存在しなくなった男
この物語はフィクションであり、実際するいかなる地名、人名、出来事とは一切関係ありません。
『存在しなくなった男』
今日のようにどんよりと曇った日には、どういうわけか何もやる気が起きない。それはこの男、ジョニー・ローゼンバーグの生まれついての性格である。しかしこの場合、性格は特に問題ではなく、彼を取り巻く環境がやる気をなくしていると言ったほうが正しいだろうか。
遅めの昼食を食べ終え、毎日同じ時刻に欠かさず飲んでいる濃いめのブラックコーヒーも飲み終えたジョニー・ローゼンバーグは、北側に取り付けられたドアののぞき穴から外を確認し、誰もいないのを確認すると、ぎしぎしと音を立てる椅子にどっかりと腰かけた。そうして一息ついたジョニーは、いかんいかんと、思い出したように手を伸ばしてサイドテーブルに無造作に置いてあった煙草の入った箱とジッポライターを手に取った。そして、一本を取り出し、火をつけ、口にくわえた。煙草とライターは急いで懐にしまった。
ふう、と息を吐く。もくもくと有毒な煙がまず肩の辺りに漂い、そしてこの狭い部屋に広がる。
あとちょっと。あとちょっとで終わるんだ。もちろんやる気はないだろうが今日もやるんだ、ジョン。部屋のどこか一点をただ見つめながら、そう自分に言い聞かせた。
ジョニーがデニッシュのワイルド・ストリートに繰り出したのは、さらに二本の煙草とコーヒーの二杯目を飲み終えてから約四十分後のことである。大通りには何台もの車が行き交っていた。やけに排気ガスの臭いが鼻につく。そして歩道には人、人、人……。曇天の下、ジョニーは重い足取りで目的のある店へと向かった。
同じような物を取り扱っている店を探し、およそ二週間の間、店主に顔を覚えられないようにそれらを日ごとに町から町へと転々と店をまわるのは、流石に骨の折れる作業であった。この男はほぼ毎日買い物に出ているが、このワイルド・ストリートに面して構える店に来るのは二回目である。
まさか短い人生の中で、ここまで用心深く買い物をするはめになるとはな。普段はまったくと言っていいほど気にしていなかったが、顔を知られないように、他人と関わらないように日々をすごすのは思ったより大変極まりないことだ。これだけ努力したのだ、顔は覚えられていないだろう。
はたして、目的の品は難なく購入することができた。あの時、この時代の紙幣を若干多めに用意していた彼を止めていたら、私は今頃どうなっていたのだろうか。必要な部品を買うことすらままならなかったであろう。偶然とはまったく不思議であるな。
自宅代わりにしている廃倉庫に帰ってきたのは、すでに日が落ちている時間だった。いつものように、周囲に人がいないのを入念に確認してから素早く屋内に入り、そして内側からお手製の鍵を掛けた。のぞき穴からもう一度外を確認する。誰もいない。ふう、と息を漏らして、ジョニーはベッド代わりのソファ――ごみ捨て場から持ってきた――に身を投げた。
天気のせいなのか、それはわからないが、何故かジョニーは疲れ果てていた。しかし、こんな生活を始めて早くも十五日が経とうとしていた。男の身体にも疲れが出始めていた。
ソファにぐったりと沈んだ体はぴくりとも動かない。指先さえ動かせない。まだ時間はあるんだ。作業は明日にしよう。そうだ、今日はもう寝よう。彼はそのまま目をつむった。
犬の遠吠えが聞こえる。今は何時なのかわからない。体は疲れ切っているのに、眠れない。しかしこれはここ毎日のことである。愛する母ケイトと父リカルド、そして恋人のエリナの姿が脳裏にこびりついて離れないのだ。自分の身に何かあったときのために手紙を書いて二人に出したのは間違いだった。なんて縁起が悪い。はたして私は、私のいるべき〝場所〟に無事帰れるのだろうか……。
