ヤルダバオト――帰宅中に事故った社畜の俺、月に眠る宇宙船の船長にされました~地球を滅ぼせと言われても、今日も仕事なので帰ります~
西暦二〇七一年。
人間が自動車を運転しなくなって、もうずいぶん経つ。
事故も渋滞も減った。都市交通AIが車両の速度と間隔を揃えるようになってからは、信号機さえ昔ほど必要とされなくなった。
便利な時代になったものだ。
もっとも、便利なものほど止まったときの苦情は大きい。その後始末をするのが俺の仕事だったりする。
目的地まで二十三分。
明日は朝からシステムの定期点検だ。帰宅経路は車に任せてあるし、起きている理由もない。
そう思いながら、つい車載表示を確認してしまう。
経路異常なし。遅延なし。
勤務時間はとっくに終わっている。頭の方もそろそろ仕事を終えてほしい。
俺は運転席の背もたれを倒し、目を閉じた。
『目的地まで、あと十八分です』
車載AIの声を最後に聞いたところまでは覚えている。
次に聞こえたのは、耳を刺す警告音だった。
『緊急回避』
目を開けた瞬間、真正面に車がいた。
……おい。
なんで対向車が、こっちの車線にいる。
全車両の位置を都市交通AIが管理している。こんな進入を許すはずがない。
原因を考えるより早く、相手の車体が迫った。
『回避不能』
白いライトが視界を埋めた。
ガラスが砕け、ボンネットが潰れ、ハンドルが身体へ迫ってくる。
そして――音が消えた。
◆
死ぬとき、人間は走馬灯を見る。
誰が言い始めたのか知らない。
少なくとも、俺は見なかった。
見えたのは月だった。
真っ黒な宇宙に浮かぶ、灰色の球体。
その表面に一本の亀裂が走っている。
亀裂だと思ったものが、ゆっくりと持ち上がった。
瞼だ。
月が、目を開こうとしている。
――乗員を集めろ。
耳から聞こえる声ではなかった。
頭蓋骨の内側に埋め込まれていた言葉が、突然意味を持ったような感覚。
――船へ戻れ。
月の奥で、何か巨大なものが脈打っている。
――故郷を終わらせろ。
やめろ。
――出航せよ。
知らない。
俺はそんなものを知らない。
――船長。
違う。
俺は――
◆
目を開けると、世界が逆さまだった。
シートベルトに吊られている。
割れたフロントガラスの向こうで、赤い非常灯が明滅していた。しぼんだエアバッグがハンドルに垂れ、車内のあちこちが潰れている。
車が屋根を下にしてひっくり返っているのだと、少し遅れて理解した。
「……生きてる?」
声が出た。腕も脚も動く。
胸、腹、顔へと手を這わせる。
痛みはない。血も出ていない。
正面衝突だったはずだ。車はこんな有様なのに、俺だけ何ともない。
非常灯に照らされた左手を見て、指が止まった。
親指の付け根にあった傷が消えている。
十年以上前、工具で切った傷だ。そこを撫でる癖があって、無意識に指を滑らせたのに、今は何の引っかかりもない。
「……どうなってんだ」
傷が治ったというより、最初からなかったみたいに皮膚がつながっている。
原因を調べたいところだが、さすがにこれは専門外だ。
俺はシートベルトへ手をかけた。
外せば、頭から天井へ落ちる。
そう身構えてバックルを外した。
……落ちない。
身体は天井の三十センチほど手前で止まっていた。
「……は?」
何も掴んでいない。身体を支えるものもない。
恐る恐る手を伸ばした瞬間、運転席側のドアがぐしゃりと外側へ膨らんだ。
「おい、待て」
鉄板が軋む。
見えない何かに押されるように、ドアが曲がっていく。
「待て待て待て!」
ドアが吹き飛んだ。
アスファルトを跳ね、数メートル先まで転がっていく。
ぽっかり開いた車体の横から、夜の道路が見えた。
俺は何も触っていない。
身体を動かそうとした。
その瞬間、ひっくり返った車体から、ふわりと外へ滑り出す。
「……いやいや」
身体が道路の上に浮いている。
顔を上げた。
月が見えた。
――船長。
「……違う」
思わず答えていた。
月は何も言わない。当たり前だ。月が喋るわけがない。
俺は都市交通システムの保守技術者だ。車の流れや通信網の異常を調べる側の人間であって、空を飛ぶ超能力者じゃない。
ましてや、船長なんて呼ばれる筋合いもない。
遠くからサイレンが聞こえた。
警察か救急だろう。
助かった。
そう思い、道路へ降りようとした。
途端に身体が落ちた。
「うわぁっ!」
足元のアスファルトが円形に砕けた。
地面へ叩きつけられたはずなのに、脚にはほとんど衝撃がない。
代わりに、砕けた路面が横へ跳ね、ガードレールを叩いた。
嫌な汗が出る。
自分の身体にも、周囲にも、何が起きているのか分からない。
しかも、下手に動けば周りまで壊しかねない。
震える手を見下ろした。
そのとき、道路の反対側にもう一台の車があることに気づいた。
俺へ突っ込んできた車だ。
前部は原形を失っている。
車内に二人。
どちらも動いていない。
「……くそっ」
自分の身体を調べている場合じゃなかった。
俺は事故車へ駆け寄った。
「おい! 大丈夫か!」
返事はない。
救急車が来るまで待っていられない。
窓を割って中を確かめようとした、そのとき。
事故車から微かな音声が漏れた。
破損したカーステレオが、ノイズ交じりに何かを再生している。
『――き……こえ……るなら……』
女性の声だった。
俺は足を止めた。
『月を……』
途切れかけた音声が、最後の言葉だけをはっきり残した。
『月を、起こすな』
音声が切れた。
直後。
空から何かが落ちてきた。
道路が爆ぜる。
思わず腕で顔を庇った。
舞い上がった粉塵の向こうに、直径三メートルほどの黒い球体があった。
継ぎ目のない表面が割れ、中から細長い脚が六本伸びる。
一瞬、昔のB級映画に出てくる巨大蛸か昆虫かと思った。
だが、脚の先端には車両運搬用のクランプに似た器官がついている。
何を運ぶ気だ、こいつ。
中央部から走った赤い光が、俺の身体を舐めた。
『船長個体、確認』
声ではない。
頭の中へ直接、意味が入ってくる。
『回収を開始』
「……は?」
黒い機械が跳んだ。
六本の脚が身体へ殺到する。
避けられない。
反射的に腕を上げた。
脚が止まった。
六本すべてが、俺の眼前で空中に縫いつけられている。
来るな。
そう思った。
それだけだった。
機械が軋む。
俺が手を横へ払うと、黒い球体は道路を跳ね、ガードレールを突き破って建物の壁へめり込んだ。
「……俺がやったのか?」
吹き飛んだ機械と、自分の手を交互に見る。
そのとき、機械の脚が動いた。
傷ついた先端をアスファルトへ突き刺している。
赤い線が路面を走り、交通網の中継盤へ潜り込んでいった。
……中継盤?
