日常は異常な恐怖の裏側に
第二話 八月一日
目覚めの直前に、奥路久也の瞼の裏に昨夜の光景がフラッシュバックしていた。
七月三十一日に出会ってしまった惨状は、彼の心に不可思議な傷を残してた。けれども不思議なことに奥路は、一夜が明けた時点であの異常な光景と、そこに佇むんで、狂気じみた殺気を放つ少女のことを、まるで夢か何かのようにしか認識できなくなってしまったのだ。
それはもしかしたら、彼の精神が極限状態で編み出した防御方法なのかもしれない。現実にあった異常な出来事をそのまま受け止めてしまうとココロが壊れてしまうから、それを別の形で処理してしまおうという、代替行為のような。
それでも、彼の身体を襲う疲労感は確かだった。ところどころの筋肉が妙に軋む。身体だけは、確かに昨日の出来事を覚えていた。
今日から、学園祭のメインイベントの準備期間だった。ヴィエと呼ばれるクラス対抗の演劇。学年ごとにそれぞれのクラスが、その年の課題作品について解釈し、演出し、観客たちはそれを批評する。最も優れた舞台はローリエと呼ばれ、後夜祭でアンコールされる。
演劇方面にはこれと言った縁がない月ノ樹丘学園の、奇妙なイベントだった。
「いってきます」
返ってくる声はない。両親はしばらく帰ってこないのだ、そんな書置きがあった。なんでも、紫藤の外での仕事が立て込んでいる、と。もしかしたら怪物の出るこの街に近寄りたくないのでは? そんな想像が奥路の思考を徘徊する。
けれども、一人で暮らすということは彼にとっても快適なものだった。もしかすると、堂島と付き合い始めたのが怪物の出る前だったのならば、二人は仲よくこの家で過ごしていたのかもしれない。
奥路久也に関するあらゆる出来事とは関係なく、夏は盛りを迎えている。
八月一日、朝日に熱されたアスファルトの畔が通学路だった。視界の先は陽炎のように揺れている。それにくわえて、月ノ樹丘に通う学生たちの群れが合流を始めると、熱は一層と増していく。
簡単な朝食と誰もいない自宅。通学路に出れば見知ったようなそうでないような学生たち、変わっていると言えば今は夏休みの真っ最中ということだけ。これが、奥路久也の日常だった。もはや、昨夜の恐怖は彼の頭の中で姿を潜めていた。
「よぉ、奥路。いよいよ今日からだな。」
バン、と背中に衝撃が走る。大きな手のひらと、百八十はあろうかという長身。活発に切りそろえられた短髪と、それに似合う屈強な身体つき。
振り向くと、篠木岳弥がそこにいた。
「なんだなんだ? 疲れた顔をしてるのな。まさか、怪物が闊歩している中で彼女といちゃついて朝帰りか? うらやましい、うらやましいなぁ」
篠木はそう言って頭を抱える。彼はことあるごとに奥路に彼女がいることをうらやましがっては、自身に彼女がいないことを再確認しては落ち込んでいる。
そんな篠木を見て、奥路は自分が確かに日常にいるのだと安堵する。
「篠木、そうやって羨ましがってばかりいないで、もっとこうアプローチするとかさ。好きな人とかいないの?」
「好きな人は、いるにはいる。でもアイツ俺のことをチャラついた奴だとかなんとか思ってるんだよ。話しかけるたびにジト目なんだぜ? なんだよそれ。俺と会話したら孕まされるとか思ってんのかよ」
再び頭を抱える彼を見て、周りにいた学生たちは密やかに笑っている。奥路も、そんな彼の知人と思われたくないと距離をおこうとする。
「朝から微妙に生々しい下ネタを言ってるからチャラいとか軽いとか思われるんじゃない? っていうか、そういうキャラならそういうキャラが好きな人と付き合えばいいだろうに……」
「奥路、オマエまで俺を見捨てるのかー」
「いや、見捨ててないよ。アドバイスだよ」
そう言い捨てて奥路は学園を目指して速度をあげる。
「篠木の好きな人って委員長の御堂さんだろ? なんだってそんな組み合わせなんだい?」
「な、なんでお前がそれを知っている……」
「篠木だって、僕が堂島さんと付き合ってることを知ってるだろ? 僕は一言も言った覚えはないのに。それと同じだよ」
知れるところからは知ることができるのだ。学生同士のつながりは複雑で、深い。
「いいや、お前と俺を一緒にするな。お前はヴィエで二回も主役をやってて、俺は二回とも裏方だ。月ノ樹丘学園において、ヴィエでの活躍は知名度の高さに等しい。だから、お前の恋人に関しては知れ渡っていて当然なのだ」
同じ理由で、ヴィエで舞台に立っていない自分の恋愛事情については他人の知るところではないはずだ、というのが篠木の意見だった。
「だって、御堂さんから聞いたから」
ケロッとした顔で返答する。篠木はそれを聞いて冷や汗に似た何かを垂らす。
「御堂が。なんでそんなこと知ってるの? 俺、一度もそんな素振りをしていないんだけど」
「さぁ、本人からしたらそんなことはなかったんじゃない? それに、ジト目で視られるって頃は善かれ悪しかれ(大抵の場合は悪いんだけど)意識されてるってことでしょ」
本当は、三学年になって早々に『篠木の奴が私に卑猥な視線を向けてくるんだ。ヴィエが始まる前にアイツのことをクラスから排除しても構わんだろうか?』などというかなり物騒なことを奥路は御堂から聞いていたのだ。けれども、それをそのまま篠木に伝えては彼が可愛そうだ。
『いいや、ここで苦悩する篠木を見るのも面白いかもしれない』
奥路は危うく、そんな悪趣味に手を染めてしまうトコロだった。
隣では、篠木がうなだれ続けている。かと思いきや……。
「と、その話はさておき。今年のヴィエも頼んだぜ。我らが王子様」
