響と幻夢境
いさぬき公園は今日も活気にあふれていた。
鯖江道に隣接するこの広大な公園は、一般人にとってもカルト組織の面々にとっても憩いの場となっている。
堅洲町に住まうオカルティスト達も、ここを中立地帯と認識しているのだろう。この公園で問題を起こそうとするのはむしろ、マナーの悪い一般人の方が多い有様ですらあった。
現代日本の公共の場にはふさわしくない怪しげなローブ姿の面々が普通の人々に混ざって闊歩する様も、この公園では見慣れた光景だ。ことに定期的に開かれるフリーマーケットの日とあっては。
オカルティスト達の巣窟たる鯖江道。そこに隣接しているだけの事もあり、フリーマーケットでは怪しげな品を売りに出している者も多い。魔術に関わる品々はそれそのものが厄介事を引き起こしかねないが、堅洲市民は慣れたもの。そういった商品はまず、店主が一般人には売りに出さない事を理解していた。そもそも、オカルティスト向けの店は一般向けの店と違って区別がつく。鯖江道の面々がわざわざ律儀にローブ姿で店を出すのは、堅気の者に真っ当な店ではないとアピールする為の暗黙の了解であった。
とは言え、全てがそんな良心的なオカルティストばかりでもない。今、宮辺響の目の前にいるのも、そんな店主の一人であった。アレックスを名乗るこの少女は透き通るような色白な肌と落ち着いた金髪の持主だ。シャツにジーンズ、そしてスポーツキャップというラフな服装の子の少女の姿から、この出店がオカルティスト御用達だと見抜くのは困難に近い。一応「一般人お断り」なる張り出しを出しているのだが、ロシア語に疎い堅洲市民がキリル文字で書かれたそれを読み解ける訳もなく、度々問題を引き起こしているのであった。
接客もせず、ぶっきらぼうな様子で読書に没頭しているアレックス。そんな彼女の対応を気にした様子もなく、響は商品に目を彷徨わせる。魔術師見習いである彼女の目的は、儀式に用いる魔術用具の調達だ。
天文学的な借金を抱える彼女は、真っ当な仕事では返済ができない事を悟っていた。故に、相場よりも遥かに高額の報酬が支払われる堅洲町の裏の仕事……怪異に関わる仕事を請け負っていた。
とは言え、オカルティストの家系に生まれたからといっても、響は女子高生。魔術師としてはまだまだ未熟で経験も足りない。その事を考慮しているのであろう、星の智慧派教会の牧師はまずは場数を踏みなさいとばかりに難易度も報酬もそこそこなアルバイトを斡旋するだけに止めていた。
さもありなん、と響も納得してはいる。自身が未熟なのは鯖江道のオカルティスト連中の実力を見れば目にも明らかだった。
まずは実力を付けねばならない。父亡き後の魔術の師として修業を引き受けてくれた魔女のロビンから、今の響の実力にあった魔導書を借りる事はできたが、流石に儀式用具までを無心するのは気が引ける。よって、型落ちの呪具を安価で手に入れるべく、響は定期的にいさぬき公園のフリーマーケットに足を運んでいるのだった。
無造作に並べられた複数のアダーストーンの中からよさそうな物を選別している響の隣では、青い瞳を輝かんばかりに見開き、あれこれと商品を手に取っている艶やかな金髪の美少女が一人。彼女は滋野妃。響の借金の返済元である滋野財閥の御令嬢である。僅か一代で財閥を築き上げた冒険家の祖父、滋野清玄に憧れる彼女は、世界の不思議に目がないアグレッシブなお嬢様であった。
「アレックス様!」
「何、お嬢様?」
「これはいったい如何なる品物なのでしょうか?」
小説からわずかに目を離し、妃の手にするものを一瞥する店主。金属でできた五センチほどの小物である。
「ヘラクレスの棍棒ね。大昔のローマで流行ったお守りよ」
「ではこちらは?」
「ジービーズのレプリカを使ったお守りね」
「こちらの仏様は?」
「プラクルアンって言うお守り。顔の部分が欠けてるから安くしておくわよ」
「お守りばっかりだねえアリーちゃん」
あっけらかんとした様子で茶化すのは、加藤環。小学生にしか見えないが、歴とした女子高生である。
星の智慧派教会で育った生粋の堅洲民である彼女は、鯖江道に随分と顔が利くのであった。
「ドビーの奴が旅行に行く度にお土産って言って持って帰ってくるのよ。私には無用の長物だし、家のスペースも無限じゃないから、定期的にこうやって放出しないといけないわけ。これでも前よりはマシになったんだから」
「……何があったの、アリーちゃん」
くすんだ金髪の少女、来栖遼がが店主におどおどと問いかける。
「等身大のトーテム像のレプリカだのどこぞの部族の盾のレプリカだの、扱いに困る大きさの物を送ってよこしてたのよ、前は。中学生男子が修学旅行で木刀を買って帰るノリね、あれは」
「私は前の方がよかったな~。見てて楽しかったもん」
「あんなデカブツ、私にどうしろっていうのよ。今のような小物が増える前は本当に大変だったんだから。車輪党の自室にでも送ればいいじゃないって嫌味を言ってやったら、あっちはもう埋まってるって返されたわ。ま、今でも取り扱いに困る大きさのお土産は無くなったわけじゃないけど」
アレックスは顔を顰めて後ろを見やる。そこには厳重に札で覆われた二メートル程の奇妙な物体があった。
「アリーちゃん、それな~に?」
「これね。これは私には手に余る……と、来た来た」
開かれていた小説にしおりを挟んでパタンと閉じるアレックス。響達が彼女の視線を追おうとすると。
「おや皆さま、奇遇ですね」
鈴の音のような声が耳に入ってきた。振り返った先にいたのは、環よりやや背が高い程度の小柄な少女……否、少年。この蚤の市で購入したのであろう小さな苗木を手にしている。日本人形を思わせる無機質な美貌の持主である和装の彼は、堅洲町の治安を裏から守る武藤家の魔王、雅であった。
相も変わらず気配を感じさせない隠密能力である。すぐ後ろまで近づいてきていたのに、響達は全く感知できなかった。
「掘り出し物は見つかりましたか?」
「私も妃も掘り出してる真っ最中だ。お前の方はどうだ?」
作り物めいた雅の微笑が深まる。美しさと同時にどこか不気味さを感じさせる笑み。
「これこの通り、です」
手にした苗木を手に得意げな様子の魔王様に、環は早速飛びついた。
「みゃーくんみゃーくん! なになにな~に? それな~に?」
「渋柿です」
「渋柿! 甘い奴だね!」
「いえ、残念ながら甘くはないんですよ。柿渋専用の新品種でして、早速試してみようかと」
「柿渋? そういや武藤って酒作ってんだっけか。にしても、早速って……桃栗三年柿八年っていうだろうに……」
「はい。今から楽しみです」
戦国時代から生き続けた魔王様。人間とは時間の感覚が違うのだろうか。
「して、アレックス様。連絡を受けてきました。引き取ってほしい物があると……」
「ええ。どう処理するか迷っていたけど、魔樹の扱いなら貴方達、お手の物でしょう?」
魔樹とは読んで字の如く、魔族の樹だ。本来、植物は酸素同様に魔力を生成し周囲に放出する。現代の表社会で魔術が廃れているのは、緑の量が減少傾向にあるのも原因だといえる程には、植物が魔術師にもたらす恩恵は計り知れない。
いつの時代であろう。古代の魔術師が魔力の供給源たる樹木そのものに魔術的な効果を施せないかと試したらしい。その成果として、長年の品種改良を経て生まれたのが、自己の生成する魔力を自家消費する事で物理的な恵みをもたらす魔法の樹であった。