なんでそんなものに接続している。
『抵抗を確認。船長権限、未接続』
「だから船長ってなんだよ!」
球体が破損した脚を引きずりながら起き上がった。
その背後の空に、次々と光が増えていく。
一つ。
二つ。
五つ。
十。
全部、同じ黒い球体だった。
「嘘だろ……」
あんなものを相手に、何ができる。
少なくとも、ここにいたらまずい。
逃げようと思った。
次の瞬間、俺は地上から十メートルの高さにいた。
「うわあああああっ!」
落ちると思えば、さらに上がる。
重力の向きが分からない。
いや、違う。
落ちたくないと思えば浮き、逃げたいと思った方角へ飛んでいく。
俺が、自分の動く向きを変えているのか。
そう考えた瞬間、今度は止まれなくなった。
ビルの壁が迫る。
「止まれ!」
鼻先数センチで身体が急停止した。
汗の一滴だけが頬を離れ、地面へ落ちていく。
「……加減が利かねえ」
下では黒い機械が建物を登ってくる。
俺は腕を振った。
二体が吹き飛ぶ。
三体目にも同じことをしようとした。
だが、止まらない。
「えっ」
黒い脚が肩を掠め、背後の外壁を砕いた。
弾かれた身体を戻そうとして、今度は下へ引っ張られすぎる。
「ぐっ!」
着地した膝が沈んだ。
頭の奥が鈍く痛む。
一体ならどうにかなる。
二体も、ぎりぎり。
それ以上になると、別々の動きを思い描く前に頭の中がほどけてしまう。
だからといって、練習させてもらえる状況でもない。
黒い機械たちが、再び迫る。
そのときだった。
一台のタクシーが猛スピードで交差点へ突っ込んできた。
現在の都市交通ではありえない速度だ。
黒い機械の一体を撥ね飛ばし、俺の横で後部ドアを開く。
「乗って!」
運転席には誰もいない。
助手席に、二十歳前後の少女がいた。
長い髪を揺らしながら、こちらを見上げている。
「早く!」
少女は迫る機械へ目を向けた。それでも、後部ドアを閉めようとしない。
「いや、俺いま飛んで――」
「見れば分かる! さっさと降りて!」
もっともだった。
どうにか高度を落とし、寸前で勢いを逸らす。
そのまま車内へ転がり込むと、ドアが閉まるより早くタクシーが走り出した。
事故現場が遠ざかっていく。
あの二人は、最後まで動かなかった。
サイレンが近づいていたことだけを頼りに、俺は唇を噛んだ。
「なんなんだ、あいつら!」
「私にも全部は分かりません!」
「じゃあ、分かることだけでいい」
「あなたが《船長》で、私が《操舵手》らしいということです」
「……それだけ?」
「申し訳ありません」
「いや、謝られても困る」
少女は困ったように眉を寄せた。
「私も今日、急に《操舵手》と呼ばれたんです。変な表示を見ると、意味だけは分かることがあって……」
「俺と似たようなもんか」
「自分でも気味が悪いんです。家を出た途端、この車までおかしくなってしまって」
「家を出た?」
「……家出です」
「家出?」
「はい」
やけに改まった家出宣言だった。
「家族が嫌いなわけではないんです。でも、学校も進路も、気づけば決まっていて」
「……そうか」
「車の目的地を自分で入力したのも、今日が初めてです」
思わず少女を見る。
「普段は誰が?」
「家の者が。私は乗るだけでしたから」
ずいぶん違う暮らしをしてきたらしい。
俺も最近は会社と自宅の往復ばかりだが、少なくとも行き先くらいは自分で入力している。
「それで、今日は?」
「行き先を入力した途端、車が道路を外れて壁を走り始めて」
「壁を!? 車が!?」
「はい。私も驚きました」
そりゃ驚くだろうよ。
その直後だった。
タクシーの速度計は百キロ近くを示したまま、交差点へ突っ込んだ。
「お、おい!」
曲がれる速度じゃない。
とっさにドアへ身体を押しつけ、来るはずの衝撃に身構えた。
タクシーが直角に左へ曲がる。
――なのに。
身体は横へ振られなかった。
肩も頭も、ドアへ叩きつけられない。
景色だけが、窓の外でありえない速度で九十度回った。
「……なんで今のでGがかからないんだよ」
「私にも分かりません!」
後ろで激しい音がした。
追ってきた黒い機械が曲がりきれず、壁へ突き刺さっている。
だが、一体だけが違った。
タクシーの真後ろまで迫った球体が、速度を落とさないまま横へ折れた。
さっきのタクシーと、まったく同じ軌道だった。
「……あいつまで?」
少女もミラーを見る。
「《航路》に入ったんだと思います」
「航路?」
「行き先を決めると、そこまで道がつながるんです。道路じゃなくて……そこを通れば着ける、みたいな」
タクシーが今度は緩やかに右へ振れる。
後ろの球体も、寸分違わず同じ軌道をなぞった。
こいつが作っているのは道路じゃない。目的地へ向かう『軌道』そのものなのか。
普通なら曲がれない角度でも、壁でも空中でも、《航路》に乗ったものはそこを通れる。
どうやら、外から飛び込んだ機械まで。
「……少し分かった」
「本当ですか?」
「少しだけな」
俺はミラーの中の黒い球体を見る。
タクシーが次の分岐で進路を迷うように揺れた。
車載地図に重なった経路が二本に分かれ、どちらも定まらない。
「どっちへ逃げます?」
「人のいない方だ。あいつらを住宅街へ連れていくな」