そんなことをニカッと笑って言う篠木に、奥路は半ば呆れたように疑問をぶつける。
「篠木も好きだよな。何だってそんなにローリエにこだわるんだ? あんなの、ただの印でしかないのに」
「おやおや、王子様ともなるとローリエですらただの印とな。まぁ、アレをもらったからって何かいいことがあるわけじゃあないしな」
篠木は大げさに天を仰いで奥路を軽率に非難する。かと思いきや、彼がおもむろに語るローリエへの執着はマジメなものだった
「俺さ、進学先を迷ってたんだ。月ノ樹丘にするか。日ノ出ヶ辻にするか……。兄貴は日ノ出ヶ辻で、姉さんは月ノ樹丘に通ってたの。そんな二人を見て、俺は珍しく考えたわけよ」
このクラスメイトが真面目に考えるとは何事かと奥路は身を乗り出す。
「学園での時間ってさ。割と短いらしいの。入学して、勉強して、しっかり人間関係を作って。そうやってたらあっという間。少なくとも、学園にいる間だけしかみることができるゆめはない。そこで成し遂げる野望はない。そう思ってた」
奥路はクラスメイトのようなことを考えたことはなかった。彼にとっての学生生活はただ消費するだけで、必要なだけの研鑽を行うだけのことだった。だから、学園でいる間に成し遂げる目標、夢のようなものを何一つとして持ち得なかった。
だから、篠木の主張は奥路にとっては新鮮なものだったのだ。
「受験のときにさ。変に後先考えてボーっとするときがあるじゃん? 俺はあったの。そんなときにさ。姉貴が言ったんだよ」
『だったら月ノ樹丘にしなさい。あそこのヴィエは何の価値もないけれど、若者の野望の到達点としてはうってつけよ』
「そんなこと言うんだぜ? 年上のいうことは聞いといて損はないし。運否天賦でも他力本願でも夢がかなうならそれはそれで楽しいだろうって、月ノ樹丘に来たんだ」
まぁ、いざ来てみるとずっと裏方の役回りばっかりなんだけどな。篠木は自嘲する。
「そう、だったんだね」」
奥路はヴィエやローリエの存在を特に意識したことはなかった。彼が月ノ樹丘に入学したのは、単に自宅から近かったという理由のだけだった。だからと言って、ローリエやヴィエのためだけに入学してきた生徒に対して嫌悪感やそのほかの感情を抱くことはなかった。もちろん、尊敬の念すらも、だ。けれど、篠木の考えはそんな奥路にとっても興味深いもので、思わず覗き込むように聞き入ってしまうのだった。
「僕は正直、ヴィエにもローリエにもあまり興味はない。主演だって、僕にしかできないから僕がやる。それだけなんだ」
篠木はそれを聞いて、いつも通りの快活な笑顔でいた。
「それでいいんだよ。あんま
り手を抜くとかだったら俺だって黙ってられない。でもさ、みんながみんな、ヴィエやローリエに躍起になるってのもヘンな話だって、俺はわかってるから。姉さんも言ってたんだ。『もしも三年間ずっとローリエのクラスにいてみろ。それは本当に幸運なことだし――――、何かの間違いでクラスメイトとの美しい友情が芽生えるかもしれないぞ』って。まー、本人はそんなことには何一つ無関心だったんだけどな」
奇妙なことに、ヴィエやローリエに対する価値観が違っていても、二人は同じ考えを共有していた。それを思い知った奥路はひとりくすくすと笑う。
「なんだよ、俺、なんか恥ずかしいことでも言ったか?」
「いいや、そんなんじゃないよ。世の中不思議なこともあるもんだなって思っただけさ。じゃあ俺もがんばってみるよ。絶対の自信はないけれど、ね」
篠木はいぶかしんで奥路をみる。
「何が面白いかは知らないけど、ここまで来たら俺はお前を頼るしかないんだ。あと一回、ローリエのクラスになれば俺の夢はかなうんだからな。だから、頼んだ。今年は怪物に令嬢にと、色々あるけどね」
怪物という言葉に奥路の身体はわずかに強張る。篠木との無邪気な会話のせいで奥路の心は異常と日常を行ったり来たりしている。そんななか、気になる言葉を聞いたことを思い出した。
「―———ん? 篠木、令嬢っていうのはなんだい?」
異常から抜け出したい一心で、奥路は不意な疑問を口にする。
「おいおい、『深窓の令嬢』も知らないって? 王子様ともなると無名の役者は歯牙にもかけないってか?」
篠木はケラケラと笑いながら、奥路の背中をまたしても叩く。
「なんだよそれ、嫌味かい? いいよ、僕も今年は手を抜くことにしよう」
「それはダメだ。俺の野望的にも、生命の安全的にも」
奥路の機嫌を損ねて舞台に立ってくれなくなった、そんなことがクラス委員長であり篠木の片思いの相手である御堂に知れてしまえば、あらゆる意味で彼の学園生活はお終りを告げてしまうのだろう。
「コホン。では、仄かに有名な『深窓の令嬢について』私めが説明いたしましょう」
篠木は妙にかしこまった口調で話し始めた。聞き辛いなぁ、というのが奥路の正直なところだった。
篠木が言う深窓の令嬢の人物像は確かに不思議なものだった。彼女は入学以降入学以来目立つこともなく、現に今年になるまでヴィエの表舞台に立つことはなかった。これだけでも異様なコトだった。ヴィエというイベントがある異常、この学園に入学した者はその時点で舞台に立つべき人間か否かを見定められる。あの人は美形だ、舞台映えをするなどなど。そう言った評価を受けずにはいられないし、もしも高く評価されればそれは三年間ついて回ることになる。
だから主演になりうるような人物が、入学以来誰にも注目されることもなく、もちろんヴィエに姿を見せないということはありえないのだ。
