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鏡海の密約

この物語は、剣の話ではありません。

それでも、人と人、国と国が争い、命と未来が奪われる時代の話です。

ただし、戦場は「市場」であり、武器は「通貨と信用」、勝敗を決するのは「記録」と「記憶」です。


「国家とは何か」

「富とは誰のものか」

「正義は力か、それとも信じる力か」


その問いは、過去に属するものではありません。

世界が音もなく変わっていく現代にこそ、静かに胸に去来するものです。


『鏡海の密約』の舞台であるマルディア共和国は、どこかに実在したわけではありません。

けれど、その構造、思想、矛盾、そして知恵は、歴史の無数の国家の断片から織り上げられた“架空である以上に現実的な”都市国家です。


主人公アンドラ・フィオラは、英雄でも魔法使いでもありません。

剣を抜かず、策に溺れず、ただ言葉と理で世界と渡り合おうとする、一人の“記録する者”です。


この物語の結末に、勝者はいません。

ただ、問い続ける者と、問いを受け継ぐ者がいます。


もしあなたが、国家や経済、文明の正義に興味があるなら、

この鏡のような海に、一度だけ立ち止まってみてください。


そこに映るのは――今の世界、そして、あなた自身かもしれません。

挿絵(By みてみん)

◈ 序章:静かなる帝国

潮の香りと、日差しのまばゆさが入り交じる朝だった。

塔の鐘が六度鳴る頃、港の上にかかる水霧が、ゆっくりと退いていく。海は鏡のように光を返し、無数の帆柱が遠ざかる陽光を撥ね返していた。

ここは――マルディア共和国。

鋼のごとき秩序と、絹のごとき柔和を合わせ持つ、海上の都市国家。

都市は、輪のような形状をしていた。

中心には銀屋根の評議会堂がそびえ、その周囲を貴族街、金融街、工匠街、商業ギルド区画、造船港が順に囲む。

そして、最も外側には、すべての海路と経済の流入口となる「碧の門」があり、そこを越えた先には、無限の交易の海――「鏡海」が広がっている。



「......静かね」

アンドラ・フィオラは、塔の上から遠くを眺めていた。

明るく白い陽射しのなか、整然と配置された倉庫群と石造りの造船台が、小さく呼吸するように見えた。職人たちはまだ働き始めていない。航海日ではないのだ。週に一度の“監査日”。港は今日だけ沈黙を守る。

だが、静寂は、彼女の胸に奇妙なざわめきをもたらした。

“この国の沈黙は、平和ゆえではなく、“取引の静けさ”に似ている”

戦争の音も、革命の叫びもない。

剣ではなく秤が、盾ではなく印章がこの国を守ってきた。

塩と香料、通貨と利子、情報と保証――そうした「目に見えない力」が、百年以上にわたり、この国を支配してきたのだ。

しかし、その静けさの中に、ひとつだけ不協和音があるとするなら、それは老いた男の咳だ。

「......アンドラよ」

背後から聞こえたかすれ声に、彼女は身を返した。

灰銀の法衣をまとった一人の男――マルチェリオ・フィオラ、共和国総督にして、アンドラの祖父だった。

「おまえがこうして朝を眺めるのも、あと少しだ。やがて、この都市は音を取り戻すことになる」

「......音?」

「そうだ。剣の音、煙の音、民の叫び。なにもかも、ふたたび、だ」

マルチェリオの言葉には、奇妙な確信があった。

元老として四十年、共和国の繁栄を守ってきた男は、どこか疲れきっていた。

だがその眼だけは、未だに硝子のように鋭かった。

「スルヴァインが動く。ノアニールも。タウレンでは民族主義が息を吹き返した。――そして、諸君主たちはこの“金の砦”を邪魔だと感じ始めている」

アンドラは息を呑んだ。

「ならば、我々が何を失うかは明白ですね」

「いや、アンドラ。“何を守るか”だよ」



その夜、評議会では、例月の外交財務報告がなされた。

各国との利子取引、傭兵契約、貨幣精錬と為替安定の状況。数字と署名が踊る文書が、蝋燭の灯りの下でめくられていく。

が、その最中、アンドラの心には、ただひとつの映像が残っていた。

それは――

かつて祖父が語った言葉。

「この国は、戦わずして勝つために作られた」

そして今、誰もが気づき始めている。

“世界がまた、剣を抜こうとしている”