果実の歴史はより大きく、より甘くを追求してきた。魔樹もまた、同じような進化を辿る。例えば、かつて堅洲に群生していたとされる非時香果は、不老長寿を望んだ人間の手によって生み出されたものだ。初めは数日、次には数年……食する毎に得られる寿命が徐々に長くなっていき、遂には一口で一世紀を生きられるだけの若さと寿命を与える果実を実らせるようになったのだ。
しかし、その代償は大きかった。不死の果実を一つ実らせるのに必要な魔力が、品種改良の結果どんどん増えていったのである。ついには自己生成の魔力だけでは足らず、土地の魔力すら吸い尽くさねば実を結ぶ事ができなくなった非時香果は、堅洲の地に取り返しのつかないほどの荒廃を招く結果となったのだ。
植物同様に魔力を自ら生み出す唯一の生命体である魔王。雅の生誕によって奇跡的な復興を遂げる事となった堅洲の地ではあるが、それは同時に非時香果の復活を意味するものであった。こぼれ種のまま地中で長きを耐えていたこの魔樹は、魔王の魔力を吸収して再び芽吹き始めたのである。過去の二の舞になってはならない。武藤一族は土地に散らばる魔樹の若木を探し当て、武藤の妹姫が生み出した箱庭へと封印してきたのであった。
このように、一つ間違えば土地に致命的なダメージを与えかねないのが魔樹である。とは言え、デメリットに対して相応のメリットが得られるのもまた確か。下手に処分するよりは、専門家に任せた方が得るものが大きいと判断して、アレックスは武藤に魔樹を受け取る様連絡を入れていたらしい。
「魔樹ねえ……どんな奴なんだ?」
しげしげと包みを見ながら、響は興味本位で店主に問う。
「シシャモ」
「は?」
「葉っぱがね、シシャモになるのよこの柳。ドビーの奴が北海道で見つけて送ってきたの」
「……食費が浮きそうだな」
「欲しい? でも駄目よヒビキ。別種の生命体を生み出すだけあって、この樹は魔力の消費がとんでもないんだから。幾ら堅洲では魔力を使い放題だからって、無限に存在する訳ではない以上は看過できるものではないわ。大体、堅洲に満ちる魔力はミャービが長い年月をかけて生み出してきたものなんだから、少しは遠慮しなさいな」
「……無念」
借金返済の為には無駄使いは出来ないが、しかし味気ない食事はしたくない。無料で良質なタンパク質を取れるかと期待しただけに、響はがっかりと肩を落とした。
様々な苗木を集める為に来ていたのであろう、武藤の若衆が魔樹を含めた荷物を纏めて軽トラックで去っていく。その後ろ姿を確認した後、無手となった雅は蚤の市へと舞い戻る。買い物は終わり。後は、危険な呪物が並んでないかチェックするだけだ。
顔見知りのオカルティスト達との情報交換や要望の聞き取りなどをこなしながら店を巡っていると、アレックスの店が再び見えてきた。買い物が済んだのだろう、響達は各々の手に此度の戦利品を納めている。
そしてもう一人。見知らぬ少女が大きな声をあげていた。ボサボサの髪に瓶底眼鏡。油断しきった腹回りを適当な英単語が縫い込まれたダサい洋服で押さえつけた、身だしなみなど知らぬと言わんばかりの丸顔の少女だ。
「どうなさったのですか?」
雅は音もなく響達の下に近寄ると、ヒートアップする見知らぬ少女を刺激せぬように、小さな声で問いかけた。
「いや、なんか星野の奴がな。アリーに難癖付けてるんだよ」
「お知合いですか?」
「顔見知り程度だがな」
ぎゃいぎゃいとアレックスにかみつく少女、星野猯子。その剣幕に、しかしアレックスは動じた様子もない。
「何度も言っているけどね。私は余程の事がない限り危険物を一般人には売りつけない主義なの。貴女の友人に売った物は珍しくはあるけど間違いなく安全な代物よ」
「じゃあ何でユッキーがあんなになってるのよ! あの子の日記を盗み見したけど、変化があったのは間違いなくここでの買い物が原因よ!」
平行線をたどる言い争い。雅がアレックスへの助け舟を出すべく、猯子へと声をかける。
「あの、星野様、ですね? 一体何があったのか私にも教えてくれませんか? アレックス様は余程の事がない限りは人を罠に嵌めるようなお方ではないはずなのですが」
「うわびっくりした! 誰よアンタ! いつの間に私の側に近寄ったのよ!」
「武藤だ。噂くらいは聞いた事があるだろ? 堅洲には怪異事件を解決して回っている一族がいるって」
「む……そうなの」
以前、怪奇現象に見舞われた経験があった猯子は、堅洲の噂を集める内にその事について聞き及んでいた。
「無辜の民が怪異に苦しめられている以上、それを解決するのが武藤の役目。どうか詳しくお話を聞かせてくださいな」
猯子はチラリと響に目をやる。信用できるのかの確認だ。彼女が肯定するように頷いたのを確認し、雅に事情を話し出した。
ユッキーが目を覚まさない。猯子は苛立たしげにそう答えた。
倉田幸子。猯子の親友であり、同じ寮で暮らしている彼女が、ここ数日の間目を覚まさないのだそうだ。
幾ら起こそうとしても、まったく反応がない。時々苦し気な顔で喘ぐ彼女を見て、すわ病気かと病院に連絡を入れたのだが、原因は全くの不明との事である。体は健康そのもの異常は見られないらしいが、だからこその奇怪な昏睡に医者も頭を悩ませていた。
どうやら、医者も堅洲に精通しているらしい。「ふざけている等とは受け取らないでほしい」と念押しした上で、幸子が堅洲の怪異に魅入られたのではないかと考えを述べた。以前の猯子なら冗談を言うなと激昂していただろう。しかし、文化祭での体験を切欠に、この町に得体のしれない何かが存在する事は間違いないと認識するようになっていた。
何か原因を解明するようなものはないか。そう思って幸子の入院中に部屋に忍び込んでみた彼女であったが、入った途端に何かに見られているような違和感を覚えた。しかし、視線の主を探そうにも探し出すことはできなかった。時折、視界の端に何かが横切るのを確認できた程度に過ぎない。とは言え、視線の主は何か害を成すような真似はしてこなかった以上、下手にこちらからつついても藪蛇かもしれないと考えを切り替える。
変わったものはあるにはあった。見た事のない樹木の鉢植えだ。一体何の樹なのかと携帯電話で調べてみたのだが、まったくもって分からない。
頭を悩ませていた猯子だったが、不意に幸子が日記をつけていた事を思い出した。眠り続ける親友に心の中で謝罪しつつ、日記を紐解く。件の鉢植えをいさぬき公園のフリーマーケットで購入したとの記録があった。くたびれたOLみたいな部屋と猯子に揶揄われたのを切欠に、部屋の中の侘しさを多少なりとも解消するための観葉植物やら小物やらを安く仕入れようとの考えだったらしい。
気に入った小物の購入を終え、次は部屋を彩る緑をと色々な出店を周ってみたのだが、管理の難しさ等の問題からなかなか良い物が見つからない。そんな中で見つけたのがアレックスの店であった。ロシア語が読めない彼女はオカルト絡みの店だとは気が付かないようであったが、それについてはアレックス自身から説明は受けたらしい。一般人向けの店ではないと知ってその場を離れる前に、ダメ元で管理が楽な観葉植物がないかを聞いてみた幸子にアレックスが進めたのが例の鉢植えのようだった。何でも、堅洲から離れなければ室内でも枯れる事はない珍しい食部との事。半信半疑ではあったが、値段の安さに惹かれた彼女はこれを購入したのである。