けれどそれも、令嬢を令嬢たらしめるもう一つの噂が逸れも当然のものなのだと思わせるように出来ていた。彼女と初めて対面した三組のクラス委員長は、彼女と出会うその直前まで、その気配に気づくことはなかったのだ。
月ノ樹丘学園の保健室での出来事だった。主である、白衣を着こんだ痩身の養護教諭が興味深そうにそれを見詰めていた。
白を基調とする部屋とそれを支えるリノリウムの床はくすんでいる。怪物が現れる年の春先、進級してクラスのメンバーが確定したときのことだった。選出された委員長は、一人だけクラスに現れていない女生徒がいるということ、その女生徒はこの日は保健室に登校しているということを知り、挨拶だけでもとそこに向かったのだった。
「はじめまして」
白いカーテンに仕切られた保健室。窓は締め切られていて風はない。
どこからかなる鈴のような、それでいて冷徹な声だけで、その部屋が異界に隔絶されたような気分に陥った。委員の男子生徒はそんな風に感じた。あまりに急激に、肌に感じる空気が変わったためそのクラス委員の男子生徒は呆然とした。
「大丈夫ですか?」
女生徒の声は確かにその男子生徒に向けられていた。彼ものことを感じ取って、何とか正気に戻る。
彼女の口からは彼女がなかなか登校できなかったこと。それゆえにヴィエどころか入学式や他のイベントにすら顔を出せていなかったことを聞いたという。
「なにも不思議なことはないじゃないか」
奥路は思わず声をあげてしまう。彼の言うことはもっともだ。誰にも会っていないのだから、誰にも認知されない、当たり前のことだ。
二人の足は再び学園に向かっている。篠木は器用に後ろ向きで歩きながら、奥路の言い分に返答する。
「その意見は当然だね。けれど、クラス委員の男子生徒は件の女生徒がはじめましての挨拶をするまで、保健室には養護教諭の先生以外の気配を感じなかったって言うんだ」
奥路は少し頭を抱える。篠木は刻浄という女生徒がいわゆる幽霊とでも言いたいのだろうか、確かに冗談としては面白いがこれほど真剣に話されるとそうにも白けてしまう。
「話を戻すぜ。これは男子生徒が令嬢の初めて見たときの印象だ」
彼女の肌は白く、髪は黒かった。どちらも艶やかで瑞々しく、春の光を柔らかに弾いていた。肌は保健室の白ほどは病的ではなく、適度に生気のある紅が点している。黒髪は長く、影かマントのようにサラサラと流れている。
彼女はそっと、ベッドを囲んでいたカーテンを開けて衣擦れの音と共に登場した。
均整の取れた身体はしなやかで、一見すると病的という印象からはかけ離れているように見えた。はっきりとした顔立ちもあいまって『登校できていないから病気がちだったのだろう』というクラス委員が抱いていた印象を払拭した。
けれども、やはり活発というわけではなく、ベッドを降りてからクラス委員の目の前にある椅子に座るまでの動作には上品さと品の良さがあった。
絶世の、という言葉が少し足りないくらいの美貌と、この女生徒ならば今年の三年二組がローリエを勝ち取ることができるという確信だけが、クラス委員の頭に残った。
「……と、言うことだ。どうだ、凄いだろ? この話を聞く限りでは、奥路久也の好敵手にはうってつけだ」
ドヤ、とでも言いたげに篠木は胸を張る。奥路はそんな彼に半信半疑の視線を向ける。
「まぁ、言いたいことはわかるけど……。そんな人がなんだって二年間も注目されなかったんだ? ヴィエなんてイベントがある学園だとそんなことありえないだろうに」
「それが、彼女が令嬢なんて言われる所以なんだよ。一目見れば美しいとわかるくせに、それを目にとめるまでが難しい。そんな影みたいな存在感なくせに、舞台に立てば華々しいどころか当たっていないはずのスポットライトが差したように輝かしい。クラス委員のとりはからいで三組の連中が深窓の令嬢を舞台に立たせたときには、全員がその美しさに卒倒したらしいぜ?」
大げさなうたい文句に頭を抱える奥路。(ここでは昨夜のことについては触れない)
「わかった。その令嬢とやらの存在を確かめることにするよ。差し当たっては今日の学年集会奏。そのときにでも……」
「おう、是非そうしてくれ。でもな、奥路。目の端で探す程度じゃ、彼女は見つからないぜ。彼女の霞のような存在感と言ったら、オペラ座の怪人くらいには凄まじいモノなんだから」
「あぁ、その評価は話半分に受け取っておくよ。オペラ座の怪人は男で、不細工らしいからね」
「奥路ときたら、よくよく物語には疎いんだな。日本でいうピアノを弾いて姿を見せない存在と言えば、そのパロディは長く艶やかな黒髪に、健康を損なっていない白い肌。ついでに超絶の美形と相場は決まっているのに」
そんな話は始めて聞いたよ。と、奥路はやはり信じがたいという視線をしている。けれども――――。
『そうか、知らないから僕は疎いと言われているのか』
そんな風に一先ずは納得してやることにした。
奥路が無理やりに頭の中を整理していると、篠木がまたニカッと笑って。
「でも、お前なら負けることはないよ。彼女がどれだけ異質だって、奥路が去年と同じ位の演技をすれば負けないさ。なんたって、奥路は俺の夢を叶えてくれる最高の役者だからな」
なんて他力本願な、と言いたげな視線を向けるも、クラスメイトはそれを意に介さない。
「そういえばさ、お前は見たことあるの? その令嬢を」
「あぁ、アレは確かに実在している。それに、名前負けもしていない」
二人は学園の門の前に立ったとき、登校時間の終わりを知らせるチャイムが鳴る。
「お、早くいかないと遅刻だ。また教室で御堂委員長からもプレッシャーをかけられるだろうから、覚悟しとけよ。奥路サマ」