少女が地図へ目を落とす。
「それなら、川沿いです」
「行けるか?」
一瞬だけ、少女の視線が揺れた。
「……行きます」
少女が川沿いの経路を指す。
その瞬間、二本の線のうち一方が消え、残った経路がくっきりと定まった。
「よし。頼んだ」
「はい!」
タクシーは封鎖された工事区間を抜け、川沿いへ滑り出した。
剥がされた路面の上を走っているのに、車体はほとんど揺れない。
少女が地図を見つめ、何かを言いかけた。
そのとき、ディスプレイに見慣れない表示が割り込んだ。
《地上接続:確立》
「……なんだ、これ」
俺は背後を振り返った。
街の各所へ降りた黒い機械が、道路や設備へ脚を突き立てている。
事故現場で見た赤い線が、川向こうの中継盤にも絡みついていた。
あいつらは都市交通網へ接続している。
「まずいです」
少女の声が強張った。
「月面側から、起動要求が来ています」
「月? なんで分かる?」
「分からないんです。でも、この表示を見ると……何が起きようとしているのか、頭に浮かんできて」
少女は画面を見つめたまま、唇を噛んだ。
「名前も、分かります」
「名前?」
「……ヤルダバオト」
頭の奥が疼いた。
知らないはずの名前だ。
それなのに、何を指すのか、輪郭だけが浮かんでくる。
月の内部で眠っているもの。
巨大な船。
そして、その船が出航するとき、故郷は終わる。
「……なんで俺まで知ってるんだ」
「え?」
答えようとした少女の声が、遠ざかった。
――乗員を集めろ。
――船へ戻れ。
――故郷を終わらせろ。
――出航せよ。
頭の内側を、知らない言葉が埋め尽くしていく。
道路が揺れた。
川向こうの信号が一斉に消える。
走行中の車が次々と停止し、交通制御網に連動する街路灯まで列をなして消えていった。
こんな一斉停止、都市交通網がまともに動いていれば起こるはずがない。
月を見上げる。
その表面に、赤黒い線が走っていた。
血管のような線が広がり、何かの輪郭を形作ろうとしている。
事故の直後に見た、あの瞼。
目を擦った。
消えない。
車載画面。
停留所の案内板。
消えた信号の補助表示。
見える範囲の交通端末が、同じ文字で埋まった。
《予備起動》
《主要乗員回収:実行中》
「何が始まる?」
少女が画面を見つめる。
「私たちを……船へ連れていくんだと思います」
「連れていって、どうする」
「それは、まだ……」
新しい表示が割り込んだ。
《出航承認要求》
少女が息を呑む。
「これ……あなた宛てです」
「俺?」
文字を見た瞬間、頭の奥へ何かが流れ込んできた。
説明されたわけじゃない。
なのに、意味だけが分かってしまう。
俺が承認すれば、《ヤルダバオト》は完全に目を覚ます。
文明の記録を保存し、生きているものは回収して分解する。
船が持ち去るのは、人間ではない。
人間が残した文明の情報だ。
「……待てよ」
分解する。
車の中にいる人間も、救助に来た人間も、俺たちも。
そんな意味のはずがない。
画面を見直した。
《文明情報保存:準備中》
《生命資源回収:承認待機》
生命資源。
人間を、そう呼んでいる。
「……冗談じゃない」
窓の外で、停止していた車が一台、また一台と動き始めた。
交差点で向きを変え、本来の経路とは違う方向へ進んでいく。
車内では人が窓を叩いている。
何かを叫んでいるのに、車は止まらない。
生命の回収はまだ始まっていない。
だが、街の交通網はもう人間の指示を聞いていなかった。
交差点の向こうには救急車がいた。
周囲の車に挟まれ、身動きが取れなくなっている。
あの事故車の二人はどうなった。
無事に助け出されても、このままじゃ病院へ運ぶことすらできない。
その光景に、背筋が冷えた。
なのに。
頭の奥では、別の何かが歓喜していた。
やっと帰れる。
懐かしい。
月へ行かなければならない。
乗員を集めなければならない。
違う。
俺はそんなこと、考えていない。
なのに、ずっと昔から知っていた場所へ帰るような感覚が胸に広がっていく。
――船長。
「……違う」
少女がこちらを見た。
「俺はそんなものじゃない」
『船長権限を確認』
《出航承認要求》
――船へ戻れ。
「嫌だ」
――故郷を終わらせろ。
帰ればいい。
こんな小さな街なんて、捨てればいい。
そんな考えが、自分のものみたいに浮かんでくる。
同時に、自宅の流しに置きっぱなしの皿を思い出した。
明日の点検表。
職場の休憩室にある、やたら薄いコーヒー。
どうでもいいものばかりだ。
でも、そんなものまで勝手に消される筋合いはない。
俺は画面を睨んだ。
「断る」
《船長承認:拒否》
《完全起動:保留》
《完全起動条件:不成立》
表示が切り替わった。
「……止まったか?」
「いえ、待ってください」
少女が地図を拡大する。
《主要乗員回収:実行中》
その文字だけが変わらない。
月の方角から、黒い機械が次々と降りてきていた。
十や二十じゃない。
夜空を埋め尽くすような数だった。
「まだ来るのかよ……」
「地上との接続が残っているんです。完全起動は止まっても、予備起動は続いています!」
「接続か……」
事故現場で見た光景が蘇る。