その夜からだった。カサカサと何かが部屋の中を這いまわる音が聞こえるようになったのは。害はなかったのだが、何とも不気味であった。流石におかしいと考えた幸子は、今度同じ店で事情を話してみようと記し……そこで日記が途絶えていた。
「成程……その鉢植えを買った店がアレックス様の店という訳ですね。して、アレックス様。一体何の鉢植えを売ったのですか」
「月樹よ、ミャービ」
「むう……」
雅が首を傾げた。月樹という言葉に心当たりがなかったのだろう、妃が問う。
「月樹とはどんな植物ですの?」
「文字通り月に生えている樹なのですが……はて? 珍しい植物ではあるのですが、観葉植物として用いるだけならば特に危険はないはずです」
「そうなのですか?」
「はい。正直、市販されている夾竹桃の方が遥かに危険ですよ」
雅の言葉に、親友が危機に晒されていると感じた猯子が再び癇癪を起こした。
「そんなはずない! だって、ここの鉢植えを買うまでは変な事がなかったって書いてあったし!」
「……とりあえず、現場を見せてもらえませんか? 実際にその鉢植えを確認しなければ、何とも言い難いのが現状です」
「分かったわ! 案内するからついてきなさい! 必ずそいつの化けの皮を剥がしてやるんだから!」
ふんすふんすと鼻を鳴らし、のっしのっしと去っていく猯子。その後に続こうとする雅を、妃が引き留めた。
「雅様、私も一緒についていってもよろしいでしょうか? 月に生えている樹というものに興味があるのです」
「おい妃。雅の仕事の邪魔すんなよ……って聞いても聞かないか。悪い雅。私もできるだけ仕事手伝うからさ、こいつに見学させてやってくれないか?」
「はい、構いませんよ。魔術が使えない以上、私だけでは手に余るかもしれませんからね。できれば環様にも手を貸していただきたいのですが……」
「おっけー! 了解だよみゃーくん!」
任せておけとばかりに薄い胸を張る環。そんな彼女を微笑まし気に見つめながら、一同は遠くで急かしている猯子を追うのであった。
案内された幸子の部屋は、響達にすっきりと片付いた印象を与えるものだった。良い意味でというよりは悪い意味で、だが。女子高生らしい遊び心が欠如した、その日の寝床さえ確保できればそれでいいといわんばかりの無味乾燥した部屋。申し訳程度に飾られている多少の小物ではとても閑散とした印象を覆す事ができない有様である。正直、飾り気のない机の上に缶ビールとおつまみでも置かれていた方が余程この部屋の有様に合っている。それ故に、響達の目的物である件の植物の緑色は酷く場違いなもののように目立って見えた。
「これが月の樹ですのね……」
宝石のような蒼い瞳を好奇心で輝かせながら、妃は「では失礼」と断りを入れて携帯電話で写真を撮る。
「んで、魔王! アンタの見立てではどうなの? これでも無害って言い張るきかしら?」
そう言って、部屋の隅々に視線を這わせる猯子。気付いているのだろうと言わんばかりの行動だ。
当然気付いているだろうと、響は雅を眺める。この部屋に入った瞬間から感じる、異様な視線の数。十はいかぬか、その程度。だと言うのに、姿は全く見られない。荒事に関してはまだまだ未熟な自分でも分かるのだ。ならば、戦国の世から怪異相手に鎬を削っていた雅が気付かぬはずもない。
確かに雅も部屋の中を注視していた。しかし、響は小さな違和感を感じる。黒水晶の如く無機質な魔王の視線は、部屋に潜む何者かに合わされてはいない。一体何を見ているのか。それを聞き出そうと響が声をかけようとした、その時だった。
「つっかまっえた~!」
酷く陽気な環の勝鬨。何事かと一同が注目してみれば、環の手には奇怪な生物が収まっていた。褐色の毛皮を身に纏う子猫程の大きさの生き物だ。まさか素手で捕まえたというのか。大した動体視力であった。
「なにこれネズミ? でっか! 綺麗どころか何もない部屋にもネズミって湧くの?」
訝しげに覗き込む猯子。そのネズミもどきは環の小さな手の中で必死にもがいている。舌の震えるような奇妙な鳴き声。それは断じてネズミのものではなかった。
「な、何なのこの生き物……?」
「ズーグだよハルちゃん! こっちの世界で見るのははじめて!」
「へえ、こいつが……タマ、交渉できるか?」
「まかせて!」
そう言うや否や、環の口から聞きなれない言葉が飛び出した。否、似たような言葉はここにいる一同は既に聞いている。ネズミもどきの鳴き声に随分と酷似した言霊。小さな捕囚は目を丸くした様子で環を見つめると、紛れもなく会話を交わし始めた。
「ズーグって言ったわね。宮辺、アンタあの生き物のこと知ってるの?」
「クソ親父の残した本に書いてあった。この世界の生き物じゃない。言語も持っているし道具だって使う、夢の世界の知的生命体だ」
「夢の世界?」
「一種の異世界でな。夢を見る才能があれば自由に行き来できるらしい。私にはその才能がなかったから、本から得た情報しか持ってないがな。しっかし流石はタマ。リリスの血族だけあって夢の中もお手の物か」
環と同胞の会話を聞いたのだろう。響達が危害を加える存在ではないと理解したらしく、数匹のズーグ達が姿を現し響達を取り囲んでいた。
目を輝かせながらボディランゲージを試みる妃を他所に、環はズーグを手から解放する。
「この子達、月樹の様子を見に来ていたんだって。この子達の棲家って、月樹が一本しかないらしいんだ。お酒を造るのに必要らしくって、この樹を欲しがっているみたい」
「やはりですか」
雅が納得したように頷いた。
「問題は土地の方にあったようですね。どうにもこの辺りは夢と現実の境界が他より薄いようです。そこに幻夢境ゆかりの植物が持ち込まれた。この樹を目印として迷い込んだ夢の住人に星野様の意識は引っ張られてしまったのでしょう」
「え、じゃあユッキーを起こすには夢の中に行かなきゃダメって事? どうやるのよ? 宮辺が言うには才能がなければ自由に行き来できないってて事じゃない!」
「わたしなら夢の世界にいけるよ!」
「……こんなちんちくりん一人に任せろと?」
「その点は問題ありません。響様が協力を申し出てくれましたからね。響様、何か書く物を持っていませんでしょうか? 夢の裏道を通るための術式をお教えしますので」
「お、面白そうな魔術だな。折角だからこいつに直接書き込んでくれ」
そう言って、響は鞄から取り出した一冊の書物を雅に手渡した。車輪党の魔女が用いる「影の書」だ。魔導書とは名ばかりで、その実態は分厚い白紙の帳面である。雅はそこにボールペンで書かれたとは思えない程の達筆さで術式を書き込んでいった。
「……ねえ、じゅつしき? ってのを知っているなら、アンタ一人でどうにかできないの? 魔王なんでしょ?」
「残念ながら、体質の問題で私は魔術が使えないのですよ。魔王は植物のように魔力を生み出す事しかできないのです」
「何だか現実ってしょっぱいわね……魔王って言うからには魔界の王様なんでしょ? 世界征服を目論めるような超絶パゥアーとか持っていてもいいじゃない」
「魔王といっても爵位や称号ではなく生物としての名ですからねえ。キングサーモンやキングコブラが実際には王位を持っていないのと同じですよ」
「ああ、そういう意味での"王"なのね……でも、だったら何で術式なんてものを知っているのよ。覚えても使えないんでしょ?」
