04-100 彼の無双?5
年をまたいで一か月ぶり………どうしてそうなった!?
なーんて、いつもの話なので割愛します(おい!?
以下、超簡単なあらすじ
歌姫モニカの護衛をすることになったシンイチは大活躍!
無法者をちぎってはなげ、ちぎってはなげ、周囲はドン引き!。
心優しい美しき(賄賂)依頼人は理解を示したものの彼女の様子は少し変でもあって……続きは本編!
設備と人員の再配置が終わったのは既に日が沈みきる少し前の頃。
ステージに上がったモニカは動きやすさを重視したラフな格好であったが
人前に出たゆえかこれが自分が主役の場であるという自負があるのか。
似たような格好のスタッフやバンド、ダンサーに紛れているというのに
存在感を見せつけており口調も完全に歌姫モニカ・シャンタールだった。
ほぼ全てのスタッフが初対面に等しく、今しがた来たばかりの者達で
あったが彼女自身の名と歌が知れ渡っていたことと彼女自身が積極的に
声をかけ、意見を募り、まとめていくためリハーサルそのものは非常に
順調に進んでいた。老若男女問わず世間を虜とする彼女の魅力は歌以外
にもあったのだろうと思わせる光景だった。
シンイチたちはそれを同じステージの上、だが隅といえる場所から見守る。
今までで一番距離が離れている彼らだが既に本気で気を張っていた。
例え今打ち合わせをしている誰かが突如彼女に凶刃を振るおうとも。
どこからか彼女の脳天を狙った光の弾丸が放たれようとも。モニカに
直接届く前に止められる自信が二人にはある。皆が見ている表の
偽装顔もその下の素顔もそれゆえか平静そのものであった。
ただし。
「…何か言うことはあるか?」
「ええっと、なんのことかにゃー」
二人の間にある会話には妙な緊張感があった。
表情だけは落ち着き払っているがミューヒは冷や汗たらりである。
そして彼は追撃を緩めることなく、静かにモニカを指差して示す。
バンドやバックダンサーとの幾度目かの打ち合わせが済んだのか。
実際に演奏しながら曲に合わせて彼らは動きと立ち位置などの調整を
何度か続けている。それは完全にその分野のプロたちの職場であり戦場。
門外漢であるシンイチとミューヒが手や口を挟める所ではない。だが。
「その耳で聞こえてるだろう、あいつがさっきからうまいこと
のらりくらりと何を躱しているのか……そもこれが何のイベントかを
考えればさっきから一度もしないのは素人でもおかしいと思うだろう」
「うぅっ、それは……」
素顔の狐耳を右往左往させながら目を泳がすミューヒ。
人を見る目においては─格差はあるが─彼らに勝る者はそうそういない。
だから彼女の様子がおかしい事は危険物を探し出した辺りから察していた。
そしてそれはこのリハーサルが始まって二時間を超えたいま悪化している。
マネージャーたちも事ここに至って怪訝な顔をしているため様子がおかしい
ことには勘付き始めているが原因までは分かっていまい。ゆえに。
「あいつ、どうして歌わないんだろうな?」
シンイチは軽々と、だが問題点を容赦なく隣に叩きつけた。
彼女はそれに苦笑いを浮かべるしかない。否定も誤魔化しも出来ない。
なにせ心当たりがあり過ぎた。
「あはは……はぁ」
初めて仕事をする面々というのもあるのだろうがモニカは先程から真剣に
会場での音の響きやバンドの演奏、音響機器の調子を自らの耳で確かめている。
それこそ会場のあちこちに足を運んで場所によって大きな差が無いように、
自らの声が最後列まできちんと届くように。しかしながら肝心要の「歌」を
彼女は何かと理由をつけては後回しにしていた。無論これは前日の、しかも
初参加の人間を多数入れた後でのリハーサルだ。慣れている者達とはいえ
アーティストが変われば細かい所で違いがあるらしく全体の流れや各々の役割、
歌い手の拘り等の把握が優先されている。とはいえ確かに曲目全てをフルで
歌う必要はないがいくらかはその声を響かせるべきだろう。他がいくら完璧
でもそこに何らかの不都合があればすべてが台無しなのだから。
「思い当たるコトがいくらかあるんだがな、雇われ護衛A」
「奇遇ですねぇ、私もです雇い主B」
共にモニカから視線を外す事はなかったが、声と共に白状しろと
いわんばかりに向けられる圧力に彼女は声を震わせながら何とか返した。
そして訪れる一瞬の空白。無表情と苦笑の間に流れるものはひどく重い。
「で?」
「ごめんなさいっ」
一文字の催促を前にお察しの通りですと彼女は即座に白旗を振った。
弱々しい声での自白に彼女の本物の耳と尻尾は力無く垂れ下がる。
それに小さくため息を吐いたシンイチは「違うだろ」とこぼす。
「え?」
「俺に言ってどうする、あとできちんとお前が本人に伝えろ」
意表をつかれたように目を瞬かせたミューヒだが、
すぐにその通りだと納得したのか頷くと仄かに笑った。
「うん………けど君ってなんか叱り慣れてるよね。
いたことないのに、ホントお兄さんって感じがする」
真実『兄』であることを彼女は勘付いているがそんな続柄の話ではなく、