そう言い捨てて、奥路をしり目に篠木は足ばやに去っていく。奥路は篠木の奔放さにちょっとだけ呆れて、あとを追いかけることにした。
ここに、奥路の日常とせわしない夏休みの後半が始まった。
その後に待ち受けるのが、日常に潜む異常ということを、奥路久也は考えることもしなかった。昨夜には、あれほどの惨状を経験していながら……。
*
朝のホームルームが終わり、クラスメイトたちはヴィエの準備期間が始まることに興奮したように、あるいはヴィエがもうひと月先に迫っていることを、もしかしたらローリエを手にしたときの感動を先取りするように。
喧騒を夏の熱気が後押ししているのか。空調の効いている教室にいてでさえ、そんな風に錯覚してしまいそうなくらいに浮ついていた。
『いよいよ始まるのか……』
奥路はそんな風にクラス中を俯瞰していた。
ポン
軽く、しかし力強く、何やら意志のこもったように、奥路の肩が叩かれた。
「奥路。今年も、君には期待しているぞ」
物静かなようでいてしっかりと通る声の主。奥路が振り返ると、三年二組の委員長たる御堂伊緒がそこにいた。
肩口で切りそろえた黒髪がシャランと小粋な音をたてそうなくらいにきっかりとしたいで立ち。それを細く整った指先で耳に掛けながら、几帳面な長さで放置された灰色のプリーツを揺らして、学園指定の半袖のシャツに空調の風を通しながら。
絵にかいた優等生なようでいて、気弱さからはかけ離れている、力強い印象の彼女。そうではあっても普段は冷静かつ物静かなのだが、ヴィエやローリエに関してはその限りではない。彼女は学園祭を成功させるため、自らのクラスをローリエの座に導くために委員長になった。ある意味ではこの月ノ樹丘学園において最も委員長らしい、委員長だ。
「今朝から篠木に脅かされましたよ。御堂さんがプレッシャーをかけてくるだろうから、気を付けろって」
篠木の名前を聞くと、御堂は細い縁の伊達メガネを冷たい手つきで直した。
「篠木め、また勝手なことを……。そんなんだから――まあいいか」
いつもははっきりとした口調の彼女がモソモソと呟く。
「まあいい。ところで奥路、この私がヴィエに関して気合が入らないわけがないだろう。特に今年に関しては、な。だって、私の人生で最後の、私達が創る舞台なんだから。これがいつも通りのおとなしくて物静かな委員長でいられるわけがないじゃないか」
おそらく、彼女自身が申告する人柄は学園中の生徒が思っている者とは大きくかけ離れているのだが……(特に生徒会、それもヴィエの実行委員会の人々は毎年彼女に辛酸をなめさせられている)。気圧された奥路はそれについては 触れないようにした。
「それは、確かにその通りだね。でも、今年は何やらすごい役者がでてきたとか、なんとか……」
委員長の視線がギラリと光を宿して奥路に向かう。
「ソレ、篠木から聞いたのかい?」
あまりに強烈な委員長に、奥路は先の発言を後悔する。それでも無言になるわけにはいかないから、「そのとおりだ」と形ばかりの返答をする。
「全く、君もアイツの軽口に惑わされないでくれ。深窓の令嬢、なんてのは三組の連中の広報活動の一環さ。そんなのがいればとっくに有名になっている。ヴィエ、なんてイベントがあるこの月ノ樹丘なら、噂に聞くような人物が見過ごされているはずがない。だから、二年間も注目されないうえに、三年になってヴィエの舞台で主演ができる逸材なんているはずがない。故に、コレは二組の小汚い策略だ」
辛辣な評価はそれでも現実的なものに違いない。奥路だって、彼女の強すぎる口調を聞いていながらもそれを認めざるを得ない。今朝篠木から聞いた噂だって、妙に尾ひれがついたような印象を受けなくもない者だったからだ。
「委員長は、深窓の令嬢は幽霊か何かとでも考えているんですか?」
「まさか、それこそあり得ない。私はもっと地に足の着いた推測をしているよ。それに、噂話の中で令嬢(この呼び方はあまり好きじゃない)自身が告白しているじゃないか」
深窓の令嬢は保健室登校だったか、もしかすると何らかの理由で登校はしていなかったのだろ。そのようなことを、御堂は言った。加えて、「転校生の話は聞かないからそれの類に違いない」ということも。だから考えられることは、令嬢は何らかの持病があるとか、それとも人には言いづらい事情がある。それらは詮索するだけ無粋というモノではないだろう。
「それも無理がありすぎやしませんか?」
「そうかい? ここに限らず、学校というトコロは何もかもを隠すのが得意だし、隠れるのが得意だ。デリケートな事情ならなおさらね。だから、そんなことは考えたって意味はない。そんな意味のないことを、なるべく有意義にしようという二組の連中の悪辣さときたら、私ほどではないが反吐が出る」
御堂からは自己嫌悪にも似た感情を感じる。奥路はと言うと、彼女の見解には未だにどういしかねている。
「でも、仮にそうだとしてどうして今更になって登校してきたのでしょう……」
「それは、ホラ。死期が近くなったとか、学園最後の年だからとか……。私ならそれ以外にも半ダースほどこじつけられるぞ、聴くかい」
「いいや、大丈夫だよ」
「それでいい。深窓の令嬢、なんて噂の人物はどこの誰とも知れないただの学園生に違いないんだ。だから、君はいつも通りでいい。今年は怪物だの令嬢だのとイレギュラーなことばかりだけれどね」
そう言い終えると、そろそろ時間だと思ったのか、御堂はクラス中に響く声で。
「さあ、最後の開園準備だ。まずは厳粛に講堂に向かおうではないか」
クラスメイト達はガヤガヤと談笑しながら、教室を出る。その最後尾に奥路と御堂はいた。