「だからこそです。例え魔術を使えなくとも、術式を知っていれば魔術に対してある程度の対処は可能となります。儀式の妨害をしたりもできますしね。真正面から魔術を打ち破れないからこそ、無法な怪異から民を守るためには魔術をよく学ばなくては。武藤は堅洲の守護者ですからね」
「へぇ……」
感心した様子で雅を見つめる猯子。例え力では怪異に勝てずとも、必ずや被害者を助け出して見せるという矜持を雅の言葉から感じる事ができたのだ。
術式を書き終えた雅は、影の書を雅に返すと「では準備をお願いします」とだけ伝えて部屋を出ていった。
「ほうほう……それほど難しい魔術じゃないんだな。見習いの私でも簡単にできそうだ。ただ、詠唱に時間がかかるかな」
「ねえ宮辺。魔王はどこにいったのよ?」
「この魔術の発動に必要な香とか薬草とかの仕入れだ。それほど珍しい物は必要としないみたいだし、一時間もあれば戻ってくるだろ。タマ。先行して星野の追跡と道案内を頼めるか?」
「うん。それじゃあ先にあっちで待ってるね! おやすみなさ~い!」
そう挨拶すると同時に、環はここ数日使われていない星野のベットへと遠慮もなしにダイブ。そのままスヤスヤと寝息を立て始めるのであった。
響の詠唱によってぼやけていく視界が突如暗転する。意識は手放しているはずなのに、小さな手に引っ張られている感触を確かに感じた。次に猯子が目を覚ました時、視界に写ったのは黒色の空に煌々と輝くのは蒼い星……地球の姿であった。
「マミちゃん、おはよー!」
ひょこっと。覗き込んでくるのは環の顔。相も変わらず能天気な幼い笑顔だ。それは自体はいいのだが。
「加藤……なによその恰好」
環の服装が変わっていた。寝る前にはいかにも小学生女子が好んできていそうな洋服を着ていた環であったが、今は忍者を思わせる装いである。それも、ロールプレイングゲームやファンタジー映画に突拍子もなく出てくるような、なんちゃって忍者装束だ。ご丁寧に背負っている忍刀はのは模造刀だろうか。
「夢の世界に足を踏み入れるとな、人体以外の全てがここの文化に合わせて変質するんだよ。本に書いてあったとおりだ」
先に目を覚ましていたのであろう、響の声が疑問に答えた。身を起こした猯子が声の出所を追うと、響は携帯電話を手にしながら色々と弄っている。周辺に生える巨木の群れにも気にした様子はないようだ。
猯子は自身の姿を確認する。そして、妃、遼、雅と視線を彷徨わせ。
「私達の服は変わっていないようだけど?」
「流石は夢の住人、リリスの血族直伝の魔術だな。裏道を通ったおかげか持ち込み禁止のはずの電子機器もこれ、この通りだ……まあ、電波は繋がらないんだがな」
「みゃーくんすごい魔術知ってるんだね~。わたしのスマホなんてここにくるとこんなんなっちゃうのに」
そう言って環が懐から取り出したのは、ぐるっぽう。何と伝書鳩である。
「……電波がない以上通信能力は上として……カメラ機能は使えるのかしら」
天上の故郷をはしゃぎながら撮影している妃に目を向けながら、ふと頭をよぎった些細な疑問が猯子の口から出る。
その質問に答える様、環が鳩の頭をぽんぽん叩くと、その鳥類はどこぞから取り出した羊皮紙に向かって筆を振るい始めた。器用に動かされる嘴の羽根ペン。やがて出来上がったのはどことなく中世画チックな猯子の似顔絵。
「……意外と多機能ね」
「でしょ~? でも、夢の世界へのスマホのもちこみはおすすめできないよ! 起きた時に着信音がはとぽっぽの鳴き声で固定されたまま戻せなくなっちゃうから! お店でもハルちゃんでもなおせなかったんだよね~」
微妙に厄介な後遺症であった。
「で、魔王。ここが夢の中だってのは理解したけど、頭の上のアレは何よ。地球でしょ? って事はこのやけに灰色っぽい場所は……」
「ええ。お察しの通り月ですよ。現実世界ではなく夢の世界の、ですが。周りを見ても分かるように、件の鉢植えもこの地が原産なのです」
鬱蒼とした月の樹々。どうしてか一緒についてきたらしいズーグ達が、狂喜乱舞しながら種や若木を採取している。
植物があるせいか、それとも単に夢の中のせいか。呼吸できずに窒息死ということはないらしい。重力も地球と同じ。何とも都合がいいものだ。
「あら?」
妃が不思議そうな声を上げた。
「どうした、妃?」
「響さん。あれ、何でしょう?」
指差す先には蒼い星。それに重なるようにして、奇妙な物体が影を落とす。
「……ガレー船、だね」
瞳を丸くしながら呟く遼。豪奢な装いの黒いガレー船が、海原を進むかのように宇宙を横切っていく。
それを目にした環はいささか興奮した様子で答えた。
「あれだよあれ! あの船の持主にユッキーちゃんがつれていかれたんだって!」
「……っ! 追うわよ!」
環の言葉を聞くや否や。猯子は空飛ぶ船を追いかけて森の中を駆け出した。
灰の世界を彩る緑の海を抜け出し、空を見上げながら走り続ける事数十分。黒いガレー船はようやく高度を落とし始める。その先にそびえ立つのは灰白色の城であった。色合いだけで見るならば、荒野の景色に溶け込んでしまいそうな地味さなのだが、滲み出す威容が周囲との協調を明らかに拒んでいる。捻じれ、尖り、湾曲し。前衛芸術家が居住性を度外視して建築したかの様な石の城であった。
響と環は荒涼とした荒野の高所から、ガレー船が消えていった城壁の中を覗く。魔術による遠視である。城下町すらない小さな孤城の中では、人ならざる生物達が闊歩していた。人間の男に酷似しているが、角と尻尾と蹄を持つサテュロスめいた連中が、ガレー船に群がり積み荷を降ろしたり、船の整備に取り掛かったりしている。
慌ただしくも活気ある雰囲気が場内に漂う中、城の歪な形の扉が開かれる。それと同時に傅くサテュロス達。姿を現したのは異形の怪物であった。直立歩行する病的な白さのヒキガエルとでもいうべきか。その顔には目らしきものがなく、鼻のあたりには桃色の触手が蠢いていた。常人ならば吐き気を催すような姿の怪物であったが。自分が城主だと示す為であろうか、奇妙な王冠に酷く目立つ赤いマントを身に纏っており、どことなく滑稽な印象を感じさせた。
ペットなのだろうか。ぶよぶよとしたその白い腕の中には一匹の猫が収まっている。地球の猫ではありえない程のサイケデリックな色彩の毛皮。丸々と太ったその猫は、ヒキガエルの王様には目も向けず、その傍らに佇むドレス姿の人間の女性にかまってほしそうに手を伸ばしている。その女性の事を響は知っていた。顔を強張らせながらも怪物から離れようとしない細身の少女。人を射殺してしまいそうな鋭い目つきの彼女こそ、夢の世界の捕囚となっている倉田幸子その人であった。
数人のサテュロス達が何らかの巨大な木箱を担いで城の中に入っていく。それを満足げに確認し、ヒキガエルは幸子と共に城の中へと姿を消した。
ガレー船から降ろされていく荷物の数々。紐解かれたその一つを確認した響は目を疑う。無人航空機……即ちドローンであった。安っぽいパッケージからいそいそと中身を取り出したサテュロスは、マニュアル片手にしどろもどろ、ドローンを動かしている。
その隣では、責任者らしきサテュロスが拳銃を片手に部下に声をあげていた。銃を突きつけ脅かして……といった様子ではないようだ。手にした自動拳銃に対して、責任者が指差す先にはばらけた弾丸。リボルバー用だろうか。どうにも、規格に合わない銃弾を仕入れてしまったらしい。
