それぞれの痛み
テーブル越しに向かい合って座る少女を令嬢は穏やかに見据える。
固く緊張した面持ちの陽子だが俯くこともない視線には自らの失態も
それへの叱責も受け止める覚悟の色がある。だが一方で不器用なまでに
まっすぐな印象も与えてくる。
「………」
それを誰かに似てると感じた彼女であるが口には出さなかった。
代わりに出たのはチームの指揮官ではなくアリステルという少女の声。
「本来は叱責と注意をすべきなのでしょうけど、今回はやめておきますわ」
「え、え?」
陽子からすれば予想だにしていなかった言葉と柔らかな声色に
困惑だけが表に出る。呆けたようなそれにクスクスと悪戯が
成功したと喜ぶような、それでいて品のある微笑を令嬢は見せた。
「もう何がいけなかったのかは分かってらっしゃるご様子。
既に自省してるミスを延々と責め立てるのは嫌われる上司の定番らしいですから」
わたくし、あなたに嫌われたくありません。
などとなんでもないように呟いて、より彼女を当惑させて微笑む彼女は
ともすれば人たらしの魔性の気配すらあった。あるいは、
「それに、注意されて改善できるものでもないでしょう?」
「っ、それ、は!?」
天然の策士か。
隙を突かれた形になった少女は動揺が完全に顔に出ていた。
それはアリステルの指摘を肯定するものに他ならない。
「ミス・センバ、あなたが問題視したゴラドの行動と騎手との
因果関係も、彼がシールドサングラスをかけていた理由も
何も問題はないのをあなたは頭では分かっていたはずです」
「…………はい。彼の指示があろうとなかろうとゴラドがあそこで
包囲網を突破して輝獣群を引き離したのは正解だと私も思います。ただ
指示ありの場合は彼は嘘をついたことになりますが、些細な話でしょう」
末尾の言葉とは裏腹に承服しかねると書いてある顔を令嬢は苦笑い。
半分は根深いナニカを垣間見たからだが、残りはあの彼に程度が低く、
必要性の薄い嘘を吐かせたことに対するもの。
「そこが一番謎なのですが…」
「はい?」
「いいえ、続けてください」
「は、はい。そして次元漂流によってフォトン感知能力を視覚に宿した者は
フォトン粒子で満ちているガレストではサングラス等の目を守る物が必須」
「ええ、話によれば視界全てが強烈なライトで埋め尽くされてるように
感じると聞きます。感知能力はOFFにもできますが視覚型は
その場合通常のフォトン光も見えなくなり、それによる刃や弾丸。
映像や明かりも認識できなくなるので日常生活すら困難になると」
「…どれも学園生徒なら当たり前に知っている情報です。
普通科2年のトップを張ってる私が知らない方がおかしい」
後者については彼自身も顔見せの段階で説明していた。
なのに彼女は突っかかった。問題がないと分かっていたのに
感情をぶつけずにはいられなくなって、止まらなくなった。
「騎手の重要性や貴重性も、知っているのに。
ゴラドのそばであんな大きな声をあげて……私は、いったい……」
なんであんな態度を取ったのか。
自分で自分を信じられないとばかりに彼女は唇を噛んでいた。
ゴラドはその高い身体能力と頑丈な外皮とは裏腹に種全体として
すさまじく臆病で警戒心が強い。だからこそその乗り手となるには
生まれた時から世話をして仲間と思わせるか時間をかけて共に過ごし、
慣れさせるしかない。ガレストは技術力はあっても資源不足の問題を
抱えているためゴラドという労働力は決して馬鹿にならない割合で社会を
支えている。何せ地球でいう馬であり牛であり番犬であり戦車なのだ。
その乗り手たる騎手はそれゆえ高い需要があるものの供給が足りていない。
じつのところこの実習の足がゴラドである理由の一つにこれからガレストを
巡ってあちこちでその重要性を知ることになるだろう学園生徒に前もって
ゴラドの扱い辛さと能力を実体験させる狙いがあるのだ。そしてそれらは
1年生以外は知っている話なのだ。
