彼女の死を知る前
第七話 八月十七日⓷
夕暮れ時のこと――――
「なるほどね、こんなふうに怪物に言わせるのか。おもしろいね、これは」
またしても、茜杏子の皮肉めいた嘲笑が響き渡る。夕暮れはもう濃紺に染まろうとしている。中途半端に冷え始めた、夏のジメジメした空気が立ち込める。けれど、この部屋はそんなものとは無縁でいた。
締め切られた窓、キッチリと温度を下げた空調は湿度を抜き取っている。
「『愛さえあれば、人間になれる』か、なんて素晴らしい。この言い回しは実に私好みだ。これが君のセリフではないことだけが残念なだよ、刻浄」
「―———————」
帰って来るのは無音だった。そんなことはどうでもいい、と刻浄は茜に視線を受けて抗議する。するとそれを受けた方も、コホン、と有耶無耶にしてしまうのだ。
暗い部屋。白い壁と天井。床は緑色のリノリウム。病的な内装な紫煙に曇っている。
「そういば、元のセリフはなんだったろうなぁ」
そう言いながら紫煙を吐いて、指先でなぞる。そして出来上がるのが、怪物が博士に掛けた怨嗟のような懇願の言葉だった。
『性根の悪さは不幸のおかげだろう? 俺を憐れまない奴のことを俺はどうして悲しまなければならないだ。だいたいお前は、俺を殺しても『人を殺した』とは思わず、どころか誇りすらしよう――――云々』
「こんなもんだったか?」
一々覚えていないけれどね。そう言って、この病的な、薄暗い部屋を漂う紫煙を吹き消して見せる。
「全く持って、怪物の言う通りだね。誰だって、受け取ってもいないものを誰かに与えることはできない。知らないことを、誰かに教えることはできない。そういう風にとらえ直した方が、わかり易いだろう」
吹き消された煙は、後から立ち昇る紫煙と共に踊る。
それを刻浄は手で払いのけながら、苛立たしく。(ここに至るまでの間にも、刻浄はこの部屋の窓を開けることを試みた死、茜は必死になってそれを阻止した)
「それが、どうしたっていうんです? そんな当たり前のコト、誰だってちょっと考えたらわかることでしょうに」
「あぁ、その通りだ。けれどね。それが当たり前なのはあくまで人間同士の場合だけなんだよ。ペット相手にいくら愛情を注いだところで、相手が返してくれるかどうかはわからない。返してもらった気になっているのは飼い主だけで、当のケダモノは返しているつもりなんてない(かもしれない)」
身もふたもない、(付け加えるなら情緒もファンタジーもない)物言いを魔女がする。
「待ってください、話しが明後日の方に向いています」
「そうだね。けれど、急がば回れというだろう? 私が今言ったコトを、怪物はそのまま言葉にしているんだよ」
つまりは、フランケンシュタインの怪物は、怪物よりも人間に近かった、それゆえに人間同士のような会話や物語の組み立てが可能である。と、茜は言いたいのだろう。
刻浄はそれに思い至ることはない。
だから、茜のもって回った言い方に苛立ちを感じている。
「……だからって、どうだというのです」
そんな刻浄をよそに、茜は自身の主張を続ける。まるで居眠りをしている生徒をよそに講義をのろのろと続ける教師のように。その益体のなさと言ったら、刻浄の機嫌が悪くなくとも辟易としていたことだろう。
「さえ、本当に可哀想なモノの話をしよう。フランケンシュタインの怪物は人間に恐れられ、彼の創造主にさえ憎悪された。それゆえに彼は、自身と同じ容貌の、別の存在を求めた」
茜の静かな口調は紫煙に乗って刻浄を眠りにいざなう。
「でもね、それは本当に健全なコトなんだ。欲しいモノが手に入らない。それは許されない。それゆえに懊悩する。くわえて、一つの意思を持った存在として、博士(これもまた一つの意思を持った存在だ)と交渉している。つまりね、フランケンシュタインが創った怪物は、精神的にはれっきとした人間だったんだよ」
