堂島楓は奥路久也を愛している
第四話 八月十五日
日差しは高く、もちろん気温は灼熱の色をしている。紫藤の街の中心部、『駅前』とこの街の住人が言えば『あぁ、あそこね』と帰って来るそんな場所は、平日にもかかわらず雑踏に塗れている。
刻浄静の、暑さで眩んでしまいそうな視界に見慣れた人物と見慣れない人物が映った。
片方は、奥路久也。今年のヴィエでローリエの最有力候補たる三組に所属している(逆に言えば、彼が所属しているからこそ三組は最有力たりうる)。彼の柔和な表情と、若々しく引き締まった身体。生真面目な学生の風貌。それらはきっと、すべてが隣にいる女性のために在る者だろう(刻浄はそう思った)。彼奥路久也は和やかに、健やかに微笑んでいる。
学園で目にしたときとは違う表情をしている。刻浄と相対する前、藍那由記との会話をしているときにも、彼には何か緊張感のようなものがあったけれど、今に至ってはそれは欠片も感じられない。
傍らにいる女性が話しかけるそのときにも……。
きっと、これが彼の本当の表情なのだろう。刻浄は遠くから視線を飛ばしてそう思った。
「それにしても、今年のヴィエは大変だね。他のクラスは街中で練習してるんだろ?」
「そうなんですよ。でも、僕のクラスと他いくつかのクラスは講堂を優先的に使ってるみたいで、なんだか心苦しくて……」
奥路久也は気後れと、罪悪感を抱いている。それらの原因は取るに足らない心配だった。
刻浄の所属する三組は、クラス委員長同士の熾烈な交渉の結果、学園内の施設を優先的に使用できることになっていたからだ。
「君は本当に私の後輩かい? あの学園は有望な役者がいるクラスにはとことん甘いからね。そうでないなら、それはそれは優秀なクラス委員長がいるのだろうね。スターと政治、ヴィエの裏側は人気と陰謀が交錯しているんだよ。私達の年なんて、今よりももっと戦場だったんだよ」
ニカッと快活な笑顔をする女性の名前に、心当たりがあった。いつだったか、藍那さんが刻浄と話しているときに聞いた名前だ。それは確か、堂島と言ったか。
「出来良いの委員長と人気の役者、どちらにも心当たりがありますね……」
奥路は、御堂を思い出した。きっと、彼のクラスの女委員長だろう。彼女はどんなにひかえめに見積もっても、優秀で辛辣という評価しかできない。そして何より、自身がまぎれもない人気役者だろ言うことを自覚せずにはいられなかった。
「お、やっと君にもその自覚が出てきたか。三年目にしてやっと、だなんて。遅すぎるくらいだけれどね」
まだ日が高く、人通りも多い。けれど刻浄の視界には奥路と堂島の姿がはっきりと見えていた。
この日、二組と三組の練習は休みの日だった。いくら人気の役者がいようと、話題となる隠れた令嬢がいようと、辣腕を振るう委員長がいようと、学園の施設をすべて独占できるというわけにはいかなかった。
奥路は、白地に幾何学模様をあしらったTシャツを着て、シンプルながらもそれなりの値段がするだろうチョーカーが掛けられている。
隣にいる女性―—堂島はあくまで清楚な白いワンピース。けれども、奥路と同い年のシンプルなはずのチョーカーがまずは彼女の凛とした雰囲気を現している。そして、何よりも彼女の腰まで伸びた硬質な黒髪が、気丈で神のある気性を現している。そんな印象を、見る者に与える。
実際、彼女の口調を聞いていると、見た目と中身のギャップはそれほどないのだろう、そんなことを刻浄は思った。
――――と、堂島が好戦的な視線を刻浄向けた。それも当然なのだろう、刻浄は二人に引き寄せられるように歩みを進めていたのだ。いつのまにか、二人と一人の距離は数メートルと離れていない。
刻浄は二人と接触するつもりはなかった。けれども、その考えを改める。奥路久也という人物を知るためには、堂島という女性を交えて確認しなければいけないことがあると思ったのだ。
「こんにちは、奥路君」
余所行きの口調、と茜が聴けばそのように評するだろう。
鈴の鳴るような、けれども冷たさは感じさせない、人懐っこい声音。
「あら、キレイな子」
刻浄の挨拶が終わるや否や、堂島が声をあげる。
そこから感じるのは恐れと独占欲、そして何より、刻浄への敵意だ。
二人の短いやり取りの中で、奥路の顔色は瞬く間に青ざめていった。
「あなた、名前は?」
堂島は刻浄の纏う、特徴的な雰囲気をものともしない。けれども、そのように振る舞うのが精いっぱいだったのか、隣で震える奥路に気づくことはない。
