舞台袖のいざこざ
第六話 八月十七日⓶
その遺体が発見されたのは八月十七日の早朝だった。第一発見者の災難はこれまでの怪物による殺人と何ら変わりなかった。
死体の性別は女。残された部位から推測するに、長身で、髪は黒く硬質で長かっただろうということだった。(彼女はこれまでの被害者と同じように解体され、頭部が半分だけ残っていたという)
怪物が出現したらしいという報はもろもろの手続きを経て、死体の発見という事実だけに統制されて各所に知らされた。
月ノ樹丘学園の教職員が事件の発生を知ったのは夕暮れもほど近くなったときのことだった。前回の殺人からすでに十日が経とうとしたときだったため、何人かはその到来を予期していたように落ち着き払って、もう何人かはそれが来ないことを心底願っていたというように悲嘆にくれて、事前に定められた通り学園中にその情報を伝達した。
彼らの下した判断は、生徒たちにその日の練習を中断することと、すみやかな帰宅を促すことだった。こうして、この年の学生たちに与えられていたヴィエの準備期間はまたしても奪い去られることになった。
『愛さえあれば、私は人間になれるんだ』
その言葉を遮らんばかりに鳴り響くチャイムに続いて、校内放送が行われた。
「本日の練習及び、準備は現時刻をもって終了してください。また、居残りは一切禁止とします。学園生たちは速やかに帰宅してください。なるべく二人以上のグループで行動すること。もちろん、帰宅途中の寄り道についても厳禁とします。とにかく、すみやかに帰宅して下さい。ご家族のもとに安全に帰り着いてください」
放送を聞いた生徒たちは騒然とする。校内放送をかって出たのは三年二組の担任だった。いつも快活で、そのくせ不敵な女性だったが、このときばかりはそうはいかなかった。上擦ってどもった甲高い声。普段の彼女を知る二組の生徒たちは、明らかにただ事ではないということをすぐに理解した。
けれども、彼女の教え子で稀代の委員長である御堂は冷静さをいち早く取り戻し、放送の内容を再度クラスメイト達に伝達した。
「皆さん、出来る限り速やかにヴィエの練習を切り上げて帰宅の準備をしてください。この後に控えている三組の方々も、放送があった通りに行動していただければと思います」
正着かつ迅速な号令だった、けれども、ヴィエという華の舞台を目の前にした学生の幾人かは彼女の発言に異議を唱える。
「おい、自分達だけ練習しておいてそりゃないぜ」
声をあげたのは順番を目の前にして練習の機械を奪われた三組の男子生徒だった。同じクラスの生徒の中で唯一衣装を着こみ、それが舞台で映えるのかをどうしても試したいのだ、とでもいいたげだ。その声で堰を切ったように周囲にいた三組の生徒たちも異口同音に抗議する。もしもこの光景を郊外で練習している他のクラスの生徒たちがみれば、収拾のつかない事態になっていただろう。
怪物によって抑圧されていた生徒たちの熱意が、あらぬ形で噴出しようとしている。図らずもこの事態の当事者となってしまった御堂は、内心では冷や汗をかいていた。
『対処を誤れば、パニックどころの騒ぎでは済まないだろう』
辣腕を振るうがゆえに物事の行く先が見えすぎてしまう彼女は、そんな直感に襲われる。
そして、御堂には迷っている時間はない。三組の委員長による制止によっていくらかは事態の進展が抑えられてはいるものの、長くはもたないのは明白だった。
すでに気性の荒い学生同士が小競り合いを始めている。御堂は三組の委員長に目配せをする。
『ここで暴力行為が行われるならば、それこそヴィエどころではなくなるぞ』
ギンとした、威圧の視線。相手も彼女の意図には気づいているようだったが、それ以上に自分たちの無力を嘆くような気弱さだった。
ふと、御堂の視界が揺れた。最初に抗議を始めた学生とその友人たちが彼女を羽交い絞めにしたのだ。胸倉に伸ばされる手は、彼女が来ているジャージを引きちぎらんばかりだ。
