あ~の
アイゼンハワー、ドワイト
Dwight David Eisenhower
1890-1969
アイクの愛称で知られる。歩兵士官としてスタートし、第1次大戦では重戦車大隊長として部下を訓練しながら出征を待ったが、出発直前に終戦となる。マッカーサーが参謀総長だった時期に下僚として働き、独立を控えた新生フィリピン軍の軍事顧問となったマッカーサーについてフィリピンに渡る。帰国後最初のポストは大隊長であったが、アメリカ陸軍は急速な拡張期に入り、1941年6月には第3軍参謀長となって、この立場でルイジアナ大演習に参加し、第2軍に勝利して准将昇進をかちえる。開戦と同時に旧知のマーシャル参謀総長から戦争計画局次長に任じられ、1942年2月には局長(のち作戦局に改称)とされる。当初はマーシャルが欧州派遣軍を率いるものと目されていたが、マーシャルはむしろアイゼンハワーを送り込むことにする。トーチ作戦の指揮を皮切りに、アイゼンハワーはオーバーロード作戦を前に連合国遠征軍総司令官に任じられる。1952年には大統領に当選し、2期つとめる。その副大統領はあのニクソンであった。
アオスタ公アメデオ
Amedeo di Savoia-Aosta
1898-1942
アオスタ公爵領はサヴォイア王家が所有してきたが、国王の弟に儀礼称号(領有権・財産権を伴わない爵位)として与えられ、アメデオはその息子。「東アフリカ帝国」としてエチオピアを統治していたがイギリス軍に降伏。捕虜収容所で伝染病により死亡。
アスキス、ハーバート
Herbert Henry Asquith, 1st Earl of Oxford and Asquith
1852-1928
この小説では過去の人。自由党議員で、初入閣はグラッドストーン内閣。保守党政権が第2次ボーア戦争のあと戦費をまかなう保護貿易に傾斜し、物価高を嫌った選挙民は自由党を1906年総選挙で大勝させる。まず財務大臣、次いで党首の死により1908年に首相を継ぐ。そのまま長期政権を続け第1次大戦に突入したが、1915年に保守党と結んだロイド=ジョージに政権を譲る。
アトリー、クレメント
Clement Richard Attlee, 1st Earl Attlee
1883-1967
若手弁護士として社会主義活動に関わる。第1次大戦ではチャーチルの黒星とされるガリポリの戦いで負傷したが、そのことてチャーチルとの関係は損なわれなかった。戦後に労働党から下院に出て、1935年から労働党党首。前任のランズベリーはイタリアのエチオピア侵攻への経済制裁にも反対するほどの平和第一主義だった。アトリーも就任当初はヒトラーとの協議に期待をかける発言をしたが、次第に反宥和政策・軍拡容認へと立場を変えていった。本編で述べたようにチェンバレンも宥和一辺倒ではなかったが、野党として労働党は対独強硬派となり、チャーチルの指導を受け入れる素地が作られた。1940年のチャーチル内閣に参加し、チャーチル外遊時には非公式の首相代行として、しばしばイギリスでの閣議を主催した。
1935年の総選挙は保守党有利な結果であったから大戦まで下院は解散されず、開戦後は空襲などの懸念から毎年議員たちの任期が特に延長され、補欠選挙だけが行われるようになった。そのため労働党内反主流派は大戦の勝ちが見えると総選挙実施を迫り、ヤルタ会談の最中に首相がチャーチルからアトリーに交代する珍事を起こした。
アーノルド、ヘンリー
Henry Harley Arnold
1886-1950
「ハップ」の愛称は前向きさと愛想の良さでつけられた「ハッピーなやつ」。歩兵士官であったが航空隊に転じパイロットとして活躍する。アメリカ参戦期間のほとんどで陸軍航空軍司令官。大戦中から心臓病を患ったが危ぶむ医師たちを振り切るように勤務を続けた。陸軍元帥に加え、空軍独立とともに空軍元帥。
アムトラッハ
架空の人物。段列を率いる少尉。段列は小隊扱いで、中少尉か下士官が率いる。
アルテミエフ、パーヴェル
Pavel Artemyevich Artemiev(Павел Артемьевич Арте́мьев)
1897-1979
開戦時のモスクワ軍管区司令官、のちモスクワ防衛司令官。NKVD系の人物であったため、戦後ベリヤの失脚とともに実権を失った。最終階級は大将。
フォン・アルニム、ハンス=ユルゲン
Hans-Jürgen Theodor von Arnim
1889-1962
フォン・アルニム一族はウッカーマルク地方で、スラブ系住民のキリスト教徒化・ドイツ人への同化の過程で成功したドイツ騎士団の大名跡であり、三十年戦争を戦った傭兵隊長ハンス・フォン・アルニム=ボイツェンブルク元帥、スペイン継承戦争を戦ったプロイセン軍のゲオルグ・フォン・アルニム元帥などを出している。
ハンス=ユルゲンの原隊は近衛歩兵第4連隊。前大戦終戦時には大尉。戦間期に補充教育を受けて参謀士官となり、ヒトラー政権発足時には中佐。バルバロッサ作戦で歩兵師団から転換した第17装甲師団を率い、11月から装甲軍団長。1942年5月にコルムの包囲突破に成功。そのままモーデルの下で火星作戦の防備に当たり、12月に上級大将に進んでアフリカで第5装甲軍を任される。同地で捕虜となる。
アレクサンダー、ハロルド
Harold Alexander, 1st Earl Alexander of Tunis
伯爵の三男坊。第1次大戦では率先垂範の指揮官として敢闘し、戦時中佐・大隊長で終戦。フランス戦では歩兵師団長としてダンケルクから撤退。直ちに軍団長、次いで(イングランド)南部方面司令官。先輩であるモントゴメリーが部下となったが、やりたいようにやらせて良い関係を保ち、これがアフリカでも引き継がれる。対日戦が始まるとビルマ方面を任され、撤退戦を指揮する羽目になる。イギリスに呼び戻され、トーチ作戦に参加するイギリス第1軍司令官に擬されていたが、1942年8月に中東総軍司令官のオーキンレックが更迭され後任となる。チュニジアでアメリカ軍と合流したあとは第15軍集団司令官としてアイゼンハワーの下につき、1944年末にかつてアイゼンハワーが務めた地中海方面連合軍総司令官を引き継ぐ。ビルマの件もあり、その作戦指揮能力には様々な意見があるがコミュ力が高いのは疑いなく、戦後はカナダ総督、国防大臣などを務めた。
アントノフ、アレクセイ
Aleksei Innokentievich Antonov(Алексей Иннокентьевич Антонов)
1896-1962
戦間期に赤軍に入り、ワシレフスキーの推薦で参謀本部作戦課長、次いで参謀総長代理として大戦後半のソヴィエト軍を支えた。1948年以降は地方勤務が続いたが、フルシチョフの実権が強まった1954年にモスクワに戻り、翌年初代ワルシャワ条約機構軍参謀総長となり、在任中に死去。
イェションネック、ハンス
Hans Jeschonnek
1899-1943
幼年学校にいたが前線に出て、15才で歩兵少尉となる。航空隊に転じて東部戦線で戦い、戦間期のライヒスヴェーアで参謀教育を受ける。ヒトラー政権成立前から秘密航空隊の育成に関わり、空軍に移籍。1938年以降ゲーリングとミルヒの不仲が高じて参謀総長が2人辞職し、まだ大佐であったイェションネックが1939年2月から参謀総長を務める。1943年、ドイツ空軍が東西で押され始めるとヒトラーの叱責を浴びるようになり、1943年8月に自殺。
イェルマコフ、アーカディ
Arkady Nikolayevich Yermakov(Ермаков, Аркадий Николаевич)
1899-1957
1936年にライフル連隊長、1938年に師団長という経歴は、やはり大粛清で出世が加速してしまった人と言うべきだろう。独ソ戦が始まったときはライフル軍団長だったがミンスク、スモレンスクと押され、8月以降ブリャンスク方面軍司令官代理として、数個師団の作戦集団を率いてグデーリアンの第2装甲軍と戦い続ける。10月から第50軍を任されトゥーラを守るが、スタリノゴルスク失陥をとがめられジューコフに解職される。軍法会議では有罪だったがスターリンが即日恩赦して、軍司令官代理から再出発する。1943年になって軍再建が進み、親衛軍や打撃軍に再びライフル軍団司令部が置かれるようになると、ライフル軍団長として中央~北方を転戦して攻勢の先頭に立つ。戦後も軍団長から上に上がれず、人民解放軍の顧問を務め病死。
イスメイ、ヘイスティングス
Hastings Lionel "Pug" Ismay, 1st Baron Ismay
1887-1965
奨学金の選考に落ちたので大学進学をあきらめ、父の働くインドで騎兵士官となる。自由時間も多くて休暇も長く人気のあるポストで、次のポストは自分で見つけなければならなかった。そして英領ソマリランドに創設されたソマリランドラクダ軍団に採用されるが、第1次大戦が始まると他の士官が次々に戦場に引き抜かれ、兵力も物資も不足で攻勢を取ることも許されず、留守番のように過ごす。戦後しばらく本国にいて結婚したが、再びインドで勤務を始める(第2話)。
妻のいるロンドン勤務の機会を探すうち、インドから空軍大学校に交換留学する陸軍士官枠を射止め、その縁で帝国防衛委員会など内局勤めのキャリアが始まる。帝国防衛委員会事務局長のハンキーに高く評価され、引退に当たって後継者とされる。ハンキーは内閣官房長も務めており、第2次大戦が始まるとふたつの組織は統合されて、イスメイは「内閣官房の軍人組トップ」といった位置づけになる。
チャーチルは首相になると同時に国防担当閣外大臣を創設し、自分で兼ねる。そしてイスメイを「国防担当閣外大臣付参謀長(Chief of Staff to Minister of Defence)」に任じ、軍事担当内閣副官房長(Deputy Secretary (Military) to War Cabinet)と併任させる。イスメイはチャーチルの相談相手として、また代理人として広範な調整に当たる。
1947年、退役(大将)を機に男爵となる。戦後もNATO初代事務総長など、胃の痛くなりそうな顕職でコミュ力を発揮し続ける。
イーデン、アンソニー
Robert Anthony Eden, 1st Earl of Avon
1897-1977
第1次大戦で志願し、勇戦して歩兵大尉、旅団先任参謀まで累進する。戦後政界に転じ、1931年に外務政務次官、1933年末に王爾尚書(無任所大臣)、1935年に国際連盟担当の無任所大臣を経て、同じ1935年のうちにボールドウィン内閣で外務大臣となり、1937年のチェンバレン内閣でも留任。相対的に宥和政策に批判的で、1938年に辞任。このためチェンバレンの批判者であるチャーチルと一種の共闘関係ができ、大戦になってチェンバレンもイーデンを再び入閣させたものの、チャーチル内閣で陸軍大臣を経て再び外務大臣。
戦後老衰が進んだチャーチルの後継者となるが、1955年にようやく首相となったイギリスはもう衰えており、1956年のスエズ危機でスエズ運河を失う役回りを演じることになった。
インスキップ、トーマス
Thomas Walker Hobart Inskip, 1st Viscount Caldecote
1876-1947
法務系のポストを歴任した政治家で、弁護士資格を得たあと海軍情報部や海軍法務部で勤務した経験はあったが、部隊指揮の経験はなかった。1936年、新設された防衛統括大臣として国家防衛委員会を主管。当時無位無官のヒラ議員だったチャーチルは、その任に当たるためにはインスキップが素人同然であると激しく不満を漏らした。チェンバレンはインスキップを1939年に交代させて大法官(貴族院議長を兼ねる)としたが、チャーチル政権下では連邦問題担当大臣を経て、子爵に列せられるとともに主席判事卿(大法官に次ぐ最高裁判所次席判事)となった。
ヴァイクス、マクシミリアン
Maximilian Maria Joseph Karl Gabriel Lamoral Reichsfreiherr von und zu Weichs an der Glon
1881-1954
長い名前が示すようにバイエルンのお貴族様。原隊は騎兵。ギリシア侵攻以降第2軍司令官を続け、1942年にボックの後任としてB軍集団を指揮する。1943年春に総統予備に戻されたが南西総軍・F軍集団司令官として再起用され、終戦近くまで勤める。
ヴァーリモント、ヴァルター
Walter Warlimont
1894-1976
本屋の息子。中小商工業者の子弟は騎兵連隊などでは嫌がられることもあったが、重砲兵連隊は頭がよさそうなら士官候補生に採る傾向があった。大戦直前に砲兵少尉に任官し、中尉で終戦。戦間期に(秘密課程を修了し)参謀士官と認められる。ヒトラー政権発足時には少佐で、総合政策局に配属。スペイン内戦時にはフランコ付きの軍事顧問となる。1938年、ヨードルの後任として国土防衛課長となる。1944年9月、戦局の先行きへの不安を隠せぬままヒトラーと口論になって解任される。ニュルンベルグ裁判で当初は終身刑判決を受けたが、減刑され1954年に釈放。
ヴァルター、エリッヒ
Friedrich Erich Walther
1903-1948
降下猟兵としてクレタ島作戦などに参加。マーケット・ガーデン作戦直前に急きょ登用されて、雑多な部隊からヴァルター戦闘群を形成し、チル戦闘群とともに連合軍の進撃を遅らせる。ほどなくヘルマン・ゲーリング第2降下装甲擲弾兵師団長に任じられ、クールラントで終戦まで戦う。ソヴィエトに戦犯とされ、1948年に収容所で死亡。最終階級は少将。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
Vittorio Emanuele III
1869-1947
イタリア国王で、第1次大戦をめぐる国論沸騰の時期から国政に積極的に参与するようになった。安定しない戦後イタリアの政情から1922年にムッソリーニを呼び組閣を命じた。以後も隠然と政治的影響力を持ち、1943年にはムッソリーニの失脚と拘束を黙認した。9月に休戦調印とともに、連合軍が上陸する予定の南イタリアに逃げる。その後11月に無条件降伏を認めざるを得なくなり、連合軍諸国の共同交戦国として一部のイタリア軍が戦うことになる。政治責任を負うて終戦を待たず王太子を摂政とし、1946年に譲位したが、戦後の国民投票で王政が廃止され、エジプトで客死。
ウィリソン、アーサー
Arthur Cecil Willison
1896-1966
トブルクで第32戦車旅団長・准将。
ウィルキー、ウェンデル
Wendell Lewis Willkie
1892-1944
1940年の共和党大統領候補。軍備を整え欧州情勢に関与すべしという主張で、敗れてもすぐレンド・リース法案に賛成し、ルーズベルトの特使としても働いた。1944年に急病死。
ウィルソン、ウッドロウ
Thomas Woodrow Wilson
1856-1924
第1次大戦を勝利に導いたアメリカ大統領。しかし国際連盟への加入込みでまとめたヴェルサイユ条約は上院を通らず、1919年10月に半身不随となり視力も右目にわずかに残るだけとなった。妥協できずに終わったのは、すでに大統領の判断力が弱っていたからかもしれない。結局アメリカは次代のハーディング大統領によって、ドイツなどの旧中央同盟国と国際連盟抜きの和平条約を結ぶことになった。
ウィルバーク、ヘルムート
Helmuth Wilberg
1880-1941
原隊は歩兵。すでに参謀士官となった30才で航空隊に進む。第1次大戦では大尉として、ほとんどの期間を軍司令部レベルの航空隊指揮官として過ごす。参謀本部や国防省のポストと要塞司令官などラインのポストを行き来して、1932年11月に少将でいったん退役。空軍省に呼び戻され、教育関係の職を歴任して、1938年3月に名誉航空兵大将として退職。大戦で再び教育関係の職に就き航空兵大将。ウーデットの葬儀に参列する途上で航空機事故に遭い殉職。
ヴィルヘルム王子
Wilhelm Friedrich Franz Joseph Christian Olaf Prinz von Preußen
1906-1940
ドイツ皇帝・プロイセン王ヴィルヘルム2世の皇太孫(1933年に貴賤結婚のため継承権は失う)。ゼークトが失脚するきっかけとなる。予備中尉として第1歩兵師団に属し、1940年に戦死。葬礼には市民5万人が集まり、ヒトラーが王族の軍務を禁止するきっかけとなる。
ウィンタートン伯爵エドワード・ターナー
Edward Turnour, 6th Earl Winterton
1883-1962