そうしてジョニー・ローゼンバーグはまた、涙を拭いた。
夜が明けた。心地よい鳥のさえずりがジョニーの心を洗う。ソファから体を起こし、カーテン代わりのシャッターを開け、最後の煙草に火をつけた。そしてくすんだ空を遠い目で見つめた。もう少し、もう少しでここともおさらばなんだ。がんばれ、ジョン。
午前九時五十分。ジョニーは急に立ち上がった。煙草の灰が床に落ちる。別に気にしない。
「状況の整理だ」
ジョニーはひとり叫んで、狭い部屋を歩き出したかと思えば、すぐに立ち止まった。少し身を屈めてサイドテーブルに置いてあったテープレコーダーを手に取った。彼はさらに歩き出し、また止まった。そして切り傷と火傷の痕が痛々しい右手を伸ばして布をどかした。色あせた布が床に落ちる。埃が舞う。特に気にしない。
彼はむき出しになったその〈装置〉をじっと見つめた。見慣れたそれは、この黒光りする姿を一目見ただけでも、彼には吐き気をもよおす邪悪の根源であるように思えてくる。首を振った。落ち着け。違うだろう。
まだ半分以上残っている煙草を灰皿に押し付け、ジョニーは己の身の丈ほどもある巨大な球体状の〈装置〉のハッチを開けた。しゅーっ、と白い煙が狭い内部から湧き出した。忌々しい。そしてテープレコーダーの電源を入れ、マイクに向かって口を開いた。
「テープナンバーセブン。今日もまた録音を始めよう。私の名は、ジョニー・ローゼンバーグ。今現在、私が置かれた状況の確認だ。私はこの〈装置〉に乗って四十年前のアメリカ合衆国、テネシー州、デニッシュにやってきた。それは確かな事実だ。私は覚えている。この右手を見ろ! この傷痕が確かな証拠だろう」
若き教授、ジョニー・ローゼンバーグは見えざる学生たちに向かって演説を続けた。さらに狭い部屋をせわしなく歩き出した。
「そうなのだ。思い出せ。整理しろ。自分の置かれた状況を……。〈時空間転移機〉は今まさにここに存在する。私と共に来たのだからな。こいつさえあれば未来へ戻ることは不可能ではない。そうさ。不可能じゃないんだ。しかも、この次元はもとの世界と同じ世界だ。次元延長線なのだ。楽に帰れるさ! 私の前にこの〈装置〉に乗った犬はちゃんと戻ってきたじゃないか。――しかし私には悩みの種があるのだよ!」
ジョニーは再び〈装置〉の前で立ち止まり、ハッチからコクピットへと身を屈めて入った。大人ひとりがやっと座れるほどの大きさの椅子に座る。あちこち体をぶつけたがもはや痛みなど気にならない。
「私が苦労している原因。――すなわち、これだ」
計器類が並ぶタップの中の、緑色に点滅している表示装置に目をやった。さらに目線を右にずらした。金属の外装が破れ、内部の配線やフレームがはじけ、まるで内側から爆発したようにコクピット内に飛び出していた。金属の破片は〈装置〉の床やタップの上に散らばっていた。ちくしょう。
「これだ。こいつをどう直す? ……出発時の充電が不十分で、今、燃料はなく、さらに配線はいかれてしまっている。ここまで直すのに二週間かかった。あとはここだけさ。しかし、どうしてだ? 完璧な計算のはずだった。そうさ。なのに何故、〈時空間転移機〉のタイム・インターフェースの設定時刻に誤差が生じたんだ? いや、誤差どころではない。三年もずれたんだ! 偶然で済ませられるようなレベルじゃないぞ。この事態はつまり、時空間という普遍的なエネルギーの影響なのか? すなわち〈装置〉が時空間転移したときの衝撃で生じた、なんらかのエネルギー波が基盤に影響を与えたのか? ……いや、私は何を熱くなっているんだ。今最優先に考えるべきは、この燃料不足、そして計器類不調の異常事態からどう抜け出すか、だ!」
ふう、とため息を漏らす。解決策は――
ジョニーはドアを乱暴に開け、表へと飛び出した。もう嫌だ! 帰りたい! この研究はもうやめだ!
