彼女の死と共に失くしたもの
第九話 八月十八日⓶
奥路久也にとって今年は試練の年だった。彼はここ数か月の間に二度、取り返しのつかない喪失感に塗れた朝を経験している。一度目のそのとき、堂島楓は仕事を休んでまで奥路を励ましにやってきた。そして、傷ついた奥路を支えると約束し、口づけをかわし、二人は恋人となった。そして愛を育み、将来についても考え始めたころこのことだ。
二度目のそのときがやってきたのは。
奥路久也が堂島楓の死を知ったのは舞台準備が中断された日の夜だった。普段はあまり見ないテレビのスイッチを入れて、地方番組のニュースをボンヤリとみていた。夕方に感じた不吉な予感が、彼の脳裏から離れることもなく、食事という食事すらとる気にはなれず、「一緒にいましょう」という藍那の誘いすらすげなく断って、彼はただ一人自宅のリビングで呆然としていた。
『本番は、私も観に行くから』
曖昧だったヴィエで主役を演じる動機というものを、彼は堂島の死によってはじめて自覚した。最初に抜擢されたときも、慣習で二度目に演じたときもそれを考えることはなかった。ヴィエやローリエに特に思い入れのなかった彼に、最後の舞台への執着めいたものを与えていたのは、今はいない堂島だった。
けれども、彼女はもういない。
そんなすれ違いを実感したときも、彼は涙を流さなかった。
舞台準備がいきなり中断されたとき、こういう事態なのだろうという予感はあった。それでも、言いようのない悲しみがこみあげてくる。
「どうして」
涙が出ないのか、心が受けた衝撃を理解しきれずに現実逃避しているのか。そう思って、「堂島楓は死んだんだ」と幾度も叫んだ。けれども、泣くことはできなかった。
視界は灰色だった。リモコンのボタンの意味が分からずに、ノイズのように流れる映像を止めるのにひどく苦労した。
ただ、彼は取り乱すことはなかった。もしかしたら心のどこかで、『何かの間違いなのだろう』と思っていたのかもしれない。原因に心当たりはなかったし、それを探す気にもなれなかった。
無気力。その言葉を体現するかのように、彼はリビングのソファに座り続けて、その日はそのまま眠ってしまった。
そして、喪失感に心が支配されたままの朝がやってきた。一度目は元気になった呼び鈴が、今度はなることはなかった。こんな状態では舞台に上がるどころか、舞台準備を手伝うことも、登校することもできやしない。
次第に、夏の暑さが空気をじりじりと焼き焦がしているのが分かった。起床してから、彼は微動だにしていない。食欲もわかず、どころか口に物を入れようという気にすらなれない。彼は空腹と脱水で、いつの間にか気を失っていた。
「おい、奥路。大丈夫か? 心配になってきてみれば、案の定だ。そうなるのも無理はないのはわかってる、でもお前までいなくなっちまったらどうすればいいんだ」
その声は高く、芯の通った声に聞こえていた。
『あぁ、楓さん。ごめんなさい』
唇だけを動かして、そんな風に謝る。彼女がもういないことをわかって吐いても、祖王出ないことを願っていた。だからこれは、彼の願望がみせた幻想だった。
「ちょっと待て、何か言ってるぞ。奥路、大丈夫か。とりあえず起きろ、起きて何か飲め」
そう言って無理やりに上体を起こされる。このときになってようやく、彼は堂島がいないことに、その代わりにいたのが篠木岳弥と御堂伊緒であるということに気づいた。
「どう、しで……」
その後に続く言葉を御堂も篠木も知らないし、聞く気にもなれなかった。まず優先すべきは奥路の回復であり、奥路が視ていた夢の続きを聞き出すことではなかった。
「活きはできるな、しっかり飲め」
御堂は言うやいなや、唇にペットボトルを付けて、無理やりに水を流し込む。もしもこれで奥路が水を飲めないのならば、口移しをしてでも飲ませる気なのだろうと、篠木はわかっていた。奥路は南下と意識を取り戻して、むせかえる前にそれを飲み下す。もう大丈夫だとソファを叩くと、御堂はやっとボトルを口元から離した。
「ったく、気絶させる気かよ。お前は」
篠木が御堂の暴走を非難する。
「奥路、今の状況がわかるか?」