アイルランド貴族であったから貴族院には迎えられず、下院議員を連続47年務めた。スウィントン子爵を下院において代理することは閣僚としての初仕事であったが、1938年5月の論戦で守り切ることができなかった。スウィントンはずっと後になってチャーチルに登用されたが、ウィンタートン伯爵は1951年に下院の議席を失うまで閣僚に登用されずに終わった。1952年に連合王国貴族としてターナー男爵に叙され、貴族院議員となった。
ウェア、ウィリアム
William Douglas Weir, 1st Viscount Weir
1877-1959
現在もWeir Groupとして存続する総合機械メーカーの創業者の息子。この企業は造船用のボイラー部品で有名になったが、第1次大戦ですでに航空機製造にかかわっていた。ウィリアム本人は主に弾薬製造にたずさわっていたが、大戦末期にはイギリス航空委員会の委員長を務めていた。スウィントン子爵の招きで1935年から再び航空委員会メンバーとなったが、スウィントン辞職とともに1938年に退いた。第2次大戦では弾薬生産や戦車生産関係の要職についている。
ウェイガン、マキシム
Maxime Weygand
1867-1965
フランスの将軍。第1次大戦ではフォッシュの支持者として浮沈を共にした。1930年に陸軍参謀総長となり実権を握ったが本人の性格もあり、ジョッフルやフォッシュは第1次大戦直前のフランス軍を覆った攻撃精神重視の中心人物だったから、バタイ・コンデュイを信奉するフランス軍の新しい主流からは外れてしまった。1940年にガムランの後任として起用されたがもうどうすることもできず、休戦後のペタン政権で要職に就いた。トーチ作戦にヴィシー・フランス軍がほとんど抵抗しなかったことを受けてドイツに拘束され、終戦までイッター城で過ごした。
ウェーヴェル、アーチボルト
Archibald Percival Wavell, 1st Earl Wavell
1883-1950
第2次大戦序盤を担当した米英の将帥たちは大なり小なり損な評価を受けているが、ウェーヴェルも中東総軍司令官としてあまりに広大な地域を小兵力で担当し、本国の思惑に振り回された。1941年にインド方面に転任したとたん日本と開戦し、シンガポールを見殺しにしてビルマで遅滞戦闘を行う羽目になった。大戦途中からインド総督となって行政職に就いたが、インド駐留軍司令官の後任もオーキンレックだった。そのころには戦線が東南アジアに移り、その指揮は別の人物が執ったのでもうお留守番ポストであった。
ヴェストファル、ジークフリート
Siegfried Westphal
1902-1982
16才で士官候補生となってからすぐに第1次大戦が終わってしまう。ヴェルサイユ条約が成るまで士官学校最後の日々を過ごし、以後は騎兵士官となって1932年に陸軍大学校へ入る。アフリカ戦車集団の作戦主任参謀として赴任して2か月後の1941年11月、ロンメル行方不明・トブルク包囲網の外側に有力なイギリス軍出現という状況で、独断で装甲部隊をトブルク周辺に呼び戻す決断をする羽目になる(クルセイダー作戦)。結局ロンメルの評価はそんなに悪くはなく、12月19日にドイツ黄金十字章受章、ドイツアフリカ装甲軍でも引き続き作戦主任参謀。
1943年の新年に病気治療のためイタリアに戻り、南方軍総司令官として陸戦も指導しなければならなくなったケッセルリングの幕僚に加わる。そして1943年7月、第2航空艦隊の兼任を解かれたケッセルリングはもっぱら陸上部隊の指揮を執ることになり、ヴェストファルがその参謀長に昇任する(のち南西総軍に改称し、OKHのもとでC軍集団司令部の二枚看板)。1944年6月に予備となり、9月にルントシュテットが再任された西方軍総司令部の参謀長。最終階級は騎兵大将。
ヴェーバー、マックス
Maximilian „Max“ Carl Emil Weber
1864-1920
社会学の草創期に活躍し、分類の難しい研究者。「理念型」など社会科学の方法論を議論するとき広く用いられる言葉を初めて使ったため、厳密には畑違いであっても著作を読んでいる人は多い。晩年の講演録「職業としての学問」「職業としての政治」はこの小説の副題の元ネタ。
ヴェーファー、ヴァルター
Walther Wever
1887-1936
プロイセン軍の歩兵士官として順調に出世し、第1次大戦中に戦時速成課程で参謀士官になった。ロスバーク(父)がいくつかの実践例を作ってから、柔軟防御の考え方はルーデンドルフの指導下であらためてマニュアル化されたが、おそらくこの作業に加わった若手参謀のひとりであったと思われる。1933年9月、将来の参謀総長内定者として航空省に移籍。1935年には空軍参謀総長であることが公然化。1936年、自らが操縦する飛行機の離陸時事故で死亡。
ウォーシントン=エヴァンス、ラミング
Sir Worthington Laming Worthington-Evans, 1st Baronet
1868-1931
イギリス保守党の政治家。1924年から29年まで陸軍大臣。
ヴォロシロフ、クリメント
Климент Ефремович Ворошилов(Kliment Yefremovich Voroshilov)
1881-1969
エゴロフ、ブジョンヌイと同様、スターリンとの親密な関係を背景に栄達した。軍人としては比較的政治活動歴があったが、職業軍人としてのダメさについては数多くの逸話が残る。第2次大戦期に関して言えば、重要なことをすべて自分で決裁するスターリンは、ヴォロシロフやブジョンヌイが現地における自分の忠実な耳目であるかぎり、実務は参謀に任せても良しとしていたのではないか……とマイソフは受け取っている。政治家としてはフルシチョフ時代まで生き延び、ブレジネフの代になって短い復活を遂げすらした。
ウッド、キングズレー
Sir Howard Kingsley Wood
1881-1943
イギリスの保健次官、教育次官、逓信長官などを歴任してきたが、1938年にスウィントンが辞任すると航空大臣に補され、「飛行機のどちらが前かもわからない」と冗談を飛ばしたという。1940年5月、(おそらく空軍が目立った戦果を挙げられないので)チェンバレン内閣末期に無任所大臣となる。チェンバレンが辞職した日はドイツがフランスに攻め込んだ日であり、辞職を撤回しようとするチェンバレンをなだめたのはウッドであったと言われる。これに感謝したわけでもなかろうが、チャーチルは新内閣の財務大臣をウッドに任せ、重職のウッドは1943年に病死してしまった。
ウーデット、エルンスト
Ernst Udet
1896-1941
第1次大戦では撃墜数61機のエースで、リヒトホーフェンの下で飛行中隊長を務めた。その戦死後ゲーリングが後任となったのが縁となり、空軍に引き入れられた。空軍技術局長として生産と開発を預かったが能力不足に苦しみ、失脚して自殺した。
ヴラソフ、アンドレイ
Andrey Andreyevich Vlasov(Андрéй Андрéевич Влáсов)
1901-1946
赤軍に徴兵され、数か月の講習しか受けていない下級指揮官であったが司令部勤務をこなし、1935年には陸軍大学校に進み、1938年から1939年にかけて中国で軍事顧問団に加わった。1940年に国境のライフル師団を任され、規律厳しく鍛え上げて師団が表彰を受ける。開戦時には戦車軍団長。勇戦を認められ、第37軍司令官としてキエフ防衛戦に参加。包囲を突破して脱出したが負傷。癒えるとモスクワ防衛戦の中で、スターリンに反撃の主力兵団のひとつ、第20軍を託される。貢献を認められ中将昇進。1942年3月ヴォルホフ方面軍司令官代理。この立場で第2打撃軍を視察に行き、たまたま司令官が病気で後送されたことがヴラソフの運命を決した。
後任として第2打撃軍司令官となったヴラソフだったが、敵中に孤立した(厳冬期には凍結した沼などを渡れたが夏にはもうできない)状態で、救出作戦が様々な要因で失敗した(ホジンの項参照)。7月に捕虜となったヴラソフはドイツに協力し、降伏の呼びかけなどに加わった。
ドイツは非戦闘兵補としてのソヴィエト軍志願捕虜を部隊に組み込み、親衛隊がいくつかのロシア人部隊を作ったほか、国防軍のオストバタリオン(東方大隊)が治安任務や建設任務に、状況が切迫すると戦闘任務に使われたが、ヴラソフが親衛隊の助けを受けてロシア解放軍として実戦部隊を集め、指揮するようになったのは1944年11月であった。すでにドイツにとって戦局は絶望的であり、ロシア解放軍は出撃を渋り、最後には寝返ってプラハ解放に協力した。だが米英は投降してきたロシア解放軍とヴラソフをソヴィエトに引き渡し、ヴラソフは1946年に処刑された。
エゴロフ、アレクサンドル
Александр Ильич Егоров(Alexander Ilyich Yegorov)
1883-1939
社会革命党(共産党と次第に対立し、内戦時すでに反革命側だった)の党員でありながらロシア陸軍で中佐まで進んだ。第2話にあったトハチェフスキーとのトラブルの件以来、スターリンと親密になった。それにもかかわらず、1938年に逮捕され、翌年処刑されたと言われるが、その経緯はよくわかっていない。
エッカート、ディートリヒ
Dietrich Eckart
1868-1923
劇作と出版に生き、経済的な浮き沈みが激しい一生だった。第1次大戦が終わると民族主義的な雑誌を発行し、そうした主張の団体や構成メンバーとつながりができた。そしてヒトラーのNSDAP(国家社会主義ドイツ労働者党)にも参加し、その黒子のように大きな影響を与えた。NSDAP機関紙フェルキッシャー・ベオバハターを党のために私財をはたいて買収し、編集長に収まった。良くも悪くも文筆の徒であり、顔は広かったが子分を抱えるような意味での政治力はなかった。
エジョフ、ニコライ
Nikolai Ivanovich Yezhov(Никола́й Ива́нович Ежо́в)
1895-1940
ベリヤの前任だった内務人民委員。大粛清を開始したが有能な人材を狩りすぎて国力を損ない、スターリンににらまれたことを感じて酒浸りになり、解任後裁判・処刑されたが、国民には解任しか知らされなかった。
エスティエンヌ、ジャン
Jean Baptiste Eugène Estienne
1860-1936
砲兵士官だが数学が得意で、間接砲撃の方法を体系化する著作がある。砲兵観測という観点から、初期のフランス航空隊にも参画する。その実績をバックに戦車の構想を首脳部に説いてシュナイダー戦車を完成させ、他の軍需企業や軍の関連部門が追随してフランスの戦車生産が立ち上がった。戦後はサハラ砂漠で長距離バス会社を経営した。
エーベルト、フリードリヒ
Friedrich Ebert
1871-1925
職人の子であったが、徒弟修業時代に非合法活動の多かった組合に深入りしすぎ、職人の道はあきらめる。所帯を持つと、ブレーメンでパブを経営する。後には穏健派とみられるようになったエーベルトだが、若いころは舌鋒鋭かった。
ドイツ社会民主党(SPD)と、それに合流していったいくつかの会派は、のちにドイツ共産党を作った人々を含んでいたし、マルクスやエンゲルスもそれらが綱領を発表するたびに自分たちの考えと会わない部分を批判する著作を出した。そんなSPDであったから、ビスマルクは社会主義者鎮圧法を制定して活動を抑え込もうとした。
ところがヴィルヘルム2世が即位すると、ビスマルクとの対立の中で、この弾圧政策が取り払われてしまった。有産者の一票が重い制限選挙制度が敷かれたプロイセン議会ではSPDは伸びにくかったが、普通・秘密選挙制度の帝国議会では、弾圧の緩んだSPDはたちまち第1党になった。
これは、革命運動家すら含んでいたSPDが巨大組織となり、同時に議会政党に変わることを促した。そうしたSPDのまとめ役・調整役として、エーベルト党書記は頭角を現した。1912年には国会議員になったが、SPD左派の強い選挙区で辛勝する勝ち方をする。そして早くも、1913年には共同議長ながら幹部会議長になり、SPDのトップに立つ。
大戦が始まるとSPDは政府に協力し続け、戦後にドイツ共産党(KPD)を創設する人々や、この小説には登場しない予定の独立派社会民主党(USPD)が戦争反対姿勢を明確にして党から離脱した。そして敗戦直前の1918年10月、皇帝のいとこであるバーデン大公マクシミリアンが組閣し、SPDも閣僚を出した。すでにエーベルトは相対的には君主制維持論者と呼ばれても仕方のない社会情勢だった。
休戦交渉はまとまらず危機の深まった11月、マクシミリアンは宰相を勝手にエーベルトに譲り、これも勝手にヴィルヘルム2世の皇帝退位を告げた。SPDならまだ兵士や労働者の集団をまとめられる可能性があった。エーベルトは戦時中に政治的な文章を公にして話題を呼んだシュライヒャーという士官を知っていたが、これがルーデンドルフの後任となった主席参謀次長グレーナー大将の懐刀だった。この縁で、帝国軍総司令部を当面解体しないことを条件に、陸軍はエーベルト宰相を支持するという約束ができた。これを基礎に、SPDが当面の政局を指導することになった。
これは無血革命だったが選挙もなかった。だから急いで1919年1月に憲法制定国民議会の名で国会に当たるものが選挙され、憲法制定作業に手を付けるとともに2月に大統領選挙が行われ、エーベルトが勝った。
フライコーアや警察を使い、あらゆる政治勢力の暴力に立ち向かう羽目になったエーベルトは絶えず自分への批判へも対処しなければならず、盲腸炎の養生が適切でなく、腹膜炎で命を落とした。
エリオ、エドゥアール
Édouard Herriot
1872-1957
1924-25年、1926年(6日で崩壊)、1932年(半年で崩壊)と3回首相になった。第1回と第2回は左翼政党の選挙協力によるものであったが、フラン相場の下落(当時は金本位制を離脱中)を食い止められず、(相対的に)保守勢力に政権を明け渡す。1932年の政権崩壊は第11話で扱ったように、アメリカへの債務を減免する話がアメリカ上院に否決され、軍縮も絡んだ一連の政治的合意が無駄に終わったことへの批判からだった。1940年以降もフランスにとどまったがペタン政権への批判的言動があり、1942年から自宅軟禁状態となった。
エリョーメンコ、アンドレイ
Andrei Ivanovich Yeryomenko( Андре́й Ива́нович Ерёменко)
1892-1970
ブジョンヌイの部下として栄達した騎兵士官。独ソ開戦時には極東で勤務。パヴロフが罷免された西部方面軍を代理として引き継いだが敗勢くつがえらず、その後もあちこちの戦線で苦闘する。戦傷3度、スターリングラード方面軍でようやくチャンスをつかみ、1942年11月の天王星作戦では南からの攻撃を担当。以後は順調にクリミア解放、リガ再奪取なとを指揮し、スターリン死後の1955年に元帥となる。
エンゲル、ゲルハルト
Gerhard Engel
1906-1976
1925年、ライヒスヴェーアに入営。原隊は歩兵。1943年まで首席副官シュムントの下で、陸軍の総統付き副官のひとりとして仕える。1943年から歩兵連隊長、次いで歩兵師団長として終戦まで前線で戦う。副官時代の日記は『第三帝国の中枢にて-総統付き陸軍副官の日記』の書名で邦訳がある。
オーキンレック、クロード
Sir Claude John Eyre Auchinleck
1884-1981
父親がインド軍のポストを得たため、生まれるとすぐイギリスを離れ、教育はふたたびイギリスで受ける。インド軍で勤務し、第1次大戦ではメソポタミア戦線で戦う。切れ切れの本国勤務期間は短く、第2次大戦開戦時にはインドで少将まで進級していた。本国に呼ばれ、5月には途中からナルヴィク方面の連合軍で指揮を執るが撤退を命じられる。1941年からはインド軍総司令官として赴任する。しかしウェーヴェル中東総軍司令官とチャーチルら本国の関係が悪化し、1941年7月からウェーヴェルとポストを交代し、増援を得てクルセイダー作戦を成功させ、ロンメルを東リビアから追い出す。
インドの複数の言語を操り、個人的には間違いなく秀才であった。しかしインドでのキャリアが長すぎたのも一因で、本国部隊を含む多様な軍をまとめるのが苦手で、とくに無造作によく知らない人物を要職に任じる悪癖があり、本人よりもその任じた人物か批判されることが多かった。1942年8月、ロンメルに巻き返されたオーキンレックは職を免じられる。少し無役で過ごし、1943年から再びインド軍総司令官となる。ここで16才年下の愛妻が、旧知の空軍将官とダブル不倫事件を起こす。
