていた。
いろんな言葉が浮かぶけれど、口に出来ず、消えていく。
「はい」
ぱくぱくと二の句が継げない僕に、深空さんが追い打ち。
「お返事、頂けますか?啓悟くん」
「……はい。もちろんです」
辛うじて絞り出した言葉で、息が詰まってしまった。
だから、その後のことはあまり良く覚えていない、なんてね。
『叔父さんに報告をと電話。先輩も近くにいたらしく雄叫びが聞こえていたり。
笑顔で見つめられたままで、何を話したのか覚えちゃいない。
あいつにもメール、と連絡をして、すぐさま返ってきたメールには『やっぱりな』
後から分かったことだけど、赤間は深空さんの存在を知っていたらしく。
名前を聞いた時にわかっていた、という言葉には思わず机を台パンしてしまった。
もちろん店員さんには睨まれたけど、今回だけは許して欲しい。そのくらい。
時間はあったので、深空さんとデートした。深空さんは音楽が好き。
本も好きらしい。いろんなジャンルを読んでいて、僕に今度貸してくれる約束をした。
お返しに漫画を貸すことになった。もう少し種類をいろいろ集めておけば良かった。
カラオケに連れ込まれて、一時間くらいぶっ通しで歌わされたような……気のせいかな。
深空さんは鳥肌が立つくらい歌が上手くて、ますます好きになった。
深空さんは寮暮らしらしい。送って行ったら親友を紹介された。
親友さんによろしくされた。下手な真似したら殺すとまで言われた。
しません、と胸を張って言えた。親友さんは満足げに頷いていた。
家に帰ったら、お赤飯だった。母さんの直伝らしい。
久しぶりに仏壇に手を合わせた。よく分かんないけど、泣いた。
でも、部屋に戻ったら頭の中は深空さんでいっぱいになっていた。
僕は、紛れも無く、完全に恋をしている。』
記憶には曖昧でも、手帳にはほぼ一ページに及ぶ報告が書かれている。
我ながらまぁ事細かに書いてある。去年の手帳の最後、三ヶ月ほどで約30ページはある。
これだけ書いてあれば、ほぼ一年前のことでも鮮明に思い出せる。
その後、僕がしたことと言えば、高卒認定試験の勉強、そして受験。結果は見事合格。
高校に行かなかった理由なんて母さんがいなくなったからだったし。
さらに大学受験。まさか中学の同級生が代わる代わる教師役として現れるとは思わなんだ。
この春から深空と同じ大学に進学する。さらっと言ったけどそうとう頑張りましたよ、僕。
相談したとき、叔父さんは『姉さんも同じことをいうだろうが、お前は気を遣い過ぎなんだ』と一喝。
『まぁ……進みたい道に進め。その代わり、支えてくれる人を大事にしろよ』の言葉には思わず泣いてしまった。
先輩からは、『若者はいいのう……』と爺のようなお言葉。なんかこの一年で老けたのは気のせいだろうか。
『ま、飲めるようになったら一杯やろうや。待ってるぜ』と。僕も楽しみにしている。
赤間ともまだ連絡している。向こうは向こうで例の中三の子とのお付き合いは続いているらしい。
一度だけ会ったけど、賢そうな女の子だった。なんというか、お似合いの二人。
衝撃だったのは、赤間が中三の時に走り回っていた、その理由。
なんでも赤間の幼なじみが吹奏楽部で、そのつながりで深空に相談を受けたからだったらしい。
半分は僕だってお前に高校生になって欲しかったんだ、とか言われたけど、バレバレ。多分深空を庇ったんだろう。
ついでに、大学入試の教師役を束ねたのも赤間だったし、なんというか、あいつには頭が上がらない。
そんなこんなで、その赤間が用意だか手を回しただかで押さえたシェアハウスとやらに引越すことになったわけで。
深空が帰った後の自室を見渡す。積まれたダンボール箱と、すでに運び出す予定の家具だけがそこにはあって。
帰った、と言うかバイト先に送ってきたわけで。手元にはコンビニの袋。
ビニール袋から取り出すチュッパチャップスとホットココア。なんか思い出したら欲しくなった。
「チュッパチャップスも変わらぬ味かねぇ……」
やることなんて、手元に残った手帳か携帯か。気がつけば手帳を捲っていた。
こんな物、深空には見せられない。最初の文章だけでも顔から火が出るどころか爆発しそう。
「でも、そのまま古紙回収しちゃうには勿体無いやなぁ」
だけど、いつか……いつの日か。見せてみたいと思う。
誰かが、秋の空は変わりやすいって言ったけれど。最後のページの写真を手に取る。
手元の写真に視線を落とす。変わらぬ空。僕が撮ったものでも、見たものでもないけれど。
「そうかそうか、ここにあったかぁ……」
二冊目の手帳を取り出す。最後のページには笑顔の僕と深空のツーショット写真。
その裏に滑り込ませるように、空の写真を挟む。
ここにある空は今も変わらずここにあって、僕の気持ちにも変わりなんてなかった。
そうして、僕は思い出を紡いでいく。
かなり思いつきでお題を頂いたわけで、まさか公開するつもりもあまりなかったのですが、せっかくなので。
感想等をいただけると、嬉しいです。
推敲等をお願いした友人には感謝を。
実は、このお話にちらっと出てくる赤間くんは違うお話の主人公なんですが、それはまた別の機会に……