態度として、雰囲気として、接し方として、シンイチは常にいわば“兄性”
ともいえるものを感じさせていた。尤もその評価に彼は渋い顔を見せる。
「悪かったな、誰に対しても兄貴面してて」
「へえ、一応気にしてたんだ……ふふ、お兄さんは大変?」
彼の不貞腐れたような態度にミューヒがそうクスリと笑えば首を振る気配。
「別に、それしかしてこなかったし、それしかできねえから大変も何もない」
「それはなんとも筋金入りの不器用者だねぇ」
「てめえ、どういう意図で喋ってやがる。言葉が二重に聞こえたぞ」
発言者の意識すら読み解く高性能な翻訳機の弊害か恩恵か。
何やら妙な単語を兄と読んでいる気がして半眼となるシンイチだ。
「あはは、すごいでしょ?」
「確信犯め………ぬ、ついに限界が来たか」
狙ってのことだったという自白に文句を連ねる気だった彼だが、
ずっと目を離していなかったモニカの所でひとつ変化が起きた。
これまで彼女はうまく歌わずにリハーサルを続けてきたが、
もう後回しにできる材料が無くなってしまったのだろう。
舞台上のメンバーは─当たり前だが─当然のようにセッティングを
整えて、衣装や演出面を除けば本番さながらの配置と準備を終えている。
あとはもう合図一つで演奏が始まり、バックダンサーたちが舞い、
主役の彼女が歌いだすだろう─────いつもの通りなら。
「ありゃダメだ」
「あちゃぁ…」
モニカ自身も既にステージ中央のマイクスタンドの前に立っている。
その顔は今が本番だといわんばかりの真剣さと自信に満ち溢れたもの。
しかしその顔に不安と恐れがあるのを彼らは正確に見抜いていた。
止めるべきだとミューヒは思った。今の彼女は歌えない。
そう考え足を踏み出したがその動きはシンイチに肩を掴む形で止められる。
なぜ、という視線を向けるが彼自身はモニカを見詰めたまま黙って首を振った。
それが答えで、その意図を察した彼女は迷いつつも頷いてモニカに視線を戻す。
そこではもう演奏が始まっていた。さすがプロのバンドか。あるいは今の
時代を象徴する歌姫の有名曲だから公私問わず演奏経験があったのか。
初共演とは思えぬ素人耳にも分かるほどの見事な演奏で軽快でポップな
曲が奏でられていく。それを彩るようにダンサーが舞い、前奏が終わろうと
するタイミングで強くマイクを握りしめたモニカは声を張り上げんと口を開いた。
「っ、ぁ……ぅ……!?」
だがマイクが拡大できた音は彼女の息が詰まったような声ならぬ声。
当然始まるはずだった歌が始まらなかった事に演奏もダンスも止まった。
それに誰よりも彼女自身が愕然としていたが近寄ってきたスタッフに気付くと
笑顔で答えつつ、止めてしまったことを謝罪するともう一度を求めた。
「あの意地っ張りめ……外は任せる」
これにここまで無表情だった顔を不快そうに歪ませた彼はミューヒに
一言だけ残すと静かながら速い足取りでモニカへと向かって行く。
「はいはい、そうやってまたポイント稼いできたらいいよ」
その背にミューヒはそんな揶揄を飛ばすが彼は振り返る事もなく、
されど声すら不愉快なそれに変えてこんな言葉を返してきた。
「バカをいうな、これはただの同族嫌悪だ」
「え?」
戸惑う彼女を放置してシンイチは足音さえ立たずにモニカの前に立った。
さすがにその距離まで近づけば周囲は訝しげな視線を彼に向けてくるが、
モニカはマイクを握ったまま目を瞑って精神集中していて気付かない。
が。
「OK、大丈夫。もう一回…へ?」
「何が大丈夫だ、このたわけ」
目を開けた途端に眼前にいた彼の存在に呆けてしまう。彼女の目には
普通にその素顔が見えているがそこには明確に『不機嫌』と書いてあった。
それをモニカが認識した瞬間にはもう彼の手は動いた。
「っ、たっ!?」
彼女の顔を左右から挟むように叩く、という動作で。
後から呼ばれたスタッフ達はいきなりのそれに愕然として固まっていたが
数少ない残っている者達は、なんだあいつまたやったのか、と流していた。
短時間で慣れ過ぎてしまうほど彼の問答無用の捕物は濃厚だったようだ。
「な、なにひゅるのよ?」
「ふん、間抜け面しやがって」
「はぁっ!?」
あなたがやっておいて何を、と咄嗟に彼の腕を弾いたモニカだが文句を
言う暇もない程の早業で弾かれたはずの腕はもう彼女の腰を掴んでいた。
「え、わっ、なに、きゃあっ!?」
「ふむ、思ったより鍛えているな。歌手は体力勝負というのは本当だったか」
そして彼女が事態を把握するより前にあっさりとその体を持ち上げる。
同時に妙な感想を呟かれたが彼女からすればそこにまで意識がいかない。
一瞬の浮遊感と皆の目という羞恥に暴れるモニカだが全く意に介されず
そのまま肩に担がれてしまう。
「ちょっ、ちょっと何、なんなの!? 下ろしなさい! まだリハが!」
「休憩」
「は?」
胡乱げな声を無視してマイクを代わりに握っていた彼は今度は周囲に
届くように簡潔に、淡々と、そして有無をいわせない雰囲気で告げた。
「30分の休憩を取る。各自、休め」