「っ、だからあなたはなにが言いたいのですか」
刻浄は我慢の限界だった。茜は今年のヴィエの課題作品とそれに対する二組の解釈を茶化しているように見えて、その裏には何か別のもっと複雑な問題について言及しようとしている。それもただの言及ではない、その先にはきっと、刻浄自身への詰問目いた何かが待っている。話を聞いている少女はそのことを直感していた。
「フランケンシュタインの怪物は、ある意味では憐れみの象徴だ。孤独、憎悪、悲哀。ありとあらゆる負の感情を一身に受けている。加えて、慈愛も親愛もその存在を知りながら何一つ受け取ってはいない――――」
だからと言って、茜の講義が終わるわけはない。彼女が魔女であり、刻浄がその使い魔である限り、彼女達は当たり前で真っ当な会話の作法からも外れている。
「茜さんの話は相変わらず要領を得ませんね。今日はこれで帰ります。明日もヴィエの準備があるので」
それでは、と言い残して紫煙と経年でくすんだ部屋の扉へと身体を向ける。
そんな刻浄の背中に、茜は辛辣な言葉を投げかける。
その言葉こそ、さきほどまでの益体のない語りの中に隠されていた刃だった。
「ほう、君はまだ、人間のフリができるんだね」
不都合な真実を言い当てられた刻浄は、怯えたような、天敵を射殺すような案鋭い視線で茜を見る。
茜は七月の終わり以来刻浄に感じていた違和感の原因を問いただす
「今回の一件で、君はどうにも不自然だ。だから、君を突き放すようなことを私は口にしなければならない。君には自身が怪物であり、私の使い魔であるという、自覚を持ってもらわないとな」
茜の瞳は真実を罰する者のそれだ。刻浄という使い魔が主人たる自身のあずかり知らぬところで何をしているのか、それを見定めて(必要とあらば)罰を与えなければならない、コレはそんな状況だ。
「さっきまでの話では、フランケンシュタインが創った怪物は哀れな人間ということになる。(それもそうだ、いいかえるならば人造人間なんだからね)。じゃあ、本当の怪物というのは、本当にあわれなモノとは何なのか……」
刻浄に、わかりきったことを言い聞かせるように、子供に当たり前を教える母親のように話を聞かせる。
「それについて、多くの人々は思考していないし、君ですら思考を放棄している。私は、君が目をそらしていることを、もう一度伝えなければいけない」
刻浄は茜の厳しい口調に操られるままに暗がりの部屋の奥に戻ってきた。
通学かばんを投げつけるように放り出し、スカートの裾が乱雑になびくことも構わずソファに座る。
「今の君はどうにもイラついているみたいだから、まずは一言でまとめよう」
茜は最初の煙草をもみ消して、二本目に手をつける。そして、意地悪い笑みを消して言う。
「怪物はね、愛を受け取れないんだ」
茜はその言葉を繰り返した。そして、それがどういうことなのか、それがなぜ、怪物が怪物たりうるために必要なことなのかを語って聞かせた。
「いいや。『愛を』というのは端折りすぎたな。正確には、『自分を愛しむ思いを』だろうな。
そんなのは誰もが当たり前に感じすぎて、あるかどうかさえも分からくなるものなんだけれどね。それこそ、空気みたいに」
じりじりと煙草の先端を灰皿に擦り付ける。背焼け落ちた先端が、黒いチョークのように灰皿をかざる。
「大抵はね、あるのが当たり前すぎるからそれをわざわざ言葉や行動で示すんだ。そうすることで、実感していたことに名前を付ける。そうして始まるのが恋人だったり、家族だったり、見知らぬ他人との蜜月だ」
けれどね、と。心の底から悔しそうに、悲しそうに。
「怪物はそれを感じられない。愛されているという事実がないことを実感し続けている、そう言い変えてもいいだろう。愛されていないという状態が当たり前で、愛されているということが特別なんだ」