よくよく見れば。サテュロス達が検品しているのは、どれもこれもが近代製品ばかりであった。正規の手段で幻夢境に訪れた場合、文化レベルにそぐわないモノは別の何かに置き換えられる。にも拘らずこれらの機械を持ち込めるという事は。連中が夢の裏道を抜ける手段を知っている事に他ならない。
「困りましたね……」
雅がポツリと呟く。もとより数が数である。正面突破で幸子を助け出せるとは思っていない。となると、こっそりと侵入して幸子を連れ出すよりないと考えていたのだが。
「気付かれずに忍び込むのが随分と難しくなった……てか、無理じゃないか? お前がいると」
「ですねえ……」
響の言葉に肯定する雅。それを見て、猯子は首を傾げる。
「え? なんでよ? 魔王ならいけるんじゃないの? 一緒に行動していても足音一つしなかったし、こうして隣にいても全然気配感じないもの」
「それがですね」
確かに、雅の隠密技術は優れていた。一般人はおろか達人ですらその気配を悟らせない。そんな振る舞いを日常レベルで使いこなしている雅ならば、或いは一人で幸子を助け出してくれるのではないかと期待していたのだが。
猯子にとっては残念な事に、雅の優れた隠密性は彼の魔王としての特性が台無しにしていた。魔女の王は樹木の化身。魔女の間ではそう謳われるように、雅は生きているだけで魔力を生み出し周囲に放出しているのである。これは魔王という生物としての特性で、雅本人の意思ではどうにもできない。魔力を感知できる存在であるのならば、周辺と比べて明らかに高濃度の魔力を放出している物体が移動しているのを観測できる訳で。周辺の魔力が生成魔力を上回るほどの濃度である堅洲ならともかく、一般的な魔力量濃度にすら届かない月の荒野では雅の絶技は宝の持ち腐れでしかなかった。
「成程ね。奴らも宮辺に教えたような裏道を通るための魔術を知ってるって事は、連中の中に魔術師がいるってこと。魔力が感知できる以上、アンタの行動は全て筒抜けって訳か。で、どうやってユッキーを助け出すの?」
「……そうですね。二手に分かれましょうか。私が配下の方々の気を引きますから、響様達はその隙に場内に忍び込んで下さい。それと、念の為にこれを」
そう言って雅は懐から緑色の石を取り出し、響と環に手渡す。翡翠の勾玉であった。植物は魔力を生み出し、鉱物は魔力を溜め込む。殊に翡翠は魔力を溜め込みやすい特性があった。いわば外付けの魔力タンク。雅の生成する魔力を十分に溜め込んだ勾玉は、低濃度魔力帯である荒野では魔術師にとって有難い代物であった。
「確かに受け取った。そうだ、ちょっと待て……雅。シオン、芙蓉、いるか?」
「ほいほ~い」
突如として地面から上がる声。驚いた猯子が視線を足元に向けると、響の足元……地球光に照らされて落ちる響の人影が揺らぎ、大きくなっていく。やがて影の沼から頭を覗かせたのは、乳児ほどの大きさの褐色の少女。そして、牙の生えた大口以外に顔のパーツが確認できない、どことなく樹木を思わせる三メートル程の怪物であった。この瓶の小鬼と妖樹は、響の使い魔であった。
「よしよし。ちゃんと夢の中までついてきてたな」
「あったりまえじゃん! あたしらは一蓮托生なんだから!」
シオンの言葉を肯定するかのように、妖樹がクネクネと踊り出す。
「お前ら、雅についていけ。私と念話で成り行きの是非を連絡し合えるようにしとけよ」
「ほいさっさ。ほらほら行くよ、武藤の魔王様!」
妖樹の頭の上に陣取り、雅と共にアバンギャルドな城に向かうシオン。その後ろ姿を見送ると、響は環に渡されていた勾玉を手渡した。
「タマ、こいつはお前が持っておけ」
「ヒビキちゃんはどうするの?」
「自前の魔力だけでどうにでもなる。って言うか、あの数の連中相手だとまともに呪文を詠唱できる暇があるかも怪しい。詠唱なしに魔術をブッパできるお前の方がうまく扱えるだろ」
「分かったよ! みんなはわたしが守ってあげるから安心してね!」
にっこにこの笑顔で薄っぺらな胸を張る環を見て、猯子は不安に苛まれた。
「ねえ宮辺。魔王もあの強そうな怪物もなしで、武装した化け物連中の城に忍び込むなんて、私達にできるの?」
「まあ、死んでも骨は拾ってやるから安心しろ」
「ちょっとちょっと!」
「冗談だ。私も可能な限りちゃんと守ってやる」
「……面白くもない冗談はやめろっての」
「すまんすまん。まあ実際、私らが死んでも骨を拾う必要なんてないんだがな」
「それ、どういうこと?」
「おかしいと思わなかったのか? 怪異から町の連中を守る仕事としている雅が、見習い魔術師に過ぎない私や魔術の魔の字も知らないお前なんかに危険な仕事を押し付けるはずがないだろう? 実際、これが現実の世界ならばアイツは絶対に私達の同行を許さなかっただろうさ」
「現実の世界ならって……もしかして、夢の世界で死んでも現実の私達には影響がないってこと?」
「ご名答。ここで死んでもあっちの世界で目が覚めるだけだ。デメリットもないではないが」
「なによ、そのデメリットって?」
「覚醒の世界の人間が幻夢境でくたばると、以降永久的に夢の国からBANされるんだ。私らはタマを除いて夢を見る才能が備わってないみたいだから、さして痛くもない代償だな」
「それは困りますわ! 私、もっと夢の世界について知りたいですもの! 皆さん、絶対生きて帰りましょうね!」
「はいはい」
冒険大好きな滋野財閥の御嬢様の言葉を適当に聞き流す響。
猯子は覚悟を決めた。夢の中での死は所詮悪夢の一幕に過ぎない。ならば、親友を救うべく大胆に危険へと飛び込んでやろうではないか。
「すみませ~ん!」
城門を警備していたサテュロス達は困惑していた。同族達からはみ出し者扱いされている月棲獣の主が人波を避ける為にわざわざ辺境の地に建てた城である。時折、近場で地球と土星、二つ惑星の猫達が仁義なき戦いを繰り広げる以外には変化に乏しい寂れた土地である。魔力濃度も周辺より低めで、占領するだけの旨味がないためか、月の土地を巡って争っている諸勢力からも見捨てられた場所であった。
何故このような場所に居を構えたのか。サテュロス達の主曰く、『芸術家は静かな環境を好む者なのだよ』との事である。煩わしい人付き合いを避けて自らの探求にのめり込んでいる主にとって、月の住人達に見捨てられたこの地はうってつけの棲家であったのだろう。
とはいえ。この地を好んでいるのはあくまで主だけである。彼の奴隷であるサテュロス達にとっては退屈なことこの上ない場所であった。時折、主が開いてくれる夢の抜け道を通って覚醒の世界で商品を仕入れてくる事だけが気晴らしになるくらいには、娯楽に乏しい生活。それでも、奴隷達はこの地を離れる気にはならない。
変わり者の主であった。他の月棲獣達の奴隷の境遇に比べれば、彼らの支配者は信じられない程に寛大だ。精々食われぬように肥満を避ける程度の運動をこなしてさえいれば、余程の失態でもしない限り拷問にかけられることもない。
代り映えのしない、しかしそこそこに穏やかな日々。今日も昨日と変わらぬ時間が過ぎていくかと思いきや。城の門をたたく、奇妙な来訪者が現れたのであった。
鈴の音のなるような綺麗な声で三人の衛兵を呼び出したのは、人形を思わせるような無機質な美貌の少女。そして、その後ろには樹木を思わせる奇怪な怪物と、その頭に乗る褐色の童女。
「……何の用だいお嬢ちゃん? こんな辺鄙な場所で迂闊に知らない男に声をかけるなんざ、悪戯してくれと言っているようなもんだぜ?」
