Standard Love Story
バレンタイン。
それは一年に一度だけ訪れる、乙女を全面的に後押ししてくれるまさに至れり尽くせりな日。
古く由来は、269年にローマ帝国皇帝に迫害され、そして殉教した聖ウァレンティヌスにあるともいう。この他にも諸説紛々あるのだが、その数は膨大なものに及び資料に目を通すだけでも一苦労である。
私は凝り固まった自分の肩を揉んで、少し伸びをする。長い間印刷された紙と睨めっこをしていた所為か目がやたらとチカチカした。
ふと何気なく窓の外を見てみると、視界の端に白いものを捉えた。雪だ。
二月も中旬。もうしばらくは雪も見納めかと思っていたのだが、どうやらまだねばるらしい。
そしてよりにもよって今日という日に降るとは、何とも憎い演出である。一体誰が演出したというのかは甚だ疑問ではあるが、あまりにも出来すぎている。
それは見事なホワイトバレンタインだった。
私は嘆息を一つ吐くと、背もたれに体重をかけた。一体全体乙女の日に私は何をやっているのだろうか?
辺りを見渡す。どこにでもあるような普通の教室。正確には新聞部の部室だ。私のデスクの上はプリントアウトされた紙束が乱雑に散らかされていて、とても汚い。部室は私以外の人間はとうの昔に帰宅したらしく他には誰もいなかった。すみに置かれているストーブのじぃーっという音だけが、閑散とした物静かな部室に響いていた。
それにしても、虚しい。もとよりバレンタインにチョコレートを渡す相手などいなかったが、こんなところでくすぶっているのは、果たしてうら若き乙女としてどうなのだろうか。
よく分からないが、激しくマズい気がする。これでは灰色の青春である。
とは言え、友人達はバレンタインが近づくにつれてきゃぴきゃぴと黄色い声をあげて楽しそうに騒いでいたのだが、どうにも私は乗り気ではなかった。その背景には、私が色恋沙汰に疎いというのもあるのだが、理由はそれだけではないように思える。
おそらく私は性格上そういうのは不得手としているのだろう。女の子しているのが、すごく恥ずかしくて苦手なのだ。自分がまるで乙女のようにはしゃいだり、落ち込んだりと、一喜一憂する姿は全くもって想像できない。
友人達からはよくクールだと言われるが、本当はただ恥ずかしいだけ。
だから私は、今年もチョコレートの準備などしてはいなかった。それどころか新聞部の活動のため一人居残り、バレンタインの記事を書いているのだから、我ながら呆れたもんだ。
外は既に暗くなっている。明るい蛍光灯がやけに目に染みた。
しかしそれにしても寒い。流石に雪が降っているだけのことはある。手が悴んでパソコンのキーボードが上手く叩けない。あまりの寒さに手に息を吹きかけると、室内にも関わらず手袋を装着した。
「ちわーす」
そのとき、ガラリと教室の扉が開いた。外から聞こえたのは私の耳に馴染んだ、穏やかで飄々とした声だった。
ひょっこりとドアの隙間から覗く顔は、私の姿を見つけるとにへらと人懐っこい笑みを浮かべる。
「お、いたいた」
そんなことを呟きながら部室に入ってくるのは一人の男子生徒だった。
背はすらりと高く、惚れ惚れするほどに脚が長い。顔立ちは凛々しいというよりも優しそうな感じで、甘いマスクといった具合だった。髪はメラニン色素が少ないのか柔らかな茶髪で、癖っ毛が強いのかところどころ跳ねている。
この男の名前を山瀬純と言って、一つ年下の私のいとこだった。
「私を探していたようだけれど何か用?」
にこにことしながら歩みよる純に、私は怪訝そうな表情で訊ねる。
確か純は帰宅部だったはずだ。そして今は放課後、時間も遅く外は真っ暗。この時間帯に純が学校にいるのは、実に珍しいことだった。
純は背後までやってくると、私の肩越しにパソコンの画面を覗き込む。
「んと、これはなんの記事を書いているの?」
きょとんと首を傾げて純が言った。
そんなもの読めば分かるだろうと思ったが、彼はかなり目が悪かったことを思い出す。さらにタチが悪いことには、眼鏡もかけなければコンタクトもしないという妙なポリシーを持っていた。
「バレンタインに関する記事を書いてたの。はい、これその資料」
「うあっ、これ全部資料かよ……」
仕方がないので答えてやると、私は資料の紙束を集めて純に渡した。