「そんなの、怪物でも人間でも同じことではないですか?」
刻浄は当たり前の疑問を口にする。
「いいや、大きな違いだね。視覚を例に考えるとしよう。遠くにリンゴがあるとする。裸眼では見えない距離だ、けれども眼鏡をかければ見ることができる。これが普通の人間だ。ところが怪物は違う、そもそもあるはずのモノを視えないんだ、それはどうあがいても視覚しようがない性能の優劣じゃなく、機能の有無ということだね。イチかゼロか、人間と怪物の間にはそれくらいの決定的な差があるんだ」
そして――――ここからが本題だった。
「怪物は常に感じている喪失感の原因を求める。求める先は自分でも他人でもいい。それはないものねだりに他ならないんだ、その行き着く先が屈折しきった敵意というだけでね。そして、それを知ってしまった瞬間、ソイツはいくら人間の社会に溶け込んでいようと、怪物に変化せざるを得ない。末期症状ともなれば、姿かたちまでが醜いケダモノになりはててしまうんだ? 君だって、思い当たる節はあるだろう。君が君たる所以。君が怪物になった日。その瞬間から、それまであったものは姿を変えて、君は自身が視るモノすべてを疑ってかからくてはならなくなった。もしも私の使い魔になっていなかったら、君はそんな風に制服を着て日の光の下を歩くことなんてできやしないんだ?」
こればかりはおんきせがましさが過ぎた、と茜はバツの悪い顔をする。
「まぁいい。話を最初に戻して端的にまとめるとだな、物語の怪物と現実の怪物の違いはね、つまるところ真っ当な精神を持っているか、そうでないか、ということなんだよ」
その言葉に刻浄は食って掛かる。
「それはそうでしょう。怪物、なんて言われる存在はいわゆる普通とは思考や価値観がかけ離れている。今更改めて知らされるようなことであはりません」
刻浄はそれを理解しないフリをする。自身までそれを認めてしまってはいけないのだと、嫌というほど理解しているから。
そんな刻浄に、茜は苛立ちを募らせる。ギリッと、フィルターを噛み切ってもう一度、逃れようもないほどに言って聞かせる。
「私の言い方がまずかったか? 先ほどのたとえでわかりにくかったならもっとハッキリと言ってやろう。怪物はね、普通の人間なら誰しもが持ち得ている受容体がないんだよ。だから、他人からの行為をどれも悪意的に解釈してしまう。怪物は愛という言葉の意味を知っていても、それを実感できないんだよ。どれほど強烈に、逃れようもなく、明確に愛を与えられようと、当の怪物ときたらそれを信じることができないんだ。それどころか、受けた愛に対して何か裏があるのかと勘ぐってしまう。猜疑心は憎悪となり、新たな猜疑心を呼ぶ。それだけならまだいいさ。行き過ぎた疑念は悪夢のように、元々欠けている精神を蝕む。そうして膨らんだ負の感情は、やがて相手を切り裂く刃となる」
茜は首を書き切るジェスチャーをする。そして、使い魔に主人として命令を下す。
「人間、最後に行きつくのはね、やはり命の終焉だよ。終わりを迎えるのが、他人の命か、自分の命かは知らないけれどね。だから君は、殺すべきモノをきちんと殺さなければいけない。ただそれだけを考えるんだ。どこが壊れていたからどうなったなんて原因と結果の考察は、魔女である私の仕事だからな」
「…………」
茜の言葉に硬直する刻浄。それにかまわず、茜は言葉を続ける。
「けれど、悲しいね。何が悲しいって、そういう奴は大抵が無自覚だからさ。自覚してしまえば、人のカタチではいられなくなってしまうんだから」
無言で席を立つ刻浄。黒髪をさらさらとなびかせて、彼女はこの病んだ部屋を去っていく。月明りに照らされた彼女の瞳の輝きもまた、刃のきらめきを帯びていた。だから、彼女がいなくなったこの部屋は、必要な臓器を切除してしまった身体みたいに静かになった。