下卑た笑いを浮かべるサテュロス達。もっとも、少女に狼藉を働こうとする気は全くない。目の前の少女は確かに目を見張る美しさなのだが、どことなく作り物めいた容姿は、綺麗すぎては劣情を喚起させることがない。むしろ強い不気味ささえ感じる程である。
だが、それは性的対象として彼女を見た場合であろう。商品価値はむしろ格別だ。こんなゲテモノを求める連中は、往々にして世間一般的な美人を食い飽きた富裕層だ。需要が少ないだけあって、高値であろうとも喜んで買ってくれることだろう。
また、後ろの怪樹は確か天王星の連中が好んで使役する奴隷種族のはず。時折この地に主に伴ってやってくるのを見る事があった。商品は幾らあっても困る事はない。
ニタニタ笑いながらも、心中では冷静に商品の値踏みを行っているサテュロス達。その様子を知ってか知らずか、少女はいかにも平常心といった様子で笑みを浮かべている。
「実は、このお城に用がありまして」
「おうおう、そうかいそうかい。まあ立ち話もなんだし城の中ででも……」
そう言って、槍を持ったサテュロスが奴隷候補に手をかけた次の瞬間。膝から崩れ落ちた。
後方で下賤な微笑を浮かべていた二人のサテュロスは、一瞬、何が起こったのかわからなった。白目を剥いて倒れ伏す同僚と、何事もなかったかのように佇む少女。しかしてその白磁のような手には、見慣れた槍が握られていた。
「な、なんだてめえ! 賊かなんかか?」
「用があると言ったはずです」
その言葉と共に一足飛びに距離を詰める和装の少女。鋭い突きがサテュロスを襲う。反応に遅れたサテュロスの鳩尾に石突きが正確に叩き込まれた。
蹲り悶絶しているサテュロスを見てようやくこの少女が敵対者だということを理解できた最後の一人。剣を抜き放ってそのまま少女に突進する。槍のリーチの内側に入れば無力化できると踏んだのだ。突きを放った直後の硬直をうまく突けたのか。それでも少女は辛うじて、槍を構えて守りに入る。振り下ろされた一撃が、槍の柄を両断した。されど少女は無傷のまま。
外したか。と、心の中で毒づくサテュロスを驚愕が襲う。折れた柄がそのまま獣人の体を打ち据えた。痛みに耐えながらも何とか後ろに飛び退り、次の一撃から身を逃す。
少女は追撃してこない。不意打ち気味の槍の一撃から何とか立ち直った同僚が、倒れ伏していたもう一人を引き摺り安全圏まで移動する様を人形めいた瞳で見つめている。彼らに戦闘力が残されていないと見たのだろう。少女はこれ見よがしに折れた槍の片方、穂先のついた方を地面に放った。
その行為を見て、サテュロス達は嫌でも理解した。先の奇襲、殺そうと思えば殺せたはずだ。返す穂先で気を失った同僚も。先の剣の一撃もそうだ。その気になれば横に薙ぎ払う事で迎撃する事もできたのだろうが、敢えて攻撃を受けてみせたのだ。剣と渡り合うのにちょうどいい長さへと槍を加工するために。
遊ばれている。石突きのみが残った槍を手にした少女に、サテュロスが吠える。
「てめえ一体何者だ……!」
「道場破りです。さあ、私の修行に付き合ってもらいましょうか」
「……滅茶苦茶強いわね、アイツ。あんなナリして怪物相手に無双してるわ……」
手薄となった裏門から潜入に成功していた猯子は、物陰からこっそりと表門の様子を覗き込んで呟いた。
今またサテュロスが雅に打ち掛かり、あっさりと返り討ちにあった。遠目に見ていると、獣人達は動かない相手に対してわざと攻撃を外しているように見えるのだが、響曰く必要最低限の動きだけで攻撃を躱すのは雅の十八番との事であった。
それにしても一方的過ぎやしないか。それ程筋力が有るような体格には見えないが、熟練の技量だけでその不利を捻じ伏せているらしい。流石は魔王を名乗るだけはあると感心していた猯子であったが、響が言うにはあそこまで鍛え上げても堅洲の怪異を相手にするには全然不十分との事である。これほどまでに鍛え上げなければ怪異相手のステージにすら立てない。魔術が使えないというハンデはそれ程までに重いものなのだ。
さて、雅についていった響の使い魔達はというと。正直のところ役に立っているとは到底思えない。童女は後ろで声援を送るだけ。妖樹は力強そうな巨体をゆらゆら揺らして踊っている始末。これでは野次馬以外の何物でもない。
野次馬と言えば。雅と衛兵達の戦いを遠巻きに見ているサテュロス連中である。武器を手にしていないあたり、人足か何かなのだろう。奇妙な闖入者が衛兵以外に武を振るわないと分かるや否や、どちらが勝つかの賭け事に興じている。賭けに勝ったサテュロスの喜びの声援に対し、雅は手を振る余裕すらあるようで。暇を持て余した僻地にて唐突に始まった娯楽に、皆興奮した様子で群がっているのだった。
「あ、ここなら入れそう」
流石に真正面から城には居れるとは思っていない。盛り上がる表門の様子を覗き見ていた猯子以外は、正面とは別の侵入口を探っていたのだが、遼が忍び込めそうな場所を見つけ出したらしい。
しっかり締め切られた窓のようだが、遼が二、三手を動かすや否や、閉じられたそれはあっさりと口を開く。
窓から忍び込んだ猯子は目に飛び込んできたモノを認識して顔を思いっきり顰めた。薄暗い部屋の中。あちこちに横たわっていたのは、サイケデリックな毛皮を持った猫の亡骸。どれもこれも酷く傷つけられたそれらは、見た事のない猫の色彩を上回る程の嫌悪感を猯子に与えた。
「何よこれ……まさか、猫を虐待して楽しむイカレポンチがいるってこと?」
「……まあ、あの月のヒキガエルどもは種族全体で拷問好きという割かし救いようのない性癖持ちではあるんだが……」
「何よそれ! それじゃユッキーが危ないじゃない! こんなとこでマゴマゴしてらんないわ! 早くユッキーを助け出さなきゃ!」
「あ、マミちゃんまって! 一人じゃあぶないよ~!」
響の言葉を最後まで聞かずに廊下へと飛び出した猯子と、それを追う環。幸いにも、廊下には人影はない。まさか皆城門での騒動に出張っているのであろうか。だとしたらどれだけ暇を持て余していたのであろう。
「あ~……行っちまったか……」
「ど、どうしよう響ちゃん……星野さん危ないんじゃ……」
「大丈夫だろ。どうせ死んでも影響はないし。そもそもタマが同行してるしな」
「そ、そうなのかな……」
これまでの経験から怪異の棲家での勝手な行動は危ないと理解していた遼は、猯子を心配しながらも団体行動を乱すような事はなかった。ついでに言えば、部屋の中に揃えられた様々な道具に興味をそそられてもいた。
「これ、全部魔道具っていうやつなのかな? 私の目にはとても拷問器具には見えないけれど……」
「気付いたか。多分ここ、ファミリア作りの工房だ」
ファミリア。死した動物を再生させて生み出される使い魔の一種である。自然死したり事故死した個体を使うのが一般的なのだが、好みの動物を殺害した上でファミリアにする魔術師もいない事はない。しかし、この工房の持主にはそのような趣味はないようであった。
「星野の奴は話半分で出ていったから指摘できなかったがな。この死体、虐待で死んだ訳ではなさそうなんだよな。見てみろ、この傷。猫の引っかき傷だ。こっちは噛みつき痕」
「……猫同士で争った痕って事? それにしては数が多くない?」
「まるで戦争ですわね」