夜明けの港に、ひとつの船影が見えた。

他国より早く到着した船は、帆に奇妙な紋章を刻んでいた。

七つの大国のひとつ、タウレン連邦の旗。

だがその横に、見慣れぬ黒い印章が並んでいる。

「密使か――」

カルド・ラウレッソ提督は、霧の中から現れた船を、じっと見つめた。

「時が来るな。やがて、剣が金を欲しがり、金が剣を飼い殺す」

彼の声もまた、港の静けさのなかに溶けていった。

そして――静かなる帝国に、最初の“音”が訪れたのだった。

(序章・了)

◈ 第一章:戦火の債券

港に火薬の匂いが戻ってきたのは、春のはじめだった。

薄雲が流れる空の下、鉛色の輸送船が次々と着岸し、鉄箱と油布に包まれた武器が降ろされていく。碇泊したまま荷を下ろす兵装商人の顔には、憂いも誇りもなかった。ただ、計算された勝利のための“正確な準備”が、そこにあった。

鏡海を挟んで対峙する二つの大国――スルヴァイン騎士王国とノアニール帝国が開戦したのは、三日前のことだった。

開戦の知らせが届くより前に、マルディア共和国では両国からの融資依頼が提出されていた。

そしてその両方に対して、共和国は即座に承認の印を押した。

「我らが取引先が共に戦うということは――すなわち、我らにとっては『最良の顧客が同時に欲望を見せた』というだけの話です」

そう言ったのは、元老会の財務座長、アレスト・グリーノだった。白髪の法服の奥で、彼の声は穏やかで、どこまでも整っていた。まるで春先の陽光のように、静かに人々の良心を麻痺させる。