不倫カップルは帰国させられ、オーキンレックは元帥号を得たのち、1947年のインド独立まで現地にとどまる。インドとパキスタンの分割に反対し、爵位を辞退する。最晩年はモロッコのマラケシュで過ごす。
大島浩
1886-1975
日本の駐独大使兼陸軍駐在武官。カイテルの回想録に、よく訪問を受け仲が良かったことが記述されている。
オット、オイゲン
Eugen Ott
1889-1977
原隊は第65野砲兵連隊(ヴェストファリア第4)。シュライヒャーの腹心であり、ヒトラーとシュライヒャーの秘密交渉にもかかわった。ヒトラー政権成立後は満州国の調査を命じられ、東京駐在の武官、1938年から駐日大使となる。そしてゾルゲ事件を起こし、1942年11月に大使を免じられ、終戦まで日本占領下の北京で過ごした。
カイザー、ヘンリー
Henry John Kaiser
1882-1967
道路工事会社を経営し、建築重機の台頭に乗って業容を拡大する。工程管理に優れ、ボートレースに関わったことをきっかけに造船業に手を伸ばし、溶接技術を積極的に取り入れる。これは後にリバティシップの特徴となったが、北極海など寒冷地で溶接部分に亀裂が走る(当時、未知の)事故を起こす契機にもなる。
アメリカ参戦前からカイザーの造船事業はフル回転し、戦時標準船リバティシップやカサブランカ級護衛空母を生み出す。大戦末期、ウィリス=オーバーランド社の経営者であり、別途グラハム=ページ社を所有していたフレーザーに資本参加して、新たにカイザー=フレーザー社を興して自動車事業を始める(のちグラハム=ページ社を吸収)。1953年、フレーザーの古巣であるウィリス=オーバーランド社もカイザー社が買収することになり、以後もジープの商標とラインナップは何度か持ち主を変えたが、1963年から70年まではカイザー=ジープ社が保有していた。
カイテル、ヴィルヘルム
Wilhelm Bodewin Johann Gustav Keitel
1882-1946
原隊は騎砲兵。精勤を高く評価されてはいたが、自分から主導するタイプではない。師団長まで勤め、国防省のWehrmachtamt(作中では総合政策局と訳す)へ転任して局長になる。当時の上司であるブロンベルクの息子と自分の娘を結婚させて政治的同盟を結ぶことになったが、ブロンベルクとフリッチュが失脚したあとのフリッチュの後任に、ブロンベルクが最後に推薦したブラウヒッチュを推して実現させるなど、政争でも一定の役割を果たす。OKW幕僚総監として、国防大臣としてのブロンベルクの職務を引き継ぐ。
大戦を通じて、ヒトラーからしばしば軽く見られつつも側近として扱われる。1946年、ニュルンベルク裁判で刑死。最終階級は元帥。
カイテル、ボーデヴィン
Bodewin Claus Eduard Keitel
1888-1953
原隊は猟兵大隊。普通の士官として順調に出世していたが、ブラウヒッチュや兄ヴィルヘルム・カイテルの一味として、1938年に軍政上の要職である人事局長に据えられてしまう。1942年にヒトラーの機嫌を損ね退職する。その直後に士官への学歴要件が撤廃され「戦場での勇敢な働き」で士官になれることになったので、この件に抵抗したのであろう。1943年から後方の司令部で司令官職を務めたが、部下からヒトラー暗殺計画の主要人物のひとりが出たせいか、1944年12月に職を解かれ、そのまま終戦となった。最終階級は砲兵大将。
ガイレンベルク、エドムンド
Edmund Geilenberg
1902-1964
ゲーリングの国策企業で弾薬生産管理の専門家として頭角を現し、燃料生産を空襲下で維持拡大する責任者とされる。燃料関連施設の疎開計画でも知られるが成果は上がらなかった。
カガノーヴィチ、ラーザリ
Lazar Moiseyevich Kaganovich( Ла́зарь Моисе́евич Кагано́вич)
1893-1991
ソヴィエトの政治家で、主に鉄道人民委員として粛清と管理の両面で辣腕を振るった。スターリンの晩年には敬遠じみた処遇をされていたが、その死後に政争に加わり、フルシチョフに敗れた。
カップ、ヴォルフガング
Wolfgang Kapp
1858-1922
1912年から1920年まで(中断期間あり)東プロイセンで公的な農業金融機関の責任者。戦勝後の領土拡張などを口にすることが多く、第1次大戦後半には帝国議会に議席を占める。戦後は反共和国政党を組織して、リュットヴィッツらの反乱では旗頭となったため、反乱もカップ一揆と呼ばれる。スウェーデンに逃げて送還されるが、裁判の過程で目のがん(まれな病気)が見つかり、結審を待たず亡くなる。
カトゥコフ、ミハイル
Mikhail Yefimovich Katukov(Михаил Ефимович Катуков)
1900-1976
革命後に徴兵され、戦車兵として開戦時に旅団長。グデーリアンの正面で勇戦し、指揮する旅団に第1親衛戦車旅団の称号を受ける。クルスク戦以降は第1親衛戦車軍を率いて、終戦まで活躍する。映画「パットン大戦車軍団」ではパットンと互いに"son-of-a-bitch"と呼び合い、結局乾杯するシーンがある。最終階級は戦車兵元帥(元帥と上級大将の中間に設けられた階級で、もっぱら戦車部隊の専門家として扱われたことを暗示する)。
カニンガム、アーサー
Sir Arthur Coningham
1895-1948
オーストラリア生まれのニュージーランド育ち。第1次大戦でANZACに志願し、病気除隊後イギリスに渡って、陸軍航空隊に志願。9機撃墜、3機共同撃墜、飛行中隊長の少佐で終戦。この間、地上攻撃の経験も積む。ニュージーランドのマオリ族から連想した「マリー」がニックネームになる。
空軍准将で第2次大戦を迎える。第4航空隊(爆撃)は伝単ビラを夜間にまきに行くのが主任務で、ゆっくりと機種更新や都市爆撃作戦への対応が進む中、カニンガムは少将に進み、1941年7月にエジプトにいたテッダーの下で第204航空団を預かる。この航空団が改組されて西部砂漠空軍(WDAF)となる。爆装戦闘機を活用し、カニンガムの地上支援は次第に戦果を出す。中将に昇進し、第2戦術空軍司令官としてノルマンディー以降の地上支援を仕切る。
1948年、乗っていた旅客機がバミューダ海域で消息を絶つ。
カニンガム、アラン
Sir Alan Gordon Cunningham
1887-1983
砲兵士官であったが第2次大戦が始まると中将としてケニアに赴任。英領ソマリランド奪回やエチオピア攻略でイタリア軍を相手に勝利する。オーキンレックの下で第8軍司令官に補されるが、直後のクルセイダー作戦序盤で弱気を見せて解任され、以後は後方で勤務する。この小説に出てこない兄のアンドリューは海軍元帥(Andrew Cunningham, 1st Viscount Cunningham of Hyndhope)。
カムフーバー、ヨーゼフ
Josef Kammhuber
1896-1986
原隊は工兵。戦後はソヴィエトの演習場でパイロット訓練を受け、ヒトラー政権下では航空機生産計画を主導する。1940年1月から第51爆撃航空団司令。撃墜され捕虜となるがフランスとの休戦で解放。1941年8月に第12航空軍団長となるなど、レーダー部隊・サーチライト部隊・夜間戦闘機部隊を合わせ指揮する夜間戦闘の指導者として大戦前半のドイツの空を守った。1942年にイギリスが夜間爆撃を大規模化して飽和攻撃を仕掛けてくると、航空機搭載レーダーも加え夜間戦闘機が広域的に協力する新しい戦法が支持されるようになり、1943年初頭にカムフーバーは第5航空艦隊司令官に転出する。このころカムフーバーが「夜間戦闘機総監に任じられた」と書いてある本を見かけるがこれは逆で、夜間戦闘に関わる指揮権のほとんどを失って、実権のない夜間戦闘機総監職がしばらく残ったのである。
1945年3月、ヒトラーはカムフーバー中将を呼び戻して「対四発重爆戦闘特任官」としたが、実戦力は伴わなかった。1961年に大将昇進。
ガムラン、モーリス
Maurice Gustave Gamelin
1872--1958
第1次大戦終戦時は歩兵師団長。1931年からフランス陸軍参謀総長。アルデンヌにドイツが戦力を集めているという情報を誤伝もしくは工作だと切って捨てる。1940年5月に解任。ドイツ軍の収容所で終戦まで過ごす。
ガラシャー、ウィリアム
William Gallacher
1881-1965
1935年から1950年までイギリス下院議員であり、今のところイギリス共産党最後の国会議員。
フォン・カール、グスタフ
Gustav Ritter von Kahr
1862-1934
内務官僚として出世し、第1次大戦直後の混乱期に首相に担ぎ上げられ、政界に入る。もともとドイツ帝国ではプロイセン王国と残りの領邦との関係は国際条約のように互いの独立性に気を遣うものであったが、ドイツ帝国が倒れるとベルリン政府では社会民主党が中心となり、君主制と関連する伝統や領邦の自治権に昔ほど遠慮しなくなった(ようにバイエルンからは見えていた)。カールの属したバイエルン人民党は、こうしたベルリン中央政府の傾向に反発する勢力が集まったもので、カールは旧バイエルン王室に心を寄せ、君主主義者と言ってもよいほどであった。
ベルリンのカップ一揆が制圧されたのち、カールは再び登用されて強力な権限を委任される。彼の職名であるGeneralstaatskommissarは州総督などと訳されるが、本来バイエルン自由国憲法第64条があいまいに「いずれの大臣も」持つとしている、非常時に国民の権利を停止し、軍事力を行使する権限をひとりに集めたものであった。カールはミュンヘンの第7軍管区・第7師団を預かるロッソウ将軍と気脈を通じ、ベルリンからの解任命令を無視して対立姿勢を強めた。これを好機と見たヒトラーらがカールらを拘束し、共にベルリンへ行進し政権を打倒するよう迫ったが、その成功の見込みは小さいことをカールは感じていて、脱出したカールらはヒトラーの行進に発砲し、死者を出しつつ多くを拘束する。
だが、自分たちも威勢のいいベルリン批判をしていたことを市民は忘れておらず、ヒトラーには同情が集まる半面、カールやロッソウらはそれぞれ職を退かざるを得なかった。
1934年6月30日、レームらの粛正に合わせてカールも暗殺される。ヒトラーも党員たちがかばってやっと助かった発砲事件の記憶のせいか、カールは例外的に斧で殺された。
ガンツェンミュラー、アルベルト
Albert Ganzenmüller
1905-1996
実業学校生ながら1923年のミュンヘン一揆にも参加した古参NSDAP党員。工学を学びライヒスバーン職員となっており、東部戦線での路線復旧などに携わる。シュペーアと連携し、その推薦でライヒスバーン総裁代理兼運輸次官におさまり、ドルプミュラーを棚上げにして実務を掌握する。その結果、ユダヤ人輸送などに深くかかわることになり、アルゼンチンに脱出して恩赦を受け帰国する。その後も訴追が模索されたが実現せずに終わる。
カンネンベルク、アルトゥール
Arthur Kannenberg
1896-1963
ヒトラー邸の執事。もともとレストランやバーの経営者で、常連のゲーリングやゲッベルスが推薦して党本部食堂を任された。総統官邸はもとより、大本営やベルグホーフ山荘にも随行した。戦後は一般人になったためはっきりしないが、もとの食堂主に戻ったともいう。
フォン・キュヒラー、ゲオルク
Georg Karl Friedrich Wilhelm von Küchler
1881-1968
原隊は野砲兵。1934年に少将、1935年に中将、1937年に大将と急速に昇進する。フランス戦後に上級大将に進み、軍司令官を歴任する。1942年1月、北方軍集団のレーブ元帥が辞職すると後任になる。まもなく元帥に進んで、レニングラードの包囲が破られたことを契機に1944年1月に免職。
キルポノス、ミハイル
Mikhail Petrovich Kirponos(Михаи́л Петро́вич Кирпоно́с)
1892-1941
徴兵され衛生下士官としてロシア革命を迎える。冬戦争では歩兵師団長として活躍しソヴィエト連邦英雄受章。1941年1月、参謀総長となったジューコフの後任としてキエフ特別軍管区司令官となる。包囲されたキエフで指揮を執り、脱出の途中で戦死。
キング、アーネスト
Ernest Joseph King
1878-1956
1914年に駆逐艦長。有力艦の艦長ポストが回って来なかったことが影響したか、1920年代に大佐で転換訓練を受け潜水艦長となる。だが1926年に今度は航空部隊から転属を誘われ、特設水上機母艦の艦長などを務める。操縦訓練も受けたが下手であったという。以後は順調に出世し、空母レキシントン艦長を経て中将となったが、大戦直前には(1939年に61才)すでに閑職にあった。しかしアメリカ参戦前から、緊張下にあった大西洋の部隊指揮官に登用され、真珠湾でキンメルが失敗すると後任の合衆国艦隊司令官(COMINCI)となる。COMINCIの司令部はワシントンに置くこととされたが、軍令部長(CNO、作戦部長)との分担関係が問題となり、数か月後にキングが両者を兼ねる。以後終戦まで、アメリカ海軍を指導し続ける。最終階級は元帥。
クヴィスリング、ヴィドクン
Vidkun Abraham Lauritz Jonssøn Quisling
1887-1945
ノルウェー軍で有望な士官であったがロシア語に堪能で、戦間期の軍縮で人道支援業務に片道出向させられ、政治運動に傾く。しかし国会議員を出せず行き詰まり、1939年末、ドイツ海軍がノルウェー侵攻を提言したころ、ヒトラーに会う。その後、ドイツの侵攻と占領政策に協力し、1942年に現地政府の首相となる。敗戦後は国内法で裁かれ刑死。
クズネツォフ、ニコライ
Никола́й Гера́симович Кузнецо́в(Nikolay Gerasimovich Kuznetsov)
1904-1974
大粛清のせいで海軍首脳部がごっそり欠け、後を埋めた政治士官たちも実務能力がないので粛清され、1939年に34才で海軍人民委員に任ぜられる。戦後のスターリン時代末期に中将降等や解職があり、フルシチョフ時代に元帥に進んでジューコフ国防大臣の首席次官となるが、再び中将降等と解職を食らう。死後、ソヴィエト末期の1988年に元帥号を回復され、ロシア海軍の空母アドミラル・クズネツォフに名を残した。
クック、ジュリアン
Julian Aaron Cook
1916-1990
ウエストポイント士官学校卒業時に空挺部隊を志願。第82空挺師団とともに多くの降下作戦を経験し、ナイメーヘンでアヴェ・マリアの聖句を唱えながら敵前渡河を敢行したことで知られる。最終階級は大佐。オランダからナイトに叙された。
グデーリアン、ハインツ
Heinz Wilhelm Guderian
1888-1954
ハインツの曾祖父が法律家として成功し、一気に家格を上げて、現在のポーランド領ヘウムノに農園を買った。当時はポーランド分割のせいでプロイセン領であった。だから第1次大戦に負けて、グデーリアン家はこの家産を失うことになった。
祖父はプロイセン貴族地主がそうするように、一年志願制度を使って予備士官となったが、農場を経営した。父のフリードリヒ・グデーリアンは猟兵として出世し、少将で旅団長を務め、名誉中将として退役した。
グデーリアンの略歴は本編に譲る。グデーリアンがポーランドにヒトラーから農園をもらったことは、後年明らかになって「命令に従っただけの軍人」というイメージを傷つけた。1941年末に免職され、そこから復帰してからのグデーリアンは軍内政治家のような事績が目立ったが、細かい実戦的な指示も出しており、下僚の尊敬を集めていたのは確かであろう。戦車兵総監として(だいたいドイツ軍の総監職は訓練方法の指導者か参謀総長の顧問といった色彩のもので、実権を握るような立場ではない)相当な権限を与えられ奮闘したが、戦局が傾いていくのをどうにもできず、おそらくそれにつれてヒトラーの態度も冷たいものになった。1944年に陸軍参謀総長代理(ツァイツラーは病気休職扱い)となったが、ついに陸軍参謀総長にはならぬまま、敗戦直前に自分も解任された。
長男のハインツ・ギュンター(Heinz Günther Guderian 1914-2004)は終戦時には第116装甲師団作戦主任参謀。戦後もドイツ連邦軍に勤め少将で退役した。次男のクルト・ベルンハルトは北アフリカで捕虜になり、戦後もアメリカで暮らした。
クーパー、ダフ
Alfred Duff Cooper, 1st Viscount Norwich
1890-1954