地面に突き刺さった脚。
中継盤へ伸びた赤い線。
「あの機械が、交通網に繋がってるんだな」
「はい。今の予備起動を支えている接続点は……六つです」
少女が地図を指した。
街の中に六つの赤い印が光っている。
事故現場も、その一つだった。
「壊せば切れるか?」
「駄目です。接続は残るって……切り離しても繋ぎ直されるし、壊しただけでは残骸からも……」
事故現場で、傷ついた脚が赤い線を伸ばした光景が浮かんだ。
「……厄介な仕様だな」
機体を壊しても、その破片が中継器として残る。
これでは回線だけ切ったところで意味がない。
「まるごと撤去するしかないわけか」
「撤去?」
「あの機械を、一つ残らず地上から追い出す」
少女が六つの印を見た。
「でも、どこへ……」
俺は窓の外へ目を向けた。
降りてくる機械は、どれも同じ方向から来ている。
月だ。
事故車から聞こえた女の声が蘇る。
――月を、起こすな。
あの機械を地上に置いておけば、月の船は目覚めようとし続ける。
壊しても駄目なら、地上からなくせばいい。
「……送り返すか」
「え?」
「月だよ。あいつらが来たところだ」
少女が俺を見る。
「月まで!?」
「《航路》ってやつ、あそこまで繋げられないか」
「そんな距離、やったことありません!」
「俺だって今日初めて空飛んだんだ」
「全然励ましになってません!」
「……だろうな」
少女が口を閉じた。
俺も黙った。
窓の外では、勝手に動く車の列が交差点を塞いでいる。
救急車は、まだ動けない。
少女が先に口を開いた。
「……でも、試す価値はあります」
少女が月を見上げた。
「私たちが行くんじゃないんですよね」
「ああ。あの機械だけ送り返す」
「街の人も、連れていかせません」
「そのためにやるんだ」
少女はしばらく月を見つめていた。
それから、こちらへ向き直る。
「分かりました。月への《航路》を作ってみます」
「……頼む」
少女は車載地図を操作し、川沿いの工事用地を示した。
「ここなら周囲に建物も少ないです」
俺は地図を確かめた。
「いいな。そこへ行こう」
タクシーが工事用地へ滑り込んだ。
少女が前方へ手を伸ばす。
何もない空間に細い光が走り、一つの輪を描いた。
輪の奥へ淡い線が伸びていく。
だが、行く先を探すように揺れ、すぐにほどけてしまった。
「……駄目」
「繋がらないのか?」
「月は見えているんです。でも、あそこまで、どこを通ればいいのか……」
俺は空を見上げた。
黒い機械が降りてくる。
その後ろにも、さらに後ろにも。
月の方角から続く流れが、地上近くで枝分かれしていた。
「……あいつらの流れを、逆に辿れないか」
「逆に?」
「こっちへ来る道はあるんだろ。それを、送り返す道に使えないかってことだ」
少女が空へ目を向けた。
伸ばした指先が、一体の動きを追う。
光の輪の奥で、線が揺れた。
「……あの機械の後ろにも、続いています」
「辿れそうか?」
「少し、待ってください」
少女の視線が上がっていく。
手前の機械から、その後ろへ。
次々と降りてくる機械を追うたび、輪の奥の線が遠くへ伸びた。
「同じところに繋がっています」
少女が月を見上げた。
光の輪が激しく明滅する。
その奥で幾重もの線が揺れ、一つに重なっていく。
俺は迫ってくる機械へ目を戻した。
もう近い。
六本の脚が、こちらへ向いた。
「おい、来るぞ」
「もう少し……!」
ドアを開け、車外へ出る。
身体を浮かせながら、黒い球体を見据えた。
止めるだけなら、どうにかなる。
そのあとまで保つかは、知らん。
腕を上げた、そのとき。
揺れていた光が、ぴたりと定まった。
「繋がりました!」
少女の声が響く。
「月まで、繋がっています!」
輪の奥へ、一本の線が伸びていた。
もう揺れていない。
少女はその先を見つめたまま、頷いた。
「……あそこへ送り返せるんだな?」
「はい。入口は私が合わせます!」
少女が手を動かした。
光の輪が、迫る機械の横へ滑る。
「機械の進む向きを、こちらへ変えてください!」
「了解」
俺は球体へ意識を向けた。
無理に止める必要はない。
あいつは自分で飛んでいる。
しかも、こっちに向かって加速している。
なら、その勢いを利用すればいい。
速度。
向き。
合流位置。
毎日見ているものじゃないか。
交通網では、全部の車を止めてから並べ直したりしない。
速度と間隔を調整して、別の流れへ合流させる。
やることは、それと同じだ。
俺は機械の進行方向へ意識を絞った。
速度は殺さない。
向きだけを、少しずらす。
黒い球体が進路を変えた。
その先へ、少女が光の輪を合わせる。
六本の脚が光をくぐった。
続いて、球体が消える。
「……通ったか?」
「はい!」
少女が顔を上げた。
「送り返せました!」
その声には、もう迷いがなかった。
「次も通せるか?」
「はい。同じようにお願いします!」
「了解!」
次の黒い球体が迫ってくる。
俺はその速度と進路を見た。
光の輪が、機械の向かう先へ滑り込む。
少女が合わせたのだ。
俺はその進行方向だけを曲げた。
球体が《航路》へ吸い込まれた。
続けて、もう一体。
どちらも勢いを失わず、光の奥へ消えていく。