すると、彼女の方が一言。
「そういえば、奥路。件の女生徒は三組らしいぞ。私達は二組だから、となりだなぁ。それに、君もあのクラスには知り合いがいたろ。いくら彼女ができたからって、女友達をぞんざいに扱っちゃいけないぞ」
*
講堂は、明るくもひりついた雰囲気であふれかえっていた。奥路は生徒たちの間を縫って三年三組の生徒たちが集っている場所に行く。すると、見知った顔が現れる。
「久也。おはよう。いよいよ今日からだね。ヴィエの準備期間。今年も主演なんでしょ? 久也はカッコいいから……」
顔を赤らめなら彼女は愛らしい笑顔で挨拶をした。
奥路よりも頭一つほど低い背。大きめの瞳と胸は相対する者を引き付けてならないのだろう。深窓の令嬢さえいなければヴィエで主役に抜擢されていたという。痩身、くっきりとした可愛げのある眼もと。艶やかな唇。明るめでよく整えられた髪は肩口で切りそろえられてサラサラと揺れている。
「おはよう、藍那さん」
藍那はより一層華やかな笑顔で、心の底から親愛を示すように奥路の手を取る。
奥路は少し気恥ずかしそうに、「今年も主演をできることになったよ」とはにかむ。
「でも、これ以上は委員長に言わないようにって言われているんだ。ごめんね」
「そうなの? じゃあ、色々と仕掛けがあるんだ。でも、堂島さんには色々話してるんじゃないの?」
「いや、楓さんにも話してないよ。本人からもヴィエの話は絶対にしないように言われてるんだ。彼女、何が何でも観にくるって言ってたから、下手な先入観をうえつけられたくないんだって」
堂島の話となると、奥路は心底幸せそうな表情をする。学園での彼はどこか達観したようでいて、彼の柔らかな造形の表情とは裏腹に、見知らぬ者が一抹の近寄り難さを抱くのだった。そんな奥路が、堂島楓という女性の話となると安らかな顔をする。二人はそれほどまでに深く愛しあっている。そのことが痛いほどにわかる。こと、藍那由記にとっては。
だから彼女は、奥路には気づかれないほど秘めやかに唇をかみしめるのだった。
「そ、そうだよね。彼女さんなんだから、彼氏の晴れ舞台を観たいよね。でも、そうなると堂島さんと二人きりでこっそり練習っていうわけにはいかないね……。今年の準備期間はいつもより短いのに」
「そうだね。最近は会う時間も減っているし、昨日だって楓さんの仕事帰りにちょっとデートができた位だったから……。でも、僕も楓さんも大丈夫だよ。ヴィエの準備だってクラスのみんなも張り切ってるし」
奥路の何げないのろけ話に、藍那の表情は悲壮に歪んでいく。けれども、奥路の方はそれに気づく素振りもない。だから、彼が気にして居るヴィエの話を易々と口にしてしまえる。それが藍那の恋心を酷く揺さぶってしまうモノになることがわからないから。
「っと、そうだ。今朝初めて知ったんだけど、『深窓の令嬢』って呼ばれてる……」
藍那、表情が強張る、苦虫をかみつぶしたような―――
奥路はそんなことは露しらず、言葉を続ける。藍那は上の空気味で、今にもその瞳からは涙があふれ出してしまうか、それともその悲しみが暴発して、深窓の令嬢や堂島楓への敵意へと変貌してしまうか、そのどちらかだ。
「深窓の? 何それ、面白いね」
鈍感を絵にかいたような奥路にも察知できてしまうくらいゾッとするような声音だった。
藍那は、刻浄につけられたこのあだ名を知っていた。
「僕もそう思うよ。クラスメイトなんて、美人の幽霊が現れた、みたいに盛り上がってるんだ。困ったもんだよ」
「久也も彼女のことが気になるの? 堂島さんっていう綺麗でカッコいい彼女さんがいるっていうのに?」
意地悪な口調は藍那由記には珍しい。いいや、これまでにも奥路がその口調に出会ったことはあった。そのときは決まって、彼が藍那以外の女性の話をするときだった。
このときの藍那は、深窓の令嬢と呼ばれる女生徒に、確かな敵意を抱いていた。
「もちろん、恋愛対象として、じゃないよ……僕には楓さんがいるから。」
篠木との会話が盛り上がったから、いつもは冷静な委員長である御堂が無理のある推測をでっち上げたからなど。奥路が令嬢に興味を抱くのはヴィエを間近に控えたゆえの高揚のせいだった。そのことを包み隠さず藍那に話すが、彼女の方からすればそれらはすべて、捕って付けた様な言い訳に思えた。
けれども、そんなことは表に出さずに、ひっそりと心の隅に追いやった。
「こんなお祭り騒ぎも今年で最後だから……。そんな特別に登場する、正体不明の人物って、やっぱり気になるだろ?」
藍那の空虚な表情に、そのうちに隠された、燃えて歪んでしまうほどの恋心に、奥路は気づくこともない。
「ふーん、そういうことにしておきましょう。奥路君も刻浄さんと同じくヴィエの舞台で花形を飾ろうっていう人だから、やっぱりライバルになりそうな人は気になるんでしょうね……」
藍那は努めて冷静に。自ら口にした理由で自身を納得させようとする。
「? そういえば、深窓の令嬢の名前ってなんていうんだっけ?」
篠木も御堂も気になる彼女の名前を最後まで口にはしなかった。それは件の女生徒の放つ奇妙な存在感ゆえなのか、それとも二人ともが令嬢というセンセーショナルな役者の登場に普段よりも興奮していて、基本的な情報を伝え忘れていただけなのか……。
そして、奥路は藍那の気持ちに気づかない。藍那は奥路のことを愛している。奥路に堂島という恋人がいることも承知の上で。藍那が彼に抱く感情は母性のようで、友愛のようで、親愛のようで、その実ひどく歪んでいることに。
「刻浄―———」
「え?」
