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欠席扱いのまま、教室にいた日

作者: 結光
掲載日:2026/04/06



 二年三組の教室は、昼休みの終わりになると決まって静かになる。


 今日は特にそうだった。

 学年集会の準備で、クラス全員が体育館に移動している。次の授業は集会後にそのまま行われるため、教室に戻ってくる必要はない。担任も集会担当で不在――この時間、ここに人目はない。


 私は、その隙を縫うように教室の扉を開けた。


 登校はしている。

 朝からずっと、保健室にいた。


 出席扱いかどうかは、まだ決まっていない。保健の先生が「後で担任と相談する」と言っていた。だから、連絡用ホワイトボードには、仮で名前が残っている。


 教卓横のボード。


本日の欠席・保健室対応

三浦 梓(午前)


 その文字を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 仮の表示。

 ただの事務的なメモ。


 なのにそれは、「私はまだここに戻っていない」と突きつけられているみたいで、視線を逸らせなかった。


 昨日、自分の机に書かれていた言葉が蘇る。


――空気。


 怒るほどの力も、泣くほどの余裕もなくて。

 消そうとして失敗して、机が傷ついただけだった。


 だから今日は、教室に戻らないつもりだった。

 でも、気づいたらここに来ていた。


 戻らなきゃいけない気がした。

 名前を、この空間から消してしまう前に。


 私はホワイトボードの前に立ち、イレーサーを手に取った。

 プラスチックの持ち手が、やけに冷たい。


「三浦」


 突然、背後から声がして、心臓が跳ね上がる。


 振り向くと、窓際の後ろの席の男子――河野が立っていた。

 学級委員だ。集会用の資料を忘れたらしく、教室に戻ってきたのだろう。


「……保健室じゃなかったのか」


 責める響きはなかった。

 事実を確認するような、淡々とした声。


「午前中だけ」


 そう答えた自分の声が、少し震えているのが分かった。


 河野はボードの文字を見て、小さく眉を寄せた。


「まだ仮表示のままか」


 彼はイレーサーを取った。


 一瞬、名前を消されると思って、体がこわばる。


「待って」


 自分でも驚くほど、必死な声が出た。


「……残ってると、つらい?」


 河野はそう聞いた。


 その問いかけに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。


「うん」


 短く答えたあと、言葉が止まらなかった。


「ここに名前があると、ちゃんとしなきゃいけない気がして……でも、ちゃんとできてない自分が、ここに晒されてるみたいで」


 喉が詰まる。

 目が熱くなる。


 河野はしばらく黙ってから、ボードの文字を消した。


 消したのは、名前じゃなかった。


>欠席・保健室対応


 その項目自体を、きれいに消してから、空いたスペースにチョークで書く。


在席(集会合流前)


「これなら、事務的にも問題ない」


 学級委員らしい言い方だった。


 でも、その下に小さく残された自分の名前を見た瞬間、胸の奥で何かがほどけた。


 逃げてもいい。

 欠けてもいい。


 それでも、「ここにいる」と書いていい。


 私は、教室で初めて深く息を吸った。


 空気が、ちゃんと肺に入ってくる。


「……ありがとう」


 河野は少しだけ照れたように視線を逸らした。


「集会、もうすぐ始まる。無理なら、保健室戻ってもいい」


「……行く」


 本当は、まだ怖い。

 でも、今日は行けそうな気がした。


 名前は、まだここにある。



――河野視点――


 教室に戻るつもりはなかった。


 学年集会の資料を取りに行くだけで、すぐに引き返すはずだった。

 二年三組は今、誰もいない。担任も含めて全員が体育館にいる。


 だからこそ、扉を開けた瞬間、息を止めた。


 ――三浦がいた。


 ホワイトボードの前に立っていた。

 背中が、少しだけ丸まっている。


 その立ち姿を見ただけで、胸の奥が嫌な音を立てた。

 この時間帯に、あそこに立つ理由を、俺はもう知っている。


 教卓横の連絡用ホワイトボード。

 朝から消されていない文字。


本日の欠席・保健室対応

三浦 梓(午前)


 その表示を見つめる彼女の横顔は、

 「事務的」なんて言葉では済まされないほど、必死だった。


 ――昨日のことを、思い出す。


 清掃後の教室。

 彼女の机。

 誰かの悪意。


 俺は、あのとき、何も言わなかった。


 学級委員として止めるべきだった。

 好きな人の机に書かれた言葉を、消される前に。


 でも、声が出なかった。


 助けたい気持ちより、

 「余計なことをして彼女を苦しめるかもしれない」という恐怖が勝った。


 結果がこれだ。


 彼女は今、1人で名前を消そうとしている。


 視線が下がる。

 イレーサーを握る手が、ほんの少し震えている。


「三浦」


 呼ばずにいられなかった。


 肩が跳ねた。

 傷つけた、とすぐに分かった。


「……保健室じゃなかったのか」


 声を荒らげない。

 近づきすぎない。


 必死に理性を繋ぎ止めた声だった。


「午前中だけ」


 その声が、ひどく細い。


 ホワイトボードに目を戻し、イレーサーを取る。

 項目を消すつもりだった。


 でも、その瞬間。


「待って」


 彼女の声が、空気を裂いた。


 必死だった。

 本当に、追い詰められている声だった。


「……残ってると、つらい?」


 言った直後に後悔した。

 踏み込みすぎた、と思った。


 でも、彼女は黙らなかった。


「ここに名前があると、ちゃんとしなきゃいけない気がして……」


 ――ああ。


 それを「いじめ」と呼ばない人間は多い。

 殴られていない。

 直接責められてもいない。


 でも、これは確実に人を壊す。


 ちゃんとしようとする心だけを、

 少しずつ削っていく。


 俺は、ずっとそれを見てきた。


 だから。


 名前は消せなかった。


 消したのは、項目だった。


> 欠席・保健室対応


 それを消して、書く。


在席(集会合流前)

 学級委員としての処理。

 形式上は、そうだ。


 でも、本当は。


 ここにいてほしかった。

 消えないでほしかった。


「これなら、事務的にも問題ない」


 そう言った自分の声は、少し乾いていた。


 その下に残った三浦の名前を見つめる彼女の視線が、

 ほんの少しだけ、柔らぐ。


 深く、息を吸うのが分かった。


 それを見ただけで、

 胸がぎゅっと締めつけられた。


「……ありがとう」


 その一言で、全部が満たされて、そして苦しくなった。


 好きだ。

 でも、言わない。


 助けるのが遅すぎた人間が、

 報われようなんて思ってはいけない。


「集会、もうすぐ始まる。無理なら、保健室戻ってもいい」


 選択肢は残す。

 無理強いはしない。


「……行く」


 その返事を聞いたとき、

 胸の奥で何かが静かにほどけた。


 名前は、そこにある。


 それだけで、今日はいい。


 この恋は、きっと届かなくていい。

 でも、見捨てたままにはしない。


 俺は、そう決めて教室を出ていった。




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