「私は刻浄静と申します。奥路君とは同じ学園で、今年初めてヴィエの舞台に立ちます」
「そうなんだね、それは喜ばしい」
堂島は笑いながらも瞳は真剣だ。このとき堂島は、刻浄を恋敵と認識していた。
「ん? 初めて? ということは、君は一年生かい? それにしては大人びているね」
堂島は愛想交じりの笑みを浮かべて刻浄を覗き込む。交錯する二人の視線の中央には、夏の暑さとは比べ物にならない熱が灯っている。
「いいえ、堂島さん。私は奥路君と同じ三学年です。でもクラスは隣ですので、私たち二人は主役として競うことになっているんです」
あくまでにこやかな刻浄だけれど、彼女の視線は何かを見通すような光が宿っている。
『彼女は、本当に……?』
いくら目を凝らしても、やはり他人の心中を見ることはできない。そんな当たり前のことすら、刻浄は忘れてしまいそうになっていた。
それゆえに刻浄は、彼女らしくない挑発的な言葉を選んでしまった。
そして、堂島はその挑発に乗って、様子見の調子で言葉をあわせる。
「ほぅ、君も主役なのか。でも珍しいね。私もあそこの学園でいたけれど、主役をやる奴は大抵が一年からずっとなのに……」
月ノ樹丘に通っていたものとして当然の疑問。
「私は少しだけイレギュラーなんです。学籍はありましたが、なかなか登校できなくって」
刻浄のたおやかな表情に、堂島は少しだけ同情してしまいそうになる。
『いいや、この子は恋敵だ。余計な情を抱いてはいけない』
そう言い聞かせて再び相対する。
「色々あったのかな? でも、君がいくら素晴らしい役者であっても、この子はわたさないぞ」
堂島は奥路を抱き寄せる。奥路は相変わらず氷のように固まって、恐怖に震えているというのに、堂島はそのことに気づいてはいないらしい。
「あら、二人はお付き合いしていたんですか?」
刻浄、白々しく。
「そうだとも、私は久也の彼女だ。問題あるかな?」
「堂島さんは社会人でしょうか? だとしたら、奥路君とはそれなりに年が離れているのでは……?」
「と、年の話はするんじゃない。私はまだ二十代だ。」
堂島は今年の十月をもって二十六歳になる。
刻浄はというと、堂島が急に焦り始めたことを不思議に思うが、その理由を知る由もない。
「久也。この子はやめておけ。なんだか意地悪だ。藍那っていう女の子は可愛らしかったけど、この子はダメだ。って、久也? 大丈夫?」
堂島はようやく奥路の異常に気付く。がくがくと肩を揺さぶると、彼は肺から水を吐き出したかのようにむせ返って、同時に意識を取り戻した。
そして、刻浄への言いようのない恐怖心を堂島に見せないように。
「え、えぇ。大丈夫ですよ、堂島さん」
その言葉を聞いたとき、堂島の顔に刻浄に向けるのとは違う怒気が現れる。
奥路は自身の失言があったと反省し、刻浄は自分がいつの間にか堂島の意識の外にいることを不思議に思う。
「か、え、で。ここは学校じゃないんだし、私のことは名前で呼んでくれ。じゃないと、また色々シてしまいそうになるじゃないか……」
奥路は恐怖と日常に振り回されている。刻浄に視線をやると彼女の背後には殺害現場がフラッシュバックしている。そして、幻視した殺害現場には堂島が解体されている光景がうつる。そんな白昼の悪夢をよそに、その間にも刻浄と堂島の会話は続いていく。
「ところで堂島さん。奥路君とのなれそめを聞きたいのですが」
恐怖は奥路の聴覚を侵食し始めている。刻浄の通りの良い声ですら、妙に間延びして聞こえる。
「なんだよ、私はこの子とのなれそめを、初対面の奴に話したりはしないぞ」
愛おしいはずの堂島の声ですら、上擦ったように歪んで聞こえる。
「えぇ。でも、心配なんです。私も彼もまだ高校生なので、やはり年上の肩との交際となると、余計なコトを色々と考えてしまって」
「よけいな、こと?」
堂島は瞳をぎらつかせて刻浄を視る。そのときに堂島が放った敵意が、敵意だけが奥路の脳髄を刺激する。この声だけは、嫌に鮮明に聞こえる。
「えぇ、奥路君が騙されているんじゃないかとか、変な宗教に勧誘されているんじゃないかとか。大雑把に言えば、この先不幸なことがあるんじゃないか、とか」
この言葉に、奥路は別の動揺を覚える。彼の脳裏にはゴールデンウィークの、怪物が出現する前の記憶が蘇る。愛おしい人。母性、愛情。親愛。それを奥路は感じていて、奥路の記憶にフラッシュバックする女性も感じている、そのはずだった。得も言われぬ恍惚感と喪失感が奥路を襲う。それは沼か渦のように、彼という存在を包み込んでいく。
