04-118 経過と出発6
また歳を重ねてしまったよ………
「おつかれさま、先生」
当然見えているだろうに─面白がって─反応しないシンイチは
既に一仕事終えた疲労感からかソファの背もたれに全力で
寄りかかっているスーツ姿の白髪美女に労いの言葉をかけた。
「ああ、ナカムラか。なんとかなった……お前の助言のおかげだ」
こちらの存在にいま気付いたらしい彼女は、だが体を起こす気力さえ
無いのか姿勢を変えないまま疲れきった声を出していた。
そんな状態でも答えたのは教師としての矜持か。
逆に気を張る必要のない相手だからこそか。
「パデュエールも手伝ってくれて助かったよ」
「ぇ、あ、いいえ。これも上位者の義務と思えば」
突然向けられた感謝に、余所に向く意識を即座に戻して優雅に
微笑むのは大人びた雰囲気を持つ美少女アリステル。フリーレとは
テーブルを挟んだ向かいのソファで青い豪奢な縦ロールを従えていた。
彼女は立場として当然に、実際には少しばかり“誰か”の顔を見たいと
一人でここに足を運んだが朝食中だった彼に声をかけあぐねている内に
フリーレに捕まってしまう事に。ただ立場上かこの手の作業に慣れており
手際よく片づけた結果、諸々を見続けることになったのである。
「それよりも、ありがたく頂いております」
話を変えるように出た感謝の言葉と共に彼女の視線と手付きは
琥珀色で満たされたカップを示す。ちょっとした仕草ではあるが
育ちの良さが滲みに出る美しい所作でもあった。
背中ではわざとらしい感嘆の声がもれる。
「ちょうど一息いれられた。
ハーブティー、だったか。喉も潤ったが、落ち着く香りだ」
「そいつは良かった。
といっても中身を選んだのも淹れたのも俺じゃないが」
「でも頼んでくださったのはシンイチさんでしょ?
疲れを癒すもの、気を落ち着かせるものをと」
給仕の方から聞きましたと喜色満面の笑顔で令嬢は告げる。
それはそうなのだが、と事実ゆえに否定できないがその程度の
ことで感謝されるとむず痒いものを覚えるシンイチだ。彼はただ
飲み物さえ取らずに作業に没頭し疲労した姿を見せた二人に
そんな注文を付けた飲み物を届けるようにスタッフに頼んだだけ。
自分が殆ど何もしていないから、というのもあるがそれ以上に
それぐらいは当たり前のことであろうという認識が強かった。
尤もその気遣いこそを嬉しく感じているフリーレとアリステルは
彼の困ったような、照れたような表情に微笑ましいものを見たと
ばかりに柔らかな表情を浮かべていた。
が、片方の視線は流れるように彼女に向く。
「─────ところで、ミューヒさん?
いつまでシンイチさんに引っ付いているおつもりですか?
限られた者しかいない場とはいえ人前です、謹んでください」
ニコリと貴族の令嬢─異世界だが─として満点の微笑みと共に
向けられた冷たい視線。しかしながら責める色は薄く、多分に
嫉妬や羨望に近い感情が溢れ出ている表情は恐れや感心より
申し訳なさを妙に見る方に覚えさせる。特に向けられた当人には。
「…はいはーい、失礼いたしましたー!」
「うおっ!?」
それに堪らずか。だから、ここまでは堪能していたのか。
あっさりと離れた彼女はそのまま目の前の背をどんと押した。
主に、優雅にされど真っ直ぐに羨ましいと訴える顔をした令嬢へと。
他意は、おそらく妙な形での“塩”以外には無かったのだろう。
だがそれを予期していなかった彼自身には急転直下な出来事。
つまり、彼は、現在、本気で、よろめいていた。
「え?」
「わっ、とっ、だっ!?」
それでも彼はつんのめって倒れそうになる身体を支えようと足を出す。
しかしそれは見事にテーブルにぶつかって余計に体勢を崩した。
あとはもう押された勢いと重力に従う結果となった。
「おわっ!?」
「きゃっ!?」
短く、そして驚きが多分にある悲鳴は彼の耳元で上がった。
咄嗟にしがみついてしまったのか。ほぼ全身─特に胸部─から
伝わる柔らかな感触に固まってしまったのは失態か幸運か。
「あ、あの、だ、大丈夫……ですか?」
頭と頭が激突することだけは避けた彼だがそれはおそらく傍から
見れば健全な密着度合いとはいえぬ、首筋に顔を埋めたようなそれ。
気遣う声より視界の隅で真っ赤に染まった横顔にどうも食指が動く。
きっと彼女も咄嗟に受け止めようとしたのだろうと思える背中に
回された腕の感触を思えば余計にその悪戯心がざわめく。
甘ったるい言葉を囁いて耳まで赤くさせようか。
この火照った柔らかな頬を丹念に撫でようか。
痕が残る程に力強くこの白い首に口付けしようか。
「うん、やめておこう……ってかなんつーベタな」
他にも様々に湧き上がる誘惑をシンイチは名残惜しげに制圧しながら
“押されて転んで女に抱き着いた”という展開には呆れ顔である。
否むしろこれは襲い掛かった風さえあるなと冷静に自分達の
体勢と重なり具合を分析しながらソファに手をついて体を離す。
「悪い、どっか痛くなかったか?」
「まさか、もっと強く抱いていただいてもっ……い、いえっ大丈夫です!