「ですが、支払い能力に疑義がある場合は――?」

アンドラの言葉に、議場がわずかにざわついた。

まだ若い。だが彼女の言葉には、論理と問いの刃が含まれていた。

アレストは笑った。

「我らは正義の神官ではありません。支払いを懸念するのなら、返済条件に“戦争に勝利すること”を加えましょう。条件は債券に、正義は剣にまかせればいいのです」



その夜。アンドラは外港に佇んでいた。

満潮で水面が近い。月は薄い光を投げかけ、街の壁面を銀に染める。

「戦争が利益をもたらすのなら、我々の国は、終わらぬ戦を望むことになるのでしょうか」

「それがマルディアという国さ」

低い声とともに現れたのは、カルド・ラウレッソ提督だった。

黒衣に銀の留め具、長い軍靴のまま、波打ち際に立っている。

「我々は、相手が憎しみを燃やすほどに儲かる。そして、相手が疲弊すれば、恩人として手を差し伸べる。……それが、戦争を“市場”と捉えた連中のやり方さ」

アンドラは彼を睨んだ。

「誇りは、どこに?」

カルドは目を細め、煙草に火をつけた。

「誇りは、剣とともに沈んだよ。今のマルディアには、秤しか残っていない」



翌日。密使が到着した。

彼女はヴェールをまとい、細身の剣を腰に下げていた。

金の眼差しを持つその女――シルマ・ダインは、ノアニール帝国より“非公式に”派遣された外交監。

「ご機嫌よう、アンドラ。あなたがこの国の未来を握る者だと聞きました」

「あなたの国は、未来よりも先に、私たちから借りた金を返すべきですね」

「それが目的なら、私は来ていません」

会談室。封じられた壁の奥で、ふたりは視線を交わす。

「ノアニールは戦争に勝てると思っていない」とシルマは言った。

「では、なぜ始めたのですか」

「勝つためではないわ。“返さずに済ませる”ために戦うの。戦後の秩序が書き換えられれば、債務は“無効”にできる」

アンドラは冷ややかに言った。

「無効になるのは、あなた方の国家信用だけです」

「いいえ。無効になるのは、あなた方の“モデル”よ。マルディアのやり方が、すでに通用しなくなるという未来を、あなたが最もよく知っているはず」



密談は、夜明け近くまで続いた。

シルマが立ち去った後、アンドラはひとり書斎に残された。

祖父の残した書類のなかに、“戦火債券”と呼ばれる古い契約の記録があった。かつて共和国が、敗戦国に債務不履行を問わず、属領化で代償を求めた事例――。

そして、彼女は気づいた。

この戦争の本当の舞台は、戦場ではない。

“条約の行間”と、“信用の差額”こそが、未来を変える。



鏡海の夜が明ける。

海の向こう、戦場に向かう船の列が、遠く水平線を越えていく。

その全てに、マルディア製の弾薬が積まれていた。

そして――国家の誇りは、未だ紙の上に静かに眠っていた。

(第一章・了)

◈ 第二章:七巨像会議


連なる尖塔が、雲を貫いていた。

灰色の石造宮殿。その中央広間には、七つの旗が掲げられていた――スルヴァイン騎士王国の銀狼、ノアニール帝国の聖火、ヴァリシア王国の鉄輪、オルセレナ海軍の双蛇、ザガン侯国の紅の鎖、タウレン連邦の草冠、そしてシェリフ族の砂紋。

だが、そのどれにも、マルディアの金の秤旗はなかった。

「つまりこれは――我々抜きで、我々について話し合う会議ですね」

アンドラ・フィオラは、扉の前で軽く肩を竦めた。

身を包むは外交礼装。黒に金の縁。共和国の“静なる威圧”を纏ったその姿は、異邦の空気の中でよく目立った。

「あなたのような人間は、誰よりも“場違い”を知っているように見えるわ」

傍らには、再び姿を見せたシルマ・ダインがいた。

白い衣に紫の刺繍。だが目元に宿るのは、官吏ではなく蛇の眼差し。

「でも、私のような人間は、“場違い”にこそ最も深く食い込むの」



会議は“貿易の未来”を議題としていた。

だがその実態は、マルディア包囲網の形成だった。

「重商主義国家マルディアによる関税障壁、通貨干渉、港湾の自由封鎖は、世界の自由交易と資源循環を明確に阻害している」

そう声を上げたのは、ヴァリシア王国の財務卿――かつてマルディアに融資を断られた因縁の相手だった。

「このままでは、我々は“秤の傀儡”でしかいられぬ。共通市場を創設し、信用協定によってマルディアの影響力を排除すべきだ」

その発言に、多くの国が頷いた。

だが、一人の若者が手を上げた。



「……貴殿は?」

「リシェン・ノアク。経済自由連盟の推薦を受けて、参加しています。属領出身ですが、現在はノアニールの大学で経済学を研究しています」

アンドラは、その名前を聞いて目を細めた。

彼は、国内の反重商主義派として知られた若き思想家。

だが実際に目にするのはこれが初めてだった。

細身の身体、浅く癖のある金髪、透明な眼――だがその言葉は、剣より鋭い。

「私は、マルディアの体制を“歴史の遺物”と見なします。信用を独占し、交易を操ることで平和を偽装してきた国家です。ですが、平和とは操作によって保つものではなく、共鳴によって築くものだと信じています」

静まり返った室内に、アンドラの足音が響いた。

「あなたは、信用と共鳴を語りました。だが――その“信用”は、どこから生まれるのですか?」

「……民の生活と、市場の信頼、です」

「間違っています」

アンドラは、断言した。

「信用とは、責任を果たすという記憶です。それは数字ではなく、歴史の積み重ねからなる。あなた方の市場は、信用を生むにはまだ若すぎる。だからこそ、私たちはその責任を、金というかたちで担保してきたのです」