どっさり、まさにそんな表現が似合う紙束。
その中から何枚かプリントを抜き取って目を通した純は、少し顔をしかめてみせた。
「新聞を書くのにさ、資料ってこんなに必要なわけ?」
「必要だね。校内新聞として生徒諸君の目に触れる以上、いい加減なことは書けないから」
新聞を書くというのは存外に骨の折れる作業でもあるし、気を遣う作業でもある。
新聞が伝えることは絶対的な事実のみでなくてはならない。その中に嘘や誤りがあってはならないのだ。
そして資料を調達するというのもなかなかに神経をつかう。その情報が真実であるか否か厳しく吟味した上で、資料を選ばなければならないのだ。
毎日気軽に読んでいる新聞だが、それを作るのにいかに労力を要するのか。それは想像を絶するほどのものだろう。
「大変なんだね、記事を書くのって。俺は活字が超苦手だからさ、きっと一生縁のない作業だわ」
「まあ純は理系だし、確かに書く作業とは縁がないかも。でも新聞くらいは一般教養として読んでもいいんじゃない?」
活字中毒気味の私としては、今まで読むことも書くことも苦に感じたことはないのだが。
しかし活字中毒であるなしに関係なく、高校生なのだから新聞は読んで然るべきだと思う。
もうそろそろ社会の出来事に関心を持っても良い年齢だ。
私がその旨を純に伝えると、彼はポリポリと頬を掻きながら苦笑した。
「社会の出来事とか言われても、いまいちピンとこないんだよなぁ。俺の世界は学校を中心に廻っているからね」
なるほど、それは何となく分かる気がする。
別に私も純も愛校心が強いわけではない。しかし確かに私たちの世界は学校を中心に廻っていた。
そして学校とはそういう場所なのだ。社会とは隔絶された一種の閉鎖的な空間。社会からは切り離された、別個の世界。
故に社会での出来事はまるで他人ごとで、学校の中での出来事だけが私たちにとってのリアルだった。
「まあ別に社会のことなんか興味はないんだけどさ。でもサユ姉のことになら興味はあるよ?」
笑いながら純が言った。
全くもって意味が分からない。私に興味があると言ったって、昔から一緒にいたのだから大抵のことは知っているはずだ。
今更興味を持たれるようなことは何もない。
「ほら、例えばサユ姉のスリーサイ……ぐぁっ!」
「それはセクハラというものだぞ、純」
乙女に向かってあまりにもあんまりな質問をする純の足を、問答無用で踏みつける。ついでにグリグリと踏みにじる。
デリカシーのない男は女性がもっとも忌むべき存在だ。どこの世界に年頃の女の子を掴まえてスリーサイズを訊く馬鹿がいるというのだ、全く。
何も言わずに侮蔑と非難の目を純に向ける。私のあからさまに冷たい視線に晒されて、純は恍惚とした様子で苦悶の声を漏らした。
……そう、恍惚とした様子で。
「すみませーん! 目の前に変態が一人いまーす!」
「ちょっ、サユ姉!?」
私は窓をガラリと開けると、グランドに向け大声で叫んだ。外は暗かったが、まだ何人かは学校に残っているはずである。
社会的に色々とマズいと流石に判断したのか、純が慌てて私の口を塞いだ。
「さ、さっきのは冗談だから!」
焦ったような純の釈明。それを聞きながら、ぼんやりと私は考える。
果たして何が冗談だったのだろうか?
スリーサイズを聞いたことがか。はたまた、冷たい視線にエクスタシーを感じたことがか。
どちらにせよたちが悪いのには相違ない。
口を塞がれていていい加減に息が苦しくなってきたので、軽く純の腕をタップする。すると大人しく解放してくれたので、私は胸一杯に大きく息を吸い込んだ。開け放った窓から入って来た外気はひんやりと冷たく、少し心地よかった。
「……サユ姉ってさ、クールそうに見えて結構めちゃくちゃするよね。さっきのはかなり焦ったよ」
げんなりとした様子で呆れたように純が言った。
「うーん、私もさっきのはほんの冗談のつもりだったんだけど?」
にっこりと可愛らしく、そして小首を傾げながら笑う。勿論、皮肉であるということは言うまでもないのだが。
「……サユ姉、小悪魔。なんか黒いよ」
肩を落としてぼそりと呟く純。
まあ小悪魔というのは誉め言葉としておいてやるとしよう。さて、黒いというのは、腹が黒いという意味なのだろうか?