わたくしよりシンイチさんの方は!?」
思わず出た本音らしい言葉を慌てて誤魔化すアリステルだが、
真っ赤となった顔とは別にその瞳には隠す気のない歓喜の色がある。
やはりこれはつつくと墓穴を掘ることになると考えたシンイチは無難に
彼女の誤魔化しに乗っかって大丈夫と答えつつ隣に腰掛けた。
「ん、とりあえず今のは不可抗力として見逃すが……ルオーナ」
何かをしたわけではない、という判断だったのか。
次はないぞと言いたげな視線で両者に釘を刺したフリーレは
そのまま原因である生徒を強い口調で名指す。これに何故か今まで
固まっていたミューヒはやっと我に返って慌てたように手を合わせた。
「あ、ごめーん。思ったより力が入っちゃった、てへ!」
「お前という奴は……」
だが反省の色が全く見えない軽い態度にフリーレが呆れたように首を振る。
それにアリステルが怪訝そうな顔で口を開きかけるがシンイチが遮った。
「あの」
「まあいいじゃないか先生、俺は気にしてない」
「だがナカムラ…」
「単に俺が背中を警戒してなかっただけさ」
たいしたことではないと嘯く言葉に不承不承に黙った教師とは別に
女生徒二名は対照的な顔を浮かべた。令嬢は不思議と喜ぶような、
それでいて羨望も混ざった表情で、狐娘は目を泳がしながら
赤くなった頬をかいていた。
「…ズルイ男」
そんな呟きが精一杯の抵抗か。
言葉の意味を理解してしまった彼女は狙って言ったと分かっても
その事実が示す意味に顔を熱くするのを止められなかった。
にんまりとその様子を眺めて笑う彼は間違いなく悪い男だろう。
だが。
「ん、よくわからんが……ぶつけた足はちゃんと見ておけよ」
「っ、あぁ……ちょっと赤くなったかな?」
それでも隠していた事を指摘されると狼狽えはする。
我に返ったような狐娘と令嬢の視線が足に向かったのを感じて
仕方ないとばかりに裾をめくれば確かに少しばかり赤い線が肌にあった。
テーブルに足を引っ掛けた時にぶつけた痕である。尤もシンイチが手を
翳しただけで跡形もなく消えてしまうのだが。
「難儀というべきか面白いというべきか。
私の攻撃を捌ける男が気を抜くと転ぶしケガもするか」
元・軍人ゆえか。医療技術も進歩している世界出身者ゆえか。
痣ともいえない軽い打ち身染みたそれには無反応ではあったが、
その“普通”をどこか歓迎しているかのようにフリーレは微笑む。
「ドゥネージュ先生、彼のケガに気付いてらしたのですか?」
「勢いよくぶつけていたしアマリリスも言っていただろう?
意識してないとDランク以下だとか気を抜くと転んでケガをしたとか。
今のが無警戒ゆえというなら……痛めてないかと思ってな」
ただそれだけの話ではないか。
令嬢の問いにむしろ彼女の方が不思議そうにしながらそう答えた。
「フドゥネっちはその素直というか純真な所がすごいと思う」
「こちらも強敵ですね……燃えてきますわ」
その目で見るまで理解しきれず、今も失念していた狐娘と
覚えていても足まで気が回らなかった令嬢はフリーレの物事を
純粋に受け取れる在り方に感心と戦慄を覚えていた。
片方が一部闘志を燃やしているのはご愛嬌といえるか。
それらを横目に話題の当人は微妙に顔をしかめてしまう。
「ヨーコそこまで……本気で俺を囲む気か?」
彼女達で。
この場にいない従者の思惑を察せてしまうがゆえに冗談じゃないぞと
疲れたような息を小さくもらした。そもそも誰が、最初に、彼女らで
遊びだしたのかを思いっきり棚上げして。
深く考えたくない現実逃避、ともいう。
「ちょっとごたごたしたが、用件を済ませたいんだが?」
さりとてその逃げもどうかと思う意識もあって、
彼は本来の用事を済ませることを選んだ。
次は10月12日(予定)




