07 メシマズな世界
火がフッと消え、わたしの意識も現実に引き戻される。
黒くなったマッチからたちのぼる細い煙の向こうには、ポンフおじさんがいた。
神族画家だったころの、希望に満ちあふれた姿はそこにはない。
髪はボサボサで肌にはハリが無く、やつれた顔にはこれまでの苦労を示すようなシワが刻まれている。
気づくとわたしはその胸に飛び込んでいた。
「ど、どうしたんだい、セリージャ? 何度呼んでも返事がないと思ったら、急に抱きついてきたりして……?」
「……育ててくれてありがとう……!」
「えっ……?」
わたしはちょっと恥ずかしくなって、胸に顔を埋めてしまう。
「あなたがいなかったら、わたしはとっくに死んでたと思う。あなたは命を賭けて、わたしを守ってくれてたんだね」
ポンフさんは絵を描かなくなったわけじゃない、描けなくさせられていたんだ。
ディヴァン派の、神族たちによって。
それも、わたしを守るために……!
そう思うだけで、胸の底から熱いものがこみあげてくる。
だけど、それを涙として流すわけにはいかなかった。
泣いたりなんか、するもんか……!
ポンフさんが涙ひとつこぼさず耐え忍んでいる以上、わたしにその権利なんてない。
いまは、涙の雫を心のニトロに変えて、戦わなくちゃいけない時なんだ。
わたしは彼の胸で、ぐしっと顔を拭った。
「……本当にありがとう、パパ! それと、腕を折るなんて言ってごめんなさい!」
パパはキョトンとした表情でわたしを見下ろしていたけど、だんだんその顔が紅潮していく。
「そ……そうか! そんなこと、別に気にしなくてもいいのに! え、えっと……とりあえず、ごはんにしようか! いつもと同じスープだけど、パパが腕によりをかけて作ったんだぞ!」
「やった! 毎日食べてたパパのスープなら、きっと美味しいに違いないよ! いただきまーす!」
わたしたちは今日、本当の意味で家族になれたような気がする。
はじめての一家だんらん。
か細いけど暖かいキャンドルに、具はないけど温かいスープ。
ささやかだけど幸せな時間。
しかしそれすらも、このわたしには許されなかった。
スープを口に入れた瞬間、コンマゼロ秒で「ブフォッ!?」とパパの顔に吐きかけてしまう。
そして思わず声を大にしていた。
「まっ……まっずぅぅぅぅぅーーーーーーーーーーーーーっ!?!?」
なっ、なにこのスープ!? マズすぎて、口が勝手に吐き出しちゃったんですけど!?
でも、そのショックで思いだした。この世界の食事は、すべてマズいものだったんだと。
すべてといっても、メニューはふたつしか存在していない。
ひとつは『メラゾーマス』。
動物の血に、内臓と骨と野菜を加えて煮込んだスープ。
地獄の釜の中身みたいな見た目をしていて、ニオイも最悪。
もうひとつは『アイアンプレート』。
動物の血に、骨と内臓を加えて小麦粉で練り込んだパン。
この世の終わりみたいな色をしていて、鉄みたいに固い。
とても乙女ゲーとは思えない食文化だけど、その逆張りっぷりが『神剣恋愛ラブゴッド』の人気の秘密でもあるんだ。
そうそう、そうだった。
ミカエル様の婚約者だった頃のわたしでも、この世界の料理は受けつけなかったんだよね。
だからこっそり、ミカエル様やわたしが食べる食事はポトフとかを作っていた。
メシマズに感じるのは、当時は体質かなにかだと思っていたけど、たぶん前世の記憶が残っていたんだと思う。
でなきゃ、この世界に存在しない料理であるポトフなんて作れるわけないし。
なんてことを考えていたら、ふと悲しい視線を感じる。
パパは顔じゅうスープまみれになっていて、雨の中に捨てられた犬のような目でわたしを見ていた。
「記憶が戻ったかと思ったら……腕を折ろうとしたり、抱きついてきたり……。かと思えば、いきなりスープを吐きかけてきたり……。セリージャは、パパをいったいどうしたいんだい……?」
「あっ……! ご……ごめんなさい、パパ! きょ……今日は、わたしにスープを作らせて!」
食生活の改善。
わたしの目標が、またひとつ増えた瞬間だった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
次の日、わたしは昨日の稼ぎを使って、ボロ市で古着と穴の開いた靴を買った。
裁縫道具も揃え、自宅で繕いなおす。
わたしは記憶を失ってからずっと、貫頭衣に裸足というスタイルだった。
死刑囚か原始人みたいだったので、もうちょっと人間らしい格好をしなくちゃと思ったんだ。
もちろん自分のぶんだけじゃなくて、パパのぶんもあつらえる。
いま着ているのよりもずっと立派な服ができあがって、パパも大喜びしてくれた。
「す……すごい!? セリージャは料理だけじゃなく、裁縫もできるんだね!」
学生時代はコスプレ衣装とか作ったりしてたから、針仕事はお手の物。
コスプレコンテストで優勝したこともあるけど、中身はわたしじゃなくてもっとかわいい子だった。
そんな苦い思い出はさておき、わたしは新しい服に着替え、麻袋の中にマッチを詰め込んで背負う。
「じゃあ行ってくるね、パパ。お昼は残りのポトフを食べておいて。帰りに材料を買って、もっと美味しいスープを作ってあげる。あ、あと、マッチの在庫がもうなくなりそうだから注文しておいて」
昨日とは大違いのわたしに、パパは瞳を潤ませていた。
「う……うん! いってらっしゃい、セリージャ!」
パパに表通りまで見送られたあと、わたしは昨日配達を頼まれた紳士の家へと向かった。
「えっと……ミルドス通り? ……って、下位神族の住宅街じゃない!?」
神族というのはようするに貴族みたいなもので、下位でも領主クラスの権力がある。
言うまでもなく、富も権力もある存在だ。
本当なら裏路地なんて見向きもせず、馬車に乗って移動していてもおかしくない身分なのに……。
「身なりのいい人だと思ってたけど、まさか神族だったなんて……! 服を新しくしといてよかった……!」
前の服装だったら、見回りの衛兵にまちがいなく捕まって、外につまみ出されていただろう。
思ったとおりミルドス通りはハイソな空間で、前世で例えるなら成城を歩いているような気分になった。
わたしも元は神族だったけど、そうじゃなくなってからだいぶ経つので、けっこう緊張する。
そしてたどり着いた先は、やっぱり立派なお屋敷だった。