藍那のつぶやきを、奥路は聞き返す。
「刻浄静さんっていうの。それが、我らが三年三組にさっそうと現れた稀代のヒロインにして、その美貌と醸し出す空気から『深窓の令嬢』だなんて呼ばれている……控えめに言ってすさまじいほどの称賛を受けているにもかかわらず、そんなことを鼻にかけることもない。そんな人の名前よ」
ギリっと歯を軋ませる藍那。
「そうなんだ。でも、藍那さんがそこまで良く言うなんて、刻浄っていう人はとてもきれいな人なんだね。でも、なんだってそんな人が……」
何気ない称賛すら、藍那の心を蝕んでいく。
それを凍り付かせる事態が、二人のまえに現れた。奥路が口にしようとしたそのづきを、これまでにはいなかった第三者が先んじて声にした。
「でも、何でそんな人が、今までヴィエの舞台に立たなかったのか? みんな、揃って同じことを気にするんですね」
奥路と藍那に割って入る声。藍那はそれを聞いた瞬間に瞳を見開き、あからさまな敵意を受ける。奥路もまた同じだった。けれど彼が感じているのは登場した女生徒への称賛や敬意ではない。
凛として、それなのにたおやかで、それこそ母性とか、慈愛とか、親愛に塗れた声。
奥路と藍那二人の前に一人の少女が現れた。それと同時に、当たりの空気が一変した。
瞬間的に、音が消失したような幻覚に陥った。刻浄静という女生徒を目にした者達はそんなことを噂する。篠木の噂話にあった二組のクラス委員と刻浄の初対面、その再現が今度は奥路を当事者として起こっている。
奥路もまた、同じ錯覚にとらわれていた。思わず、奥路はあたりを見回す。周囲は何一つ変わらない。迫るヴィエの熱気に浮かされた生徒たちは、誰一人として刻浄に見向きすることも、同じに奥路しや藍那を気に留めることもなく、思い思いの相手と談笑している。来る舞台に込める思いを口にしている。その光景からは刻浄という女生徒が排除されていたかのような錯覚すら覚えるほどに、誰一人として、彼女とその周辺を気に留めていなかった。
藍那は声を掛けてきた女生徒を見据える。刻浄にこれほど敵意のこもった視線を向け続けていられるのは、刻浄が学園に姿をラわすまではヴィエの主役で間違いないと言われていた藍那由記だけだろう。
刻浄はと言うと、藍那と奥路の会話に侵入したかのように見せかけて、意識は密やかながら明確に奥路に呑み向いている。このことを藍那は察知した。だから、思わずかばうように女生徒と奥路の直線状に移動する。
「藍那さん。そちらの方は、どなたかしら? あぁ、まずは私から名乗るべきですね。初めまして。私は三年三組の刻浄静と申します。ずっとこの学園に籍はありましたが、家の事情でなかなか登校できなくて……。でも、うれしいです。三組の皆さんが私を受け入れてくださって。それに、伝統あるヴィエで主演することまで推薦してくださって」
今朝には消えていたはずの記憶が、再び蘇る。篠木や御堂、そして藍那との会話で取り戻して言った日常の感覚が、一瞬にして瓦解した。いいや、思えば兆候はあったのだ。ヴィエのひと月前になって突然現れた『深窓の令嬢』なる人物。彼女に関するうわさはどうにも不可思議で、人間離れしていた。人とは違う、通常ではない、非日常的な。それらの表現が意味するところはつまり、怪物のような、あるいはあの事件現場のような。異常であったのではないか。奥路の脳裏を深窓の令嬢にまつわる噂がよぎる。これまでは姿を現さなかった。彼女を見る者は異世界に迷い込んだような錯覚に陥る。そして何より、今このときの状況。辺りには大勢の人がいるはずなのに、誰一人としてこちらに見向きもしない。まるで切り離された空間があるかのように。
それを実感した奥路は、自らの手のひらで口元を覆う。そうでもしなければ、嗚咽と共に何かが漏れ出してしまいそうになる。昨夜の殺害現場に広がる血と脂の臭い。さし込む上弦の月、それに映るのは、目の前にいる『深窓の令嬢』刻浄静。
くわえて、決定的な事実にやっと気づく。スカートは、灰色でプリーツ。学園指定のシャツは透けない程度に薄く、パリッとのびている。そのうえをさらさらと滑る黒髪の煌きは、刃のように美しい。
その夜との違いは、昼であるというコト、当たりに人の気があるというコト、相対するのは藍那と自分であるというコト。
そしてなにより、目の前にいる少女が血に塗れていないというコト。
「なんで、お前がここに……」
刻浄も奥路が殺害現場にいた少年であると気づいている。彼女はそれを忘れたことはない。そして、相手と同じく、動揺していて。けれどそれを隠蔽できるほどには、余裕があった。
「あら、あなたとは初対面のはずですが、どなたかと見間違えていませんか?」
この状況で蚊帳の外にいるのは藍那由記だった。奥路の様子がおかしいことにいち早く気づいたのは彼女だ。そして、最も認めたくない事実に気づいたのも……。
奥路と刻浄が既知の関係であったというのは藍那にとって誤算どころのものではなかった。彼女は内心で咆哮している。
『この女は何者だ。久也といつ、どこで、どうやって知り合った。それも尋常な関係ではない、二人の間に何があった』
その激情を瞳にこめて、刻浄に相対する。
「刻浄さん。久也……彼は二組の舞台で主演が決まっている奥路君よ。つまり、貴女のライバルなの。そんな人に向かって初対面とは少し失礼じゃないかしら?」
藍那の言葉に怒気はない、それどころか、感情の震えすら。彼女は普段通り愛らしく、そして若干の皮肉を込めただけだった。
ヴィエの主役である奥路に向かって、学園生として『知らなかった』というのは失礼ではないか?