もしそうならば、今すぐに彼を刑に処さねばならないのだが……。
ちらりと横目で純を一瞥する。
そこにはすでにすっかりと意気消沈してしまった彼の姿。哀愁漂う背中はそれだけで同情を誘い、少しだけ不憫に思う。
そんな純の後ろ姿にくすりと苦笑をしながら、私は再びパソコンにへと向き直る。
何となく純と話をしていると、また元気が出た。あともう少しで記事も書き終える。もう一踏ん張り頑張ろう。
外ではまだ雪がちらついていた。
小気味よい一定のリズムが室内に響く。キーボードを叩く音だ。
一定のリズムが保てているということは、すなわち記事は淀みなく仕上がっているということ。私の指はフィギュアスケートのようにキーボード上を華麗に力強く飛び跳ねていた。
「………」
そして先ほどからパソコンの画面の向こう側から感じる視線。
部室にあった適当なパイプ椅子に腰をかけた純のものだった。どうやら彼は私が部活を終えるまで待ってくれるらしく、先ほどからずっとあそこで私を見ているのだ。
「……なに?」
「いや、なんでもないよ」
両腕をパイプ椅子の背もたれに乗せた純は、首を横にふる。
何だというのだ、一体。見ている方はいいかもしれないが、見られている方としては非常に気になって仕方がない。気が散って作業に集中できないではないか。
自由快活に動いていた私の指がピタリと止まる。
「……さっきから一体なにさ?」
ずっと見られていては落ち着いて作業がこなせない。そう思い、私は純に訊いたのだが。
「なんでもないよ」
やはり彼はそう答えるだけだった。
なんでもないことはないだろう。そうでなければ私をガン見なんてするもんか。
このままではいつまで経っても埒が明かないので、私から話をすることにする。
「さっき純は冗談だって言ったよね? あれは結局何が冗談だったわけ?」
スリーサイズのことが冗談なのか、冷たい視線に晒されて恍惚としていたのが冗談なのか。
適当な話題が何も見つからなかったので、とっさに思いついたことを口にしてみた。
「私に興味があるっていうのも冗談だったわけ?」
特に深く考えずに何の気なしに訊いてみた。
ところが純は不意に真顔になると首を横に振る。
「いや、それは冗談じゃない。俺はサユ姉のことに興味がある……っていうか、すごく気になる」
「へ?」
気になる、って言われても。
そりゃあ同じ室内にいれば気にもなるでしょーよ。目の前にいるのに気にならない方がおかしい。
……たぶん、そういう意味ではなくて。
色恋に疎い私でも流石にこれは分かる。気になるっていうのは、つまり……。
「まさか、私が好きなのか?」
自分で言っていて大変恥ずかしいのだが、要するにそういうことで間違いないと思う。
純はパイプ椅子から立ち上がると私の前まで歩いてきて、こくりと今度は首を縦に振った。
「うん、俺はサユ姉のことが好きだ。ずっとずっと前から大好きだった」
思わず彼の漆黒の双眸に吸い込まれそうになる。その迷いのない瞳は真っ直ぐに私を捉えていた。
しかし、それよりも私は彼に言いたいことが一言ある。
「純、それは正気か?」
自分で言うのも何だが、彼の告白は正気の判断とは言い難い。
私のような女の子らしくない女を好いてくれるような男がどこにいようか。無愛想で人見知りの激しい、女の子らしくするのが何よりも苦手な私。
そんな私に比べて純はモテる。甘い優しそうな顔立ちに、飄々とした気さくな性格。勉強も運動もできるし、彼はいつでも人気者だった。
純ならばもっと可愛い女の子を狙えるだろうに。
ピタリと純の額に手を当てて、丁度熱の具合を確かめるかのように正気かと訊ねる私に、彼は苦笑をする。
「サユ姉、そう自分を卑下するものじゃないよ。誰よりも可愛いんだから」
「んなっ!?」
「痛〜っ!?」
あまりに純が平然と恥ずかしいセリフを言うものだから、思わず純の足を踏みつけてしまった。
一種の照れ隠しとも言えなくもないが、どうやらかなり痛かったようで、純は足を抱えてうずくまった。
「ごめん、ごめん。こういうのに免疫がないものだから、ついうっかり足を……」