「……普段から強くご自身を律して公明正大であろうとしているあなたが、
先程も暗に自分だけの失態と訴えることで他者を庇ったあなたが、
制御できないでいる感情です。一朝一夕で、さして付き合いもない
上級生に窘められた程度でどうにかなるものではないでしょう」
ともすればその結論は心情を理解してくれたと取るべきか。
どうしようもないと諦められていると取るべきか。
陽子にはまったく判断がつかない。
「………申し訳ありません」
だから謝罪の言葉を出すしかないが令嬢は慌てたように首を振る。
「あ、いえっ、責めているわけではないのです! まあ、評価点が
いくらか下がることは覚悟してもらうしかないのですが、ただ
わたくし個人としては、その……言葉は不適切かもしれませんが、
少しホッとしたのです」
「え、ええっと……それはどういう?」
いったいどこに安堵する要素があったのか。戸惑って首を傾げる陽子に
発言者当人がそうでしょうねと納得したように苦笑する。どこからどう
話すべきかと僅かな沈黙の間に考えをまとめた彼女はソコから語り始める。
「……誰に対しても物怖じせず、いうべきこと、すべきことを
躊躇わないあなたの姿勢にはずっと好感があったのです。
わたくしにもよく注意してくださいましたし」
自分の立場では滅多にそういう方が、特に学園ではあまりいないので
有難かったのだとアリステルは真摯に告げるが一般庶民の彼女には
恐れ多い感謝であった。風紀委員としての活動中ならいざ知らず。
一人の生徒として向き合うとアリステル・F・パデュエールという
生徒はオーラが違うというべきか住む世界が違うというべきか。
何もかもが規格外で立ち向かえる要素が自分には無いと彼女は感じていた。
ましてや。
「ああ、いえ、役目ですから……それにその、どちらかといえば
難しかったのは先輩本人というよりは……」
アリステルへの注意云々の話の場合、周りの方が問題であった。
元々彼女は地球人への知識・理解不足の問題が多かったが、
筋の通った説明や注意があればすんなりと直してくれるため
立場の違いや妙な敗北感はともかく注意しやすい人物であった。
あくまで彼女個人ならば、という注釈が必要だが。
「うぅ…その点に関してはお手数をかけてしまい、大変申し訳なく
わたくしが思っていると他の風紀委員や被害にあった方々へ
お伝えいただけると有難いです……正直いまも所属チームに迷惑を
かけていないか、いえかけているのでしょうねと思うと気が重たく……」
濁された言葉の先を理解して沈痛な面持ちのアリステルに渋い顔で
心中お察ししますとばかりに首肯する陽子である。希望的観測が
全く出来ない程“あの二人”は価値観が凝り固まっている。
「今回の失態の埋め合わせではありませんが、
その際は風紀委員として出来る限りフォローさせていただきます」
「あ、ありがとうございます! 万の助けを得た気分ですわ!」
「っ…い、いえたいしたことでは…」
助力の提案に目にも止まらぬ動きで身を乗り出した令嬢は
感極まったとばかりに陽子の手を己が両手で取ってぎゅっと握りしめた。
その柔らかな感触と思っていたより小さい掌に彼女は動揺するも目と鼻の
距離にまで迫った感謝の色でらんらんと輝く金色の瞳に「あれ、この人
なんか可愛いぞ」という感想を抱く。美しさに見惚れるより反応の
愛らしさに意識が向くのは血筋柄か。一方で本当に苦労してるんだなと
同情もしていたが。
「あ、ご、ごめんなさい! はしたないところを…」
「お気になさらず」
ただそこで彼女も興奮や接近のし過ぎであることに気付いて
手を放すときちんと座り直す。頬を朱に染めて、慌てながら、
豪奢な縦ロールをいじくりながら、であったので陽子が再び
可愛いと内心悶えていたのを知らぬまま仕切り直しとばかりに咳払い。
「こほん、は、話がずれましたわね。
えっと、そう、わたくしがホッとしたのはですね!