それも、今年になって初めてヴィエに出る新米の貴女が。
彼女の言葉の外側にはそんな妬みにも満ちた非難があるだけ。
つまるところ、刻浄のような噂話だけが先行して話題になっただけの者が、主演として二度の舞台を踏んだ奥路を認識していないなど、その時点で無礼である、と。
けれども、刻浄は藍那の言葉に込められた意図を解さなかったらしい(理解したうえでわざとそうでないふりをしていたのかもしれない)。
「そうだったのですね。奥路、久也さん。フフッ、なんだか王子様みたい、ですね。藍」
今度こそ、藍那の逆鱗に触れる一言だっただろう。不用意に親しい呼び方をした者には相応の怒りがぶつけられても仕方ない、藍那はそう考えていた。けれど、彼女は暴力や罵倒とは縁がない愛らしく可愛らしい少女だったから、握り締められた彼女の手のひらにはくっきりと、その美しく整えられた爪の跡がついているだけだった。
「それは余計な発言よ、刻浄さん。久也はわざわざあなたのことを尋ねに来たんだから」
「でしたら、私のことを呼んでくださればいいのに。それに、久也って呼び捨てなんですね。藍那さんにこんな素敵な彼氏さんがいたとは、初耳です」
「―—————ッ。あなたっ」
刻浄の発言を聞くべきものが聴けば、震え上がったことだろう。ただでさえ神経を逆なでされた藍那が思わず声をあげそうになる。
「お前が、深窓の令嬢だったのか……。それが何で、あのとき、あんな場所に……」
奥路の震える声が藍那の怒りを遮る。
刻浄は奥路の問いかけにしらを切り通す。
「人違いじゃ、ありませんかあのときとは、あの場所とは何でしょうか?」
「お、お前は昨日、夜にいただろう。あの場所、死体があった場所に。辺りは血の海で、それを何でもないかのように歩いて、刀を持っていて、返り血だって、その制服についていたんだ……」
奥路の尋常ではない発言に、藍那も強烈に違和感を覚える。
死体、血の海、そんな物騒な言葉が何なのか、余人には見当もつかないのは当然のことだ。
「あら、ずいぶんと気味の悪いところにいたのですね。私のそっくりさんも、奥路君も。でもそれはきっと夢でよ。現実的ではないでしょう。夜に高校生が二人、死体の前でであう、だなんて。きっと、世間に流れている怪物の噂のせいですわ。奥路くんもヴィエを前にして気分が重くなっているんでしょう。だから、そんな非日常的な光景を頭に描いてしまった」
刻浄の言葉の間も、奥路は気が狂ったように震えている。その異常な光景であっても、藍那は献身的に(つまりは冷静に)奥路の身体を支えていた。
「久也? 大丈夫? ちょっと刻浄さん、久也と会ったことがあるならあるって白状して。二人の間に何があったの? ことによると、貴女はヴィエの主役を脅かしたことになるんですよ」
刻浄を責める藍那。もちろん、刻浄はそんなことを意に介さず否定を口にする。
「私は本当に、今日初めて奥路君にお会いしたのよ、藍那さん。それに、変なのは奥路君の方。身体は震えているし、なんだか汗もかいている。何かあったのは彼の方よ。大丈夫? 奥路君」
ヴィエの前に体調を崩さないで、と白々しく。奥路の頬に手を伸ばす。
「触らないで」
藍那がその手を払いのけ、奥路を自らの胸で包み込む。
心底親し気な笑顔を向ける刻浄は、わかりました、と一言だけ言い残してその場を去っていった。
「ほらー、全校集会を始めるぞー」
教員の一人が号令する。それによって、奥路久也は正気を取り戻した。
「ゴメン、藍那さん。ちょっと疲れてたみたい。迷惑をかけちゃったね」
奥路の表情には未だ恐怖の色が濃い。それでもいくら本当のことを喚いたところで意味はないと、彼はわかっているから、せめて心配だけは欠けないようにと振る舞う。
「ほらー、整列しろー。もちろん、自分のクラスの場所で、だぞー」
「さっきはありがとう。気になっていた深窓の令嬢にも出会えたし、よかったよ。おたがい、ヴィエでは全力を出そうね」
再びの号令で、奥路はみずからのクラスへと戻っていく。取り残された藍那は、去っていった刻浄の後姿をねめつけるようにみつめる。
藍那はさっきのやりとりに混乱していた。すべては刻浄静という人物が現れたことが原因だった。彼女さえいなければ、奥路との久しぶりの再会を楽しむことができたのにと悔しがる一方で、奥路の豹変という事態に心を乱された。
彼が口にした物騒な言葉たち、もしもそれに刻浄が関与していたならば……。
『刻浄静こそ、私が本当に殺さなければいけない存在なのかもしれない』
藍那由記の思考が、狂気に染まっていく。
*
「今年は色々と恐ろしい事件があるけれど、皆さん気を付けて。ヴィエの練習期間は例年よりも短く不便もかける。だけど忘れないで欲しい、最も大事なのはローリエよりも、ヴィエの舞台に立とうと一生懸命に練習した、舞台を最高のものにしようとした期間。そしてクラスメイト達と共に何かを成し遂げたという思い出なのだと」
パラパラと拍手が起こる。それまでの熱気のわりに小規模な歓迎なのはやはり、怪物の出現によってヴィエの練習期間が短くなるということが原因なのだろう。現に、幾人かの学園生たちはブーイングを発していて、教師たちはそれをたしなめていた。
