彼女の死を知ったとき
第八話 八月十八日⓵
翌日、八月十八日の早朝のこと、茜杏子から一つの知らせがもたらされた。
ガランとした部屋で一人暮らしの刻浄は右派高に薄いシーツを纏っただけの姿でいた、そのときだった。眠気で覚醒しきっていない意識に、濁流のように、八月十七日未明に発見された殺人についての情報が流れ込む。
使い魔として彼女が感じる苦痛の一つが、主人から不意にもたらされる記憶の共有だった。しかも今回は、その中でも飛びきりに、刻浄を困惑させるものだった。
刻浄の頭の中に、八月十七日に発覚した事件の概要が流れ込む。被害者の名前、殺害状況の詳細、それらが文字情報として、ときには映像と共に、彼女と茜を繋げるパスを通って脳髄に否応なく。
「ウゥ、あ、あぁぁああ」
そのときに感じる酷い吐き気と頭痛に刻浄はベッドの上で体をくの字に折る。白い身体に血がにじむほど爪を立てて、大声でのたうち回ってしまいそうになるのを我慢する。
きつく閉じられた瞳には涙が滲みすでに頬を伝って流れ出している。少しでも多く酸素を取り入れようと大きく開けられたはずの口からは内臓が飛び出しそうな不快感と、胃液交じりの唾液が流れ出てシーツを濡らしている。
「そんな、そんなことが……」
あるわけがないのに、願うような口調で悶え続ける。
刻浄の考えでは、八月八日に自身が起こした殺人が最後のはずだった。
それに続く殺人など、あっていいはずがなかった。なければいいのにと、彼女は心の底から望んでいた。
しかし、その願いは現実のものとはならなかった。いいや、それはもともと願いですらなかった。彼女はあってほしくない現実から目を背けて、それを否定する材用を集めるだけで、おそらく起こりうる出来事を否定して、それをずっと続けていくことに不安を感じていたのだった。
けれど、そんなこともすでに終わりが近づいてきていた。
被害者氏名:堂島楓
殺害現場の状況:
駅前通りから住宅街に続く道、そこから枝分かれる路地の一つ。着用していたと思われる衣服から、仕事帰りに殺害されたと思われる。肋骨を器に見立て、その中に臓器を詰め込み、四肢の骨のうち二本は食器としてなのか内臓に突き立てられていた。
そして、首から上は半分だけが原型をとどめていたため、死亡間際の表情のお判別と、遺体の身元確認が可能だった。
堂島楓は、どうしようもなく悲しそうに、けれどもそれを受け入れたような笑みを残して、殺された。
送り込まれた記憶に最後まで目を通し終わったころには、刻浄の苦痛もかなり和らいでいた。起き上がり、白に文様をあしらった下着をつけて、沸かしておいたお湯でコーヒーを淹れて、一口すする。口の中に広がる苦みは、彼女が感じる苦悩の味によく似ていた。
それから身支度を整えて、彼女は学園に登校して、いつものように物静かに、いつものように美しくたおやかに、恐る恐るながらも健やかな一日を過ごし始めた。
けれども、この日から夏の終わりまで、彼女が茜杏子の前に姿を現すことはなかった。
*
彼女は早朝からあの病的な部屋にいた。気温は上がり始めていても、日差しは幾分柔らかで、まだ夜に冷やされた冷気が残っていたから彼女は窓を開けている。手には煙草を持っていない。
白い壁と天井の部屋で、やはり白いカーテンが揺れている。
ベッドを使用した痕跡は、今はない。その方がいい。
茜は堂島が殺害されたことをこの部屋に来た直後に知った。
今日は幾分早めに訪れたところに、そんな知らせが舞い込んできたのだ。
「なるほど」
そう呟いて茜はチョイと人差し指を振る。その動作は、さながら魔法の杖を振るようだった。直後、彼女のいる部屋に通じる一切の経路は閉じられた。そして茜はその瞳すら閉じて、魔女の本領を発揮する。警察、遺族、殺害現場、それらすべてに関係する者の記憶を追跡する。記憶と心の蒐集と分析が、彼女の専門だった。彼女がやがて作り出そうとするモノは、いわば『繋ぎ合わされた魂』だった。
最初は青く仄かな映像が瞼の裏に映る。それはやがて極彩色と、それを混ぜあわせた混沌へと変化して、やがては嗅覚と感情すら完全に再現するヴィジョンへと変化する。そして現実時間の換算でコンマ一秒程度に凝縮され、茜の人並み外れた記憶領域へと流入する。
常人ならば、魔女であったとしても同じことをすれば発狂してしまうことだろう。だからそうはならないように、茜は得た情報を簡潔に造り直して茜へつながるパスに送り込む。