それへの反応を見ることもなく、下ろしなさいと彼の背中を叩いて暴れる
モニカを完全に無視してそのままステージ裏へと易々と運んでいく。
またか、と流しかけていたマネージャー達もこれには慌てて後に
続こうとしたが。
「あとはうちの雇い主に任せてくれませんか?」
声色と表情だけは優しさを見せて立ちはだかった女護衛に邪魔される。
その笑顔の圧力に怯んだ彼らはその後、裏に近寄る事もできなかった。
「ちょっと今度は本当になんなのよ!?」
簡易控室に連れ込まれた彼女はそこらのパイプ椅子に座らされた。
怒鳴り声の文句に彼は答えることなく、向かい合う位置に椅子を動かすと
黙って腰かける。何が目的だと強く睨むモニカを真正面から見据える顔は
感情の読めない無表情。それに思わず彼女は息を呑んだ。自身ですら
なぜそんな反応をしてしまったのかもよく分からないまま。
「報酬の追加請求だ」
「……なんですって?」
結果その隙をついた形で告げられたのはそんな要求で彼女は余計に困惑する。
「思ったより仕事が大変でな、割に合わなくなってきた」
「追加は構わないけど、リハ中断させてまで言うこと!?」
しかし元々からチケット一枚では騒動料を差し引いても安いと
考えていたモニカからすればそれ自体には思うところは何もなかった。
ただ仕事に割り込んできてまで主張することなのかと半ば反射的に怒鳴る。
が。
「気にするな、俺は気にしない」
「なんであなたが気にするかどうかが基準になってるのよ?」
柳に風。否、そも風とさえ認識してもらえなかったのか。
淡々とさも当然のようにそう返されてモニカは頭を抱えた。
「しかし散々報酬で揉めたのも記憶に新しい。何を追加すべきかは俺も悩んだ」
「あぁ、私の意見は聞く気も答える気もないのね………」
「だが冷静に考えればなんてことはない。俺は何を抜けていたのか。
何も痕跡が残らない報酬をお前は持っていたというのに」
「前置きはいいから、何が欲しいの?」
何を求められても渡してしまおう。そしてすぐにリハーサルに戻ろう。
そう考えていた彼女にその要求は届けられた。
簡潔にして、それ以上は無い言葉で。
「歌え」
「は───────?」
それは非常に間の抜けた声と顔であった。
彼女はこの時、本気で何を言ってるのか理解ができなかったという。
あるいは解らなかった事がいまの彼女が正常では無い証左だったのだろう。
だがシンイチはそんな困惑など知ったことかと独りで話を進めていく。
どこか不敵な笑みさえ浮かべて。
「歌で金稼いでるんだから、歌で支払ってもらえば良かったんだ。
どうせ明日はゆっくり聞いてる暇なんかありゃしないからな。
教会で散々偉そうなこと言ったんだ。さぞいい歌声なんだろう。
これで期待外れだったらまた報酬で頭を悩ます事になるから
ぜひとも俺を満足させる歌唱を響かせてほしいねぇ」
出来るものなら。
表情と目線で言外にそういって偉そうに椅子の上でふんぞり返る少年。
その視線は確実に彼女を見下し侮る小馬鹿にしたものであり、モニカは
頬を引き攣らせるもそのまま我慢しきれずに立ち上がった。
「あなたねえっ!─────ぁ」
だがしかし。途端かその途中にか。
彼女は沸き上った激情とは別に、ひどく優しい声が頭を過ぎった。
それに力を奪われ、落ちるように椅子に座りこむと顔を手で覆う。
恥ずかしいのか悔しいのか可笑しいのか。複雑な胸中が表情に
出てしまうのを隠すために。
「うぅ……またしてやられる所だったわ。でもね、さすがに
同じ日に同じ手に引っ掛かるほど私は間抜けじゃないわよ!」
その中で悔しさだけを前面に出しながら、馬鹿にするな、とばかりに
強い視線で少年を睨むモニカにだが彼はとぼけたように首を傾げる。
「ふぬ?」
否、むしろ何を言ってるんだこのバカは、とでも言いたげな侮蔑の
表情は変わらず感情を逆撫でしてきたが彼女はぐっとこらえた。
「っっ、まったく……確かに抜けてたわね、あなたじゃなくて私が。
子供の挑発にいいように動かされて、今度は励まされるなんて……」
情けない。と声なき声をもらすように彼女は力無く首を振る。
その様子を見てか途端にシンイチからモニカへの悪しき態度は消えた。
まるでスイッチが切り替わったように。まるで最初からそんなものは
存在していなかったかのように。
「…大変ね、お兄ちゃんは」
やはり、とその反応にモニカはそんな揶揄と共に微苦笑を浮かべる。
呆れも多分にある表情だが理解を示す肯定的なものでもあった。
「なにがいいたい?」
「わかっちゃったのよ。
やりたい放題、言いたい放題してるようで実際はそうでもないって。
あなたは必要だと思ったコトを効果的だと思う方法でやってるだけ、なのね」
出会ってからまだ一日も経っていない相手。だがそれでも異常な濃さを
見せつけられた彼の言動は、だがモニカにはいま違う見方が出来た。
あるいは最初からそう見えていたのを自覚できた、か。
彼が周りを振り回しているのではない。
彼が周りに合わせているだけなのだと。
「私は怒らせた方が動かしやすいとでも思った?
