第3話フィナンシェを召し上がれ
「エリカお姉様、すごく良い匂いがしてきましたよ!もう、取り出して良いでしょう!」
ルミナが屈託のない笑顔で言う。
バターとアーモンドの甘い香りが厨房いっぱいに広がっていた。
だが、私がオーブンを覗くと、まだ膨らんだ生地がきつね色に染まりきっていない。
「ルミナ、ここで取り出すとまだ生焼けね。表面がほんのり焦げ目をつけるのがコツよ」
「わぁ……!お姉様って本当にケーキにお詳しい!」
隣で目を輝かせるルミナ。
ここ数日間で、どこかぎこちなさも和らぎ、一緒にケーキ作りが日課となりつつあった。
日本で過ごした時間すら忘れて、ずっとこんな時間が続けば良い。
ーーなんて思うほどに。
その時、メイドのリコッタが息を切らした様子で厨房に入ってきた。
「一体、どうしたのそんなに慌てて」
「エリカ様……こちらを」
彼女は手に持った一枚の封筒を差し出す。
受け取った封筒を開くと、そこには不気味な文面が綴られていた。
『ルミナに近づくな、悪い魔女は断罪される』
「ッ……!」
自分の血の気が引いていくのを感じる。
(こんな手紙、原作にはなかったはず……)
私が知る物語からは外れた出来事。
でもなぜ。
エリカが断罪される運命は、回避できた。
まだエリカを狙う人間が、この世界にいるっていうの…。
「どうかされましたか、お姉様……」
不安げに覗き込むルミナの瞳。
思わず私は、その手紙を背後に隠す。
「な、何でもないのよ。リコッタに足りない材料の手配を頼んでいたの」
そう言って、リコッタに目配せをする。
ーーもし、犯人がルミナを巻き込むつもりなら。
ーー必ず、突き止めて……。
私の中に悪い考えが浮かびかけた瞬間、ルミナが手を取った。
「お姉様!そんな怖い顔しないでください!」
「……ルミナ」
彼女の澄んだ瞳に見つめられて、我に返る。
危ないところだった。
ーー私はもう悪い“魔女”じゃないはずなのに。
「……脅しには屈しない。犯人とはきちんと話し合いをして分かってもらうわ」
◇
私は、自室でリコッタに手紙について尋ねていた。
「この手紙、どこにあったの?」
「……掃除をしていたら、あの窓辺に置かれていました」
そう言って、壁にある大きな窓を指差す。
「なら外部の人間の可能性もある、ということね」
「……ですが」
そう言って、リコッタは言葉を濁す。
「心当たりがあるなら、何でも言って大丈夫よ」
「はい……」
一呼吸を置いて、リコッタは話した。
「エリカ様とルミナ様が急に仲良くされるようになったことを、不審がる使用人は少なくありません」
「私はそのような使用人の犯行だと思っています」
リコッタが控えめに言い放つ。
確かに…。
城内で嫌われだった魔女と聖女が手を取り合う。
そんな姿に、違和感を覚える者は多いとは思う。
「……ありがとう。教えてくれて」
気づくと、リコッタが私をじっと見つめていた。
「エリカ様…」
どうやら、この子も心配させちゃったみたいね。
私は慌てて笑みを作る。
「必ず、犯人を見つけてみせるわね」
◇
だが、1人になった私はベッドで寝転んでいた。
「……と言ったものの。まっったく見当がつかない!」
原作に書かれていないことが起きるなんて想定外よ。
フラン王子の件はまだシナリオに沿っていたから対処できたけど、こっからは完全にアドリブ。
「私って恋愛ドラマばかりで、サスペンスなんて見てこなかったのに、どうしよう〜」
手足をばたつかせ、情けない声を上げながら、改めて手紙を取り出す。
「なにか、手がかりは……」
特殊なインクで書いた暗号とか?
紙を頭上に掲げ、くるくる回す。
部屋の明かりに照らしてみる。
うーん。
特に何も書かれてはいないみたい……。
「……ん?」
この鼻先をくすぐる香りーー。
「バター……?」
その瞬間、エリカの中にあった記憶が蘇った。
パンにたっぷりと塗られた黄金色のバター。
そして、いつも私の朝ご飯を気遣って、用意してくれる人。
「……ああ、そういうことね」
頭の中で、点と点が繋がった。
「わかったわ、この手紙の主が」
そして、私は静かに笑う。
「魔女はおひとりで十分よ。私がお相手して差し上げましょうーー」