1913年から外交官となったが、第1次大戦で徴兵され、勇敢な若手士官として殊功勲章(DSO)を受ける。戦間期に政界に転じ、1935年に陸軍大臣、次いで海軍大臣。ミュンヘン会議の融和策に反対して辞職。チャーチル内閣で登用されたが気質にあった職ではなく、次いでシンガポールに弁理公使(閣僚級外交官)として送られ、現地の防備を固めることを期待されたが遅すぎ、陥落の責任を取りに行った格好になった。大戦末期、ド・ゴールに対する連絡役(事実上のフランス大使)という難しい役目をこなした。
フォン・クライスト、エヴァルト
Paul Ludwig Ewald von Kleist
1881-1954
原隊は野砲兵(騎砲兵)。陸軍大学校を出てからは騎兵部隊の勤務が多くなる。終戦時は大尉。ヒトラー政権発足時は少将で騎兵師団長。大戦が始まると軍団長を務め、本編第23話で触れたように軍団司令部を活用して「クライスト装甲集団」を指揮する。第1装甲集団長としてユーゴスラビア・ギリシア方面で戦ったのち、ルントシュテットの南方軍集団に協力してソヴィエトに攻め込む(途中から第1装甲軍司令官)。1942年夏季攻勢ではA軍集団に属し、リスト元帥が解任されると後任の軍集団司令官となる。1943年2月に元帥。第1装甲軍をマンシュタインに渡し、A軍集団はしばらくもっぱらクバン橋頭堡とクリミア半島を指揮する。1944年3月、南ウクライナ軍集団への改称と同時に解任。戦後はソヴィエトに引き渡され獄中で死亡。
フォン・グライフェンベルク、ハンス
Hans von Greiffenberg
1893-1951
原隊は歩兵。戦間期に参謀教育を受け、開戦時にはOKH作戦担当参謀次長。独ソ戦ではボックの下で中央軍集団参謀長を務め、1942年春に呼び戻されて、後にA軍集団司令部となる秘密チームを指揮し、リスト司令官着任と同時に参謀長。1943年秋からハンガリー駐在武官に転じたが、離反を策するハンガリーを占領して後、グライフェンベルクがハンガリー全権司令官として占領軍を指揮し、終戦に至る。
クランツ
架空の人物。Sd.Kfz.223通信装甲車の車長をつとめる伍長として登場。
クリーク、グリゴリー
Григорий Иванович Кулик(Grigory Ivanovich Kulik)
1890-1950
ロシア帝国では砲兵下士官止まり。革命期から砲兵士官として重用され、ヴォロシロフなどスターリン政権下の要人たちとともに戦った。高慢で、高級士官としての実務能力がなかったことは多数の証言がある。いっぽうあまりにも不評な人物であり、戦後早々に粛清されてしまったことから、他人のミスの責任も死後にかぶせられている可能性がある。例えば1941年4月から5月にかけてT-34中戦車の生産を中止する指示が出され、ドイツ侵攻とともに取り消されているが、これもクリークのせいだという証言があり、おそらく(そんな権限も、口出しの機会もないので)誤っている。
ドイツとの開戦以来、前線・後方を問わずあらゆる任務に失敗し続け、クリミア戦線での失態で元帥から少将へ4階級降等・栄典はく奪という処分を食らう。それでも死刑だけは免れていたのだが、1946年に電話を盗聴され、政治家たちへの不満を口にしていたとして、1950年に処刑される。
クリップス、スタッフォード
Sir Richard Stafford Cripps
1889-1952
イギリス共産党は労働党とは別に存在し、わずかながら下院議員も出している。労働党から1931年に下院初当選を果たしたクリップスは、左派大連合を支持するなど最も共産党に近い幹部と目され、1939年初頭に労働党から除名される。チャーチル内閣が成立するとソヴィエト駐在大使として起用され、モスクワ防衛成功でイギリスでのスターリン人気が高まった中で帰国する。戦時内閣の一員となるがうまくいかず、1942年11月に戦時内閣を辞して航空機生産大臣となる。戦後もアトリー内閣の財務大臣などに起用される。
グリーンウッド、アーサー
Arthur Greenwood
1880-1954
労働党幹部で、アトリー労働党首とともにチェンバレン戦時内閣に入り、その月のうちに起きたハリファックスとの論戦で、アトリーとともに和平を断固拒否してチャーチルを助けた。1943年に内閣を辞し党務に専念する。
フォン・クルーゲ、ギュンター
Günther Adolf Ferdinand von Kluge
1882-1944
原隊は野砲兵で、カイテルと同じ連隊の同期。やや出世が早く、カイテルが師団長になったときその軍団長を務める。ボックに気に入られ、その下で参謀長などを務めることが多く、1941年のバルバロッサ作戦でもボックの下で第4軍司令官を務め、いろいろな立場でボックに対するグデーリアンの鋭鋒をいくらか引き受け、ボックの愚痴も聞いていた。そして12月、ボックの後任とされる。
1943年10月のクルーゲの「自動車事故」は、パルチザンの農婦が車のフロントグラスに牛乳をぶちまけたせいだと言われる。回復したクルーゲは、ルントシュテットに代わって西方軍総司令官とされロンメルの上司になったが、まもなくヒトラー暗殺未遂事件への関与が露見し、自殺した。
クレヴン、チャールズ
Sir Charles Worthington Craven, 1st Baronet
1884-1944
退役海軍中佐でヴィッカース社の重役であったが、1940年5月に数日だけ航空大臣を務めたサミュエル・ホーアから航空委員会委員に起用され、その後も航空機生産省に勤める。フリーマンが空軍参謀次長に転じてからは技術面でのまとめ役を期待されたが、そうした仕事向きの性格でなく、フリーマンの復帰をチャーチルに上申しつつ、1942年7月に辞職してもっと軽い立場に退いた。
グレーナー、ヴィルヘルム
Karl Eduard Wilhelm Groener
1867-1939
原隊は歩兵連隊。参謀士官として40才を過ぎて、1912年に初めて鉄道(工)兵大隊長を拝命する。以後、鉄道輸送のエキスパートとして頭角を現し、帝国総司令部野戦鉄道総監(まだ大佐であったので、おそらく当初はプロイセン参謀本部鉄道課長と併任)として大戦初頭の鉄道輸送を仕切る。1916年には早くも中将となってプロイセン陸軍省軍務局長(動員、訓練、兵器調達などを担当)、同時に陸軍大臣代理を兼ねる。ちょうど台頭してきたルーデンドルフ首席参謀次長と衝突し、師団長として前線に出る。この経緯もあって大戦末期、強硬なルーデンドルフが休戦交渉の障害になってくると、首席参謀次長の後任に補され、社会民主党などの政権奪取を軍として容認する責任者となる。敗戦後の短期間、ヒンデンブルクから最後の参謀総長を継承したあと退役。しばらく新政府で鉄道大臣を務め引退したが、政情不安から国防大臣に返り咲く。一時は内務大臣を兼務したが、より議会に対して強圧的なシュライヒャーが実権を持つと追い詰められ、内閣を去る。
クレブス、ハンス
Hans Krebs
1898-1945
原隊は猟兵。モスクワ駐在から独ソ開戦で帰国し、第9軍参謀長、次いで中央軍集団参謀長。この両方の機会でモーデルに仕え、短気な罵詈雑言に顔をしかめつつ信頼を得て、B軍集団参謀長として引っ張られる。1945年にOKH作戦部長としてグデーリアンの次席となり、終戦直前にグデーリアンが休職させられたため繰り上がってしまう。総統官邸の毒気に当てられたか、ヒトラーの死後に自殺を選ぶ。最終階級は歩兵大将。
クロッパー、ヘンドリック
Hendrik Balzazar Klopper
1903-1977
南アフリカ軍人。第2次トブルク包囲戦でロンメルの攻勢を受けそこない失陥。1943年に捕虜収容所脱走に成功したものの、前線には戻してもらえなかった。戦後に南アフリカ陸軍参謀総長。最終階級は大将。
ゲスラー、オットー
Otto Karl Geßler
1875--1955
市長から民主党国会議員となる。徴兵歴はあるが開戦時49才であり第1次大戦には出征しなかった。1920年から8年近く、連立政権の国防大臣(陸軍大臣)を務めた。その任期のほとんどはゼークト統帥部長とのコンビであった。そのことにより政党政治家たちからは「軍人たちに近い」と見られ、軍人たちはゼークトを辞任に追い込んだことを忘れてくれず、要職に就くことができなかった。ヒトラー暗殺計画でも周縁的なグループにいたため、収監されたが具体的に何もしていなかったので釈放された。戦後はバイエルン州議会で上院議員を務めた。
ケッセルリング、アルベルト
Albert Kesselring
1885-1960
バイエルン出身。原隊は重砲兵。1934年、ドイツ空軍の軍政面でのリーダーとされ、本人は嫌がったが命令されて空軍に移る。ヴェーファーの事故後に参謀総長となったがトラブルのある時期で短期間で辞職。第2次大戦前から航空艦隊司令官を歴任。1941年冬以降は第2航空艦隊を率いて地中海に転戦する。ある時期から「南方軍総司令官」としてOKWに属する形を取り、ヒトラーの代理人としてイタリア三軍と交渉する立場になった(陸軍系のスタッフがついたのはチュニジア戦末期から)。シシリー島からイタリア本土への撤退作戦を成功させてヒトラーの信頼を回復し、改めて南西軍総司令官として主に陸上部隊を指揮するようになる。大戦末期にはイタリアを離れ、多分にもう形式的ながら、ドイツ本土の西部戦線で大きな指揮権を与えられた。ローマを戦災にさらすことを避ける決断をしたことなどでイタリア人から助命の声があり、ニュルンベルク裁判では死刑を免れた。最終階級は元帥。
ケネディ、ジョセフ
Joseph Patrick Kennedy Sr.
1888-1969
その父(パトリック、マサチューセッツ州上院議員)の代から民主党幹部であり、アイルランド系市民の大立者だった。市場取引でも貿易でも成功し、ボストン民主党の大幹部としてルーズベルトを支援した。第2次大戦開戦時にはイギリス駐在大使で、ヒトラーとの宥和(ソヴィエトと共産主義への対抗)を主張した。イギリスを助けるルーズベルトの方針に沿った交渉はイギリスの駐米大使との間で進んでいたから、アメリカ世論の変化もあって、ケネディは本国の事情も知らずひとり相撲を取る形になった。筆禍事件もあり、1940年末にケネディは帰国を余儀なくされ、間もなくルーズベルトの新しい任期とともに解任された。ジョン・F・ケネディ大統領の父。
ゲーリング、ヘルマン
Hermann Wilhelm Göring
1893-1956
ユダヤ人ハーフの医師が名付け親となり、一種のパトロンとして力になってくれたので、幼少のころから上流の暮らしや会話に接する機会があった。自身も陸軍で立身し、第1次大戦終わりごろには撃墜王リヒトホーフェンの指揮していた戦闘航空団(同じ名前なのでこう訳すが第2次大戦の戦闘航空団の1/3程度の規模)を引き継ぐ。撃墜数22機はドイツ帝国陸海軍で55位。
戦後は曲芸飛行、遊覧飛行などフリーの飛行士として稼いでいたが、結婚を機に堅い職場を探し、ミュンヘンであらためて大学生になる。だがそこでヒトラーと出会う。突撃隊の指導者として若者たちをまとめたが、1923年のミュンヘン一揆で重傷を負い、オーストリアに脱出する。傷の傷みと、それをごまかすモルヒネ中毒(と肥満)に苦しむようになる。ようやく恩赦が下り、帰国してしばらくは党勢を大いに伸ばしたヒトラーに冷遇されたが、1928年から比例代表制の国会議員となる。再びハイソな対話能力を発揮したゲーリングは支持拡大に貢献する。そして1932年にパーペン内閣ができると、パーペンの古巣であり反発も強かった中央党まで賛成して、ゲーリングは国会議長となる。そしていきなり提出された内閣不信任案が、NSDAPと共産党の賛成で可決されてしまったのは有名な話。そして1933年1月にヒトラー政権が成立するまで、ヒンデンブルクとヒトラーのパイプ役はずっとゲーリングだった。
ヒトラー内閣当初、ゲーリングは無任所大臣でありプロイセン州内務大臣を兼ねる。すでにパーペン内閣がプロイセン州の自治権を奪い、閣僚を自由に任命していたのである。だからこれは、ベルリンを含む広大な旧プロイセンについて、ゲーリングに警察を任せるということだった。その後空軍省が創設され、ゲーリングは経済閣僚である4か年計画担当大臣と空軍大臣、空軍総司令官を兼ねたので、警察に関する権限はヒムラーに譲ることになり、子飼いの部隊となっていたゲネラル・ゲーリング連隊だけが空軍に移籍した。あまり知られていないが、空軍省ができる前にゲーリングは陸軍大将に任じられており、のち空軍で改めて航空兵大将に任じられる。
ゲーリングは英仏との戦争になることはないと高をくくっていたと思われるが、それを見抜いたヒトラーたちが、戦争も辞さない対外強硬策の相談からゲーリングを外していたとも言われる。
1938年ごろからミルヒ空軍次官への猜疑心がつのり、航空省技術局長に前大戦のパイロット仲間だったウーデットを据えたが、まったく行政能力がないので大戦中盤以降に新機種開発管理の失敗が表面化することになる。次第にヒトラーの信を失い、戦時経済統制の権限もシュペーアに食い荒らされる。
敗戦後、束の間モルヒネを絶って戦争裁判で最後の論陣を張り、さらに処刑を出し抜いて自殺した。
ゲルケ、ルドルフ
Rudolf Ernst Otto Gercke
1884-1947
Gerickeではないので検索注意。原隊は猟兵。第1次大戦中盤から参謀本部の鉄道工兵総監部に勤務。戦間期には「影の国防軍」に出た時期もある。OKH輸送総監であり、OKW輸送総監を併任(どちらからも指示が来るということ。つらい)。テスケによれば優秀だが病気がちで人嫌いなところがあり、そうしたことは次長格の戦時輸送課長(Chef der Feld-Transport-Abteilung、のちChef der Feldtransportleitung)が補わねばならなかったし、前線からの反発も受けた。
ケンプ、ヴェルナー
Werner Kempf
1886-1964
原隊は歩兵。海軍艦艇に乗り組む海兵大隊に転属し、第1次大戦ではフランデルン(フランダース)海兵軍団に属して西部戦線で戦う。戦間期には陸軍に属し、1929年に交通兵総監部の幕僚となって戦車兵コースに乗る。ヒトラー政権発足時には少佐に過ぎなかった。ポーランド戦では少将で、後に第10装甲師団の中核となる部隊群を率いる。ポーランド戦後に第6装甲師団長となりフランスで戦う。1942年夏までは軍団長として転戦。しばらく予備役となり、1943年2月にハウサーの独断撤退事件で解任されたランツの後任としてケンプ軍支隊を率いる。そのままクルスク戦を戦い、1943年8月に予備役。その後はあまり戦力のない司令部を短期間任されただけだった。
コズロフ、ドミトリー
Dmitry Timofeevich Kozlov (Дми́трий Тимофе́евич Козло́в)
1896-1967
ロシア陸軍では歩兵少尉。1937年に軍団長を解任され無役、そして教育職の時期があったが、フィンランドとの冬戦争が不調に陥ると軍団長に起用される。1941年初からカフカズ(コーカサス)軍管区(のち方面軍)司令官。1942年1月から新設のクリミア方面軍司令官。クリミア半島から追い落とされ、中将から少将に降格。第3次ハリコフ攻防戦当時は再起用されてヴォロネジ方面軍司令官代理になっていたが、宿敵マンシュタインからハリコフを守ろうとして果たせず、無念の撤退。中将には戻れたが、ついに方面軍や軍管区の司令官には戻れなかった。
ゴッドウィン=オーステン、アルフレッド
Sir Alfred Reade Godwin-Austen
1889-1963
K2峰周辺の探検で知られるヘンリー・ゴッドウィン=オーステン(1834-1923)は叔父。原隊は歩兵。歩兵師団長で大戦を迎え、クルセイダー作戦では軍団長。1942年初頭にロンメルが盛り返した際、第8軍のリッチーが軍団に属する師団にゴッドウィン=オーステンの撤退支持を直接取り消す命令を出したため辞表を提出。以後は前線で指揮権を与えられることはなかった。
コラー、カール
Karl Koller
1898-1951
第1次大戦ではバイエルン陸軍航空隊の下士官パイロット。戦間期にはバイエルン州警察飛行隊に所属し、グライダー飛行の名手として世界的に知られる。警察で飛行術教員などとして出世し、大尉で空軍に参加。半年の短期課程を修了したあと、偵察機乗りとして順次昇任し、開戦時には少佐で第3航空艦隊作戦主任参謀。1941年新年からコルテンの後を継いで参謀長に昇格。1942年のチャンネルダッシュ成功で騎士十字章。コルテンが空軍参謀総長を引き受けたとき、参謀本部作戦部長としてコルテンに請われ、抵抗空しく異動。1944年7月にコルテンが爆死してからはその後任。ヒトラーの自殺直前、既にベルヒデスガーテンに脱出したゲーリングへの使者として官邸を出されたため、生き延びる。イェションネックとコルテンは語ることができなかったので、大戦後半の空軍首脳部の様子はコラーの証言が頼りにされることがある。最終階級は航空兵大将。