「そうです! そのまま!」
「今は話しかけるな、集中できん!」
「応援したのに!」
「あとで頼む!」
次。
その次。
速い機体を先に通し、遅い方はその後ろへずらす。
真正面から来る奴は、ほとんど手を加えずに済んだ。横から来る奴には、少女が入口を寄せる。
「右、もう少し!」
「はい!」
光の輪が動く。
俺は球体の進路を曲げ、入口へ流し込んだ。
五体、十体。
空を埋めていた黒い影が減っていく。
鼻の奥が熱くなった。
手の甲で拭うと、血がついていた。
……残業代じゃ割に合わんな。
頭もまだ痛い。だが、まとめて押さえ込もうとしたときほどではない。
いける。
そう思った矢先だった。
一体の合流が遅れた。
後続との間隔が詰まっている。
そちらへ意識を向けた瞬間、別の一体が横から飛び込んできた。
「しまっ――」
肩に衝撃が走った。
黒い脚の先端が開き、クランプが食い込む。
『船長個体、確保』
「ぐっ!」
身体が月の方角へ引っ張られた。
咄嗟に抵抗しようとしたが、頭の奥に激痛が走る。
視界が白く滲んだ。
――船へ戻れ。
また、あの声だ。
帰れる。
もう何も考えなくていい。
――乗員を集めろ。
足元に、少女のタクシーが見えた。
彼女も連れていけばいい。
――故郷を終わらせろ。
それで、全部終わる。
面倒な仕事も、考えなきゃならないことも、何もかも。
「……うるさい」
少女がこちらを見上げていた。
開いたままの《航路》が、彼女の頭上で揺れている。
俺を掴んだ機械が高度を上げる。
少女は《航路》を閉じなかった。
それどころか、光の輪をこちらへ寄せてくる。
俺は肩を掴んでいる機械を見た。
こいつ自身が、月へ向かって飛ぼうとしている。
なら、引き戻す必要はない。
まずは、このクランプだ。
肩を挟む金属へ意識を絞る。
必要なところだけ動かせ。
クランプが軋んだ。
食い込んだ先端が、少しずつ開いていく。
――出航せよ。
「俺の行き先を――」
最後の先端が抜けた。
身体が自由になる。
機械はそのまま月へ向かおうとした。
俺は進行方向だけを横へ曲げる。
その先へ、光の輪が滑り込んだ。
「お前が決めるな!」
球体が光へ飛び込んだ。
ありえない角度で軌道を変え、そのまま月へ消えていく。
肩を押さえた。
指の間から血が滲む。
痛い。
さっきまでとは違う、まともな痛みだ。
だが、動ける。
「助かった!」
俺は眼下のタクシーへ声をかけた。
「まだです! 次が来ます!」
残った回収機が一斉に加速していた。
俺へ向かう群れ。
タクシーへ向かう群れ。
二つの流れが交差しようとしている。
「右、空けられるか!」
「二つに分けます!」
「できるのか?」
「やってみます!」
少女が両手を開いた。
光の輪が大きく揺れる。
次の瞬間、輪郭が左右へ引き伸ばされ、中央から二つに分かれた。
二つの入口。
どちらも、同じ月へ続いている。
「……便利だなお前!」
「そっちもでしょう!」
少女は右の入口をタクシーから遠ざけ、左を俺の前へ寄せた。
「右は私の方へ来る機械に合わせます! 左はあなたの方へ!」
「了解!」
俺は先頭の一体を右へ曲げた。
次は左。
後続が追いつかないよう、間隔を空ける。
少女が入口を合わせ、俺が一体ずつ流していく。
最後の一体が、タクシーの屋根すれすれまで迫った。
「上!」
俺が叫ぶより早く、少女が入口を持ち上げた。
黒い脚が屋根を掠める。
俺は機体の向きをわずかに上へ逸らした。
球体が光へ飛び込み、空から消えた。
頭上に、黒い影はもうない。
肩で息をしながら、月の方角を見た。
新たに降りてくる影も、今は見えなかった。
「……これで全部か?」
「待ってください。表示が変わりました」
少女が車載画面へ目を落とす。
《回収機群:降下完了》
《地上接続:維持》
《主要乗員回収:未完了》
「降りてきた機械は、今ので全部みたいです。あとは、地上に残っている六体です」
「次も来るのか?」
少女は画面を確かめた。
「……そこまでは、分かりません」
「なら、来る前に済ませよう」
俺は地図を見た。
六つの赤い印は、どれも残っている。
空の機械を送り返しても、月の赤黒い線は消えていなかった。
下へ目を向ける。
川沿いの中継盤へ、黒い球体が脚を突き刺していた。
赤い線が設備から道路の下へ広がり、遠くの信号まで続いている。
「……次は撤去作業か」
肩を押さえた手に、血がついていた。
休みたい。
だが、また空が埋まってからでは、こいつらに手を回せなくなる。
「近い奴から外す。《航路》を下ろしてくれ」
「はい!」
少女が手を動かす。
二つに分かれていた入口が一つに戻り、川沿いの中継盤へ降りてきた。
俺も高度を落とす。
最初の接続機は、六本の脚を設備へ食い込ませたまま動かない。
あの接続を切らなければならない。
しかも、機体を壊して残骸が残れば意味がない。
俺は球体へ手を伸ばした。
設備に食い込んだ機体を、上へ引く。
金属が悲鳴を上げた。
球体が持ち上がる。
だが、次の瞬間、嫌な音がした。
六本の脚のうち一本が、根元からちぎれた。
中継盤に突き刺さったまま、赤く光っている。
「……あ」
球体が身をよじり、別の脚を路面へ伸ばした。
