平穏の終わり
第五話 八月十七日
「それじゃ、今日は一回通してみようか。みんな、セリフは頭に入ってるよね」
純情可憐な委員長が号令する。ヴィエまであと三週間を切ったころ。いくつかのクラスは舞台の細かい演出を調整する段階に入っていた。
舞台の上では物語が進行している。怪物を生み出してしまった博士は懊悩し、怪物は自身と同じ容姿同じ存在のつがいを求める。博士は怪物の願いを叶えようと、もう一体の怪物を創造せんとする。しかし、彼に残った倫理というべき思考が、あるいは怪物への嫌悪感がそれを途中で拒絶した。
「博士は耐えられなかったのです。これ以上、醜悪な怪物を増やしてはならない。そう思った彼にとって、作りかけの怪物は生まれ出る者ではなく、破壊しなくてはならないモノでしかなかった」
感傷的なナレーションにあわせて、奥路が扮するフランケンシュタインが叫びながら、丸めた布団を切り刻む。本番では、精巧な人体模型を用意するということだった。
奥路の演技が真に迫っているのもあるが、刃物だって本物だった。ヒトの内臓に似た綿が噴き出る。布団の内側には枕でも隠されていたのか、天使のはねのように羽毛が降り注いでいる。
奥路の瞳は見開かれ、涙すら溢れているように見える。このままでも十分に本番の舞台に立てるのだろうが、あいにくメイクと衣装の準備が定まりきっていない。
「さすがに奥路が演じるだけのことはある。大抵の奴じゃ、あんな風に容赦なくザクザクやれないぜ」
そう言ったのは篠木だった。普段は軽薄と活発の化身のような彼ですら、奥路の演技を見ては真剣にならざるを得ないのだった。
舞台袖には舞台に立つ生徒たちが控えている。彼らは奥路の鬼気迫る演技に感嘆の声をもらす。その光景は日常からはかけ離れすぎている。もはや猟奇的と言っても過言ではない。にもかかわらず、ことが起こっているのが舞台の上であるというだけで、誰もが歓喜すらしている。お調子者な篠木は先の通りに、冷静沈着かつ辛辣な御堂ですらだ。
そして、舞台の下、観客席の側には三組の生徒たちが控えている。彼らも奥路の演技に感動している。二組の生徒たちとの違いは、奥路の真に迫る殺人に慄いているということだ。
そんな生徒たちをヨソに、奥路に見入っている。刻浄と藍那。片方の視線は必要以上に冷徹に、悲し気に。もう片方の視線は愛おしく、熱をもって。
「藍那さん。奥路君って意外と怖い人なの?」
普段と同じ表情で、普段とは違う余所行きの口調で、やはり普段とは違う弱気な発言。
藍那はそんなことを気にするまでもなく、視線を奥路に向けたままで応える。
「奥路君の演技を見るのが初めてのあなたなら仕方ないわね。これが、奥路君をヴィエの主役にしている理由よ。彼の演技は、本当にリアルで、見る人たちの心に肉薄してくる。だから、私は……」
彼を誰にも渡したくないの。藍那は忘我したように焦点を失った瞳を見開いて、そう言った。刻浄が藍那の声音から感じたのは底知れぬ愛。独占欲、歪んですらいる親愛。けれど、奥路には堂島という恋人がいる。そのことを、藍那は知っているのだろうか? 刻浄が他人にある種の興味を抱いた。それはとても珍しいことだった。
「奥路君には、キレイな恋人がいるの。藍那さんは知ってる?」
何気ない一言の後には、急変した藍那の口元。あたりにいた他の生徒すらギョッとさせるほどに噛みしめられた唇。
舞台の上の奥路は、すでに出番を終えている。二組の生徒たちは彼の演技に満足したのか、飛び散った羽毛の片付けもそこそこに、次のシーンの練習を始めていた。
そこに突き刺さる、静かでも怒気と恋情を孕んだ声。
「そんなことくらい知っているわ。刻浄さん、あなたは久也に意識されてると勘違いしているみたいだけど、それは思い上がりよ」
藍那は思った。刻浄は私をバカにしている、と。藍那が奥路に抱く想いはただ一方的なものだった。どれだけ彼女が奥路のことを歪むほどに想おうと、彼の心の中心にはすでに堂島がいる。それだけではない、堂島という存在が、奥路をどれほど愛しているのか。そうあることで、どれほど奥路が救われているのか。藍那は知っていたのだ。
「別に、私は奥路君に意識されてる、だなんて思っていないわ。ただ、彼がどれだけ人に愛されているのかを、知りたいだけなの。彼がどんな風に、人から愛されているかを、ね」
刻浄に向く藍那の瞳は緑色に燃えている。そんな風に比喩されてもおかしくはない。なおかつ、やはり怒りすら見える。
「ごめんなさい。試すようなことを言ってしまったみたいね」
しおらしい刻浄。その態度は普段の彼女からはかけ離れている。不遜も、氷のように冷徹な自信もない。心の底から、藍那の気持ちを逆なでしてしまったことを謝っている。
そんな珍しい事態に気づくことなく、藍那は舞台の方に視線を向け直して、奥路が再び登場するのを待った。
そして、二組の通し練習は終盤に差し掛かる。第三者が首をかしげる、博士と怪物の対峙。それは奥路の一人舞台。フランケンシュタインという作品で、博士と怪物を一対として解釈した結果生み出された幻想的な一体感と悲しいまでの二律背反。
今日は本番ではないはずなのに、奥路の演技によってありありとその情景が浮かび上がる。奥路はジャージ姿で、怪物のメイクも、フランケンシュタインの衣装も観につけていないのに。これぞ、過去二回のヴィエで主役として舞台に上がった人物の演技である。それを見せつけるかのように、二組の生み出した解釈の集大成とでもいうべき言葉が奥路の口から放たれる。
『愛さえあれば、私は人間になれるんだ』
原作の意訳は、それを読む者の思考を巡ることで血の通った別の言葉として生まれ変わる。そして、それを演じる者もまた、役に入り込み、魂を込めて、あるいは心の底からの言葉として自らの存在に溶かし込む。
練習の舞台は絶頂を迎えつつあった、それなのに、ここまでだったのだ。
奥路が最後のセリフを言い放ったのと時を同じくして、校内中のスピーカーからけたたましいチャイムが鳴り響いた。
そして、その瞬間をもって、この日のヴィエの準備は打ち切られたのだった。