そんなあなたに、勝手ながら仲間意識を持っていたのです」
「仲間、ですか?」
それを茶化すことなく、されどまたも予想だにしない表現をされて驚く。
対面に座るだけでオーラと魅力に圧倒されそうなこの美少女と、しかも
今しがた内面に可愛らしさも同居していると知った相手と自分にそんな
要素があったのだろうかと本気で分からないと首を傾げる。
それをどう取ったのか「笑わないでくださいましね」と前置きして
アリステルは続けた。
「その、なんといいましょうか。
GW前までわたくしかなり偉そうでしたでしょう?」
「ええっと、その、まあ……はい」
本人の弁とはいえ当人を前にして軽々しく認めにくい話。
されど僅かに迷いながらも最終的に陽子は誤魔化すことはしなかった。
それでさらにアリステルの好感度が上がったことなど知らず、示さず、
令嬢は優雅に微笑みながら本題を口にする。
「ふふ……でもあれが虚勢であったとあなたは気付いていたのでは?」
「……はい」
僅かな間を置いて、されどしっかりと少女は頷いた。
居丈高に振る舞っていたアリステルに度々注意していた陽子はある意味で
その時期彼女に最も近い距離にあった地球人である。直に接触すれば
態度は上からでも根っこの人の好さや優しさが隠しきれてはいなかった。
「立場上のことで、何かあるんだろうなとは思っていたので…」
「今更ではありますが、あなたの心遣いに感謝を」
「い、いえそんな!」
アリステルはアリステルで自分の態度に“労うような”顔を向ける陽子に
見抜かれていると感じていた。だからまず指摘も流布もしなかった彼女の
対応に素直に感謝を示した。恐縮する陽子であるが逆をいえばそうと
気付かれるだけ陽子もアリステルに見られていたということでもある。
「けれど、だからでしょうか。
わたくしもあなたからどこか、自分がやらなくてはいけない、
という気負いや強迫観念のようなものを感じていたのです」
「え?」
だから僅かながら勝手に仲間意識を持ったのだと令嬢は言う。
「弟さんと接していられる時の自然体なそれを見かけてからは
余計にナニカを抱えていらっしゃるのだと……」
「……」
そんなことはない、と言い出したい感情とは裏腹に陽子の口は開かない。
彼女自身が信じられないほど受け入れてしまう、胸に落ちる話に
彼女自身が驚いて息をのんでいた。
「そんなあなたが、内容としては褒められたものではないにしろ
弟さん以外にも感情的になってぶつかれる相手がいたことに少し、
本当に勝手ながら安堵してもいたのです」
「…………」
仄かに、本当に安堵したように微笑む令嬢を余所に、陽子は頭をがつんと
殴られたような衝撃を覚えて呆然とした。理不尽な、感情的な物言いを
ぶつけてしまっていたとは彼女も認めていた。されど、だが、今の言い方はまるで。
──陽子、どうした?──
どこか遠くで、見えない影から聞き慣れた優しい声を幻聴する。自身の
水分補給はつい先ほど行ったばかりというのにひどく喉が渇く。視界も
ぐらりと揺れて、ありもしない眩暈を覚える。
だってそれではまるで。
「…………っ」
そう、まるで、まるで、それは彼に自分が───
「違うっ、そんなこと私は!」
あり得ない。
だってそれはやってはいけないことだ。
「あ…」
否定する意志だけが頭にあったため気付いたのは目を丸くして驚く令嬢を
認めてから。遅れて自分が立ちあがってまで目の前のテーブルを力任せに