ゴリコフ、フィリップ
Filipp Ivanovich Golikov(Фили́пп Ива́нович Го́ликов)
1900-1980
ソヴィエト侵攻時の赤軍情報部長。あきらかな失態であり解任されたが、米英との援助交渉に派遣され、帰国すると野戦軍司令官に任じられ、1941年末に始まる反撃作戦で一定の戦果を挙げた。しかしヴォロネジ方面軍を指揮していた1942年夏にドイツの攻勢を正面から食らって防げず、軍司令官に降格された。その後奮戦して再びヴォロネジ方面軍を指揮した1943年早春、第3次ハリコフ攻防戦の北半分を担当して指揮を批判され、以後は後方の職に就いた。政争で際立った動きをすることもなく、フルシチョフが失脚した1966年まで共産党中央委員会委員にとどまった。
ド・ゴール、シャルル
Charles de Gaulle
1890-1970
英雄になりたいド・ゴールは子供のころから筆が立った。第1次大戦の捕虜収容所から帰ってくると手柄を立てる戦場はなかなか現れず、佐官のころは論客のように、行政職や教員職に就きながら著書を出す。いよいよ戦雲たなびいてくると、著作のおかげか戦車連隊長を任される。苦戦の中でも奮闘し、レイノー政権の国防次官として迎えられ、すぐチャーチルへの交渉役としてロンドン常駐になる。英仏間の最後の交渉の中でレイノー内閣、その後継となったペタン内閣と対立する結果となり、そのままイギリスが推すフランス亡命政府代表のようになる。1942年、アメリカが推すジロー将軍と自由フランス政府の共同代表になるが、すぐ権力闘争に勝つ。以後、終戦直後まで政権を握るが、旧来の政治家が大挙復活してくると野に下り、有力政治家として機会をうかがう。論客であるド・ゴールは駆け引きの細かい議会政治ではのし上がれず、1956年に植民地アルジェリア離反の危機に、大統領の権限を強化する憲法改正を議会に呑ませる交渉を経てフランス大統領となった。
じつは軍での階級は准将どまりであった。ただし第2次大戦まで、フランスの将軍たちの階級は英米軍に比べると低く、階級扱いされない元帥号を現役将軍たちに与えることで不釣り合いを補っていた。
フォン・コルティッツ、ディートリヒ
Dietrich von Choltitz
1894-1966
原隊は歩兵。第22歩兵師団で中佐・大隊長であったとき、シュトゥデントの指揮下でロッテルダム降下作戦に参加し、フランス戦後は連隊長として師団とともにクリミア半島で戦い、クレタ島に撤収。しかしコルティッツは1942年夏、代理としてデミヤンスクで戦う第260歩兵師団を預かり、少将昇進。後任者着任後予備役に戻り、1942年12月、マンシュタインの戦線をミウス川で支える第17軍団長代理(ホリト軍団長がホリト軍支隊を率いたため)として赴任。中将昇進。バルクの後任として近隣の第11装甲師団を引き継ぐが、早くも5月には第48装甲軍団長。第4装甲軍に属してクルスク戦を戦う。1944年初頭、短期間イタリア戦線で第76装甲軍団を率いる。7月にはマルクス軍団長の戦死した第84軍団を短期間率いて、8月1日パリ防衛司令官任命と同時に歩兵大将昇進。ヒトラーのパリ焼尽指令を無視("パリは燃えているか")して有名になる。最終階級は歩兵大将。
なおコルティッツの就いたパリ防衛司令官(Kommandierenden General und Wehrmachtbefehlshaber von Groß-Paris)の肩書き後半は、管轄地域の軍民への裁判権を持つことを示し、例えばノルウェー国防軍総司令部のファルケンホルストやその後継者たちはこの肩書きと権限を持っていた。ヒトラー暗殺未遂事件で逮捕されたシュツルプナーゲルが持っていた「軍政長官」は Militärbefehlshaberで、これは別に後任者が当てられている。コルティッツ着任前にはWilhelm Georg Gustav Botho Rudolf Hans Reichsfreiherr von Boineburg-Lengsfeldというカタカナにするのも面倒な中将がKommandante von „Groß-Paris“を務めていた(計画に関わっていたがバレずに大戦を生き抜く)。この人は第23装甲師団長としてスターリングラード包囲以降のカオスを戦い、病身となって西部戦線に転じたもので、1940年8月から1943年4月末まではErnst Schaumburg中将がKommandante von „Groß-Paris“であった。
パリ防衛司令官の実戦力として、1942年8月31日に第325保安師団が発足した。当初は師団長が補されていたが、Boineburg-Lengsfeld着任時からKommandante von „Groß-Paris“が師団長を兼ねることとされた。
コルテン、ギュンター
Günther Korten
1898-1944
原隊は非貴族をほとんど採らないとされるプロイセンの野砲兵連隊。日本人にはわからない名家なのかもしれない。しかし採用は大戦中で、すぐ工兵大隊に出されて敗戦までそこだったから、単に採用事務を引き受けただけかもしれない。1915年に少尉、1925年にやっと中尉。少佐で空軍に転じて、1年制の参謀士官コースに入れてもらってようやくエリートとなる。オーストリア空軍がドイツ第4航空艦隊に改編されるとその参謀長となる。フランス戦途中で第3航空艦隊参謀長、後の大量昇進で少将。このポストでバトル・オブ・ブリテンを戦ったのち、第4航空艦隊参謀長に戻ってバルカン戦役を戦い、次いで南方軍集団を支援する。1942年から第1航空軍団長として北方軍集団支援に転じるが、マンシュタインの司令部と共にスターリングラード救出作戦支援に転じ、軍団ごと「ドン航空司令部」と一時改称。この間に航空兵大将。1943年夏にしばらく第1航空艦隊司令長官を務めたあと、誰もやりたくないイェションネック参謀総長の後任を押し付けられる。いくつか新機軸も打ち出したが総じて時すでに遅く、1944年7月20日事件で爆死。
ザイス=インクヴァルト、アルトゥル
Arthur Seyß-Inquart
1892-1946
弁護士から政治活動に入る。ドルフス首相とは協力していた時期もあった。オーストリアNSDAPでは比較的穏健な指導者と見られていたが、シュシュニック首相の後任とされたあと、オーストリア進駐では(おそらく)進駐の要請者として名前を使われた。そのまま旧オーストリアの国家代理官となり、大戦中はポーランドやオランダで占領地行政に関わった。この過程でユダヤ人迫害など様々な非人道的行為の責任者となったため、ニュルンベルグ裁判を経て処刑された。
サイフレット、エドワード
Sir Edward Neville Syfret
1889-1972
いわゆる砲術屋のキャリアをたどり、1942年8月のペデスタル作戦で部隊指揮官。1943年から終戦直後まで海軍参謀次長。最終階級は大将。
サイモン、ジョン
John Allsebrook Simon, 1st Viscount Simon
1873-1954
自由党の政治家。1931年にマクドナルドが連立内閣(挙国一致内閣、 National Government)を組むと、自由党を率いて加わり、外務大臣となる。しかし1933年、保守党の保護貿易論に党議拘束されるのを嫌って自由党議員の大部分が野党化してしまう。続くチェンバレン内閣でもサイモンは重職を歴任したが、チャーチルはチェンバレンの側近であったサイモンを子爵に列し、貴族院議長(当時は大法官でもあった)として戦時の意思決定から遠ざける。
サーモンド、ジョン
Sir John Maitland Salmond
1881-1968
実兄のジョフリーも空軍大将(戦間期に死去)なので注意。1930年からイギリス空軍参謀総長。1933年の総長退任を前に空軍元帥。航空機生産省などで役職に就いたがビーヴァーブルックと、また別の観点でダウディングと意見が合わなかった。
シコルスキ、ヴワディスワフ
Władysław Eugeniusz Sikorski
1881-19433
オーストリア軍人としてポーランド独立運動に参加。新生ポーランド軍ではソヴィエトとの戦争で活躍し参謀総長も務めたが、ピウスツキと対立しフランスに渡って政治活動を続ける。ポーランド陥落後パリで、次いでロンドンで亡命政権を指導する。1943年に事故死。
シチェメンコ、セルゲイ
Sergei Matveevich Shtemenko( Сергей Матвеевич Штеменко)
1907-1976
赤軍の騎兵士官であったが、2年コースの本格的な参謀課程が開設されるにあたり、嫌がる本人を引きずるように受験させられ、参謀士官となった。連隊長など一国一城の主を望む士官が圧倒的に多く、進学後も周囲で、そして本人も、元のキャリアに戻すよう嘆願が相次いだという。
イラン方面など中東を担当する参謀本部員として開戦を迎え、アントノフの後を継いで1943年5月から作戦課長。戦後政争に巻き込まれ、中将まで2度降等され、大将に3度昇進するという経歴となったのは、世界史上まれであろう。上級大将・ワルシャワ条約機構軍参謀総長が最後の顕職となった。
英語表記をもとに日本語でシュテメンコと綴られることもあるが、Штеの発音はシチェに近いように思われる。
シドレー、ジョン
John Siddeley, 1st Baron Kenilworth
1866-1953
立志伝中の人物。シドレー社は高級車メーカーに始まり、エンジンを皮切りに航空機産業に進出した。70才を迎えたころ、すべての事業を順次ホーカー社と合併させ経営から退いた。ケニルワース男爵に叙され、クラレンドン伯爵家からケニルワース城を取得したが、ジョンの死後に寄付されてイングリッシュ・ヘリテッジが管理している。
シニロフ、クズマ
Kuzma Romanovich Sinilov(Кузьма Романович Синилов)
1902-1957
ドイツ軍の脅威が迫った時期にモスクワの治安を預かる。最終階級は中将。
シャハト、ヤルマール
Horace Greeley Hjalmar Schacht
1877-1970
ライヒスバンク(ドイツ中央銀行)総裁などを歴任した銀行家。ドイツへの賠償支払い圧力と戦う役回りを続け、ヒトラーのNSDAPとも協力していたが、やがて赤字財政に歯止めがかからなくなって対立し、実権を失った。このような経過から、「ヒトラーの協力者」として罪を受けるべきかについては評価が分かれている。ニュルンベルク裁判では無罪となった。
ジューコフ、ゲオルギー・コンスタンチーノヴィチ
Георгий Константинович Жуков(Georgy Konstantinovich Zhukov)
1896-1974
貧しい靴職人の家に生まれる。小学校に2年通うと、優等証を持って伯父の毛皮職人へ徒弟に入った。暴力と理不尽に耐えて職人になったころ、第1次大戦で徴兵され騎兵となった。下士官に選抜されて、革命後に赤軍に入隊。1923年に連隊長、1930年に旅団長。騎兵総監部勤務を経て、1933年から師団長。作業でなまった師団を鍛え上げ、対抗演習にあちこちから呼ばれるようになる。ノモンハン事件で軍団長格として指揮を執り、成功を収める。1940年6月、労農赤軍で最も格上とされるキエフ特別軍管区を任される。
1941年1月、ジューコフも参加した会議と机上演習があり、メレツコフ参謀総長の説明に不手際があって、スターリンはジューコフを参謀総長に任ずる。
ドイツとの開戦後、ジューコフは参謀総長を辞して、方面軍司令官またはSTAVKA代表として実質的に方面軍の指揮権を奪い、スターリンと緊密に協議して最も切迫した戦線を任されるようになる。スターリンにジューコフほど直截に反論する軍人はいなかったが、コーニェフと張り合わせるような配置をするなど、スターリンからの圧力も強く、ジューコフも部下にしばしば厳罰を加えた。
戦後しばらく、スターリンに疎まれる。スターリンの死の直後、ベリヤは大きな権力を握るが、数か月後にベリヤを逮捕する際、ボディガードたちが信用できないため、腕力でベリヤを圧倒できるジューコフが現場に呼ばれた。
大戦期から旧知のフルシチョフはジューコフを厚遇したが、核兵器と通常兵器の予算配分を巡って対立し、ジューコフは再び迫害を受けた。ブレジネフ時代になってようやく自伝が刊行され、映画『ヨーロッパの解放』でもジューコフの原稿が参考にされたと言われる。
3人の娘はすべて母親が違った。ジューコフとブジョンヌイのアコーディオン演奏を両方聞く機会を得たシチェメンコは、後者を激賞している。
シュシュニック、クルト
Kurt Alois Josef Johann Schuschnigg
1897-1977
ドルフスを継いだオーストリア首相としてヒトラーのオーストリア併合に抵抗。ドルフスを継いで強権的な政治を行ったが、カトリック教会の支持を受けていることがNSDAPとの大きな違いである。併合後は政治犯として収容所生活に耐え、1945年まで生き延び救出される。戦後は長くアメリカで政治学を講じる。
フォン・シュタインメッツ、カール
Karl Friedrich von Steinmetz
1796-1877
プロイセンのドイツ統一戦争で活躍した将軍。普仏戦争で第1軍司令官を務め、1870年のグラヴェロットの戦いで独自判断の攻撃命令を出して大損害を出すなど、命令に従わない行動が多く、戦争中に総督職に左遷される。
フォン・シュツルプナーゲル、カール=ハインリヒ
Carl-Heinrich Rudolf Wilhelm von Stülpnagel
1886-1944
同姓の将官たちも一緒に解説する。原隊は第115歩兵連隊(ヘッセン大公近衛第1)。ベックの下で『作戦指揮』の執筆に関わる。1938年から1940年までハルダーの作戦担当参謀次長。ソヴィエト侵攻で第17軍司令官として南方軍集団に加わり、10月に辞職。その経緯は人種政策への反対とも、面従腹背を疑われて先回りの辞職とも言われる。フランス軍政長官としてヒトラー暗殺計画に関与し、露見して処刑される。最終階級は大将。
オットー・フォン・シュツルプナーゲル大将(1878-1948)はカール=ハインリヒと曾祖父同士が兄弟。交通兵総監としてグデーリアンの上司であったことがあり、『電撃戦』で考えが古いと書かれている。第2次大戦でも後方の職に就いていた。オットーの兄エドウィンも歩兵大将であったが1933年に死去したので登場しない。第9話に登場する「防衛スポーツ」の全国団体で会長をしていた。ヨアヒム(1880-1968)も歩兵大将であり、じつは開戦早々、予備軍司令官に補されるところであったが、ヒトラー批判を口にして数日で解任された。つまりヨアヒム・フォン・シュツルプナーゲルがフロムの代わりに予備軍司令官になって1944年7月20日を迎えたかもしれないのである。ヨアヒムの高祖父(曾祖父の父)、オットー・エドウィン兄弟の曾祖父、カール=ハインリヒの曾祖父は3人兄弟である。
シュトゥデント、クルト
Kurt Arthur Benno Student
1890-1978
原隊は猟兵。パイロット訓練を受け、大戦では6機撃墜のエースとなったが負傷により前途を絶たれる。戦間期には陸軍で航空隊復活の日を待っていた。開発や教育のポストを行ったり来たりしていたが、大戦で第7飛行師団長を拝命(少将)。初めて降下猟兵部隊を指揮する。1940年にロッテルダムに降下して負傷(中将)。1941年に軍団長(降下猟兵大将)。1944年に第1降下猟兵軍司令官。のち上級大将。H軍集団司令官。1945年に3か月の待命を経てシュトゥデント軍集団司令官、第1降下猟兵軍司令官、ヴァイクセル軍集団司令官。その司令部を引き継いだ翌日、アメリカ軍に司令部を急襲されて捕虜となる。最終階級は上級大将。
シュトラッサー、グレゴール
Gregor Strasser
1892-1934
フライコーアに参加したがカップ一揆のあと民族的な政治運動に転じ、弟のオットーとともにNSDAPに合流して幹部となった。政党としての組織づくりに熱心で、ハンザ同盟以来ユダヤ人人口も多い北西ドイツを含めて、バイエルン以外の全土に党勢を伸ばすことに貢献した。もともと別組織の主であり独自の政治的発言も多く、シュライヒャー政権のころ、ヒトラーとのすき間を突かれて党の乗っ取り謀議に乗り、パーペンの裏切りで露見して党の役職を失い、全権委任法が可決されると議員としても辞職した。もともと薬剤師であり、その後は製薬企業を経営していたが、1934年の「長いナイフの夜」に暗殺された。