「多分、妃の言う通りだ。このいかれた色の猫どもは土星原産の連中でな。地球の猫と月でドンパチしているってクソ親父の残した本に書いてあったから、おそらくその抗争の戦死者共だろう。しっかし、厄介な事になったな」
表門で大立ち回りしているサテュロス達。わざわざ武器を手にして雅の相手をしている以上、彼らは魔術を修めていないのだろう。だとすれば、魔術師として考えられるのは十中八九あのヒキガエル。手にしていた猫が使い魔だとすれば、ほぼ間違いない。
魔術を習得した月の拷問者相手に、果たして自分はどこまで渡り合えるのか。最悪殺されるにしても、幸子に夢から目覚める方法を伝える事ができれば目的自体は果たされるのだが。
環の魔力を追いかけて、無人の場内を練り歩く。甲高い猫の鳴き声に誘われる形で猯子達の姿を見つけ出したのは、一際豪奢な扉の前。
かりかりかり。にゃあにゃあと鳴きながら、極彩色の猫が開けて開けてと扉を引っかいている。サイケデリックな見た目過ぎて響には確証が持てなかったものの、この猫は月棲獣の腕に収まっていた個体だったはず。その隣では環が猯子に見守られながら、扉に手を当ててうんうんとうなっていた。
「おい星野。ここに倉田がいるのか?」
「加藤の言う事には間違いないって! 鍵がかかっていたから、加藤が鍵開けに挑戦しているんだけど……」
「う~ん……うまくいかないよお……」
どうにも魔術での鍵開けに挑戦していたらしい。幾ら詠唱なしで魔術を行使できる魔女とはいえ、訓練なしで無制限に力をふるえるわけではないのは魔術師と同じなのであった。
よくよく見れば、雅から預かった翡翠の勾玉が魔力の輝きを失っている。どれだけの回数失敗していたのだろうか。
「魔術による施錠か……物理的に開けられない以上はハルにも開錠は難しいな。仕方ない、代れタマ。私が開ける」
「う~……ヒビキちゃん、おねが~い」
そう言って扉から離れた環は、邪魔にならないように極彩色の猫を抱き上げる。見知らぬ侵入者の手の中にいるというのに、猫は暴れる様子もなく大人しくしていた。
精神を集中し呪文を唱える。静かな廊下に響の詠唱が吸い込まれていく。声が途切れると同時に、扉の前で何かが弾けるような音がした。
かつて謎の洋館に閉じ込められた経験から必要性を感じて学んでいた魔術。意外と早く活躍の機会があったものだ。
「よし、上手くいった。実践は初めてだったから心配していたが杞憂だったな」
「ユッキー! 助けに来たわよ!」
鍵が開いたと知るや否や、猯子はなんの警戒もなしに扉を開け放つ。
部屋の中の様子が響達の視界に飛び込んでくる。目の前には確かに月棲獣と幸子の姿。一同の来訪を予期していたのだろう。響達の頭の中にこの世のものとは思えぬ声が鳴り響く。
『ククク……これはこれは……何やら場内が騒がしいと魔力を追っていたのだが、何とも可愛らしい侵入者達だ……』
「……マミ? 嫌、見ないで! こんな私の姿見ないで!」
部屋の中では想像だにしていなかった饗宴が繰り広げられていたらしい。変わり果てた幸子の姿に、響達は同情の視線を向ける。
「……あ~……うん。似合ってるぞ倉田。学生には出せん色気だと思う」
「だからこれは違うのよ~!」
露出の多い革製の黒いボンデージスーツ。手には鞭と蝋燭。バチバチにメイクを決めた幸子の顔は、目つきの悪いお局OLといういつもの雰囲気から一転、下々を睥睨するかのような威厳に満ちた印象に変化している。もっとも、その威厳も慌てふためく今の姿のおかげで台無しになっているのだが。
「……ちょっとユッキー。私達が必死になって夢の中まで追ってきたってのに、なんだってそこのヒキガエルとSMプレイになんか興じているのよ?」
「なんでこうなったのか知りたいのは私の方だって! 何が悲しくてこんなグロテスクな肉塊をしばかにゃならんのよ、この訳あり品の格安ハムが!」
『あふん❤ いいぞォ! 新たな扉がすぐそこまで迫ってきているぞォ! もっと……もっとだァ!』
八つ当たりといわんばかりに亀甲縛りで三角木馬に鎮座していた白い肉塊に鞭を振り下ろす幸子。ヒキガエルもどきの肌に赤い跡を刻むその姿は随分と様になっていた。
「……ねえユッキーちゃん」
環が首を傾げて幸子に声をかける。腕に抱かれた猫が、構えと言わんばかりに幸子に手を伸ばしてにゃあにゃあ鳴いた。
「……何かしら、加藤さん。当事者が言うのもアレだけど、目に毒だから見ない方がいいわよ?」
「ユッキーちゃんがいまつかってるの、そーいうプレイをするにはむいてないんじゃないかな?」
今、幸子が手にしている鞭と蝋燭。鞭は家畜用のブルウィップ、蝋燭は高温度の洋物である。
「ちゃんとそーゆープレイ用の鞭とてーおんろーそくつかわないと、あぶないよ?」
「……意外と大人ね加藤さん」
そんな童女のアドバイスに、しかし脳内に響く声は嘲笑でもって答える。
『ククク……所詮は幼女……私の崇高なる探求をプレイなどという幼稚なものと同列で語るとは……仮初の痛み等では新たなる扉を開けはせぬのだよ……』
「そんな格好でよく高尚さなんてものを語る気になれるな、おい」
『無知とは哀れなものよ……我ら月の民には幾星霜の年月を重ねた拷問術がある……しかし今、その歴史に陰りが見えてきたのだ』
「なんか語り出した……」
『私は嘆いた……月の民の怠惰さに……見よ、近頃の連中を! 先人の積み重ねた知識という財産を唯々浪費するだけで、未来の民のために新たな知識を残そうすらしない! だが私は奴らとは違う! 私の生み出した目に見はるような新たな拷問術はの数々は、現に停滞を打ち破る新たな風として一度は迎え入れられたのだ。しかし……知識の泉は無限ではなかった……才能が枯渇した私を連通は過去のものとして見放した。だが、座してこのままの状況を甘んじる私ではない! ここ数年、人里離れたこの場所でスランプを克服しようとしていた。そんな私を我らが神、強壮なる使者は決して見捨てたりはしなかった! 覚醒の世界よりもたらされた魔導書……それを解読した結果、私は月の民の中で唯一、新たなステージに立つ権利を得たのだ!』
「よくもまあそんなクソみたいな思考を人様の頭の中に垂れ流せたもんだな」
『その割には目の色が変ったではないか。悪態をつきつつも興味があるのだろう、我が魔導書に』
「気にならないといったら嘘になるな。見習いとはいえ私も魔術師だ。魔導書と聞かされて興味が湧かない奴はいない」
何とも素直な響の返答に、白いヒキガエルは満足そうに頷きながら続ける。
『我が神が語る事に覚醒の世界にはその手の魔導書がひしめいているらしい。夢の抜け道を辿る魔術を見つけ出すまでには多大な苦労がかかったが、極意を会得した今となってはその甲斐もあったというもの……それ、そこの本棚を見てみるがいい。私が集めに集めた珠玉の知識が連なっている』
興味にかられた響達が本棚を見て顔を赤くした。遼などは慌てた様子で環の視界を手でふさぐ。
その本棚に並べられた著書のタイトルは「超絶! SM大全!」「もっとしばいて! 女王様」「M奴隷の勧め‐女王様の足場となる喜び‐」「ブヒブヒブーちゃん‐家畜小屋のM豚日記‐」エトセトラ、エトセトラ……未成年女子には刺激の強すぎるR18指定の雨霰。夢の国にはそぐわないカラー印刷の成年向け雑誌ばかりであった。
「ナチュラルにセクハラしてんじゃねえこの白饅頭!」
そう口に出そうになった響だったが、ここで違和感に気付く。