叩いていたことにも気付く。ガレストの戦士層向けの一品でなければ
粉々に粉砕していたことだろうほどの力で。
「す、すいません!」
一気に赤だか青だか分からないほど顔面の色を変えた彼女は力を無くした
ように腰をおろすとアリステルを見ることもできずに俯いてしまう。
やってしまったと慄く陽子だが、届けられたのは柔らかな声。
「いいえ、こちらもあなた方の事情も知らずに勝手なことを長々と
語ってしまいました……なのでお相子、という事でどうでしょうか?」
「っ…はい、ありがとう…ございます」
それこそ叱責でも注意でもなく、慮った気遣いの言葉と微笑みに
人としての出来の差を見せつけられたようで感謝を返しながらも
陽子の顔はますますと沈んでしまう。
「……何故あの方と被って見えるのでしょうね?」
令嬢は対応を間違えたかと思いながらもその沈んだ姿に彼を見る。
記憶を振り返れば彼に興味を覚えたのはソコも関係していたようにも思う。
そんなことを頭の隅で考えながら次にどんな言葉をかけるべきか考えて、
片隅の思考に引っ張られるように悪い見本を参考にした。
「話は変わりますが」
「はい」
「彼への態度はいわゆる気になる相手ほどいじめたいというものですか?」
「ん?」
訝しげな顔が上がり、よしと思いながら令嬢は─誰かを倣って─核心を突く。
「恋慕する相手にあえてきつく当たる人もいると聞くものですから」
「はい?」
「たしか、ツンデレ、でしたか?」
目が点になる、という顔とはこのことかという固まった顔。
譫言のように「気になる?」「恋慕?」「ツンデレ?」と一通り
ワードをオウム返しするとやっと頭が理解したのか、赤い顔で吠えた。
「ち、違いますっ!」
「慌てたような否定は逆に認めたようなものだと…」
「ち・が・い・ま・す! 迷惑をかけた身としてはなんですが
私達の問題に色恋沙汰は全く関係ありませんから!!」
はっきりと言い切れば「そうですか」と納得したように彼女が頷いたので
分かってもらえたと胸をなでおろした陽子であったが目つきはどうにも
半眼となって半ば責めているようなそれになっていた。令嬢はそれに
くすくすと楽しげに笑うので陽子はそれが自分の気分を浮上させようとした
冗談であると気付く。また気遣われてしまったと再び自分への黒い感情が
湧き出そうになるが彼女から不意にこぼれた言葉にそれどころではいられなくなる。
「けれど、少し残念ですわね。
あなたならライバルとして申し分ないと思えますのに」
「…………………え?」
アリステルは何気なく、そして他意なく本心をこぼしたに過ぎない。
だが陽子からすれば─失礼だが─核爆弾を投下されたに等しい衝撃だ。
この話の流れでライバル云々などといわれてそれがどういう意味か
察せられないわけがない。そういった他人の感情の機微には聡い辺りは
彼女もまたあの男の妹なのであろう。
「せ、先輩は、その……彼と親しいのですか?」
これも冗談の一環ですよね、という期待を込めた問いかけに令嬢が
見せたのはこれまた予想外の反応。
「あ、あら?」
「ええぇ…」
明らかに、しまったとばかりに口許を手で覆うが遅すぎる。
その仕草すら優雅でさまになっているが陽子には何の慰めにもならない。
むしろ望まぬ方向に肯定されてしまったようなものである。
何がどうなればそんなことが起こりえるのか。
夢でも見ているのかとテーブル下で太腿をつねるが、しっかり痛い。
「っ、ち、違いますよね?