そうしてワイルド・ストリートをしばらく走った後、気がついた。廃倉庫の扉は開きっぱなしだ。くそう、しかしもうこの際〈装置〉がどうなろうが知ったことじゃない。
元の時代へ帰りたい。愛する家族、恋人のもとへと帰りたい。エリナのつくるパンケーキ、スクランブルエッグ、ブラックコーヒー、そんな素朴な味が懐かしい。いつの間にか彼は疲れ果てて歩いていた。エリナ、エリナ、エリナ――。
不意に、どん、と、どこからか鈍く重い音が聞こえたかと思えば、全身に槍が突き抜けるような痛みが走った。ジョニーは自分でもわからないうちに、声にならない苦痛の叫びをあげた。彼の目には、青い空と黒い路面、高速で走り抜けていく黒い影、彼を見つめる人々が繰り返し映った。なにが起きたのだろうか。ジョニーはそのことさえ悟ることのできないまま気が遠のくのを感じていた。そして彼が気を失う直前に見たのは、青ざめた表情でこちらを見つめる男と、駆け寄ってくる若い女だった。
日も暮れた頃、意識を取り戻したジョニー・ローゼンバーグはその女の家から逃げ出した。
この身体に巻かれた包帯を見れば、のろのろと道路を横切ろうとして車に轢かれた私が、介抱されていたのは明確だ。しかし私がこの時代の人間でない以上、コミュニケーションを取ることこそが危険なのだ。家を出るときに女が寝ていたのが不幸中の幸いだったと言える。クロロフォーム催眠銃を使用すれば、さらに時空間に衝撃を与えてしまっていたことだろう。やはり一刻も早く戻らなければならない、私の時代に。
ジョニーは痛む脇腹を押さえながら、誰もいないシマロン・ストリートを歩いた。この通りが直接ワイルド・ストリートに続いていたのは、これまた不幸中の幸いであった。彼は虚ろな目で自分の交互に動く足を見つめながら、父親のリカルド・ローゼンバーグもまた、自分のように車に轢かれたことがあり、それが原因で両親は出逢ったのだと、母の昔話を思い出していた。血統というか、運命というのはなんとも不思議なものであるな、と思わす笑みを漏らした。
午後十一時二十三分。ジョニーはよろよろとおぼつかない足取りで、特に変わりのない廃倉庫へと帰ってきた。〈装置〉も無事だった。ジョニーは閉めた扉に鍵をかけ、それを確認するとそのままソファへと身を沈めた。
さらに二週間の日々が過ぎた。〈時空間転移機〉の修復はほぼ完了していた。爆発でちぎれた配線類を丹念につなぎ合わせ、金属フレームも溶接して元通りにした。燃料不足の問題だが、放置されていた自動車を何台か拝借し、それらの車のバッテリーから電気を供給することに成功した。既に準備は整っている。
「テープナンバーテン。私の名は、ジョニー・ローゼンバーグ。いよいよ現代に戻る日がやってきた。――そう、時間の流れには逆らってはいけなかったのだ。それを強く実感できる〝旅〟だった。戻ったら〈装置〉は破壊する。待っていてくれ、エリナ。今から帰るよ。最も、再びトラブルが起こらなければ、の話なのだがね」
彼はレコーダーの電源を切って、それを懐にしまった。
身を屈め、コクピットの中に入り、ハッチを閉めた。窮屈な椅子に座り込み、計器類を確認した。ジョニーはそれらに異常がないのを認めると、タイム・インターフェースの時刻設定盤の〈到着予定時間〉の項を入力した。
「頼む……。ちゃんと動いてくれよ」
〈装置〉が低い音を立てて唸りだす。がたがたと上下左右に小刻みに揺れ、だんだんと暴風が吹き荒れるような強い衝撃が彼の体を襲う。彼の心臓が高鳴る。青白いが放電現象が〈装置〉の外と中で起こり、轟音はその激しさをさらに増す。次の瞬間、スパークのまぶしい輝きと共に、この空間から〈装置〉は消え去った。
〈装置〉は時空間を飛んだ。だがその時、ジョニーの体には異変が起きていた。正確には、とっくにその事態は侵攻していたのだが、タイム・スリップの瞬間、ついに手遅れとなった。
吹きすさぶ嵐のような衝撃の中、ジョニーは消えかけた己の体を見ながら、エリナ、と口だけ動かした。既に声帯は消えていた。
消えゆく意識の中で彼は思い出したことがあった。彼の母親と父親は、交通事故で出逢ったという。ああ、そうか。〈時空間転移機〉を使った私がこの時代にいた為に、本来轢かれるべき人間が轢かれず、別次元のよそ者が車に轢かれてしまったのだな。
そして時空間の無限の渦の中で、若き科学者ジョニー・ローゼンバーグはついに存在しなくなった。