先端がアスファルトに触れる。
また赤い線が走った。
「駄目だ! これじゃ切れん!」
「機体だけじゃ駄目です! 残った脚も全部!」
「分かってる!」
機体と、盤に残った脚。
二つを同時に動かそうとした途端、こめかみが痛んだ。
頭が追いつかない。
「……先に本体を送る。入口を横へ寄せてくれ」
「はい!」
光の輪が、中継盤の横へ滑った。
球体の脚が、また路面を掴もうとする。
その先端を地面から逸らし、機体を横へ流した。
黒い球体が《航路》へ消える。
だが、中継盤に残った脚は、まだ赤く光っていた。
俺は息を整えた。
無理に引っ張れば、また脚がちぎれる。
刺さっている角度を確かめ、引っかかりのない方向へ少しずつ動かす。
金属が軋んだ。
先端が、中継盤から抜けていく。
「あと少しです!」
「ああ、見えてる」
最後の先端が外れた。
俺は脚を横へ動かし、《航路》へ流し込んだ。
光の中へ、黒い破片が消えた。
赤い線が途切れる。
中継盤の表示が戻った。
その先で停止していた車が、一台動き出す。
続いて、もう一台。
車列が少しずつ、本来の進路へ戻っていった。
「切れました!」
「……できたな」
少女が嬉しそうに頷いた。
だが、まだ五つ残っている。
俺は地図を見た。
その一つは、事故現場にある。
あの二人を運ぶ救急車も、まだ交通網の異常に巻き込まれているはずだ。
「次へ行こう。事故現場だ」
「はい!」
タクシーが走り出す。
俺もその後を追った。
事故現場へ戻ると、救急車の赤色灯が見えた。
俺へ突っ込んできた車の周りで、救急隊員たちが動いている。
あの二人はどうなった。
確かめようと高度を下げかけたところで、搬送路を塞ぐ車列が目に入った。
車が勝手に動いては止まり、救急車の前へ割り込んでいる。
このままでは病院へ運べない。
「……先に道を戻す」
俺は中継盤を見た。
最初に吹き飛ばした黒い機械が、傷ついた脚を突き立てている。
「入口、あいつの横だ!」
「はい!」
少女が《航路》を寄せた。
俺は機体の脚を一本ずつ外し、再び路面を掴もうとする先端の向きを変えた。
球体が地面から離れる。
「今です!」
少女が入口を合わせた。
俺は機体の進路を変える。
六本の脚がすべて光をくぐり、黒い球体が《航路》へ消えた。
赤い線が途切れた。
車載地図から、事故現場の印が消える。
間もなく車列が動き始めた。
救急車の前に、少しずつ隙間ができていく。
俺は担架へ目を向けた。
二人が運ばれている。
生きているのか。
遠目では分からなかった。
「……頼むぞ」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
救急隊員たちが動いている。今は、あの人たちに任せるしかない。
「次へ行きます!」
「ああ!」
俺はタクシーの後を追った。
そこから三か所を回った。
交差点の制御盤。道路沿いの中継設備。高架下の分岐点。
少女が機体の逃がし先へ入口を寄せ、俺が設備に食い込んだ脚を外す。抜いた先端が地面を掴み直す前に、光へ流し込む。
一か所終えるたび、赤い印が消えた。
街路灯が点く。
信号が戻る。
止まっていた車列が、少しずつ流れ始める。
見慣れた街へ戻っていく。
そのぶん、俺の動きは鈍くなっていた。
鼻血を拭った手で、肩の傷を押さえる。
指先が震えている。
地図を確かめようとして、赤い印が二つに見えた。
瞬きをする。
一つだった。
タクシーが速度を落とした。
「大丈夫ですか?」
助手席の窓から、少女がこちらを見ている。
「……大丈夫に見えるか?」
「見えません」
「なら聞くなよ……」
「少し休んだ方がいいです」
俺は月を見た。
赤黒い線は、まだ消えていない。
「休んでる間に、次が来るかもしれん」
少女は何か言いかけて、口を閉じた。
それから地図へ目を戻す。
「……次で最後です」
橋のたもとに、赤い印が残っていた。
俺は肩から手を離した。
「よし。案内してくれ」
「はい」
タクシーが先へ出る。
俺も、その後を追った。
そして。
最後の接続機が見えた。
黒い球体が、橋の入口の車道中央に六本の脚を突き立てている。
赤い線が明滅するたび、渡りかけた車列が停まり、また勝手に動きだしていた。
橋の手前では、救急車が赤色灯を回している。
車列に挟まれ、前にも後ろにも動けない。
俺は球体を見据えた。
あれさえ送り返せば、終わる。
少なくとも、今この街で起きていることは。
少女がタクシーを川側の路肩へ寄せた。
球体との間には、車一台がようやく通れる程度の隙間しかない。
「これで最後です!」
「ああ」
俺は六本の脚の先端を見た。
どれも深く舗装へ食い込んでいる。
さっきと同じだ。機体を引けば、脚か路面が先に壊れる。
「一本ずつ外す。入口は川側へ頼む」
「はい!」
少女が欄干の外を指した。
暗い川面の上に、光の輪が開く。
あそこなら、車列を巻き込まずに送り返せる。
俺は一本目の脚へ意識を絞った。
刺さった角度に沿って、ゆっくり引く。
金属が軋み、先端が抜けた。
球体が傾く。
抜いた脚が地面を掴み直そうとした。先端を逸らしながら、二本目を外す。
残る四本へ重みが移った。
舗装に細い亀裂が走る。