会議は紛糾した。

だが裏では、既に決定事項が練られていた。

――七大国による共通通貨「セリオ」構想。

金属裏付けを持たず、参加国の信用と資源価値で流通を支える計画。

それはマルディアの「金本位・通貨供給権」を事実上、無力化する試みだった。

「始まるわね、“新しい秩序”が」

会議後、シルマが低く呟いた。

「あなたはそれを、ただの外交戦と見ているのです

アンドラは答えず、窓から外の霧を眺めた。

「信用が流通し始めたとき、世界は秤から離れる。あなたたちの“重さ”では、もう足りなくなるのよ」



だが、アンドラは既に知っていた。

「セリオ」は、あまりに脆弱だった。

統一された基軸もなく、各国の思惑が絡み、数字だけが独り歩きしていた。

そして、信用なき貨幣ほど、恐ろしい毒はない。



マルディアへの帰路。

アンドラは、密書を開いた。

そこには、「ザガン侯国が密かに通貨偽造を進めている」との報。

“金に対する裏切り”は、最初のひびを生んでいた。

だが彼女は、すぐに剣を抜こうとはしなかった。

「戦わずして勝つ。それが、この国のやり方だから」

彼女の目に浮かんだのは――鏡のように静かな、市場という戦場だった。

(第二章・了)




◈ 第三章:市場の鉄血


潮が引くように、物資が消えた。

街の市場では、異国からの香料や布が棚から消え、金貨の交換率が一夜にして一割変動した。

交易船が姿を見せなくなり、外港では積荷の検査が厳格化された。密かに囁かれる噂は一つ――経済封鎖。

「始まったな。鉄の代わりに帳簿で首を締める時代の戦争が」

カルド・ラウレッソ提督は、港の監視塔から双眼鏡を外し、呟いた。

湾の向こう、ヴァリシア王国の通商艦がマルディア商船を臨検しているのが見えた。

「敵は刀ではなく、数字と関税で我々を殺しに来ている」



元老会では、通貨と信用に関する緊急会議が招集された。

財務官グリーノは顔色を変えず、穏やかな声で報告した。

「七国連合は共通通貨“セリオ”を公式発行しました。流通域内でのマルディア金貨使用はすべて“非合法通貨”と認定されています」

「我々の貨幣が、“違法”だと?」

アンドラは声を低くした。

「同時に、我が国の証券に対しても“信用格下げ”の動きが。利率は上昇、信用保証機関が敵国側に吸収されています」

「これは、……“経済爆撃”だ」

総督マルチェリオが、滅多に見せぬ怒りの色を浮かべた。



夜、アンドラは“旧信用庁”の地下書庫へと向かった。

そこに保管されているのは、共和国が数百年にわたり築いた“裏信用ネットワーク”――いわば、影の金融地図。

「この網を、逆に使うわ」

彼女は膨大な帳簿を開き、赤と金の墨で印をつけた。

「信用は“信じられているという幻想”によって成り立つ。ならば、それを操作する」



翌日。

共和国は静かに反撃を始めた。

・七国債券の一部を買い集め、利子を操作

・敵国の信用保証機関に属する銀行に匿名名義で流動資金を注入

・ヴァリシアとザガンの通貨交換市場で「金貨売り・セリオ買い」を集中的に実行

それらは、誰にも気づかれず、だが確実に七国連合の経済構造を蝕み始めた。



三日後。

ヴァリシア王国の通貨“セルド”が暴落。

セリオ圏内の資金繰りが悪化し、ノアニール帝国では民間商社が連鎖倒産。

「お見事ですな、フィオラ様」

グリーノ財務官が、珍しく笑った。

「いずれ、セリオ圏は“信用欠乏”に陥ります。国家という構造は、信じられているうちは帝国ですが、信じられなくなれば、ただの紙束です」

「私たちもまた、同じ紙の上に立っていることを忘れないように」

アンドラは静かに言った。



その夜、アンドラのもとに密書が届いた。差出人は――リシェン・ノアク。

彼の手紙には、こうあった。

《あなたの勝利は、見事です。しかし、それは“信用の支配”という名の新しい封建ではありませんか?