「刻浄、これはお前が望んだ結果か?」
そうではないということは明白だった。これまでにないほどに、刻浄の感情が揺らいでいるということが感知できた。それだけではない、刻浄の記憶が茜へと逆流をはじめたのだ。
『なんで? どうして? みんなが私のことを邪魔だっていうから、私はみんなを嫌いになったのに……』
最初に映ったのは、幼い少女が泣きじゃくる姿だった。小さいはずの腕は体毛が生え、若木の幹のごとく力強い形へと変貌してしまっていた。そしてそれは血まみれで、彼女の周囲には四肢をあらぬ方向に曲げられた大人たちは、少女の姿を見止めて慄いている。絶叫している。
茜が最初にみたものは、幼い頃の刻浄だった。
茜が最初に感じたものは、刻浄という存在が持つ鋭敏すぎる感受性だった。
刻浄は、生まれながらにして他人の敵意や悪意を感じすぎた。それゆえに、他の感情を受け入れる機能すらも失っていた。
『怪物は愛を受け取れない』
その言葉を、刻浄は体現している。そして、その先にある他人への害意や敵意をヒトよりも大きく、深く、抱いていた。
茜がその少女と初めて出会ったのは、彼女が怪物として羽化した直後だった。
二人が主従の契約を交わしたのは、少女が怪物であるということを自覚した直後だった。
記憶は途切れ途切れに、時にはコマ送りに、解像度も不安定なままに再生が続けられ、いつのまにか今年のゴールデンウィーク以降のシーンへと移っていった。
『七月三十一日』
映画が始まるときに画面に映る文字のように、黒い背景に白字で、それが映った。
「今回の事件はお前の仕業か、怪物」
いつも通りの冷徹な表情、彼女の瞳に迷いはなく、尋問という殺害行為を続けている。捨てに彼女の目の前にいる怪物は、その姿を保てなくなっている。はた目から見れば、刻浄は半裸の女性に致命傷の傷を与えているように見えるだろう。両腕の断面からは血が噴き出ていて、袋小路を赤く染め上げている。女性、怪物はのたうち回り狂った笑い声をあげる。
「はぁ、はぁあ。そうさ、六月の事件はね。でも残念だ、最初の事件は素人だから、それが捕まるまでは模倣さえしておけば安全に殺しを繰り返せると思ったのに」
自分の方が殺人に手慣れているのに、自分の方が先に見つかってしまったと怪物は嘆く。
その言葉を聞いた刻浄は女の怪物の顔を殴りつけて、血の海に沈めて、さらに足を振り下ろす。
バシャン
鮮血が弾ける音が響く。月は、上限に笑っている。刻浄の口元は不快感に歪んでいる。
「小細工だな。そんなことが通じるとでも思ったのか、この私に」
彼女はそう言って、怪物に暴行を加え続ける。含み笑いが混じっていた怪物の口火柄らは、次第に恐怖の色が濃くなり、断末魔に似た悲鳴が上がり始める。
「ヒィ、ヒィ、間抜けは、お前も同じだ。どうせ最初の事件を起こした怪物を見抜けていないんだろう。確かに、私も誤算だった、アレは五月以来一度も人を殺していない……」
それを聞いた瞬間、刻浄の暴行が止んだ。この光景を視覚ではなく知覚としてとらえている茜には、刻浄がひどく動揺していることが理解できた。
怪物はからがら逃げ出そうとする。芋虫のように地面を這って、残った両足で立ち上がろうとする。その瞬間だった。同じ怪物ですら視認できるか否かの、刻浄の主人である茜でも、その魔法をもってしても捕らえることが難しい斬撃が放たれる。それは一撃ではない。神速の五連撃が怪物を襲う。
逃げ出そうとする脚がまず切り落とされる、次に腰が半分だけ切断されて、臀部を踏みつけて上体を蹴り上げる。強度が半減した腰はねじれ、下半身と上半身が垂直に向き直る。
まさしく、怪物に苦痛を与えるだけの凶行。絶叫の中、さらなる加害をくわえると怪物の胸部は骨と臓器までが露出し、身体中の肉は粉みじんにそぎ落とされて血の海に沈んでいった。
「お前のような怪物を見ると、反吐が出る」
『それにもかかわらず、私は怪物になり果てるだろう存在を……』
怪物はもはや原型を残していない。刻浄は怪物のものだった肋骨に内臓をありったけ詰め込んで、四肢の骨と生首を添えた。
『このときお前はすでに、怪物のなりそこないを救い出そうとしていたんだな』
茜はそれに勘づいた。そして、あきれたため息を吐いて、「馬鹿者め」と。
魔法も用いない隠蔽は困難を極める。刻浄が選んだのは、刻浄は自身が殺害した怪物がおこなったのと同じ所業で、自身が心の底から嫌悪する行為だった。