目論み通りカッとなっちゃったけど、さっきの偉そうな要求なによ。
『心配するな、俺が聞きたいから何も気にせず歌え』って聞こえたわよ?」
だからこそそれは『兄』のやり方だ。
器用ではない、が頭につくタイプの。
少なくともモニカはそれを他にどう表現するのかを知らない。
「……………」
シンイチはそれに無表情の無言という対応をした。が、そんな
否定も肯定もしない態度が何よりも雄弁に語っていたともいえる。
それ以前にモニカにはそれは幼い子が内心を隠そうと必死で虚勢を
張っているようにしか見えない。その頑張りを普段なら微笑ましく思うが、
気付いてしまった以上は用意してくれた道にただ乗っかる事はできなかった。
それが大人の意地なのか年上のプライドなのか彼への気遣いなのか。
当人ですらよく分かっていなかったが懇々と語るように指摘していく。
「振り返ってみれば全部そう。子供達の世話の仕方も、私の煽り方も、
子供達を傷つけないで教会に留まらせたのも、やってることはみんな同じ。
……相手の気持ちや願いを尊重しつつ、でも安全も考慮した道筋を示す。
違うのは相手や状況によって言葉や態度を変えているところかしら」
だから彼は周りに合わせているのだ。
しかしそれは空気を読んでただ同調するのとは違い、
相手を見極めて必要なモノを提示するやり方だった。
時に故意に怒らせ、時に自尊心をくすぐり、時に意表をつく形で。
ただしそれらの手段に対する自らの好悪を無視して、だが。
「よく上の子は我慢させられるっていうけどあなたは自発的よね。
最悪相手にどう思われようとも構わないってだけじゃないわ。
そのやり方をあなた自身がどう思っているかも構わずにやるんだから」
呆れるわ、とこぼしながら彼女は肩を竦めた。
今日一日だけでも彼は意図的に周囲の者達の感情を良くも悪くも操った。
目的は正しくともそのやりようはあくどく見える部分がある。
周囲からは勿論、何より自分自身からも。
あれだけたくさんの子供達に気を配って遊んでいた少年が周囲の感情に
鈍感なわけがない。その卑怯さに気付いていないとも思えない。
ただそんな己の嫌悪や迷いよりもそれで得られる結果を優先しただけ。
「考えてみれば当然の話だったのよ。いくら時間が無いからって、
あんなに子供達を慮ってくれたあなたが問答無用で周囲に暴力を
振るうのを何も思ってないとか逆にあり得ないもの……嫌だった、でしょ?」
語る内に思わずという形でこぼれ出た声は心底から彼を気遣うものだった。
向けられた彼は少し困ったような顔をしていた。だがそこには内心を
隠そうという虚勢はなく、照れ臭そうにしている少年がいるだけ。
「……………好きだというほど粗暴ではない、とは思っている、つもりだ」
そして少しだけ待った後にやっと返ってきた答えは優柔不断で曖昧。
これにはモニカもつい笑ってしまう。
──実際乱暴な手段が好きではないがはっきり嫌だったというのも
相手が気にするだろうし、かといってここまで見抜かれてては
誤魔化しようもない。なら、具体的な断言は避けて茶を濁そう──
といったところだろうとモニカは読む。
言葉は解り難いのに、その裏はとても解り易い。
彼女がよく知る面倒見のいい年長者にありがちな思考だった。
「でしょうね、ふふ。リハ前の言葉は修正するわ。
あなたは誰が相手でもお兄ちゃんをついやってしまう男の子。
自分のことだけは怠け者で直す気がないのが玉に瑕な、ね」
「……悪かったな、色々下手くそで」
彼自身も否定しきれない話だという自覚はあるのだろう。
苦虫を噛み潰したような顔をして悪態をつくが言葉自体は受け入れている。
素直ではないように見えて、逆に素直に見える態度に彼女の頬が緩む。
「それも…」
「ん?」
「それもあそこで色んな子供達を見てきた経験って奴か?」
やられっぱなしは癪だったのか。単なる話題の変更か。
問われたモニカは少し目線をあげるようにしながら考えて、頷く。
「……そうね、うん。
でもそう考えるとあなたが次々と色んな人を襲ってた時に見せた
硬いというか敵意や疑心丸出しの態度も昔よく見たものだったわ」
「は? そんなもんどこでだよ?」
「信じられる大人がいない時、自分より小さい子達を守ろうと
気を張って近付く相手を全部睨んでたような子とそっくり。
ふふ、そう思うとなんとも微笑ましい騎士っぷりだったわね信一くん?」
意味ありげに初めて名を呼びながら余裕たっぷりに微笑むモニカ。
これにはシンイチも変えたはずの話題が結局戻ってきたからか。
揶揄されたことに思い当たる事があるためかその顔に苦みが増した。
「っ、はぁ…………武史にまるで変わってない呼ばわりされるわけか」
そして同時に溜め息と舌打ちをするという器用なことをしながら
何事かを呟くとどうしようもないとばかりに彼は頭を振った。
「なにか言った?」
「別に、ただ………それが解るモニカお姉ちゃんはどうなのかな、と」
その切り返しに一瞬、息が詰まったのを彼女は自覚した。