「こんなことをしてどうなるっているんだ。暴力沙汰が起こってしまえば、本末転倒なことくらいわかるだろう?」
あくまでも気丈に振る舞う御堂。けれども、それが相手の逆鱗に触れてしまった。
拳が振り上げられる。体重と害意を詰め込んで、振り下ろされる。
御堂も奥路ほどではないがヴィエの舞台に適任の役者だった。その顔面目掛けて、拳が叩きつけられよとしている。
その刹那に近い時間で、御堂は今後の展開を想像する。自身の顔には痣が残るだろう。暴力沙汰は何とかして有耶無耶にするとして、顔の傷をどうするべきか……。
けれど、それらはどれも杞憂に終わった。
振り尾をされる拳を、白い掌が受け止めた。
「その辺にしておきましょうか。私たちの立つべき舞台は人を傷つけてまで向かうべきではありません。それに、皆さん少し気が経っていますね。ここ最近は――――」
彼女の登場に周囲が騒然とした。深窓の令嬢と呼ばれる彼女が、はじめて大勢の人の前に姿を――その存在感を見せたのだ。
これにはその場にいた誰もが驚愕した。彼女の手のひらが、ジャージで見え隠れする白肌が、声が、髪が、彼女を彼女たらしめるありとあらゆる要素がこの空間を世界から分断しているような、そんな錯覚に襲われたのである。
「物騒なことが多いですから」
その声は冷たく、にもかかわらず瞳は安らかで、それゆえに彼女は恐ろしかった。
男子生徒は慌てて拳を引き上げる。自身のクラスの主役に傷を付けてはいけないと、
まずはそう思ったか。あるいは、さらさらと流れている、彼女が登場した瞬間にあたりを覆った冷たい空気の中を泳いでいる黒く長い髪が、絡みついてくるとでも思ったのか。(男子生徒の拳と刻浄の手のひらは拮抗していた。思い切り振り下ろされた拳を、彼女は音もなく受け止め、そのうえで痛みを感じることもなかった)
すまない悪かった、そんな風に小声での謝罪がおこなわれると、当たりにいた生徒は正気を取り戻した。
「ありがとう。えーと、その」
解放された御堂が、きまり悪そうに握手を求める。
「実は、君の存在自体を怪しんでいたんだ。それがこんなふうに助けられて、面目ない限りだよ」
ひっかかる表現が混じっているにもかかわらず、刻浄は変わらずにこやかだ。そして、先ほどまで相対していた男子生徒などいなかったかのように、御堂の方を向いて。
「いいえ、私もあまり人前には姿を見せないものですから、仕方ありません。この度は私達のクラスがご迷惑をかけました」
そう言って、刻浄は深々と頭を下げる。
黒く長い髪はさらさらと地面に向いて落ちる。それが重力に逆らって絡みついてくるような幻覚を与えるような気配もない。
「私こそ、こんな事態になれていなくて、もう少しうまく立ち回ることができればよかったと思うよ」
これをもって、刻浄と御堂の最初の対面は終わりを告げた。
学生たちはぞろぞろと教室に戻ってゆく。御堂は彼らの最後尾をついて回っていたが、ふとあることに気づいて足を止める。
「そういえば、奥路の奴がいない……」
刻浄の登場によってその場にいた誰もが狼狽していた。それで彼女は見落としていたのだ。奥路久也というもう一人の主役の存在を。
『他所の主役にあの場を抑えてもらったうえに、自分のクラスの主役が疾走していないことに気づかないなんて』
どうにも自分らしくない。怪物の出現とタイトなスケジュールで精神的な疲労がたまっているのか。そんな風に思う。
『いいや、そんなことはないさ。私はまだやれる、このクラスを、ローリエの座に導くんだから』
激励するが、周囲から見ても彼女の仕事量は他の学生よりも確実に多かった。だから、これまでにも篠木を筆頭に彼女のことを心配する者はいたのだ。
「でも、奥路も奥路で変な感じだ」