こうして、最初に行われた事件現場の再現が出来上がってしまったのである。
刻浄の愚かしさはさらなる悲劇を呼んでいた。
背後に、気配が現れた。刻浄がソレに視線を向けると、男が呆然と立ち尽くしていた。奥路久也、茜杏子も何度か言葉を交わしたことのある、月ノ樹丘の学生だった。人当たりはよく、成績もいい。怪物などいう存在からはかけ離れているはずの生徒だ。
そんな奥路が、殺害現場にあらわれて、呆然としている。そして、なんとか正常に機能している意識で刻浄を見止め、荒い呼吸をしている。
『なんて茶番だ。刻浄、お前は本当に可哀想な少女だよ』
思わず、茜は嘲笑交じりに声をあげてしまう。
奥路の存在に気づいた刻浄は絶望交じりの不快感を示す。このとき彼女自身も自分の愚かさに気が狂うほど怒っていた。
「あなた、何者?」
そう言って殺気を放ってしまうと、奥路は後ずさって、脱兎のごとく駈け出した。
『もう、言葉もないよ。お前はアイツを、この場で殺しておくべきだった。お前の願いは執着する可能性すらなくなっていたんだから』
記憶は、八月八日に移った。
怪物を殺したにもかかわらず継続されていた殺人事件、それを引き起こしていた怪物と刻浄は相対していた。
言葉もなく、刻浄は怪物を加害している。見知らぬ友人のように近付き、強引に握手をしてまずは指の骨をへし折ったところだった。
怪物は今度も女だった。彼女は生き延びるために応戦する。けれども、刻浄には傷一つ付けられない。それは刻浄の恩情だったのか、怪物の女が自身のことを自覚して日が浅かったためか、そのどちらもだろう。
この怪物の女も、今までの事件を模倣して犯行を重ねていた。その時点でもはや、彼女は真っ当な怪物に違いなかった。だから、刻浄は共までも非情でいられた。
「わ、私は、私はただ私を傷つける人を殺しただけなの、こんなこと、本当はしたくないの。でもやらないと、私が壊れてしまう。でも殺すときはちゃんと、私がやったってバレないようにしないと……」
脅迫的なまでの防衛本能。
「だって、仕方ないでしょ? あの人たちだって私のことを嫌っていたんだから、私はソレに押しつぶされそうになったんだから、殺したっていいじゃない」
狂気的なまでの妄想とその暴走。怪物が殺人を犯す動機に違いない。
「あなたも、私を殺すの? 貴女だって、私と同じのクセに」
その言葉に、刻浄は怒りすら覚える。怪物の女が他人を憎むのならば、刻浄はそんな怪物たちを憎んでいる。そのことに、間違いはない。
「お前がどうなろうと知ったことじゃない。私はお前を殺さなければならない。死すべきものは、殺すべきものによって死に至らなければならない。お前みたいなのは、あってはならないんだ」
けれど、同情はなくとも憐れみの感情を拭い去ることはできないのだ。
生まれてこなければ幸せだったと、なるべくそれと同じ状態に返そうと、刻浄は殺害を繰り返す。
魔女との契約をかわしているとはいえ、刻浄もまた背反した信条をその身に宿している。
その支離滅裂な存在は、確かに真っ当な怪物だった。
この殺害が終わると、刻浄は心の底から安堵した、「これで、おそらく怪物による殺害は起こらないだろう」そんな不確かで、安易な願いをまだ持っていたのだ。
そして、その願いは当たり前に崩れ去ることとなる、堂島楓の死によって、刻浄は殺害をよぎなくされるのだ。
「まったく、そんなに悲しいのならば最初から何もかもを殺してしまえばいいのに。そうしないのはなぜか? 同じ境遇の他人を助ければ、自身と同じ苦しみを生まずに済むと考えたからか? そも、怪物を生まないように立ち回れば、自身が手を下さなくてもいいと考えたか?」
どちらもエゴでしかないと茜は歯をギリギリと鳴らす。
どちらも刻浄を救うことはありえないと苛立ちを募らせる。
「本当に、馬鹿な子だよ」
それでも、彼女は刻浄の主人だった。
「君が何を願っていたかは分かった。今起こっていることが、君の望んだことでないということもね。だから、さっさと終わらせて帰ってきなさい。君はどうあがいても、もはやその運命からは逃れられやしないのだから」
ただの使い魔であっても、契約をしているならば庇護の対象で、どれだけ冷たい関係でも、それゆえにどうしようもない事実として、茜杏子は刻浄静のことを案じていた。
全てを知った茜は、この『紫藤の怪物事件』の先にある最悪の、最も起こりうる事態を妄想してまたしてもため息を吐くのだった。