『このままでいると、僕はどうなるのだろう』
奥路がそう思った瞬間、堂島の声が彼の妄想を引き裂いた。
「お嬢さん、度胸があるのはわかるけれど、初対面の年上に対して少々敵意をむき出しにしすぎじゃないか? それに、私が彼を酷い眼にあわせるわけがないじゃないか」
刻浄には堂島の言葉が、『私に限って』というニュアンスで聞こえたのだった。
その直感に毒気を抜かれた刻浄はしおらしく。
「ごめんなさい。でも、私は確かめたいだけなんです。奥路君が、ちゃんと愛されているのか。彼のことを好いている女性が、本当に彼のことを思っているのかを」
唐突な刻浄の言葉に、思わず顔を赤らめる堂島。
しかし、刻浄にはわずかないたずら心もなく、この問いは真剣なものに違いなかった。
「君、雰囲気に似合わず冗談が好きなのか? まぁいい。ここは大人として、きちんと質問に答えるべきだろう」
そう言って堂島は奥路と刻浄の間に立ちはだかって(まるで刻浄から奥路を守るかのように)こう宣言した。
「私は久也のことを愛している。それに間違いはない。彼だって辛い思いをしてたことくらいあるんだ。誰かが心の底から、この子のことを愛することくらいは、認められてしかるべきはずだ」
その言葉をきいた奥路は堂島の肩を掴んで制止する。
「楓さん。僕のことをそんな風に思っていてくれて、とっても嬉しいでも。でも、昔のことには触れないでください。お願いします」
「ご、ゴメン。久也。私も悪気があったわけじゃないんだ」
「え、えぇ。わかっています。楓さんが、ゴールデンウィークに起こったことを忘れさせようと必死なのは」
刻浄のことは二人の意識から遠のいていた。だから、彼女はそこから立ち去ることは簡単だった。けれども奥路の一言がどうしても気になった刻浄はつい二人の間に割って入ってしまった。
「ゴールデンウィークに、何かあったんですか?」
奥路と堂島の表情が凍りつく。奥路はそのままうつむく。けれど、人生の経験値の差か堂島は何事もなかったかのように。
「何も、なかったわ。刻浄さん。いくら学友が心配だからって、人の事情に踏み入っていいということはないのよ。私も久也も、当たり前に悲しんで、当たり前に誰かを思う、当たり前な人間でしかないんだから」
ギンという視線が刻浄を刺す。けれど、それに動じることもない。鍔ぜり合うような緊張感をもろともせずに、刻浄は「そうですね」と、一言。
「この度は失礼な態度を取ってしまい申し訳ありませんでした。奥路君も、良い人に出会えてよかったね」
そう言い残して刻浄はその場を後にする。一帯を世界から切り取っていた黒髪が遠ざかるにつれ奥路と堂島の周囲には熱と喧騒が戻り始める。
「全く、なんなんだあの子は」
堂島はそう独り言ちて、刻浄の冷徹に中てられた奥路を抱き寄せた。
奥路と堂島はこの日の夜更けまで行動を共にした。
一度は帰宅しなければ、と奥路は帰路につく。彼が自宅に帰ったのを見計らったように、スマートホンが振動する。
「久也。今日もありがとう。途中ヘンな子に会ったけど、そのときの君もおかしかったけど、やっぱり楽しい一日だったよ。本当に、ありがとう。私は君のことを、愛しているよ」
心の底から、愛おしいと、堂島は明確な言葉で表す。
「僕も、ですよ。楓さん。こちらこそ、今日は色々お世話になりました」
奥路はそれに、やはり心の底からの誠意をもって、やはり愛おしいと。
「な、色々、お世話に……。恥ずかしいじゃないか。確かに、今日はあの後いろいろシたけど……」
「どうしたんですか?」
奥路は今日の二人の出来事に気づかないふりをして、無垢を気取った答えをする。
堂島はみなまで答えさせるな、頬の赤さがわかるほどにうろたえる。
「な、なんでもないやい。とにかく、もう家に帰ったなら早く寝ること。夏休みの間はヴィエの練習に出ずっぱりなんだろ? 本番は、私も観に行くから。頑張って」
それを覆い隠すために、ヴィエの舞台に立つ奥路を激励する。
「はい、頑張ります」
すると奥路は、昼間の震えをすっかり忘れたかのように応える。
堂島はこのことに心から安堵して、さよならの挨拶を。
「うん、そのいきだ。ずいぶん元気を取り戻したね。久也。じゃあ、私も明日から仕事だから……。おやすみなさい」
「おやすみなさい、楓さん」
こうして、八月十五日の夜が終わっていく。これが、あらゆる転換点となることを、知る者はこのときは誰もいない。