優位に立っているという油断をついてその言葉は見事に刺さる。
しかしモニカはそれに余裕を持って笑ってみせた。
「あら、私は大人だもの。これぐらいは普通でしょ?」
が。
「うまく逃げるものだ。
俺には自分の経験を語ってるように聞こえたがね、お姉ちゃん?」
そういうことだろ、といわんばかりの不敵な笑みと視線。
無難に逃げたつもりがこうあからさまに見透かされると格好がつかない。
大人の笑みはみるみる崩れて半眼で睨むようなそれになっていた。
概ねでシンイチの指摘は間違いではないからだ。幼き日の彼女には
そういう所があった。ただ信頼できる大人であるシスターがいたおかげで
彼ほど極端にはならなかったというだけの話。だから気になったのだ。
この少年にはそういった大人がちゃんと周囲にいるのだろうかと。
人の動かし方は熟知していても頼り方を知らなそうな少年はまだ
『迷子』のように彼女の目には映る。しかしそれをどう伝えればいいのか。
そもそも指摘したところで軽く流されてしまいそうな気配が彼にはある。
それではおそらく意味がない。
「………」
「………」
だから、表面上は兄の不遜と姉の睨みがぶつかりあっている。
目を逸らした方が負けと言わんばかりの睨み合いはだが唐突に兄側が下りた。
仕切り直すように目を瞑った彼は背筋を正すと椅子に座り直す。
たったそれだけで少年の気配はがらりと変化し、どこか居丈高にも
思えた空気感が一気に柔らかなものへと塗り替わる。
「ここからは兄・姉同士ということで隠し事や虚勢は無しでいきませんか?」
口調も整った─歳の差からすれば妥当な─ものに変わって面食らう。
偶然か意図してか。元より答えなど求めていなかったのか彼は
拒否の声があがらなかったのを良しとして言葉を続けた。
「まずは言いだしっぺの俺からでしょうね──────すみませんでした」
「……え、え…ちょ、なんで謝ってるのよ!?」
たっぷりおよそ10秒。彼は座ったままなれど頭を下げた。
これまでがこれまでゆえか度肝を抜かれたモニカは狼狽える。
そもそもにして何に対して謝られているのかが分からない。
その困惑の中。
「でも大丈夫────誰の悪意も殺意も君には届かせない。絶対に」
「っ」
顔を上げた少年は何も気負ってもいない穏やかな相貌で突然そう断言した。
不意打ちだった。紛れもなくモニカが予期していなかったタイミングで、
彼は問題の核心へ一気に、されどガラス細工にでも扱うかのように
繊細に触れてきた。そこにある不安などもう無いと言い切って。
「ぁ……っっ!?」
予兆もなく、余地も無く、沸き上り、溢れ出そうなモノがあった。
見られまいと思わず椅子ごと振り返るように少年に背を向ける。
それから堪えるように拳を握り、歯を食いしばったが、手遅れ。
堰を切ったように頬を濡らすものがあった。
極寒の地にいるかのように体全体が震えていた。
顔色は青白く染まり、歯はかみ合わず、呼吸が覚束ない。
彼の断言は優しくはあっても刺激は刺激。意識的にせよ無意識にせよ。
モニカがずっと避けていた事柄をどうしようもなく認識させてしまう。
そうだ。彼女は事ここに至ってその感情をようやく認めた。
───怖かった
教会の揺れ。悲鳴をあげる子供達。倒れた育ての親。
迫る銀の弾丸。それに込められた自らへの濃密で狂ったような殺意。
だから全てはモニカひとりを殺すために起こされた事だと誰に聞くまでも
なく理解させられた。そう、何かひとつ違えば自分一人が殺されただけでは
決して済まなかった。それはライブ会場に潜まされた悪意があらわに
なればなるほどより色濃くなっていく恐怖と罪悪感。
───怖い
脅しに屈するのを良しとしなかった選択とプライドは彼女だけのもの。
それにここまで多くの者が巻き込まれることを彼女は予想していなかった。
殺意の強さに怖気づく自分がいる。悪意の多さに泣きそうになる自分がいる。
千の銃口、万の刃に囲まれているような錯覚を前にして、少年が
リハーサル前に問いかけた言葉の意味が唐突に分かった。
彼は言った。それだけかと。ついて回っていた理由はそれだけかと。
違った。無意識のこととはいえ気付かされて卑屈に笑いそうになる。
全てが怖かったのだ。全てが信用できなかったのだ。だから確実に自分を
守ってくれると思える相手から離れることが恐ろしかった。
──なんて格好悪い
あれほど偉そうに語ったくせに結局は怯えていたのかと卑屈に己を蔑む。
しっかりしなさいと自らを叱咤しても涙は止まらず、震える胸に虚しく響くだけ。
殺される所だった。もしかしたら誰も彼も巻き込んで。
そしてその危険は今もまだ続いている。終わっていない。
ふたりが自分を守ろうとしてくれているのは分かっていた。
その能力があるのもここまで見ていれば微塵も疑いようもない。
そこに対しては教会を出る時にシスターも太鼓判を押してくれた。
意思があり能力がある。普通ならばそれで充分だったが今回だけは違う。
そこには一つある問題が欠けていた。
──彼はどうしてっ……どうなるというの!?