「……路面、もちますか?」
「もたせる。車を通せなくしたら意味がない」
三本目は、途中で引っかかった。
力を緩め、角度をわずかに変える。
ようやく先端が外れた。
その瞬間だった。
――船へ戻れ。
頭の奥に、あの声が響いた。
見上げた月には、まだ赤黒い線が走っている。
事故の直後に見た、開きかけの瞼に似ていた。
帰ればいい。
あそこが帰る場所だ。
誰の考えなのか分からない言葉に、一瞬だけ指の力が緩んだ。
球体の中央が赤く光った。
『操舵手個体、確認』
「……え?」
光が、タクシーの助手席へ向いた。
路面から外した三本の脚が、一斉に車へ伸びる。
「伏せろ!」
一本目の進路を曲げた。
クランプがタクシーの屋根を削り、金属片を散らす。
二本目がドアへ迫る。
少女が車を後退させた。
クランプはドアのあった場所を空振りし、路肩を砕いた。
三本目が追う。
俺はその先端を川側へ逸らした。
欄干が大きく軋む。
「車を離せ! もっと下がれ!」
タクシーが後退した。
三本の脚が、それを追う。
俺は先頭の一本を逸らし、橋に残った脚へ意識を戻した。
その間に、別のクランプが車へ迫る。
「くそっ……!」
そちらを弾く。
引き抜きかけた脚が、再び舗装へ食い込んだ。
頭の奥が痛む。
脚を外しながら、別々に襲ってくる先端まで押さえる。
今の俺には、追いつけない。
機体ごと引き剥がせば早い。だが、脚がちぎれて残れば、またやり直しだ。
その向こうでは、救急車がまだ車列に挟まれていた。
「私が引きつけます!」
少女の声がした。
タクシーが川側の欄干に沿って動く。
三本の脚が、一斉に向きを変えた。
「あなたは、残りの脚を外してください!」
「捕まったらどうする!」
「捕まらないようにします!」
声が震えていた。
それでも、タクシーは止まらない。
少女は車を後退させながら、光の輪を機体の川側へ寄せた。
脚を抜き切ったら、あそこへ流す。
車列の上を通さずに済む方向は、それしかなかった。
「……無理はするな。危なくなったら離れろ」
「はい。だから、早く!」
俺は橋に残った三本の脚を見た。
少女へ向かおうと、機体が身をよじっている。
力をかけるたび、舗装の亀裂が広がった。
急げ。
だが、引きちぎるな。
四本目へ意識を絞る。
刺さった角度に沿って引くと、先端が抜けた。
「一本、外れた!」
外れた脚も、タクシーへ向いた。
少女が車を後退させる。
クランプが空を切り、機体がさらに川側へ傾いた。
その動きに合わせて、五本目を引く。
金属が軋んだ。
先端が抜ける。
あと一本。
少女を追う機体の重みが、最後の脚へ集中した。
舗装に亀裂が走る。
これ以上はまずい。
そう思った瞬間。
――船へ戻れ。
視界が暗くなった。
頭の奥から、また何かが流れ込んでくる。
もういい。
手を離せ。
あそこへ戻れば、何も考えなくて済む。
「……うるさい」
少女のタクシーへ、二本の脚が伸びた。
一本は真正面。
もう一本は、後退する車の後ろへ回り込もうとしている。
俺は後ろの一本を逸らした。
その間にも、正面のクランプが助手席へ迫る。
「下がれ!」
少女が車を後退させた。
黒い先端が、窓のすぐ前を通り過ぎる。
息を呑む声が聞こえた。
だが、少女はそこで車を止めなかった。
機体から距離を取りながら、光の輪をその間へ寄せていく。
「あと一本です!」
「ああ、分かってる!」
全部を防ごうとすれば、また脚を外せなくなる。
俺は最後の一本へ意識を戻した。
機体は少女へ向かおうとしている。
脚の先端だけが、橋に引っかかっていた。
「抜くぞ!」
「入口は合わせます!」
――出航せよ。
頭の奥で声が響く。
今、そっちの相手までしていられるか。
俺は脚の付け根を見た。
力任せに引くな。
刺さった角度を、逆になぞれ。
「俺は――」
金属が軋んだ。
「行かん!」
最後の脚が抜けた。
球体が、踏ん張る場所を失った。
そのまま少女のタクシーへ飛びかかる。
六本の脚が、一斉にクランプを開いた。
「入口、そこだ!」
「見えてます!」
少女が《航路》の位置を合わせた。
球体とタクシーの間で、光の輪がぴたりと止まる。
機体はすでに、少女へ向かって加速している。
俺はその進む向きだけを変えた。
黒い脚の先端が、光の輪をくぐった。
続いて球体が飛び込む。
残る脚も、次々と《航路》へ消えていく。
最後の一本が、路面へ伸びた。
俺はその向きを、ほんの少しだけ上げた。
黒い先端がアスファルトの数センチ上を通過する。
光へ消えた。
赤い光も。
黒い球体も。
六本の脚も。
何も残っていない。
橋の上には、ひび割れた舗装だけがあった。
少女が《航路》を見つめている。
タクシーは、まだ動かない。
「……おい」
返事がない。
「送り返せたのか?」
少女の肩が、小さく揺れた。
それから、ようやく顔を上げる。
「……はい」
かすれた声だった。
「月へ、送り返せました」
橋の車列が動き始めた。
一台。
また一台。
車の間に隙間ができ、救急車がゆっくりと進み出す。
俺たちの横を抜け、橋を渡っていった。
……よし。道は戻った。
俺は赤色灯を見送り、橋の案内表示板へ目を向けた。
表示板へ、文字が走った。