自身と同じように彼もまた何かに疲れているのか、憑かれているのかそんな考えが頭をよぎった。そもそも、あの混乱した状況でならば、奥路はその場を収める努力をしたはずだ。なのに、何の気配もなかった様な……。御堂の考えは正しかった。奥路は御堂が拘束された瞬間に男子生徒たちを制止しようとしていた。けれども、それと時を同じくして刻浄が登場したのだった。
「どうしたんだろう?」
他の生徒たちと同様の疑問に奥路は首をかしげる。けれど、彼にとってはそれがただの疑問ではなく、たんに『起こりうる事態を推測したための不安』でもなく、もっと深刻な事態に思えたのだった。
それこそ、自身の存在が揺るがされてしまいそうなほどに。
そんな揺らぎを感じたとき、現実でも惨事が起こりかけていた。
クラス同士の小競り合い御堂の冷静さがあだになった形で始まったそれは、だんだんと暴力的に発展していった。そしてついに、御堂が男子生徒たちに拘束され、あろうこと顔を殴りつけられようとしていたのだ。
その気配を察知した奥路はすぐさま御堂のもとに向かう。何とか、拳が振り下ろされる前に富めることができそうだ。奥路がそう感じた瞬間だった。
「その辺にしておきましょうか――――――」
そのたおやかで冷徹な響きに、七月末日にみた光景がフラッシュバックする。赤い部屋は血みどろで、盛り付けられた調度品は赤黒い針の山。そんな悪意と害意に塗れたトコロで平然と立つ少女。
奥路は、刻浄静の姿を認めた瞬間に崩れ落ちそうになった。興奮しきった生徒たちの脳みそを震え上がらせるほどに冷徹な空間が(それは結界と言い変えても差し支えのないようなもの)あたりを包んだ。八月一日、悪夢のような惨状を見た翌日に彼女と初めて対面したときのような、この世のものとは思えない悪寒。世界を青く、または仄暗く染め上げてしまうかのように不吉な色彩を持つ、令嬢が『深窓の』と呼ばれる所以たる空気。
『こんなところにはいられない、いてはいけない』
そう直感するが早いか、奥路は震える脚で身体を支えて、何とか行動を後にする。
刻浄が放つ結界の外に出ると、立て続けにであう予兆の正体に気づき始めてしまう。ロッカールームに戻り、スマートホンを持ち出す。画面からは、青白く不気味な光を放たれている。乱れた息でかけ慣れた番号を呼び出す。それから十秒、十五秒。呼び出し音はなり続けている。
もしかしたら、こんな時間には出てくれないかもしれない……。
けれど、出てくれないならばこの不安はなくならない。
振り子のように背反する心情を抑え込みながら呼び出し音を聞く。
『やぁ、残念ながら私は取り込み中だ。時間をおいてかけ直すか、その他の方法でコンタクトを取ってくれ』
無情なまでに陽気なメッセージが流れる。
「楓さん、どうして。いや、大丈夫。きっと仕事がいそがしいんだ」
奥路はそう言い聞かせるようにして、よろめく身体を引きずりながら帰路につく。けれども、思い返すと二日前から。そう、刻浄が二人の前に姿を現した日の夜に聞いた『おやすみ』が最後だった。
そんな彼を影から見守る少女は藍那だった。悔し気に唇を噛んで、それでも笑顔でいなければと思い直して。存在すら消えていきそうな奥路に声を掛ける。
「奥路君。大丈夫?」
ゆっくりとか細い反応を示して、奥路の虚ろな瞳が藍那の方を向いた。そんな彼の瞳を、藍那は一度だけ見たことがあった。(それはゴールデンウィークのこと、藍那の片思いが敗れる少し前のこと)
奥路の瞳は、悲しさと、寂しさと、そして孤独。もしかしたら、何か猜疑心めいたものがないまぜになった虚空だった。
靄のかかった返事は、この世から去り行く死人の声に聞こえる。
「え、あぁ。大丈夫、だと思う」
「どうかしたの? なんだか顔色が悪いみたい」
なるべく愛らしく、けれど不謹慎にならないように、藍那は奥路をいたわる言葉を吐く。そして上目遣いに、瞳を潤ませて奥路の胸元に潜り込んで、彼を壁に押し付ける。