篠木が労わる声で言うと、奥路は力なく頷く。
「それはよかった。では奥路、早く気を取り直し…………」
言いかけたところで、篠木が御堂の口を塞ぐ。けれど御堂はすぐさま口元を塞ぐ手にかみついて。
「何をするんだ。用件はさっさと伝えてしまえばいいだろう」
篠木が絶叫していることも構わず抗議する。どころか御堂は、自身がかみついた手のひらを抓りあげんとする勢いだった。
「何をしてんだはこっちのセリフだ。俺たちはあくまで奥路の無事を確認しに来ただけだったはずだ、それなのに――――」
なぜ早く舞台準備に復帰しろ、などと言う言葉をかけるのか。
篠木はみなまで言わず、強い瞳で御堂を睨みつけた。「今日のところはそういうことにしておいてやろう」と彼女は引き下がるも、機械があれば奥路を引きずり出しかねないと篠木は感じていた。
「奥路、喰いもん持ってきたぞ」
コンビニで買い込んだらしいおにぎりと弁当を広げる。バリエーションに富んでいるのは御堂が気を利かせたからか、篠木の一人前の量が多いからだろう。
「じゃあ、遠慮なく……」
奥路も二人の闖入者のおかげで空腹を自覚したのかイソイソと食事の準備をし始める。手にしたのはミートドリアで、それを温めるために席をたつ。
「お、奥路。俺何か飲み物が欲しいぜ。買うの忘れちまって」
先ほどまでと打って変わって、今度は篠木の方が気遣いを忘れつつあった。それに気づいた御堂は何か言いたげに篠木を見詰めて「仕方ない」と彼女も席を立った。
「奥路、私も手伝おう。あそこに残っている馬鹿者は他人の家に断りもなく上がり込んでおいて食事の支度をしないどころか手土産にまで不備を創るような無礼者だ」
篠木は御堂の嫌味な口調に気が付いて「飲み物を買い忘れたのはお前も気づかなかっただろ」とか「弁当ばっかり買い込んだのはそっちだろ」とか喚いている。
「……ありがとう。委員長」
奥路は小さく礼を言って、ゆっくりとした手つきで小皿とグラスを並べ始める。
「そういえば奥路、親御さんはしばらく仕事で帰ってこないんだっけ?」
整頓された台所に感心しながら、御堂は素朴な疑問を投げかける。
「そう、だね。あの人たちは僕にはあんまり関心がないから……」
「そうか、なら割と自由な暮らしができていたんだな」
何事もあかったかのように御堂はあっという間に必要なだけの食器を台所のテーブルに並べた。
「おい篠木、そっちで広げた食べ物を持ってくるんだ。わざわざ三人そろって座り込むことはないだろう。テーブルで、行儀よく食べるんだ」
言葉の外で、お前みたいな野人でもそれくらいはできるようになれ、と篠木に指示する。
「へいへーい。わかりましたよ委員長サマ。お前と奥路を二人だけにしといたら、また余計なコトを言い出すからな」
そんな風に、厭味ったらしい言葉の欧州を繰り広げながら、奥路家にとって久しぶりのだんらんが実現した。
各々が食べたいものを選んでも、まだいくつかは残っている。
「そっちのは奥路の家においていくよ」
気になった篠木が御堂に尋ねるとこう返ってきた。何も与えずに倒れられては元も子もないし、自分たちは奥路の家に通い詰められるほど暇ではない、とそういうことらしい。
「では、いただきます」
委員長の号令でそれぞれが料理に箸を伸ばす。奥路はさすがに空腹の度が過ぎていたのか瞬く間に平らげて残ったおにぎりに手を付け始めた。
「お、よく食うな。ちょっとはマシになったんじゃないか」
と、くぐもった声で篠木が言う。
「コラ篠木、食べ物を口に入れたまましゃべるな」
御堂がそれを注意したところで、奥路の口元が少し笑った気がしたのを二人は気づいた。
「では奥路、これからのどうするかを聞いておきたい」
食事とその片付けがひと段落したところで、御堂が先ほどの封じ込めた言葉を解放する。
「君は、ヴィエの舞台に立つという意思を、今も持ち続けていられるかい?」
御堂は篠木が騒ぎ出す前に彼を制して、奥路の意思を問う。
「僕は、僕は……」
御堂も篠木も、思わず身を乗り出す。二人ともが最後のヴィエでローリエの頂に立つことを夢見ている。そしてそのために、それぞれが自分の立場で精いっぱいの努力をしていることも。奥路久也にとって、この場での二人の問いかけは拷問だった。