世界は、“剣の時代”から“秤の時代”へと移りました。そして私は、あなたがその次の“透明の時代”へ行ける者だと信じています――》

アンドラは、そっと手紙を閉じた。

「信用を操る者は、信用を恐れなければならない。……私たちは、次の時代へ行けるのか?」

外では、輸送船団が再び港を出港しようとしていた。

交易は動き出す。戦争はまだ続く。

だが、静かなる反撃は――マルディアに微笑をもたらした。

彼女は言った。

「これが、“血の流れぬ戦場”の勝ち方」

(第三章・了)

◈ 第四章:鏡の共和国


勝利の音は、鐘ではなかった。

それは、沈黙だった。

市場は戻り、船は再び出入りを始めた。

敵国の通貨は破綻し、セリオ構想は崩壊。七大国は経済的に分裂し、再びマルディアの金融機構に資金を求めて使節を派遣した。

だがその頃、共和国の街路では“違う種類の声”が広がり始めていた。

「パンがない」

「医薬品が足りない」

「金貨はあるのに、暮らしが貧しくなっている」

国家は戦争に勝った。だが、民は戦ってなどいなかったのだ。



「勝利は、必ずしも安寧をもたらさない。ときに“敗北の余韻”よりも、深い傷を残す」

老総督マルチェリオのその言葉を、アンドラは最後の晩餐で聞いた。

その夜、彼は静かに職を退き、翌朝には姿を消した。



元老会の後任選挙を経て、アンドラは正式に“財務・外交”統括官に就任する。

彼女が選んだ第一の仕事は――

「金本位制の撤廃です」

一同が騒然とした。

「代わりに“信用本位制”を導入します。我々の貨幣は、国家が背負う“信約”により裏付けされ、教育、医療、公共事業の成果と連動して価値が定まる」

それは、貨幣を“記号”から“責任の証”へと変える試みだった。

「戦争が“秤”を壊したなら、次は“鏡”を持つべきです。国家が民を映し、民が国家を映す。――これが、次の時代の共和国の姿です」



一方で、アンドラは他国との新たな条約構想を進めていた。

“文化輸出”による国家信用の確立。

“教育機関”を海外に設置し、“共通記録通貨”を導入。

それは、マルディアの通貨が“他国の未来と夢”を支えるという構図を意味した。

「利子の代わりに、信頼を積み立てましょう」

そう語るアンドラの姿に、多くの市民が拍手を送った。


だが、変革の中には“痛み”もあった。

旧来の通貨精錬ギルドが解体され、金職人たちは職を失った。

交易利権を削られた商人ギルドは反発し、いくつかの属領では自治要求が再燃。

アンドラは、かつて敵だったリシェン・ノアクに再び書を送った。

《私は、あなたの言う“透明の時代”へと一歩踏み出したつもりです。

ですが今、鏡に映るこの国の顔は、私にとってあまりに若く、脆く、そして正直です。》

リシェンは返した。

《鏡の共和国とは、決して完成しない国家のことです。常に自らを見つめ、変化を受け入れることでしか、生き残れないのです》


それから一年。

七大国のうち、三国がマルディア式の信用制度を導入し始めた。

港には“共和国信用校”の旗が立ち、他国の子どもたちがマルディアの言葉を学んでいた。

海は静かに輝いていた。

だが、アンドラの胸には、ひとつだけ消えない疑問があった。

――国家が鏡を持つならば、鏡の中の“真実”とは誰のものなのか。

彼女は筆を取り、新たな記録をつけ始める。

それが後に、「鏡海の密約」と呼ばれる文書の第一頁となることを、彼女自身まだ知らなかった。

(第四章・了)