だってそうならそもそもチーム分けで一緒になるわけが……」
藁をもつかむの心境か。望みをかけてそれを指摘する。
この実習で体験させられることは多岐にわたる。その中の一つが急遽
集められたよく知らない相手あるいは関係の悪い相手との連携だ。
そのため実習開始直前までどんなチーム分けをされているのか生徒達は
一切知ることができない。解るのは親しい相手とは必ず別チームという
ぐらいである。彼と彼女が同チームになっているのも、そこに
アリステルがいるのも前者は関係が悪いという学園からの評価で、
後者は関係が薄いと学園から見られている証である。だが。
「その、じつは少々交流がありまして」
内緒ですのよと口許に指を立てて微笑む令嬢の姿は愛らしい。
しかしながらそれに見惚れる余裕が陽子に無い。だってもはや
その事実は大地を裂くバスター砲の一撃だ。
「以前お忍びで日本の街に訪れた際にとてもお世話になったのです。
その後、偶然学園で再会してからは隠れて何度か。
なので学園側も把握していなかったのでしょう」
実際はそこへさらにシンイチをある程度知ってる者を同じチームに
入れたかったフリーレの工作があったのだが彼女らは知らない話である。
「そ、それで、おに……彼と親しくなったのですか?」
「はい」
何の屈託も躊躇いもない頷きと笑みは陽子の頭をぐらぐらと中から揺らす。
それが純粋に嬉しそうで、また万人が見惚れるほどの微笑みであることが
疑惑を確信に変えるには充分過ぎて、だがそれをうまく処理できない。
しかし言われてみればシールドグラスを渡した時の短いやり取りはどこか
親しさを感じさせる気軽さがあったと思いだして愕然ともしてしまう。
「さ、参考までに……その、えっと…彼の何が良かったのでしょうか?」
何のための参考か。漠然とした問いかけは何を知りたいものなのか。
混乱中の頭では、まだ否定したい心境では、そんな言葉しか出てこないのだ。
「色々とありますけれど、そうですわね」
それでアリステルに戸惑いが無いのは言葉を額面通りに受け取って
「これは噂の女子同士の恋バナというものなのでは!?」と胸中で
さりげなく興奮しているせいだったりする。
だから、止まらなかった。
「自然と誰かの前に立つ姿には見惚れてしまいますし、さりげない気遣いには
何度も心を満たしていただきました。また人々の痛みを嫌い、人々の笑顔を
喜べる在り方はとても素敵だと思います。それに一緒にいると安心感を
覚えるといいますか……手厳しくもお優しい方なので助力と見守りの
バランスがお上手なので、少し癖になってしまうのです。
たまにからかわれてしまうこともありますが、新鮮な体験ですし
本当に嫌なことはなされない方ですので一緒だと楽しくて!」
「…………」
惚気のようなべた褒め評価と赤く染めた顔での仄かな笑み。
これは本気だと実感させるには充分で、だからこそ完全に
想定外で処理できない情報で、一瞬気が遠くなる陽子だ。
──一体全体この人に何をしたのよあの男!?
「あ、そうそう!
他にも考え方や発想の仕方が面白くて勉強になるのです」
複雑なその心情など知らずにアリステルはまだあるのですと嬉しそうに語る。
その様子に遮ることもできずにただ次を促す言葉を発するしかない。
「というと?」
「ほら、ゴラドを捕まえた時のあれも面白いやり方でしたでしょ?」
「……面白かった、のですか? あれが?」
ソレを思い出しながら陽子は僅かに顔を引き攣らせる。
彼女にとってはろくでもない方法にしか見えなかったのだから。
「はい、動物の類に好かれないとは人伝に聞いてましたがそれで
怯えられたのを逆に利用するとは思いませんでした!」
「ええ、まあ……そうですね」
素晴らしい逆転の発想でしたと可愛らしく両握り拳で訴える令嬢に
曖昧な反応でお茶を濁す陽子。実習の第一段階であるチームごとの
ゴラド捕獲作業において、シンイチが近づいた途端に周囲のゴラドが
一斉に怯え固まったのは異常な光景だった。そして彼がさらに一歩
踏み出すと一気に逃げ出したのだから余計に。ただその際あまりに
怯えすぎて逃げ遅れた一頭を彼は捕まえたのだ。気安く肩でも抱くように