「うっかり踏まれてたまるかっ!」
さっと立ち上がると純は見事なツッコミを入れた。
いやはや、ごもっともである。ぐうの音も出ないとはこのことだ。
あはは、と誤魔化すように私が愛想笑いをすると、純も諦めたように肩をすくめてみせた。
「まあいいや、以後気をつけるように」
「うん、善処する」
もっとも飽くまで善処するだけなのだが。
ふと理解した。帰宅部の純が珍しく遅くまで学校に残っていたのも、私が記事を書き終わるまで待つと言ってくれたのも、全て告白するためだったのだ。
そう思うと何とも可愛らしく思えてくるのだから不思議なものだ。結局は私が記事を書き終わるまでまてずに勢いで告白をしたようだが。
「そう言えば今日はバレンタインだったよね? サユ姉は誰かにチョコをあげた?」
「うん、あげたよ」
「そっか、良かっ……ってえええぇぇっ!?」
純の叫び声が静かな部室に響き渡る。
や、勿論チョコをあげたというのはまるっきりに嘘なのだが。そもそもが渡す相手なんていないし。
けれどここまで大きくリアクションしてくれるのは、何だか実に嬉しいものである。
「ごめん、さっきのウソ。誰にもチョコをあげてないから」
「……サユ姉、やっぱり黒い」
ほっと安堵の溜め息を吐いた純は、またそんなことを呟いた。
しかし仮にも自分の好きな女の子に対して、黒いだなんて言うのはどうなのだろうか。君はその少し小悪魔で黒い女の子が好きなんでしょう?
……うぁ、自分で言ってみたものの、かなり恥ずかしいな。比喩ではなく顔から火が出そうだ。
「ねえ、一つだけ聞かせて」
分からないことはたくさんあるが、どうしても聞きたいことが一つだけあった。
「私は少しも女の子らしくなんかないのに……どうして私を好きになったの?」
もっと私よりも可愛い子なんてごまんといるだろうし、綺麗な子だって星の数ほどいるだろう。
それなのにどうして私を?
そう訊ねると純はぽかんとした不思議そうな顔をして、小首を傾げた。
「サユ姉は鏡を見たことがないの?」
「それは当然あるけれど。それがどうかした?」
「……いや、何でもないよ」
純は少し呆れたように嘆息を吐く。それから彼は私の目を正面から見据えると大きく息を吸い込む。
何回か深呼吸をすると意を決したように口を開いた。
「どうして私なんかを、ってサユ姉は言うけどさ。俺はサユ姉じゃないとダメなんだ」
「私、じゃないと?」
「そう、サユ姉じゃなければダメなんだよ。だって俺が好きなのはサユ姉だけなんだから」
真摯な眼差しで私を見つめながら、純は言った。
心拍数が急激に上昇していくのが自分でも分かる。顔も熱を帯びているようだった。
それはたぶん純も同じことで。真剣な彼の頬にも仄かに朱が差し込んでいた。
「それに女の子らしくないと言うけれど、そんな些末なことを一生懸命気にしているサユ姉は、俺から見れば充分に女の子らしい。立派に女の子してるよ」
しん、と水を打ったかのように静まり返る部室。
相変わらずストーブの音だけが響いていたが、そんなことも今は気にもならない。
外は雪が降っていて。今日はバレンタインデーで。こんなにもロマンチックで。そして恋する女の子を応援してくれる一年に一度の日だから。
「サユ姉、俺にチョコくれる?」
「残念ながらチョコなんて持ってないよ」
「あらら、それは本当に残念」
女の子なら誰もが夢見る今宵の奇跡。
未来永劫を誓い合うというには、あまりに大それたものだけど。
それでもこれから先もずっと変わることなく一緒にいたいと願う。
ふと唇に柔らかい感触。
鼻腔をくすぐる甘い香り。
「チョコはないけど代わりにもっと美味しいものもらっちゃた」
純が無邪気な笑みでにへらと笑った。
「わ、私のファーストキスが〜っ!」
「ごちそうさま、サユ姉」
そして今日も私は、照れ隠しに彼の足を踏みつける。
前から予告をしていたわりには、たいしたものでもなく、大変心苦しいのですが……。
皆様、楽しんでいただけたでしょうか?
少しでもニヤニヤしていただけたのなら、幸いでございます。