月棲獣は種族レベルでの加虐趣味者達だ。拷問の歴史について嬉々として語るコイツも同じはず。だというのに、ここにあるのは被虐者目線の書物ばかりだ。その疑問を感じ取ったのだろう。ヒキガエルは重々しく口を開く。
『まさに目から鱗だったよ……我々にはそんな下等な視覚器官は存在しないがな。SMにおいての真の支配者はMであるとの考えは、常に拷問者として立ち振る舞っていた私達には思いもよらぬ思想であった。Mは自分が望む加虐をSに強いる。SはMにとって快楽を得る為の舞台装置、雇用者でしかないのだと。無論、プレイと拷問は異なる。だが、これは新たな視点だった。加虐を極めるには被虐を学ばねばならないのだ! 事実、拷問を受ける側に回る事で、私は奴隷の真に望まぬ状況が手に取るように分かるようになった。今、こうやって責められている間にも新たな拷問のアイディアが次々と湧き出してくる……最早スランプは遥か彼方!』
「……そのためにユッキーを連れ去ったっての? SMプレイをするだけならそこらにいる部下にでも頼めばいいじゃない!」
『そうも考えたのだがな。我が奴隷達はどうにも私を拷問してくれなんだ。奴らも拷問自体は好きなはずなんだがな、例え私が自ら望んで頼んだ事であっても、主人を拷問したとあれば後でどんな報復があるかわからないからやりたくないと断られたのだ。それに、SM自体未知の体験。初めは魔導書の記述を参考にした方がよいと考えたのだ。そのためには女王様訳がどうしても必須でな』
頭が痛くなるような言葉を嬉々として脳内に打ち込んでくるヒキガエル。相変わらず縛られたままだというのに、何とも余裕のある事だ。
「まあ、個人のプライベートな趣味は否定しないがな。だからといって他人を巻き込むのはどうなんだ。悪いが倉田は覚醒の世界に返してもらうぞ。お前はそのままそこで悶絶してろ」
安堵の表情を浮かべる幸子。そもそも、このヒキガエルの倒錯した性癖に付き合っていたのは、彼以外に幸子を元の世界に帰還させる術を知らなかったのが原因であった。加えて、自分の側を離れれば好色なサテュロス達が何をするか分からないと脅されてしまえば、彼の側を離れる訳にはいかなかったのである。
幸子は異世界に転移してしまったと考えていたので、まさかここが夢の世界だと気づく事もできず。当然、この世界で死亡すれば目が覚めるという事も知らなかった。もし知っていたのなら、この悪夢から逃れる為にとっとと自身の命を絶っていただろう。
しかし、幸子の帰還に異を唱える者がここに一人。
『ククク……私が知識の源泉をそう易々と手放すとでも? 忘れてないかね? いかに戒めを受けていようと、私は魔術師なのだぞ?』
思考のチャンネルを開いたまま、異様な言霊が響達の頭の中を駆け巡る。これまでのように翻訳された思考じゃない、異界の法則に乗っ取った異形の呪文。響は対抗するために詠唱に対して身構える。そして言霊が紡ぎ終わり……はらり。肉がはちきれんばかりにきつく縛られていた縄が一人でに解けた。
『どうだ! 我が縄抜けの魔術の冴えは!』
「え? それだけ?」
呆気にとられた一同を前に、ヒキガエルは名残惜しそうに三角木馬から降り立ち、響達に相対する。丁度、一同と幸子の間に割って入った形だ。
『全てを知ってしまった以上、諸君らをこのまま帰すわけにはいかないな。君達はこのままこの城で我が探求の為の贄となるのだ……さあ、観念して全員私の女王様になるがいい!』
そう啖呵を切ってヒキガエルが響達に飛び掛かろうとしたその刹那。
「奴隷の分際でご主人様の帰宅を邪魔してんじゃねえ、この豚ガエルがあああ!」
『ンンンエッッックスタシイイイ!』
背後の幸子から強烈に股間を蹴り上げられ、悶絶して蹲る月棲獣。余程当たり所が悪かったのか、しばしピクピク痙攣した後にスンと動かなくなる。その刹那、彼は今日数度目となる新たな世界への扉を開いたのだった。
「おや?」
「どうしたの魔王様?」
「何だか苦悶と快楽が入り混じったような思念を感じたような……」
「毒電波でも受信した? それよりも、こっちには響から連絡が来たぞ! ユッキーとやらを無事に助け出したそうだ!」
「それは行幸。それでは皆さま、修行に付き合っていただきありがとうございます。看板を奪えなかったのは残念でしたが、時間が来ましたので、ここでごきげんよう」
雅はそういって手にしていた槍をその場に置き、野次馬のサテュロス達の歓声を受けながら妖樹達と共に城門から去っていく。大胆にも背後を晒したままの無防備な姿に、しかし衛兵達は追撃が出来ないでいた。目に見えた隙ですら、誘われているような気がしてならない。
どの道、本気でこの城を落そうとは考えていなかったのだろう。ならば、いらぬ追撃をしてこれ以上負傷者を出す事もあるまい。城門に蹲る無数の衛兵達。所詮弱い者虐めしかしてこなかった自分達がいくら武器を手にしたところで、強者の相手にはならないという事実をこれでもかと思い知らされた一日であった。
「ただいま~」
疲労が隠せない声を上げながら、幸子は寮に帰還した。
奇妙な夢から覚めると、見上げる先にあるのは見知らぬ天上。病院だった。
身を起こすと、驚いた様子の看護師が担当医に報告するべく病室を後にする。なんでこんなところで寝ていたのかと混乱していると、枕元に置かれた携帯電話に着信音。猯子からだ。
『ユッキー起きた?』
通信が繋がると同時に、猯子から起床の確認を取られる。彼女が早口でまくし立てたのは、紛れもなく幸子が先程まで見ていた夢の内容の事であった。どうにも、あれはただの夢ではなかったらしい。となれば、この親友が夢の中にまで自分を救いに来たのは紛れもない事実という事か。
医者と話したがっている者がいると猯子から伝えられ、ちょうど姿を現した医者に携帯を渡すと、退院はあっさりと許可された。風の噂で聞いていた武藤の魔王様が事件が解決した旨を事細かに報告したらしい。それだけではなく、ここ数日の入院費も武藤が立て替えてくれるとの事だった。若干申し訳なく思ったものの、幸子は堅洲高校の生徒。金か頭に問題がない人間以外は選ばないとされるこの高校に入らざるを得なかった彼女にとって、入院費の負担が無くなるのは素直に喜ばしい。
「お帰りユッキー! 体の調子はいかが?」
「寝っぱなしだったから節々が痛いわ……宮辺さん達は?」
「事件が解決したと分かったらとっとと帰って行ったわ。なんでも教会に報告に行くとかなんとか」
「そっか……後でちゃんとお礼を言わないと」
「あ、そうそう。魔王から伝言を受けてたんだった。一度出来た怪異との縁は中々切れはしないから、何らかの問題が起こったならここに連絡してくれって」
「うう……勘弁してほしいなあ……」
手渡された連絡先を携帯電話に登録しながら、幸子は溜息をつく。怪異溢れる堅洲とはいえ、まさか自分が事件の当事者になるとは思ってもいなかった。
しばらく怪異には関わりたくないと思いながら自室の扉を開いた幸子だったが、室内を見て目を丸くする。見知らぬネズミのような生き物とと極彩色の猫が威嚇しあっていたのだ。幸子の姿を認めるや否や、ネズミ……ズーグ達は慌てて物陰に身を隠す。一方、猫の方は夢の中でそうしていたように、幸子に体を摺り寄せ甘え始めた。
怪異との縁は然う然う切れはしない。魔王の言葉をこれ程早く実感する羽目になるとは思ってもいなかった幸子であった。