◈ 最終章:密約の書


砂が風に舞い、陽が鏡海を淡く照らしていた。

百年の時が過ぎた。マルディア共和国は今も存続している。だが、それはかつてアンドラ・フィオラが立っていた“あの国”と同じではなかった。

高層の金属塔、海上浮遊大学、通貨を持たぬ市民。

子どもたちは「信用指数」で奨学金を受け、貿易は“意志”と“評判”で成り立っていた。国民の大半は、もはや“国家”というものを意識すらしていなかった。

ただ、一つの機関――「中立歴史評議院」だけが、かつての“国家”という幻影を記録し続けていた。



その日、新任外交官の青年――レオ・カルト=ノアクは、任務前の最終研修として、旧記録庫の閲覧を命じられていた。

彼は、かつての思想家リシェン・ノアクの曾孫であり、自らの血筋に違和感と期待を抱えていた。

資料室の奥。埃をかぶった黒革の箱。

封蝋には、かすれた印章――《M.F.》の文字。

彼が開いたのは、一冊の古文書だった。

『鏡海の密約』



【文書抜粋】

この国は、剣を持たぬ。だが、我らが持つのは、数字で描かれた戦術地図。

民を守るとは、彼らの未来に値段をつけないこと。

平和とは、売り物ではなく、信用される選択肢であること。

国家とは、記録の連なりにすぎぬ。記録が歪めば、国家もまた歪む。

だからこそ私は、言葉を残す。数字ではなく、意志のために。

この密約は、我々自身との契約である。

富が、正義を喰らうならば――

我々は、正義を富とする方法を選ばねばならぬ。

(署名)

アンドラ・フィオラ

マルディア共和国外交・財務統括官



ページをめくるごとに、レオはただ静かに息を吸った。

彼がこの共和国の何を継ぐべきか――初めて理解した気がした。

国家とは、形ではなく、問いを持ち続ける構造だった。



その日、レオは報告書の末尾に一文だけ書き加えた。

「国家は、記録によって死なず、忘却によってのみ滅びる」

――そして、密約は今も、海の下に息づいている。



外では、再び一艘の新しい外交船が出港していた。

その帆に描かれていたのは、百年前から変わらぬ――金の秤の紋章。

そして、それを見送る彼の心の中には、こう刻まれていた。

国家とは、鏡であり、密約である。

(『鏡海の密約』――完)


国家とは何か?

その問いに、剣ではなく秤で答える物語を書いてみたいと思いました。


剣と魔法のファンタジーが語ってきた「強さ」は、しばしば個人の剛力や英雄の戦いに集約されてきました。しかし現実の世界では、国家を動かすのは戦争そのものよりも、戦争を選び取る構造、資金、思想、制度――つまり、**見えない“構造の戦場”**です。


この物語の主人公アンドラ・フィオラは、そうした構造の中で揺れ動く一人の官僚であり、革命家であり、記録者です。

彼女が剣を取ることはありません。ただ、静かに数字を読み、言葉で敵と交渉し、未来を“再設計”していきます。


彼女の言葉に正義があるかどうか、それは読者一人ひとりに委ねられるべきものです。

なぜなら本作は、“勝利”ではなく“持続”の物語だからです。


歴史を振り返れば、重商主義の国家は多く存在しました。

ヴェネツィア、オランダ、ジェノヴァ、プロイセン、そして現代における小国スイスやシンガポールもまた、剣ではなく通貨と信用で生き残ってきた国家です。

彼らの知恵と矛盾、光と影は、今の我々にも通じるものがあると信じています。


『鏡海の密約』が、国家を“武力”ではなく“制度と記憶”のレンズで見直すための、ひとつの「鏡」になれば幸いです。


そしてまた、いつかこの世界のどこかで――

アンドラやカルド、シルマ、リシェンたちの声が、再び誰かの中で響きますように。


読んでくださったすべての方に、心からの感謝を。

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