「な、なぁ。奥路俺はお前が舞台に立たなくてもいいと思ってる」
篠木がみていられないとばかりに、奥路に寄り添う。
「だってそうだろ。彼女があんなことになったんだ。フランケンシュタインなんてグロい作品に出たくなんてないさ。それが、普通の感性だ。だから、無理しなくても――――」
そう言い終わりかけた途端、御堂は身体を震わせてテーブルに拳を振り下ろす。
「いいわけが、ないだろう」
静かな言葉だった。そしてそれは、思いやりという意図はないと、その場にいた誰もが理解できる声音だった。
「わかっているのか、奥路久也。来るヴィエのために誰もが準備を重ねてきた。私も、ここにいる篠木も、クラス中、学園中があの舞台のために必死なんだ」
御堂は感情を抑えられていないように見える。真意はわからない。彼女はこの場に三年二組のクラス委員長として、自らが率いるクラスをローリエの座に導く存在としてここに立っている。故に、彼女はその役割を全うせざるを得ない。奥路の感情など、不調など知らないと、御堂は自分が持ち得るかもしれない慈悲や思いやりを必死の思いでかき消しながら今この場に立っている。
この状況は非情だ。奥路は恋人を失った悲しみに暮れながら、そんなものは関係ないと、舞台に立てと命じられている。そして篠木と御堂は、自らの人生でたった一度だけ訪れる晴れ舞台を成功に導きたいと熱望している。しかし、それは当人たちの力だけではどうにもならない。奥路久也という絶対的な役者の存在なしには、きっとこの夢は破れるのだ、とそんな確信を持っている。
奥路だって、可能ならば舞台に立ちたいのだ。けれども、今一時だけ悲しみを忘れていたとしても、いずれそれは蘇るだろう。二人が帰宅してすぐ、呻くように身体を丸めるかもしれない。舞台に立って、怪物を演じる中で実際のソレに殺されてしまった堂島の死がフラッシュバックするかもしれない。
そして、何より今年に限っては、『深窓の令嬢という』飛び切りのダークホースが存在する。彼女の美貌と話題性は、その実力以上に彼女を評価するだろう。二週間で舞台準備が終了する段階になって、下馬評は奥路と刻浄の一騎打ちの様相を呈している。
では、どうしろと? 奥路の出演が見送られた場合、それでもローリエを欲するならば、せめて刻浄と並び立つならばどんな方法があると? もはや、そんなものはないのだ。
「怪物のせいだ」
篠木が震える声で言った。未練のように、悪あがきのように。
「だって、アイツのせいで今年はスケジュールがめちゃくちゃになって、徹夜なんて許されていないんだぞ? 他のクラスなんてもっと悲惨だ。校内以内の練習場所を確保できていないところもある。そして、今がとどめだ。俺たちから、奥路の舞台を奪っていた」
すべて、アイツのせいだと。そう言って噛みしめる唇には、悔し涙が混じっている。
ふと、奥路が席を立つ。
「ゴメン、僕にはもうどうすることもできない。ヴィエのことも、もう思い出したくないんだ。僕を愛してくれる人がいなくなってしまった。僕はきっと、その人のために舞台に立とうって、そう思っていたんだ」
けれども、それはすでに叶わない。そうとわかってしまったから、奥路久也は、舞台から身を引くしかなくなってしまった。
「……わかった、君がいない場合のことを考えよう」
諦めていない、という意思を示しながら一先ずこの場を収める言葉。彼女を横目に見る篠木は、彼女が奥路を舞台に復帰させることを諦めるつもりなど毛頭ないことを見抜いていた。そして、それについて言及することが無意味ということも。
「よし、じゃあそろそろ帰るとするか」
これ以上ここにいては奥路にプレッシャーを与えるだけだと判断した篠木は、いとまのを告げる。
「そうだな、これ以上の交渉は諦めよう。けれども奥路、登校くらいはしてくれよ。お前が姿を現せないんじゃ、代役をやる奴の士気も下がる」
それぞれに言い残して、二人は奥路家を去っていく。一人残された奥路はやはり涙にくれることもなく、立ち尽くすばかりだった。