「っ……え?」
気を緩めれば口から飛び出して喚き散らしそうになる悲鳴を押し込める。
けれどまるでその瞬間を狙ったかのようにナニカが下りてきた。
涙でぼやけた視界では咄嗟に判別することは出来なかったが、
糸状のソレが頭上から顔を横断した首元に巻かれた時点で気付く。
何かのペンダントであると。
「……これ、は?」
首裏で金の鎖を留める金具を締めた音がする。
この場にいるのは自分の他には彼だけなのだからそれが誰の仕業かは分かる。
何よりコレはここに来る前に忘れまいとしっかり彼自身に返した代物。
決して上等な造りではないけれど、どうしてか感触が柔らかく、
簡素な三日月の細工にどうしてか惹かれたのは記憶に新しい。
「お守り、みたいなものです。持っていてください」
背後から優しい声が降ってきた。そこで初めて彼が今まで沈黙して
くれていた事に気付いて騒がしかった胸中が少し静かになった気がした。
心の波が少し鎮まるまで待っていてくれた事に感謝を抱きながら
胸元で揺れる三日月を見下ろす。
「……でも、あなたこれ大切な物だって…」
確かそんなことをいってはいなかったと振り返らないまま問うた彼女に、
されど少年はなんてことはない口調でその来歴を明らかにした。
「はい……命の恩人で、きっと初恋相手だった女性の形見です」
「そう………えぇっ!? ちょっ、そんなの受け取れないわよ!!」
あまりにも平然・平静と語るので聞き流したかけたモニカだったが、
言葉を理解した途端立ち上がって彼に詰め寄っていた。
しかしそこまでの激しい反応は予想外だったのか。
目を瞬かせて面食らったシンイチだが、仄かに笑うと頷く。
「ええ、ですから貸すだけです。
明日全てが片付いたら、君の手でちゃんと返してください。
それ以外で受け取る気はありませんので気を付けてくださいね」
そして今度は彼女が眼を瞬かせた。
なんとも無駄な部分の多い、且つ本音が解り易い言葉であろうか。
またそれ以上に浮かべた笑みがあからさまなほどに、胡散臭い。
「ぷ、くくっ……ふふっ、あなたそれ狡いわよ?」
これにモニカは堪えきれず噴き出すように笑ってしまう。
『五体無事に守り切ってみせるからその後君の手で返してくれ』
ただそれだけを伝えるのにどうしてそんなに歪曲した物言いなのか。
安心させるためにするべき表情をそこでどうして疑わしくするのか。
色んな意味でそれはあまりに狡くて、笑いが止まらない。
涙が目に溜まっている理由が別のものになってしまうほどに。
されど当人はしれっと分かっているというように頷くだけ。
またうまく乗せられたようだがこれは拒否できないと受け入れる。
一つだけ注文をつけて。
「いいわ、ちゃんと私から返す。けどその敬語もどきはやめて。
あなたがそういう口調してるとかえって不自然で気持ち悪いわ」
「ぬっ」
これに音を立てて表情を崩した彼がひどく苦々しい顔で頷いたのを見て
彼女は余計に笑った。シンイチは「毎回どうして不評だ」と納得いかない
様子だがモニカが笑うのを止めようとはしなかった。
「──────すまなかった」
代わりに、ひとしきり彼女が笑い終わった後で口にしたのは二度目の謝罪。
もう一度向かい合うように座り直していた彼らだが、モニカはそもそも
最初の謝罪の意味もよく分かっていなかった。そのため目で問いかけると
シンイチは反省するように語った。
「俺たちはどうしても荒事が当たり前にある方の世界で生きてる。
だからそうじゃない場所で生きるヒトたちと感覚がズレてしまう。
お前が気を張ってたのには気付いていたが、程度を勘違いした。
護衛としてその配慮を怠ったのはこっちの落ち度だ。すまない」
そして再び頭を下げて謝意を示す。
これにモニカの頭をまず過ぎったのは「律儀」「真面目」「苦労性」の三つ。
自分でも謝罪を向けられて思うことではないと胸中で反省はしているのだが
そう思ってしまったのだから仕方がないと開き直ってもいた。
「…言ってもどうしようもないことなんでしょうけどねぇ」
教会でも見たこの少年のそれらは染みついて離れない性分だろう。
今更誰かに何を言われたところで変わることなどあり得ない。
大人としてはそれでは色々大変だと窘めたい所ではあったが、
自分を曲げるのが苦手な先輩としては大いに理解できてしまうので困りものだ。
「……何がだ?」
「なーんでもない。
ただ、自分が普通じゃないことに負い目を覚えなくてもいいんじゃない?