オットーはもっと早くヒトラーたちと対立し、1930年に党を追放され、海外から反NSDAP活動を続けていたので暗殺を免れ(莫大な賞金はかけられた)、戦後は帰国して政治活動をしたが、もともと反共産主義・反ユダヤなどNSDAPと重なる主張を持っていたので、ネオナチの分派のように扱われた。本編には登場しない。
シュトレーゼマン、グスタフ
Gustav Ernst Stresemann
1878-1929
後世のイメージは平和の使徒に傾きがちであるが、20世紀初頭から大戦中にかけて所属した国民自由党の指導者フリードリヒ・ナウマンは弱肉強食の国家間競争を説いて「リベラル帝国主義者」とも評された人物である。シュトレーゼマン自身もルーデンドルフの強権政治を肯定的に評価するなど、ルール占領で政治危機が訪れるまで、社会民主党と組んで政権に参加するチャンスはなかった。
ルール危機への抵抗を中断するなどいくつかの重要な決定を下し、その後は主に外務大臣として英仏との妥協を重ね、関係を安定させてノーベル平和賞を受けた。
シュナウファー、ハインツ
Heinz-Wolfgang Schnaufer
1922-1950
大戦が始まってから空軍に志願し、双発戦闘機乗りとして基礎訓練から多発機転換訓練をこなしていると1941年夏になっていた。すでに双発戦闘機は1940年のイギリス上空で暗い未来を予感させられており、シュナウファーは夜間戦闘機部隊への誘いに乗る。カムフーバーが地上レーダーに戦闘機を誘導させている間はヒヨッコ士官に飛行機会が回らなかったのだが、イギリスが1000機爆撃を始めるとそうも言っておれず、ようやく1942年6月に初撃墜を記録する。斜め銃を駆使してスコアを上げてきたのは大戦後半で、終始ムラが大きく、ランカスター重爆撃機を9機落とした夜もあった。イギリスの爆撃機乗りからは「サン=トロン(ジントトロイデン)の幽霊」と呼ばれたという。最終スコアは121機。クールに大戦を生き抜いた英雄も、交通事故であっけなく逝った。
シュニーヴィント、オットー
Hubert Maria Otto Schniewind
1887-1964
日本海軍で言えば水雷屋。初任艦は軽巡ライプチヒだったが、第1次大戦ではもっぱら魚雷艇などの小艇に乗り、スカパ・フローでの有名な戦利艦自沈にも参画。終戦時は大尉。ヒトラー政権成立時には中佐で軽巡ケルン艦長。1938年から海軍参謀総長。1941年のビスマルク喪失後、大型艦の戦隊司令に転出し、ドイツの大型艦が封じ込められた1943年からは北方集団司令官を兼ねる。ヒトラー暗殺未遂事件の直後に職を解かれ、終戦直前に海軍からも追われる。最終階級は上級大将。
シュネー、アダルベルト
Otto Adalbert Schnee
1913-1982
主にU-201艦長として1942年8月までに商船19隻を撃沈。最新のXXI型Uボートを任されたが、出撃翌日に終戦となった。
シュタイナー、フェリックス
Felix Martin Julius Steiner
1896-1966
原隊は歩兵。1年志願兵であったから、戦争がなければ予備士官として社会に出ていたと思われる。前大戦は中尉で終戦。ヒトラー政権ができると少佐で軍を退き突撃隊に転じる。やがて転じた親衛隊でも変わらず、「新たな国防軍を育てる」ことに取り組む。
ポーランド戦まで、シュタイナーはドイッチュラント連隊を率いて戦う。その属する親衛隊特務師団がダスライヒ師団とヴィーキング師団に分かれると、シュタイナーはヴィーキング師団の初代師団長として南方軍集団で戦い、1942年にもコーカサスで戦う。ディートリッヒとハウサーの軍団に続いて第3SS装甲軍団ができると、シュタイナーは1943年3月にその指揮を取る。軍団はユーゴスラビアから北方軍集団に転戦したが、シュタイナーは病気で後送され、1945年1月末にゾンネンヴェンデ作戦のために再設置された第11軍司令官に登用される。書類の上で「シュタイナー軍集団」が新設されたが実戦力はほとんどなく、ヒトラーが命じた攻撃が実施できなかったので有名な4月22日のチクショーメ事件が起きる。罷免されたのでアメリカ軍に降伏できた。最終階級はSS大将。
シュペーア、アルベルト
Berthold Konrad Hermann Albert Speer
1905-1981
建築家一族に生まれ、若手建築家であった1931年にNSDAPへ入党。ヒトラーに気に入られ、首都建設総監などに重用される。1942年2月、トートの事故死で軍需大臣を引き継ぐ。以後ヒトラーの信任を背景に、空軍や国防省兵器局が割拠していた産業統制・労働統制に辣腕をふるい、鉄道政策にも介入して、生産増大に大きな役割を果たす。
ユダヤ人絶滅政策や、戦時の過酷な強制労働について「知らなかった」「関与しなかった」といった主張が後に疑わしいとされた。たしかにヒトラーたちの思想的な同志とは言い難い来歴であるが、不利な事実を意図的に隠した跡が多数見つかったことから、少なくとも倫理的には評価しづらくなった。戦後の早い時期には高く評価されることもあったが、今世紀に入ると良くないイメージが定着した感がある。
シュペール、フーゴー
Hugo Sperrle
1885-1953
原隊は歩兵。陸軍大学校に進み飛行訓練を受ける(操縦訓練も受けたかどうかははっきりしない)。航空部隊指揮官や高級司令部の航空幕僚を歴任し大尉で終戦。ヒトラー政権成立時には中佐。空軍に移り、スペイン内乱に介入するコンドル義勇軍では航空隊を指揮。1938年から1944年7月末まで第3航空艦隊司令官。
グラーフ・フォン・シュポネック、ハンス
Hans Emil Otto Graf von Sponeck
1888-1944
原隊は近衛歩兵第5連隊。しばらく空軍で航空管区司令官をしていたためか、陸軍復帰後に空輸師団である第22歩兵師団を任される。1940年春にはデン・ハーグ降下作戦を指揮するが、Ju52輸送機をピストン輸送に使う構想がうまくいかず現地を逃げ回る羽目になる。軍団長としてクリミア半島で戦っているとき、マンシュタインの第11軍司令部と連絡がつかないままソヴィエト軍の攻撃を受け、独断で退却命令を出して問題となり、禁固刑を受ける。1944年のヒトラー暗殺事件で、党幹部が「国防軍への復讐」を提案し、ヒムラーの命令で射殺される。最終階級は中将。第90アフリカ軽師団長としてチュニジアで捕虜になったKarl Anton Theodor Graf von Sponeck中将はいとこにあたる。
シュミット、ルドルフ
Rudolf Schmidt
1886-1957
原隊は歩兵。通信科に転じて、第1次大戦中の速成課程で参謀士官となる。中尉で終戦。その後も通信関係の職が多かったが、1935年に補給・輸送担当参謀次長(OQu III)。1937年に第1装甲師団長。フランス戦では第39軍団長として第9装甲師団などを率いてオランダに侵攻。フランス戦のうちに装甲兵大将に昇進。対ソ戦で第39軍団はホト装甲集団に属し、11月にシュミットはヴァイクスの病気休養により第2軍司令官に転任。そしてグデーリアンが第2装甲軍司令官を免じられるとその後任となる。1943年春、ツィタデル作戦の原型を提案した軍人たちのひとりであったことが近年わかってきた。
1943年、戦前からフランスのスパイだった弟が逮捕され、ヒトラー批判をつづった手紙が発見されたため、シュミットは軍を追われる。民間人となったシュミットは1947年、家のあったソヴィエト占領地区を旅行しているうち経歴が露見し、指揮下部隊の戦争犯罪などでソヴィエトで強制労働刑を受ける。1955年に解放されたが健康を害しており、1957年に亡くなる。
シュムント、ルドルフ
Rudolf Schmundt
1896-1944
原隊は歩兵。少尉のまま連隊副官を務めて終戦。つまり陸軍大学校にあたる短期課程にはやってもらえず、しかし「連隊長殿の命令をお伝えしますっ」と少尉が大隊長に言う難しい役目はうまくこなせた。戦間期も副官勤めが多かったが、1929年にようやく秘密陸軍大学校の入試を通った。1931年にようやく大尉。1938年1月、総統付き首席副官。ヒトラーに心酔し、その意味では適任だった。前線を視察して実質的な調整に当たることもあり、「副官」でありながら大戦中に中将まで昇進した。
1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件で重傷を負い、そのまま回復せず10月に死亡。死後歩兵大将に昇進。
フォン・シュライヒャー、クルト
Kurt Ferdinand Friedrich Hermann von Schleicher
1882-1934
原隊はフォン・マンシュタインやフォン・ハマーシュタイン=エクヴォルトと同じ第3近衛歩兵連隊(プロイセンの近衛歩兵連隊は貴族士官候補生しか受け入れない)。陸軍大学校を経て参謀本部に出仕したとき鉄道課を志願し、グレーナー鉄道課長に長くかわいがられる機縁となる。第1次大戦中に一部軍需企業の戦時利得が大きすぎると指摘して、社会民主党のエーベルトと縁ができる。エーベルトと最後の参謀総長グレーナーの縁を結んだことは、いわゆるワイマール共和国が円滑に滑り出す条件のひとつを作った。大戦が終わるとゼークトの、次いでゲスラーを経てグレーナー国防大臣の懐刀として政治工作にあたる。ヒンデンブルクの大統領令に頼って政治を行うブリューニング内閣以降はますます権勢を増し、ついにグレーナーの実権を奪ってパーペン内閣を操り、そして自分が首相となる。しかしヒンデンブルクの信頼が離れると後はもろく、パーペンによるヒトラー政権擁立に敗れる。その翌年、レームが粛清されるのに合わせて殺される。最終階級は歩兵大将。
グラーフ・フォン・デア・シュレンブルク、フリードリヒ
Friedrich Bernhard Karl Gustav Ulrich Erich Graf von der Schulenburg
1865-1939
従弟の外交官でヒトラー暗殺未遂事件で処刑された次項の人物と紛らわしい。原隊は第2近衛重騎兵連隊。1916年からヴィルヘルム皇太子軍集団参謀長。戦後、名誉少将で退役。1931年にNSDAPに入党し、突撃隊幹部であったが弾圧は免れ、親衛隊に移って最終階級は親衛隊大将。1938年に陸軍でも名誉騎兵大将。
グラーフ・フォン・デア・シュレンブルク、フリードリヒ=ワーナー
Friedrich-Werner Erdmann Matthias Johann Bernhard Erich Graf von der Schulenburg
1875-1944
1941年のソヴィエト侵攻時にモスクワ駐在ドイツ大使だった。トルコ国境で解放されてからは実権あるポストにつかなかった。ヒトラー暗殺クーデターが成功したら新政権に参画することになっており、関係が露見して処刑された。
ジョインソン=ヒックス、ウィリアム
William Joynson-Hicks, 1st Viscount Brentford
1865-1932
イギリス保守党の政治家。1924年から29年まで内務大臣。
ジョッフル、ジョゼフ
Joseph Jacques Césaire Joffre
1852-1931
第1次大戦開戦当時のフランス陸軍総司令官。専門は要塞工兵だが植民地を転戦し野戦でも功を挙げる。後から見ると攻勢重視であるだけでなく、訓練と闘志の重視は精神主義の傾向もあり、序盤でドイツに火力負けを喫した責任者のひとりとなる。元帥号を受けたがこれは階級ではなく、最終階級は少将。
フォン・ショーベルト、オイゲン
Eugen Siegfried Erich Ritter von Schobert
1883-1941
原隊は歩兵。しばらく飛行船部隊に転科していたこともあるが、第1次大戦中ついに参謀課程に進まず野戦で過ごした。戦間期にはしばらくフライコーアに属し、やがて軍に戻っても「黒い国防軍」を担当した。この時期のヒトラーにも共鳴していたと言われる。第14話に取り上げられた人事は、参謀士官でない少将・師団長の誕生であった。独ソ戦では南方軍集団で第11軍司令官として戦線最南端を担当したが、クリミアにとりついたばかりの1941年9月、搭乗する連絡機が地上からの銃撃にあったものか、ソヴィエト軍の地雷原で高度を落として、不時着とともに爆死した。その後任としてセバストーポリ攻略に取り組むことになったのが、マンシュタインである。
ジョンソン、ジョージ
Sir George Frederick Johnson
1903-1980
第201近衛機械化歩兵旅団戦闘団がトブルクに退却したとき、前任戦闘団長が要塞外に取り残されてしまったため、本国から指揮官として呼び寄せられた。トブルクで捕虜になったが脱走。最終階級は少将。
ジロー、アンリ
Henri Honoré Giraud
1898-1946
歩兵士官。戦間期の仏領北アフリカでたびたび起きた争乱鎮圧を指揮して、1936年に大将。第7軍司令官として収監されたが1942年4月に脱走し、ヴィシー・フランス統治区域まで逃れる。ペタン政権は引き渡しを拒み、ジローはアメリカからの接触を受けて、トーチ作戦後のフランス北アフリカ植民地軍を指揮するためアフリカに渡る。自由フランス軍と二頭立てのようになってしまうが、ド・ゴールと共同議長ということにして指揮権問題を先送りにする。1942年のコルシカ島上陸をめぐって政治的失点があり、これを転換点としてゆっくりと実権が失われ、1943年11月に辞任を申し出るに至る。戦後は回想2冊を執筆したほかは、健康問題があってあまり活発ではなかった。
スヴェチン、アレクサンドル
Александр Андреевич Свечин(Alexander Andreyevich Svechin)
1878-1938
日露戦争では参謀士官として満州第3軍司令部で勤務。第1次大戦では少将まで昇って革命を迎える。大粛清で1938年に刑死。
スクリムジャー、エドウィン
Edwin ''Neddy' Scrymgeour
1866-1947
酒類禁止を主な主張とするスコットランド禁止党( Scottish Prohibition Party)の出した唯一の当選議員。1922年の総選挙でチャーチルに勝ち、1931年まで議席を維持した。
スターリン、ヨシフ
Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин(Iosif Vissarionovich Stalin)
1878-1953
巧みに味方を作って敵を囲む、密室政治のマスタープレイヤー。単にデモやストを先導するだけでなく、徒党を率いて脅迫や暴力で活動資金を稼ぐ活動に長いこと従事する。レーニンはスターリンを重用しつつ、その粗野さを嫌ったが、総合的な生存能力で彼をしのぐ幹部はいなかったので、スターリンは独裁者となる。
政権を掌握するにつれ、スターリンはレーニンがいったん必要悪として受け入れた富農や商人(いわゆるネップマン)を計画経済化に伴って圧迫し、弾圧する(彼らは農業指導者層でもあったので、大飢饉が伴う)。その波が去った後、スターリンはエジョフ内務人民委員による大粛清を黙認し、その弊害が明らかになるとエジョフを免じてベリヤに引き継がせる。その手続きは明らかではないが、おそらく要職にある者の訴追リストは事前に裁可が仰がれていたと思われる。ソヴィエト崩壊後、ジューコフの暗号化され隠されていた遺稿が娘によって公開されたが、そこにはベリヤによるジューコフ訴追案がスターリンに示され、スターリンが「奴は思うところがあれば俺に直言する。謀反など起こすものか」と訴追を却下していた(とジューコフが後で知った)ことが記されていた。
一代で成り上がったスターリンには与党勢力がいない。そして人を信じない。そんなスターリンが最も恐れ嫌うのは、誤った情報をつかまされることである。その観点から言えば、誰もが認める無能なヴォロシロフや、かつてはたぶん有能であったブジョンヌイも、「スターリンのために全力で正直な報告をする」という意味で耳目として使われ続ける。そして膨大な情報をスターリンは自ら決裁し、勤勉な独裁者として大戦を過ごした。
チャーチル、スターリン、ヒトラーに共通することはほとんどないが、遅寝遅起きであったことは数少ない共通点のひとつである。
スティムソン、ヘンリー
Henry Lewis Stimson
1867-1950
フーヴァー大統領の国務長官であり、ルーズベルト大統領の陸軍長官(1940年から)。
スパーツ、カール
Carl Andrew Spaatz