寄りかかるシンイチ相手に微動だにできなくなったその一頭に彼が
「俺達の足になってくれるよな?」と語りかければ見てる方が
同情したくなるほどゴラドは必死に頭を縦に振っていた。
それは退治と捕獲の違いを体験させるという授業の一環でも
あったのだが彼がしたのはまさかの動物への脅しであった。
アリステル以外は開いた口が塞がらなかったのは記憶に新しい。
ただ。
「本来なら短所としか思えない要素を使って利益を得る。彼は本当に
そういう機転が働くので見ているだけで目から鱗といいましょうか。
いずれ家と領地を背負う者として本当に勉強になります」
「そう、でしたか」
彼女のそれは色恋だけではなく将来を考えてのものでもあった。
そう語った時に見せた一際真剣な面持ちは彼女の混乱を棚上げするには
充分なものだった。恋に恋する少女のようであったかと思えばあらゆる
知恵を学ぼうと余念がない未来の女領主。それを同居させられる姿に
陽子はよりアリステルとの住む世界の差を、人間としての差を
見せつけられたよう。そんな彼女に影響を与えているのはあの兄。
ここ最近のアリステルの変化に無関係とは彼女は思えない。
それらに比べて自分の無様な空回りぶりに陽子は唇を噛む。
「……あの方のようには、いきませんわね」
目敏く気付いた令嬢もまた気落ちしているとも知らずに。
ゴラドの背から空を見上げるシンイチはある物を見るために意図的に
視覚型フォトン感知能力をOFFにしていた。黒いシールドグラス越しに
見えるのは地球とは微妙に違う色の蒼天と無数の星たちである。
尤もこの『星』は天体のそれではなく天で輝く存在という意味だが。
「ある意味でファランディアより異世界感強いな、ホント」
現在の時刻はまだ昼間。地球の常識でいえば天体の星が出る時間ではない。
そもそもにしてガレストは宇宙空間にある惑星世界ではないのだから星が
見えるわけもない。そこにあるのは見た目通りの球体状の光源なのだ。
無数の小さな白い光球は一つ一つの輝きは大きさや距離もあって強くない。
グラス越しでは薄ら何かが光ってるようにしか見えないがまさに
星の数ほどあるためこの世界全体を照らす光源となりえている。
それはガレストという大地が引き起こす当たり前の現象だという。
地球でいう夜明けの時間に大地はこの光球を放ち、それは天に昇ると
一定の高度で漂ってガレストを照らす。そして日没といわれる時間に
近付くと徐々にそれらは光を失って大地に落ちていく。これを日々
繰り返すのがこの世界の日の出と日の入りの流れである。
日本語訳でこの光球は『星陽』と呼称されていた。
視覚感知をONにするとそれで見えてしまうフォトン粒子の方が
光が強いためシンイチはこの瞬間やっとガレストの蒼天と星陽を見たのだ。
しかし。
「ああ、なるほど。これはしょうがない」
僅か前にもこぼした呟きを意図してか無意識にか彼は繰り返した。
だってそれにしたって邪魔なモノが多い。OFFにしても視界を
遮るモノが多すぎる。
「騎手少し速度を落としてくれ、上の連中に気付かれたくない」
アリステルと交代したB班のリーダーからの指示に同意の返答をして
ゴラドの速度を落とさせる。大きな音はソレらを刺激する可能性はある。
星陽が漂う高高度よりは低いが決して地上の音が聞こえない高さではない。
「雲より見かけるんだから困る」
苦笑と共に彼が見上げている空には雲はまばらで、星陽が見えにくい。
何故なら代わりとばかりに飛翔型の輝獣が群となって漂っているのだから。
そしてそれが異常事態ではなく日常というのだから笑い話である。
そう、笑い話であってくれなくては困る。でなければあまりに痛い。
「これはしょうがないだろ」
何度目かの呟きは誰に向けたものなのか。
空だけではないのだ。先程の集団は引き離した。周囲には注意すべき程の
輝獣の群れはいない。されど、気を付ける程ではない集団ならば
どこを向いても視界に映らないということがない。これがガレストか。
そうだというのなら、やはり仕方がないのだろう。
──こんな所に落ちたなら、生きてるとは思わないよな