奥路の瞳に刃悲しげな藍那の顔が映っていて、彼の胴体には藍那のそれなりに育った胸が押し付けられている。
ここは講堂の隅、人気もまばらな物置めいた場所。そこで見つめ合う二人は知らない者がみれば恋人同士に見えるだろう。藍那だって、そんなことを考えて、ずっとこのままでいればいいのにと願ってしまう。
けれど奥路の口から洩れるのは無情なまでの現実だった。
「楓―—堂島さんと、連絡が取れないんだ。どうしよう、藍那さん。楓さんに何かあったら。さっきの放送だって、また怪物が出たからなんじゃないかな……。電話に出ないんだ。もしかしたら、今は仕事中だから仕方ないのかもしれないけど。でも、昨日から……いいや二日前の夜に電話があったきり……」
泣きじゃくってしまいそうな声で『連絡が、無いんだ』と、奥路は繰り返す。
藍那も涙をこらえながら――
「きっと大丈夫だよ。堂島さんってかなりバリバリ働く人なんでしょ? 連絡が続けてないことだって今までもあったんだし……」
そんな風に、当たり障りない励ましをかける。
『こんなのは、いつものことだ』
藍那はそう言い聞かせる。奥路と堂島の楽しい思い出を共有し、デートコースを一緒に考え、記念日の贈り物をアドバイスして……。そんな風に、藍那はずっと二人の関係を支えてきた。だから、いくら堂島の死を願ったとしても、最後の最後まで、藍那は『二人を見守る心優しい女友達』でいなければならない。
そのためにはいくらでも、心にもない言葉を吐く。
藍那は堂島のことが憎くて、うらやましくて仕方なかった。彼女には肉体的にも、精神的にも、ありとあらゆる面で負けていることを藍那は知っていた。
堂島は長身で、藍那の背は平均よりも少し低かった。
堂島は社会人でかなりの額を稼いでいたが、藍那はただの学生でしかなかった。
堂島は(それこそ刻浄と相対しても平然といられるほど)気丈だったが、藍那は未だに確固たる自信を持ったことがない。
そのどれもが奥路が異性に求めるもので、そのどれもを藍那は持っていなかった。
だから――
『堂島なんて怪物に殺されてしまえばいいい』
藍那はそう思っている。(けれどそれすらも、彼女の感じる劣等感を増幅させるものでしかなく、堂島の死によって奥路を自らのものにできる自身もない)
この場にいる二人は、同じ想像をしている。先ほどの放送の原因が紫藤の怪物で、その被害者こそが堂島楓であると。一方で男は彼女の無事を願い。もう一方で女は彼女の死を渇望していた。
「あの人は強くてカッコいい女の人だから。私とは、違うから」
藍那は自身の愛らしさが疎ましく思っていた。藍那の長所は可愛さ。けれど、奥路の好みはカッコいい女の人。
理想と現実の差が、求める者の好みと一致してしまうこの悲しさ。
そんなものを誰が知れというのか、同じ痛みを誰が分かち合えるのだろうか?
藍那が抱く劣等感を『よくあること』と片付けてしまっていいのだろうか?
それはいずれ歪むだろ、そして最後にはすべてを壊して、何もかもを台無しにして、誰も彼もが破滅的な最期を迎えるだろう。
藍那が奥路に受け入れられない限りは……
「そうだと、思いたいけど。でも、やっぱり心配で……」
そう言って奥路は再び画面に視線を落とす。蹴れども、堂島からの連絡は未だない。
どうして、どうして……
そんな声だけが響く。そんな声だけを、藍那由記は聞くしかなかった。
「奥路君。今日はもう帰ろう。先生も早く帰るように言ってたし。ね」
藍那は心がここにはない奥路の腕をとる。けれども、それは微動だにしない。
悲しい顔をする藍那。奥路の腕を取る手は解けて、彼の裾に縋るばかり。
その様子に気づかない奥路は、けれども藍那の願い通りに帰路についた。黙って歩く奥路の後ろを、やはり無言で着いていくだけの藍那。奥路はそんな彼女のことを気遣うこともなく、壊れかけた人形のように歩くばかりだった。