1891-1974
スパーツの綴りは一般的ではないが、これは苗字をたびたび「スパッツ」と発音されることに業を煮やした妻と娘の意向で、わざわざaを増やして確実にスパーツと読んでもらえるようにしたのだそうである。
第1次大戦では陸軍航空隊の一員として渡欧し、3週間の実戦に過ぎなかったが3機を撃墜。1935年に指揮幕僚大学校へ進むが、それまでのキャリアは現場……というか空中に終始していたし、とくに爆撃に偏っているわけでもなかった。だがそうした、良い意味でこだわりのない目が航空燃料というドイツのボトルネックを引き当てたと言えるかもしれない。スパーツの肩書は組織変更を伴って目まぐるしく変わったが、1944年1月からの遣欧合衆国戦略航空部隊(USSTAF)司令官としてドイツへの戦略爆撃を指導し、ドイツの航空燃料を絞り上げたことが最大の功績であろう。最終階級は大将。
フォン・ゼークト、ハンス
Johannes Friedrich Leopold von Seeckt
1866-1936
原隊はアレキサンドル皇帝擲弾兵第1連隊。すでに地主ではなかったが軍人貴族の家系である。第1次大戦ではマッケンゼン将軍の第11軍参謀長、のちマッケンゼン軍集団参謀長として東部戦線で活躍。大戦後半にはオーストリア=ハンガリー帝国やオスマン帝国に派遣される。
敗戦後のドイツ軍で参謀総長に当たる地位を得るが、1923年のカップ一揆で反乱軍を武力制圧することを拒否したため上司が辞め、陸軍総司令官に当たる統帥部長となる。
政治家に軍の内部へ介入させない姿勢を取り続けたため緊張は強く、プロイセン王家の王太孫ヴィルヘルムが帝政時代の軍服でライヒスヴェーアの演習を見学した1926年の事件で政権との関係が破たんし、ゼークトは辞職する。すでにヒンデンブルク大統領の時代であったが、陸軍大学校も出ていないヒンデンブルクは、参謀士官の親玉として軍を政府から切り離し統治するゼークトを良く思っておらず、かばい立てしなかったともいわれる。1930~1932年にはドイツ人民党(シュトレーゼマンの率いた政党)から国会議員となる。1936年に亡くなるまで、蒋介石政権を支える軍事顧問団に深くかかわる。
フライヘア・フォン・ゼッケンドルフ、エリッヒ
Erich Erwin Heinrich August Veit Freiherr von Seckendorff
1897-1944
原隊は騎兵。第1軽機械化師団(のち第6装甲師団)で自動車化歩兵連隊やオートバイ大隊に勤務し、独ソ戦初期には自動車化歩兵連隊長。1943年から後方で訓練部隊を率いていたが、1944年に新設された第113装甲旅団長となり、フランス南東部でアラクールの戦いに敗れ戦死。最終階級は少将(死後昇進)
ソサボフスキ、スタニスラウ
Stanisław Franciszek Sosabowski
1892-1967
母子家庭の一番上の子として、ピウスツキのポーランド軍には加わらず、きちんと給与の出るオーストリア軍に残り、精勤して生き残り終戦時には少佐にまでなった。その後もポーランド陸軍に勤め、第2次大戦では第8歩兵師団第21歩兵連隊長としてワルシャワ防衛戦に参加。降伏後単身脱走して地下活動に加わったがドイツの締め付けが強く、亡命政権に支援を求めるためフランスへ脱出。炭鉱出稼ぎ労働者などから作られた自由ポーランド軍の士官となるがフランスも敗亡してイギリスに脱出。イギリスに都合よく部下たちを使われないために、「いつか祖国に降下する」空挺旅団に全員で変わることを思いつくが、自分も降下訓練を受ける羽目になった。
その後も自分の栄転をエサに部隊をイギリス軍に組み込もうとする悪いイギリス人たちを峻拒し続けたが、ついに断り切れなかった1944年のマーケット・ガーデン作戦で大敗。そのスケープゴートのつもりか、亡命政府にも手を回されて左遷された。戦後は労働者として脱出してきた家族を支えた。最終階級は少将。映画『遠すぎた橋』ではジーン・ハックマンが演じた。
フォン・ゾーデンシュテルン、ゲオルク
Georg von Sodenstern
1889-1955
原隊は歩兵。第2次大戦ではC軍集団参謀長から、フランス戦直前にA軍集団参謀長。そのままルントシュテットに従って南方軍集団参謀長。そのままライヒェナウ、ボック、ヴァイクスに南方軍集団・B軍集団で仕え続ける。B軍集団はロンメルが引き継ぐまで後方で部隊再編のために存続していたが、1943年夏にそれを離れて南フランスの第19軍司令官に転じる。1944年6月のうちに解任され、以後登用されなかった。最終階級は歩兵大将。
ソッピース、トム
Sir Thomas Octave Murdoch Sopwith
1888-1989
ソッピース社の創業者にして、長くホーカー=シドレー社の会長を務める。ソッピース社が第1次大戦の戦時利得のイメージを持たれてしまったため、社名に自分の名前を使うことはやめてしまった。会長在職中の1934年、ヨットマン兼スポンサーとしてアメリカズカップに出場し惜敗するなど、スポーツ万能であった。
ソベニコフ、ピョートル
Pyotr Petrovich Sobennikov(Пётр Петрович Собенников)
1894-1960
騎兵総監代理を務めるなど騎兵系の参謀士官として栄達。独ソ戦初頭の混乱期に、北西方面軍(概ね、バルト三国)の中でソベニコフの第8軍は比較的戦力を残して後退したこともあり、7月3日に前任者が左遷されると後任司令官となる。だが反撃作戦は成功せず、8月に早くも軍司令官に戻され、スモレンスクで包囲されかかり脱出に成功する。この後退などを軍法会議に問われ、恩赦されたが大佐に降格。しばらく参謀勤務ののち1942年11月から軍司令官代理として前線に復帰。このポストのまま終戦まで奮戦して中将。戦後は主に教育職を歴任。
ゾルゲ、リヒャルト
Richard Gustavovich Sorge
1895-1944
ドイツ人の父とロシア人の母を持つ。ドイツで育ったが戦間期に共産党員となり、モスクワに移住してソヴィエトのスパイとなる。上海で暗躍したあと任地を日本に移し、日本でNSDAPに入党しオット駐日大使一家の信用も得て、ドイツのソヴィエト侵攻を察知して知らせたがスターリンに無視される。しかし日本が南進に傾き対ソ侵攻しないことを知らせ、これは他の情報源と共に、スターリンが極東の部隊をモスクワ防衛に転用する判断に貢献する。1941年10月、特高に逮捕されて正体が露見し、1944年に処刑される。大粛清を経た時期であり、上司も処刑されていて、仮にソヴィエトに戻れた場合の運命は定かでなく、逮捕直前のゾルゲもドイツに「戻る」道を模索していた。
ダウディング、ジョン
John Charles Keith Dowding
1891-1965
第1次大戦では応召したが、商船乗りの海軍予備員(RNR)。ダンケルクでは特設臨検船(旧式客船)を率いて兵員後送に従事。准将・船団指揮官として大西洋を往来。連番がつく前の最初の対ソヴィエト輸送船団も率いる。なお准将は戦時階級であるが退役時までそのままだった。
ダウディング、ヒュー
Hugh Caswall Tremenheere Dowding, 1st Baron Dowding
1882-1970
原隊は砲兵。草創期の陸軍航空隊に転籍(当時は、パイロット資格が士官の転籍に必須)。飛行隊指揮官などを歴任し、1930年からAMSR(空軍補給・開発責任者)として新機種開発全般を指導する。1936年から1940年まで戦闘機部隊指揮官として、1940年にはバトル・オブ・ブリテンを主導。
チャーチルは彼を高く評価したが、寡黙でとっつきにくく、時にウエメセで、同僚・上司としては困った面もあった。特に若いポータル参謀総長を頂いた1940年秋以降、チャーチルがダウディングを元帥に進めたり要職につけようとしたりするのに対し、空軍は徹底的に抵抗して、これを阻止した。そのことについての議論は、大いに不満であった本人も加わって、戦後も尽きない。
ダラディエ、エドゥアール
Édouard Daladier
1884-1970
フランス急進社会党の政治家。1938年から1940年まで3回目の内閣を主宰した。ミュンヘン会議でチェンバレンと歩調を合わせ、第2次大戦序盤の戦争指導を行った。1940年3月に辞任したのは、英仏が支援にもたつく間にソヴィエトがフィンランドを打ち負かしてしまったためで、続くレイノー内閣でも国防大臣にとどまった。休戦後はドイツに抑留された。戦後も代議院(下院)議員として長く務め、ド・ゴールの権限掌握に反対した。
チェンバレン、ネヴィル
Arthur Neville Chamberlain
1869-1940
ほとんど登場しない父ジョゼフ・チェンバレンと異母兄オースティン・チェンバレンもあわせて解説する。ジョゼフ・チェンバレンは自由党の政治家であったが、グラッドストン党首と対立して保守党との連立内閣に参加した。この時期、第2次ボーア戦争に深くかかわったジョゼフが戦費調達のため帝国内特恵関税(保護貿易)を提唱したことは、次の代でネヴィルとチャーチルの関係に影を落としていく。
第9話で詳説したように、ジョゼフの事業を任されて失敗したネヴィルはイギリス本土でやり直し、バーミンガム市長として頭角をあらわすと国政に転じる。年の離れた異母兄オースティン・チェンバレンは保守党幹部のひとりになっており、その対立者であるボナー=ローが若いネヴィルを重用し、後継者のボールドウィンも要職で処遇する。1937年にボールドウィンから首相と保守党首を継ぎ、1929年以来入閣できなかったチャーチルとは光と影のように対照的な職歴を積む。
1940年5月、ノルウェー戦線の不振をきっかけとして議会の信を失い、労働党と挙国内閣を作るためチャーチルに首相を譲る。まもなく末期の大腸がんが見つかり、1940年11月に死去。
チャーチル、ウィンストン
Sir Winston Leonard Spencer Churchill
1874-1965
マールボロ公爵家の三男坊の長男。父ランドルフはテレビもラジオもない時代に、大衆をあおる演説がうまく保守党の人気者だったが、派閥の領袖と言った意味での政治力はなく、借財を残して死んだ。騎兵士官となったウィンストンは父の借財と自分の贅沢をまかなうため、転戦先のことを書いて出版し人気を得る。特に第2次ボーア戦争で捕虜収容所から脱出したエピソードは話題性が高く、1900年に下院初当選を果たす。
日本の高校教科書にも載っている1846年の穀物法廃止は保守党のピール首相が主導したが、ピールは分派して保守党を出なければいけなくなった。保守党は保護貿易、自由党は自由貿易に傾く傾向は多くの例外があったが、チャーチルも父譲りの自由貿易論者であり、ついに保守党を出ることになってしまう。第2次ボーア戦争への批判は、自由党への追い風でもあった。
自由党はその勢いを失った後も、第1次大戦まで連立政権の主役を保った。チャーチルは次第に有力閣僚となり、1911年には海軍大臣となって大戦を迎える。
1915年のガリポリの戦いは、チャーチルを辞職に追い込む。陸軍士官として従軍を希望したチャーチルは、大隊長として前線で半年間を過ごす。
いっぽうロイド=ジョージは軍需大臣として弾薬増産で実績を挙げ、陸軍大臣に転じたあと、戦争指導の実権を握るべくビーヴァーブルック(当時は授爵前)の仲介で保守党幹部のボナー=ローと手を結び、アスキスは辞職してロイド=ジョージが組閣した。少し冷却期間を置いて、ロイド=ジョージはチャーチルを1917年7月に軍需大臣に起用する。
その後のチャーチルは戦争遂行と戦後処理を担当する閣僚を次々に歴任したが、戦後の厭戦ムードの中ではそれは逆風で、チャーチルは落選する(第2話)。この時期にマクドナルドが初めての労働党内閣を立て、ソヴィエトとの関係改善を図ったので、社会主義への警戒ムードが強まった。これはチャーチルの持論と合致したから、チャーチルは離党して保守系無所属で当選し、のちに保守党への復党を認められる。
ボールドウィン内閣でチャーチルは財務大臣の要職を与えられて喜ぶが、それは「いま誰がやっても難しい」とネヴィル・チェンバレンが先に蹴った職だった。金本位制復帰の責任者となったチャーチルは、ポンド切り上げに端を発するゼネスト鎮圧にも一役買うことになり、立場をなくしていく。そして下院議席は守るものの、入閣できない時期が1929年から1939年まで、実に10年続く。この間、1936年にエドワード8世が離婚歴のあるシンプソン夫人と結婚を望んだ問題で、チャーチルはエドワード8世を擁護するが賛同議員を集められず、エドワード8世の退位によって収拾される。このことは、吃音症に悩むヨーク公爵アルバート(ジョージ6世)に即位を押し付ける結果となり、のちにチャーチルとの関係に影を落とす。
そして第2次大戦が起き、チャーチルが戦時の指導者として意識されるようになり、海軍大臣としての復帰が実現する。ノルウェー戦線の不振をきっかけにチェンバレン内閣への与党内の不信が顕在化し、1940年5月、まさにドイツのフランス攻撃を控えたタイミングでチャーチルに組閣の大命が降下する。
チャーチルは大戦を戦い抜き、1945年に日本からの勝利直前の総選挙で労働党に負け、ヤルタ会談の途中でアトリーと首相を交代する。
戦後、チャーチルはもう一度首相になるが、老衰の進行は明らかで、1955年に退任。
チャトフィールド、アーノル
Ernle Chatfield, 1st Baron Chatfield
1873-1967
1916年のユトランド沖海戦では巡洋戦艦ライオンの艦長。1933年から第1海軍卿(軍令部総長)。1939年2月から防衛統括大臣。1940年5月に辞任することでチェンバレンと合意したが、次のポストを相談している間にチェンバレン内閣が倒れたため、じつは個別に辞任していない。
チャーノ(チアノ)、ガレアッツォ
Gian Galeazzo Ciano, conte di Cortellazzo e Buccari
1903-1944
1922年のローマ進軍当時、すでにムッソリーニの支持者であった。ムッソリーニの婿であり若き外務大臣。講和の道を探ろうとしてムッソリーニから外務大臣の任を解かれバチカン大使としてローマにいたが、ファシスト大評議会の議席は持ったままだった。1943年7月、ムッソリーニを事実上解任する決議に賛成。
8月、まだバドリオ政権は連合軍との交渉を隠していたが、チャーノ一家はドイツに保護を求める。だがドイツはイタリアの降伏を見てチャーノをムッソリーニ政権に引き渡し、娘のたびたびの強訴にもかかわらず、ムッソリーニはチャーノを処刑せざるを得なかった。
チル、クルト
Kurt Chill
1895-1976
戦間期は警察官として過ごす。少佐として陸軍に復帰し、ポーランド戦では歩兵大隊長。第122歩兵師団長としてデミヤンスク包囲戦などで活躍し1943年に騎士十字章。1944年2月、フランス海岸防備のため新編成された第82歩兵師団に転任。結局敗走を強いられるが、師団残余などがマーケット・ガーデン作戦を阻むチル戦闘群となって時間を稼いだことで知られる。大戦末期に東部戦線で軍団長をしていたためいったんソヴィエトの捕虜となるが、イギリス軍が指名して引き渡しを受けたため1947年に解放される。
ツァイツラー、クルト
Kurt Zeitzler
1895-1963
原隊は歩兵。前大戦終戦直前に中尉。戦間期に参謀教育を受け、1928年に大尉、1934年にやっと少佐。以後総合政策局に配属される。大戦が始まると大佐でクライスト軍団の参謀長。そのまま第1装甲軍参謀長までクライストに仕える。1942年2月、ルントシュテット元帥のD軍集団(OKWに対し、西方軍の二枚看板)参謀長。1942年9月24日、突然呼び出されたツァイツラー少将は(ヒトラーとはD軍集団参謀長補任前に会っている)、大将に進級のうえ陸軍参謀総長に任ぜられる。このときからツァイツラーはOKW首脳を「総統の言いなり」だとみなし、東部戦線については「ヒトラー陸軍総司令官にOKHが報告する」という建前で、ヨードルたちを作戦協議から排除する。
ツァイツラーは全般的には無益に、スターリングラードの第6軍の脱出などを進言し続け、コーカサスのA軍集団についてはかろうじて脱出許可を引き出す。クルスクでの攻勢については、ヒトラーがすべて命じたというかつての通説と異なり、マンシュタインなどとともに積極的に支持したのではないかと言われる。敗戦とともに口論は際限なく続き、1944年6月にソヴィエトのバグラチオン作戦が始まって間もなく、ツァイツラーは病気で倒れる(口論の果てに、病気ということにして解職されたとも言われる)。間もなくヒトラー暗殺未遂事件が起き、何となく関与を疑われたまま終戦。上級大将であったが、大尉で中隊長を経験してからはずっと幕僚だった。