《接続ノード:0》
《地上接続:喪失》
《船長承認:拒否》
《完全起動条件:不成立》
《予備起動条件:不成立》
少女が《航路》を閉じた。
俺は橋のたもとへ降りた。
足が地面につく。
表示板を見上げる。
接続を切っただけで、あの船が本当に止まるのか。
息を詰めて、次の表示を待った。
数秒。
それが、やけに長く感じられた。
やがて。
《予備起動停止》
《回収命令:停止》
「…………はぁ」
脚から力が抜けた。
膝が折れ、その場にしゃがみ込む。
もう立っていられなかった。
見上げた月から、赤黒い線がゆっくり消えていく。
開きかけていた瞼が、閉じていくようだった。
都市交通AIの復旧を知らせる音声が流れた。
クラクション。
人の声。
表示板を見張るのをやめて、俺はようやく周囲の音を聞いた。
俺は地面に手をついた。
ゆっくりと立ち上がる。
今度は、ちゃんと二本の脚で。
タクシーのドアが開いた。
少女が顔を出す。
「……止まったんですよね?」
「表示を見る限りはな」
「終わったんですか?」
「……知らん」
「そこは終わったって言ってくださいよ!」
「今夜いきなり空飛ぶようになった人間に、そこまで求めるな」
少女が一瞬、ぽかんとした。
それから、吹き出した。
肩を揺らして笑っている。
初めて見る笑顔だった。
俺も、ようやく少しだけ笑えた。
月を見上げる。
もう、赤黒い線はない。
ただの月にしか見えなかった。
だが、知ってしまった。
あそこには、何かがいる。
俺を知り、《船長》と呼ぶ何かが。
そして俺の中にも、あそこへ帰りたがる何かが残っている。
――出航せよ。
また声がした。
今度は、思い出しかけた夢みたいに小さかった。
「船長だっていうなら、なおさらだ」
「え?」
少女が首を傾げた。
「何がです?」
俺は月を見たまま答えた。
「出航する時くらい、自分で決める」
少女は何も言わなかった。
遠くで、サイレンが増えていた。
俺は端末を取り出し、緊急窓口へ連絡した。
事故に遭ったことと、現在地を伝える。
その場を動かずに待つよう指示され、ようやく息をついた。
警察への説明も、診察も必要になる。
この街で起きたことを、どこから話せばいいのか。
考えただけで頭が痛い。
いや、実際に痛かった。
◆
診察と最初の聞き取りを終えたときには、日付が変わっていた。
事故車の二人も病院へ運ばれたと聞いた。詳しい容体までは分からなかった。
俺は肩の傷を手当てされ、念のため再検査を受けることになった。警察にも、後日改めて話を聞きたいと言われている。
こっちが聞きたいくらいだ。
職場には、交通網の異常と自分が事故に遭ったことだけを短く知らせておいた。
朝の定期点検も、予定どおりにはいかないだろう。
端末をしまい、左手の親指の付け根を撫でた。
十年以上触ってきた傷は、やはり消えたままだ。
肩には包帯が巻かれているのに、古傷の方は跡もない。
……考えるのは、寝てからにしてくれ。
俺は病院の外へ出た。
少女がいた。
俺と同じく検査と確認を終えた彼女は、端末を両手で握りしめていた。
画面には、家族からのメッセージが何件も並んでいる。
《どこにいるの》
《連絡して》
《心配してる》
少女はしばらく画面を見つめていた。
指先が動く。
何文字か打っては消し、また打ち直している。
俺は隣に立った。
「……帰るのか?」
少女は顔を上げた。
「はい」
それから、もう一度画面を見る。
「帰って、ちゃんと話をしようと思います」
「……そうか」
少女が深く息を吸った。
《無事です。今から帰ります。帰ったら話をしたいです》
送信ボタンに触れる指が、一瞬だけ止まった。
だが、少女はそのまま押した。
端末を握る手から、少しだけ力が抜ける。
「……送れました」
「そりゃよかった」
少女は小さく笑った。
「あの、今さらなんですけど……お名前、聞いてもいいですか?」
そういえば、まだ名乗ってもいなかった。
「三崎。三崎修平」
「私は白瀬琴音です」
「……よろしく、白瀬さん」
「はい。三崎さん」
名前を呼ばれて、ようやく少し落ち着いた。
「それで……どこへ行きます?」
「帰る」
「どこへ?」
「家だよ」
俺は答えた。
「今日も仕事だからな」
少女がぽかんとした。
それから、腹を抱えて笑い始めた。
「この状況で仕事の心配ですか!?」
「社会人なめんな」
「絶対休んだ方がいいですよ!」
「それは俺もそう思う」
少女がまた笑った。
俺もつられて笑ってしまった。
肩が痛む。
まったく、最後まで散々だ。
病院の前で、帰りのタクシーを呼んだ。
少女と乗り込む。運転席には、当然ながら誰もいない。
車載画面が、いつもどおり目的地の入力を求めている。
琴音が入力欄をこちらへ向けた。
「先に、三崎さんのお家でいいですか?」
「ああ」
俺は自宅の住所を入力した。
画面に経路が表示される。
見慣れた、いつもの帰り道だった。
少女へ画面を返す。
彼女は自分の家の住所を入力した。
「そのあと、私はここへ帰ります」
「ああ」
画面に二つの目的地が並ぶ。
少女はそれを確かめ、出発のボタンを押した。
タクシーは復旧した道路を、普通の速さで走り出した。