確かに世の中普通の範囲に収まっている人が大多数でしょうけど厳密には
“普通の人”なんてそれこそどこの異世界探したっていないでしょう?」
だからその次に気付いた事を彼女は指摘する。彼の言葉には一番に
そこに気付けなくて申し訳ないという感情があった。けれどその裏には
どこかそんなことも分からなかったのかと自らを責める色が見えた。
普通ではなくなってしまった自らを非難する音が聞こえた。
「それは……」
「だいたいそこで暗くなられちゃうとそのおかげで助けられた上に、
いま守られてる私の立つ瀬がないじゃないっ……しゃんとしなさい!」
強く、されどしっかりとした声が少年を激励するように響く。
そこは誇るべきでしょうと訴えるモニカの目は真剣で、嘘がない。
そしてそれを宿したままみんなの姉貴分は幼子に向けるように柔らかに微笑む。
「守ってくれるんでしょ? 色んなモノから、絶対に」
ふんわりとした微笑には信頼があった。だがそれ以上に不敵さも隠れていた。
自分でそう言ったからには二言はないでしょうね。と言わんばかりのそれが。
その意図、というか本意をシンイチは察したのだろう。クスリと笑うと
おどけて参ったというように肩を竦めてみせた。
「お前の身の安全だけは絶対だ……それ以外は努力するとしか言えんがな」
そしてそんな強気なのか弱気なのか分からない言葉をこぼす。
この少年の性格上、不確かなことを言いたくないのだろうと察する。
尤もそれにモニカは、自分は絶対に大丈夫なのだ、と安心すべきか。
そんなところも律儀で真面目かと笑うべきか。少し悩んだ。
「そう、じゃあ期待してるわ。頑張ってね、お兄ちゃん」
満面の笑みでの兄呼びで励ましを与えることにした彼女に、
嫌そうな顔をした彼は正確に意図を把握しているのだろう。
「なんとも嫌な姉貴だ」
「それはどうも」
嫌味を何でもない顔で流せば、彼の方が諦めたようにため息である。
しかしそんな兄・姉呼びが刺激となってかモニカは彼の言葉を思い出していた。
「ねえ、いま隠し事は無しなのよね?」
「ああ」
短い返事は肯定を示し、その目は来るべき質問を待っているようでもあった。
ならば聞くしかない。歌えなかった理由の半分を自覚した今となれば
残りを明確にしなくては自分は歌えないのだから。
「─────私の歌で、あなた死ぬの?」
「ああ」
それは一瞬前の返事と全く同じ言葉で、全く同じ声だった。
日本語としては成立していない会話だが彼は分かっていたのだろう。
どこでそれを聞いたのかも。それが歌う事にブレーキをかけたのも。
「勿論、比喩的な意味じゃないぞ?
もう気付いてるだろうが意識してないとお前の声や気配に反応できない。
不意打ちで歌なんて聞いたらあっさりと無防備になって多分やられる」
「それでもあなたは───────私の歌が聞きたいの?」
追加報酬などという方便を利用してまで。
本来ここで聞くべきは「それでも自分を守るのか?」辺りが妥当である。
あるいはどうしてそんな状態になるのかの説明を求めるべきだろう。
その疑問は当然彼女の中にはあったが、しかしモニカはそれらよりも
その答えが“なんであるか”を知りたかった。
「もちろん!」
「………」
ある種、決死、にも近い覚悟を込めた問いに簡潔な答えが即座に返った。
不必要な間も、躊躇いも、虚勢もなく、彼は当然だといわんばかりに頷く。
けれどそこにあった表情は大人ぶったものでも、虚勢を張った無表情でも、
世話焼きで不器用な兄でもなかった。
「俺、音楽とか全然わからない素人だし、教会で聞いたのはただの童謡だ。
それでもすごいと思った。心が震えるってのはああいうのをいうんだって。
あんな歌声があるのかって、すっげえっ感動した!」
「……」
拙くも拳を握って力説する彼はその目の輝きを隠そうともしていない。
否、そんな顔をしているのかさえ本人は気付いていないかもしれない。
モニカを見詰める瞳は見ているこっちがハッとさせられるほどに
キラキラとしたものがあって逆にモニカの方が目を離せなかった。
だってそれは彼女が全く想定していなかった返答で、彼女に最も
強く響く想いであり眼差しだった。
──キレイだと思ったんだ
「……そんなのこっちの台詞じゃない」
「へ?」
脳裏に過ぎった声は同時に彼女の始まりの記憶さえ呼び起こす。
ああ、自分がこの道を選んだのは誰かのこんな目を見たからだった。
ならその答えなんて決まっている。
「いいって言ったのよ……ええ、リハだからって加減なんかしないわ。
このモニカ・シャンタールの本気の歌、死ぬ気で聞いていきなさい!」
声が、旋律が、歌が、果てが無いはずの空間を埋め尽くしていくかのよう。
「────────────!!」
衣装ですらないラフな格好。舞台の飾りは足りず、演出は何もない。
そこにあるのはたった一人の女性による、しかし全力の歌唱だった。
まさに世界を震わすような、天にさえ届きそうな美しくも力強い歌声。
だがそういったモノにはなんであれ一定はある『怖さ』がない。
確かな暖かみと柔らかさが聞く者の胸に響き、染み込んでいく。
誰しもを魅了するそれはスタッフたちすら仕事を忘れさせていた。
聞き慣れているだろうマネージャー達ですら中々我に返らないほどに。
「へぇ、モニカは生の歌が最高って話ホントだったんだ!」
「らしいな」
その光景を横目にステージ横で歌う彼女を見守る護衛が二人。
テンポは違うが共に歌声に乗るように体を左右に揺らしている。
ミューヒに至っては獣耳までひょこひょこと音楽に乗っていた。
しかしそこへ妙に興奮した女性たちの声が届く。
『やったっ、モニカの生ライブよ!』
『まさか仕事中に聞けるなんて、役得、役得!』
『応援要請ですっ飛んできた良かったわ!』
『ええ、日本にいてラッキーッ……て、え、ああっ!