ツェンカー、ハンス
Hans Paul Volkmar Zenker
1870-1932
巡洋戦艦フォン・デア・タン艦長としてユトランド沖海戦に参加。1924年から1928年までライヒスヴェーア海軍統帥部長。ローマン事件で辞職。なおライヒスヴェーアはドイツ共和国陸海軍を指し、陸軍だけを呼ぶときはライヒスヘーアであった。
ティザード、ヘンリー
Sir Henry Thomas Tizard
1885-1959
イギリスの科学者。燃料のオクタン価に関する基礎研究から政府の仕事をするようになり、レーダーの研究を主導した。夜間誘導装置GEEとパスファインダー部隊の導入に当たっては、ハリスの抵抗を受ける側に回った。
ディートリッヒ、ヨーゼフ
Josef "Sepp“ Dietrich
1892-1966
ゼップ(Sepp)はJosefという男性に対するよくある愛称。ちなみに、Josefにあたるイタリア語の人名はGiuseppeであり、愛称としてBeppoがよく使われるので、ヨーゼフ・シュミット空軍中将にはベッポとあだ名がついていた。
第1次大戦では捕獲マークIV戦車に乗り戦車兵を務める。1925年にNSDAP職員となったが、党員となったのは1928年になってからである。ヒトラーの知己を得てSSでの地位を高め、1933年にベルリンでディートリッヒが立ち上げた小部隊は数か月後にLAH連隊となり、名目的にはSSの総統護衛司令部を指揮下に置くこととされた。以後もヒトラーからの庇護とヒムラーとの緊張が危ういバランスを取り続け、大戦に入ってもLAHはSSの中でやや浮き上がった存在として、それでも拡大を続ける。LAHが師団に昇格した後、ディートリッヒはさらに第1SS装甲軍団長、第6SS装甲軍司令官と累進し、士官教育を受けていない弱みをさらしながら、終戦間際に降伏するまで権威を保ち続ける。最終階級はSS上級大将。
ティモシェンコ、セミョーン
Семён Константинович Тимошенко(Semyon Konstantinovich Timoshenko)
1895-1970
第1次大戦では騎兵連隊の機関銃隊で曹長。上官を殴って公判中に革命が起きる。その後はブジョンヌイの下で騎兵指揮官として出世し、1935年には最精鋭とされるキエフ軍管区司令官をつとめる。1940年の冬戦争で初期の不出来な戦闘のあと、北西方面軍が編成されてあらためて部隊が増援され、ティモシェンコが方面軍司令官として有利な講和を勝ち取る。1940年5月、元帥、国防人民委員。
1941年のドイツ侵攻直後、ティモシェンコはSTAVKA「議長」を命じられるが、スターリンを差し置いて重要事項を決めるわけにいかず、スターリンが気を取り直してSTAVKA最高司令官となった。
大戦序盤においてはブジョンヌイやヴォロシロフと同格の最高位司令官として処遇され、独断でキエフからの撤退を許可しようとしたが、現地司令官のキルポノスがモスクワに照会してしまったので実現しなかった。1941年冬にはジューコフにすっかりヒーローとしての地位を奪われ、1942年のハリコフ方面での攻勢はティモシェンコにとって巻き返しの機会だったが、同じ方面で攻勢を企図していたドイツ軍に逆襲され大敗する。その後も主にウクライナ方面でスターリンのSTAVKA代表として現地指導に当たったが、スターリンが物資や増援を重点的に回す戦線にはジューコフかワシレフスキーがいたので、精彩を欠く軍歴となった。
戦後は軍管区司令官など、大戦序盤の職歴には不釣り合いな任命が多かった。ブレジネフ時代になったばかりの1965年、再度ソヴィエト連邦英雄を受章した。最初の受章はフィンランドからの勝利に対してであったから、1944~1945年に16人の将帥(スターリン自身とアイゼンハワー、モントゴメリーを含む。スターリンなど3名は短期間に2回受章)に贈られた勝利勲章以来の顕彰であった。
ディル、ジョン
Sir John Greer Dill
1881-1944
第30話の会話内にちらっと名前が出るだけの将軍。第1次大戦では評価の高い参謀士官だった。第2次大戦直前、中将であったが大陸派遣軍司令官の候補、それと関連して陸軍参謀総長候補になった。イギリス首脳部の意見は割れたが結局どちらも回って来ず、大陸派遣軍所属の軍団長としてフランスに渡った。ドイツの攻勢が始まる直前、偶然にも陸軍参謀次長に補され、フランス戦の引責で参謀総長が代わると後任になった。だが典型的イギリス紳士であったためチャーチルとの会話が弾まず、チャーチルはディルをアメリカに常駐する米英合同参謀本部の代表団長とした。そして典型的イギリス紳士であったため、アメリカ陸海軍や大陸派遣部隊の中心となる陸軍航空隊の間で意見対立があると、公平な仲裁者として働き尊敬を受けた。その地で病死。最終階級は元帥。
テヴォシアン、イヴァン
Иван Федорович Тевосян(Ivan Fyodorovich Tevosian)
1902-1958
造船や金属産業関係の閣僚を歴任し、1956年には駐日大使。
デーゲンコルブ、ゲルハルト
Gerhard Degenkolb
1892-1954
デマグ社(1トンハーフトラックなどを生産。現在は事業ごとにばらばらに売却され、クレーン部門は日本のタダノの子会社となっている)の技術者であったが、1940年以降フリッツ・トートに西方諸国の産業再編責任者として登用される。1942年にシュペーアにより機関車生産責任者とされ、戦時機関車52型と42型の開発と量産を成功させる。V2号ロケットの量産立ち上げにも関わる。戦後はしばらくデマグ社に戻って働く。
テスケ、ヘルマン
Hermann Teske
1902-1983
戦間期にライヒスヴェーアの士官候補生として採用され、1936年にようやく公然化した陸軍大学校に進んだ。大戦が始まったときは第5歩兵師団の補給主任参謀として西部戦線にいた。第12歩兵師団作戦主任参謀に転任してフランス戦を戦い、輸送総監部のスタッフとして追加訓練を受けて第17軍司令部の輸送全権士官、次いでフィンランド輸送全権士官を経て、1943年初めから中央軍集団司令部付きの輸送監となった。大佐で終戦。戦後は著書2冊を出版したほか、編集者として、また出版業に携わって軍関係者の回想などを盛んに世に出した。
トーヴィー、ジョン
John Tovey, 1st Baron Tovey
1885-1971
1941年、戦艦ビスマルクを撃沈した当時のイギリス本国艦隊司令長官。最終階級は元帥。
トート、フリッツ
Fritz Todt
1891-1942
NSDAPの古参党員で、アウトバーン建設総監などを経て1940年から兵器弾薬担当大臣。ゲーリングらの政治的既得権に斬り込むことはできなかった。1942年に事故死しシュペーアが登場する。
トゥピコフ、ヴァシーリー
Vasily Ivanovich Tupikov (Василий Иванович Тупиков)
1901-1941
戦間期に赤軍に入り、キルポノスの参謀長としてキエフで戦死。最終階級は少将。
ドーズ、チャールズ
Charles Gates Dawe
1865-1951
クーリッジ大統領の副大統領(1925-1929)。ドイツの賠償を緩和するドーズ案を取りまとめた。
トハチェフスキー、ミハイル
Михаил Николаевич Тухачевский(Mikhail Nikolayevich Tukhachevsky)
1893-1937
ソヴィエト労農赤軍のエース。若くして大軍を指揮し、理論家として教則類の整備にも腕を振るった。優秀すぎ、また第2話に登場するようにスターリンとの因縁があって、いわゆる大粛清期に罪を着せられ殺されてしまう。
生前であっても、もちろんその時代の軍人として政治情勢上許される意見、また支持しなければいけない意見もあったから、その著作全体に合理的な筋が通ると決めてかかると、理解しづらい点もある。
フォン・トラップ、ゲオルク
Georg Ludwig Ritter von Trapp
1880-1947
オーストリア=ハンガリー帝国海軍士官。水雷艇乗りであったが潜水艦長に転じて地中海で戦い、フランス装甲巡洋艦レオン・ガンベッタを撃沈。イタリア潜水艦ネレイデと互いに魚雷を撃ちあい、彼は外し我は当てるという稀有の戦果を挙げる。通商破壊戦の時期になると、商船11隻を撃沈して総トン数では帝国第1位となる。
最初の妻アガーテは魚雷の発明者ロバート・ホワイトヘッドの孫娘で、莫大な資産があった。戦後は時々雇われ船長を引き受けるだけで暮らせたが、アガーテは病死し、障害のあった娘のためにつけた家庭教師マリアに子どもたちがなつくので求婚する。
ホワイトヘッド家の親族が関係する銀行ラマースバンクに資産を移していたところ、1935年に美術品取引に失敗して破たんし、ほとんどの資産を失う。マリアの叱咤で、家族合唱団として仕事を始め評判をとる。1938年、家族はアメリカに逃れる。ヒトラーとカトリック教会の悪い関係が出国を促したと言われる。
この夫婦は、ときに感情を爆発させるマリアと温厚なゲオルクの組み合わせで成り立っていた。1947年にゲオルクが死ぬとマリアと子供たちの関係がきしみ、合唱団は活動困難になる。宿屋経営の収入を補おうとマリアは自伝を書き、映画化権も売って、映画『サウンド・オブ・ミュージック』が生まれる。マリアはいくつかの歪曲に不満で訴訟も起こしたが、もちろんマリアも相当に美化して描かれている。
ドルフス、エンゲルベルト
Engelbert Dollfuß
1892-1934
貧しい両親を持ち、正式な結婚による子ではない。オーストリアで法学を学んで農政官僚となり、農民への社会保障に取り組んで政界に入る。反ユダヤ主義とムッソリーニ風の国家社会主義を支持していたが、多数派が現れない国政混乱の中で首相となり、全権委任法に近い法律を通して収拾しようとしたが、NSDAPの現地メンバーにより官邸を襲撃され、殺された。
フォン・トレスコウ、ヘニング
Henning Hermann Karl Robert von Tresckow
1901-1944
典型的な地主・軍人貴族一族に生まれる。妻の父は第1次大戦時の参謀総長ファルケンハイン、ボック元帥は妻のいとこ。第1次大戦のあといったん軍務から退くが、やがて軍人に復帰してエリート街道に戻り、ルントシュテットのA軍集団司令部ではマンシュタインを応援する。やがてヒトラーへの抵抗グループを組織し、1938年のミュンヘン危機でヒトラー排除を企てたベックらのグループと連携する。1944年のヒトラー暗殺失敗で、わざと危険な「偵察」に出て戦死。最終階級は少将。
トレンチャード、ヒュー(初代トレンチャード子爵)
Hugh Montague Trenchard, 1st Viscount Trenchard
1873-1956
歩兵少佐だった1912年、操縦を習って39才で航空隊に転じる。もともと決して独立空軍推進者ではないのだが、陸軍航空隊の指揮官としての実績から初代空軍参謀総長を引き受ける。いったん転任して、第3話に登場したときは2回目の空軍参謀総長。下級士官のころから人と衝突しがちで、第1次大戦末期に戦略爆撃を担う独立航空隊司令官になったのも、空軍参謀総長(1回目)を辞職したあとポストなしにもしておけないという消極的な理由だった。当時のトレンチャードは歴戦の歩兵として、むしろ地上支援に積極的だった。イギリス空軍初の空軍元帥であり、子爵となってからは貴族院における空軍問題のコーディネーターでもあった。2度目の空軍参謀総長は、チャーチル航空大臣がトレンチャードと仲の良くない前任者を気に入らずトレンチャードを再登用したものであった。チャーチルからの評価も高く、第2次大戦ではニューウェル空軍参謀総長をポータルに交代させるとき、サーモンド元帥とともに裏で動いたと言われている。いろいろなポストを断り続け、第2次大戦ではついに新たな公職につかなかった。
トロツキー、レフまたはレオン(筆名、本名はレフ・ダヴィドヴィチ・ブロンシュテイン)
Лев Дави́дович Тро́цкий(Lev Davidovich Trotsky)
1879-1940
ウクライナのユダヤ系富農の家に生まれる。学生の身で労働運動に関わり、19才で逮捕され、獄中でレーニンと知り合い、二度のシベリア流刑と二度の脱出を経て、文筆、編集、組織指導といった様々な政治活動を続ける。1910年にプラウダ編集長たるトロツキーと、ロシア社会民主労働党の主導権を握ったレーニンはいったん手を結んだが再び決裂し、レーニンたちは同名の新聞を発行し始める。第1次大戦まで、トロツキーはしばしばレーニンが望むより広い範囲の勢力を糾合しようとして、そのたびに不一致が顕在化した。
第1次大戦が始まるとロシアの活動家たちはドイツなどの中央同盟国にいられなくなり、トロツキーもスイスに移る。このころレーニンもトロツキーも、戦争継続に反対し帝政打倒を目指すことで一致していた。トロツキーは国外追放を繰り返してアメリカにいたが、1917年に2月革命の報を聞いて帰国を企て、曲折があったがロシアでかつて活動した仲間が新政府を動かし、帰国がかなう。そして国内闘争ではレーニンを助けて組織者として活躍する。1918年初頭にドイツ軍と小競り合いを経験した新生赤軍は未熟であり、トロツキーは軍事(のち陸軍・海軍)人民委員として、ロシア職業軍人の協力も仰いで新しい労農赤軍を組織し、内戦を切り抜けていく。
しかし1924年、レーニンが死去したときには、レーニンのナンバーツーを長年争ってきたジノヴィエフ、多数派工作に長けたスターリンが義弟のカメーネフと連携してトロツキーを孤立させていた。1929年に国外追放されるまでじりじりと権限を削られたトロツキーは海外で文筆活動を続けるが、1940年ついに暗殺される。
ナフィールド子爵ウィリアム・モリス
William Richard Morris, 1st Viscount Nuffield
1877-1963
子爵位は1938年から。自転車販売・修理店員から出発して自動車会社モリス・モータースを興す。有能な経営者として実績があったが、大戦勃発と同時に立ち上げた航空機修理組織CROとイプスウィッチ城の航空機工場はいずれもうまくいかず、ビーヴァーブルックによって国営に移された。M&Aで容赦なく儲けたが篤志家でもある。
ニューオール、シリル
Cyril Louis Norton Newall, 1st Baron Newal
1886-1963
フリーマンと同世代の空軍士官。中東で知遇を受けたスウィントン航空大臣の下で重用され、1937年から空軍参謀総長。敗勢のフランスにイギリス空軍をつぎ込まなかった功労者ともいえる。1940年秋の退役については、もちろん重責を3年間担ったことは考慮されたであろうが、諸説がある。退役時に元帥。
大戦期間のほとんどをニュージーランド総督として過ごす。
ネーリング。ヴァルター
Walther Kurt Joseph Nehring
1892-1983
原隊は第152歩兵連隊。1923年、復活した秘密陸軍大学校の一期生。1932年、ルッツ自動車部隊総監のもとで、グデーリアン参謀長に次ぐ主任参謀となる。ポーランド戦~フランス戦ではグデーリアンの率いる第19軍団で参謀長。少将・第18装甲師団長として独ソ戦に参加。1942年5月に中将・ドイツ=アフリカ軍団長(当初は代理)としてトブルクを陥落させ大将昇進。負傷から回復するとチュニジア戦線に火がついており、アルニムの下で働く。12月に本土へ戻され、第24装甲軍団長、さらに第4装甲軍司令官として1944年夏にバラノフへの撤退を成功させる。終戦直前には第1装甲軍司令官に起用される。最終階級は戦車兵大将。
フライヘア・フォン・ノイラート、コンスタンティン
Konstantin Hermann Karl Freiherr von Neurath
1873-1956
ヴュルテンブルク王国(南西ドイツ、ロンメルと同郷)出身。外交官としてドイツ帝国政府で出世し、ヴュルテンブルク王国、次いでドイツ共和国でも政治家・外交官としてキャリアを積んだ。パーペン内閣から外務大臣として入閣し、ヒトラー内閣でもその職にとどまった。ヒトラー内閣発足時の非NSDAP閣僚のうち、パーペン、フーゲンベルクらはすぐに実権を失ったが、ノイラートは比較的長く外務大臣にとどまった。やがて独自のスタッフを持つリッベントロップが勝手に外交を行うようになり、1938年に外務大臣を辞任した。チェコの保護領総督となったがハイドリヒ副総督の弾圧政策を止められず、1943年に辞職した。