盗み聞き用の回線、開いたままだっ、た……』
『え?』
『あ、ほんとだ………わーーーっ!?!?』
『ちょっ、あ、違うんです隊長!!』
『ごめんなさーい!!』
彼女達の間抜けな一幕は少年は見逃したが、上司の方は
額に青筋を立てると思念通信での怒声で彼女らの鼓膜を震わせた。
シンイチは歌を楽しみながらも面白そうに笑っているが。
あれからモニカはシンイチに啖呵を切った後、完全に憑きものが
落ちたような顔つきでステージに戻って見事な歌唱を披露し始めた。
まさに宣言通りの本気の歌声。加減無しの、稀代の歌姫たる所以を
これでもかというほどに響かせていた。
「……これもう3曲目だけどリハでこんなマジな声量出しちゃって平気なの?」
ミューヒは意図的に先程の一件が無かったかのように話題を変えてきた。
自慢の部下としてサポート要員以外も呼び寄せたというのにあれだ。
本来なら穴があったら入りたい心境である。いつもの笑顔を浮かべているのは
常日頃の努力の賜物か護衛としての仕事を引き受けた責任か。
心情を慮ってか深くは聞かずにシンイチは答えた。
「俺も本気で歌って明日大丈夫かと聞いたんだが、本人曰く
『たかが2、3曲本気で歌った程度で潰れる喉してないわ!』とのこと」
「それもそうかぁ………で、それをこんな間近で聞いてる君はどうなの?」
納得しつつも尻尾まで揺らしていた彼女はついでとばかりに問う。
変わらずの笑みを装っているが、声には案じる色が混ざってしまっていた。
それに彼も体を揺らして歌声を堪能しながらもしっかりと答える。
「不意打ちでなければどうとでもなる」
「あはは、やっぱり対策済みかぁ」
やるぅ、と彼女は高揚した気分のまま半分ふざけて隣へ肘打ちを繰り出す。
半ば心配して損したといいたげな一撃はぐらりと大きく彼を揺らした。
「え?」
「やめろ、痛いっ。ってか対策なんて何も機能していないぞ」
「は?」
返ってきた言葉があまりにも予想外だったせいか。
さしもの彼女も表情を凍りつかせながら視線どころか意識も隣に向ける。
そこでは楽しそうに笑っている彼がモニカの歌に聞き惚れ、揺れていた。
「あらゆる方法で音の遮断をしているのだが、何故か聞こえる
俺の耳に届く前に別の音で打ち消してみたが、何故か聞こえる
属性的に緩和できそうな結界でも張ってみたが、やっぱり聞こえる。
これは、俺の全ての力を超えた歌だ」
なんて素晴らしい。と何故か感心したような声に、痛くもない頭から
強烈な痛みを感じて眩暈を起こしそうだったミューヒである。
「しかも正真正銘彼女自身の歌を本気で歌っている。
漏れ聞こえてただけのさっきのとは段違いだ、ああ、胸が滾るっ!」
柔らかな表情なれど幼子の向ける憧憬の輝きを見せるシンイチ。
だが顔色そのものは青白い。日が落ちてきているため分かりづらいが、
この距離ならミューヒにははっきりと見えていた。
「……つまり君、単にやせ我慢してるだけ?」
曲に乗ってると思われた体の揺れも単にふらついているだけなのか。
「うん」
そんな懸念さえ込めた言葉はいとも簡単に肯定されてしまった。
ふざけているのだろうかこいつは。無性に殴りつけたくなるのを
彼女は必死に抑えた。
「どうやら彼女の歌声を防ぐ方法はそもそも彼女に歌わせないか。
物理的に届かない距離に離れるしかないようだ。一つ賢くなったな!」
「それはおめでとう……けど、それなら明日の配置は」
「言っておくが俺は彼女から離れる気はないぞ」
「………」
そう言うと思っていても声なく額を押さえてしまう。頭痛が痛い。
この男の場合は問題点を全部理解したうえで言っているのだから余計に。
尤もそれは能力低下が護衛を務められる範囲だったからだろうが。
「それ、彼女は一番安全だけど君は一番危険だよね?」
ただその事実だけは変えようがない。しかし。
「ある意味特等席でタダ聞きだ。お釣りが来るというものだろ?」
そちらの方がお得だと。
むしろその危険手当が目的だと。
楽しげに笑う彼にミューヒは溜め息を吐く。
「君は自分を安く見過ぎだよ」
「あははっ、値段は安いさ……ただ、誰にでも買わせるつもりはない」
「へぇ、なら誰になら売るの?」
「さて、今の所は時間以外に売る気はないよ」
寿命以外に殺される気はないと不敵に笑う彼の横顔に、だが三日月は無い。
どこまでも子供のそれのような幼さと生意気さと“熱”がある。
顔色は最悪でも、どこまでも彼はそれに浸っていた。
「まったく君は………今回だけは気持ちわかっちゃうのが癪だよホント」
そう言いながら彼女もまたモニカの歌声に身を委ねて微笑む。
ああ、確かにこれは心が躍る。奴らにくれてやるのは、実にもったいない。
この日、歌姫モニカ・シャンタールはそうとは知らぬまま
裏社会で知らぬ者はいない『無銘』最強の赤槍とその配下達を、
そして二つの世界をたった一人で引っ掻き回した仮面をその歌で虜にした。
それを彼女が知る時はおそらく来るまい。だがそれは間違いなくモニカ自身の
功績であり力であり─────後に多くの運命を変える事になる偉業であった。