最も、ブーイングの質も量も、それに続く学園主任の『受験勉強への心構え』というありがたい説法に対してのものと比べれば余程ましだったのだけれど。
そして、ヴィエの準備期間に留意すべき事項が一通り伝達されると、学年集会は解散となった。公の行事としては何事もなく終わったのだが、この日を境に学生たちの間に噂が流れ始める。と言ってもそれは他愛のないゴシップにも似た、噂される当人たちにとってもなんら害のないものだった。
『奥路久也と刻浄静が対面した』
その事実だけで、近づくヴィエに青春のリビドーを燃やす学生たちにとっては十分なものだった。彼らはこれをもって、人生で最後の、月ノ樹丘学園で最後のヴィエを楽しむ心の準備が完了したのだった。
*
月はその瞳を細めて闇夜へと近づいている。白い壁と天井はかろうじて月光の恩寵を浴びて仄かな輝きを保ち、くすんでいるのは闇に落ちていくようなリノリウムの床だけだった。そんな暗澹とした部屋には二人の人物。
一人は茜杏子。右手で煙草をくゆらせ、部屋の主が座る量産品のチェアに腰掛けてもう一人をうかがっている。
もう一人は刻浄静。美麗な容姿と凶悪さを秘める痩身。両腕は身体を包むように組まれて、瞳は紫煙の行先をみつめている。彼女が副流煙の充満したこの部屋を訪れたとき、すぐさま窓を統べて解放しようとして茜に制止された。
そんな絶妙に険悪な二人の内、先に言葉を発したのは茜だった。
「で、今年の第三学年はフランケンシュタインをやるんだって?」
茜は鋭い造形の瞳をチロリと刻浄に向ける。通った目鼻たちが茜の美しさを際立たせ、それが月光に生えているものだから、この二人の心境を知らない者がみれば一枚の絵画のように高尚な印象を受けることだろう。
茜の頬を乱雑にまとめられた彼女の赤みがかった髪が撫でている。そして、茜の正体を包む細い造りのシャツはさらに、くたびれた白衣に包まれている。
「私もあの作品は好きだぞ。慈悲と冷酷。愛情と憎悪。そして人間と被造物の関係性。フランケンシュタイン博士と彼が創った怪物との関係は、それらを効果的に伝えている」
「…………」
刻浄は言葉を発することはない。もしかしたら彼女のも、ヴィエの開催がひと月と迫ったことをこの日あった学年集会で自覚したのかもしれない。それゆえに、緊張しているということもあるのかもしれない。
「そういえば、君もヴィエに出るんだろ? しかも主役で。第三学年にして初舞台、しかも主役に抜擢される、だなんて学園始まって以来だろう。どうした、あんまり光栄だとは思っていないみたいだな」
何か心配事でもあるのか? と茜。
「それはまったく意味をなさない質問ですね。必要とあらば私の思考を読んでください。使い魔相手ならば、それくらいのことは容易でしょう?」
茜、フム、とむつかしい顔をして。
「君の言うことはもっともだ。けれど、いくら私と君が主従の関係にあったところで、私が行使できる権利は多くはないのだよ」
茜と刻浄は主従の関係だった。魔法使いである茜は、刻浄を使い魔として使役している。二人は完全に記憶を共有してはいないが、どちらかに異常があればそれを察知できるほどにはつながりが深い。その異常が精神的なものであれ、肉体的なものであれ……。
前回対面したときから、茜は刻浄とのつながりに違和感を感じていた。『何かを隠している』というのがまず感じた印象だった。それが具体的に何なのかということは先ほど自身が口にした理由で知る由もない。
だから彼女は、あくまで刻浄に自分たちの関係を再確認するだけにとどめざるを得ない。
「私達は殺すべきものを殺すために契約した。それゆえに、それ以外の事柄に関しては大抵無力なんだ。君はその辺のことを勘違いしているようだがね」
間違いなく刻浄は使い魔で、茜はその主人だ。その関係性に間違いはない。けれど、それ以前に二人はそれぞれの意思を持つ存在だ。それゆえに、茜がいくら刻浄の記憶を覗こうとしても、刻浄が拒めばそれを除くことはできない。もちろんのことだが主従契約のみで、茜は刻浄の身体を乗っ取ることも、自由を奪うこともできない。
ただ、そう言ったことが完全に不可能というわけではない。ただ、コストとリターンのつり合いが取れていないのだ。刻浄という存在は石の力をもって茜の魔法に抗うことが多分に可能であるため、仮に茜が刻浄の身体を乗っ取ったところでその状態はながく維持できないのだ。
それに――――
「君は自分のことを殺人人形か何かだと勘違いしているようだから言っておく。君はそれほど扱いやすくはない。それに、契約という形態の意味についても理解不足だ。私が君を思うがままにしたいだけならばもっと冷酷な手段を使うよ。まぁ、それが君に効果的かどうかはさておきね。端的に言うならば、君の身体という道具を満足に扱えるのは君しかいないということだ。戦闘の勘、筋肉の動かし方、心構え。君の身体は君という魂が入ることでやっと完成する。どちらかが駆けていても成立しない、そういう唯一性のあるものなんだよ」
刻浄は不審な視線を茜に向ける。
「————、意味が、分かりません」
「そうかい? 簡単なことだと思うけどね、専門的な道具になればなるほど、特殊な作業になればなるほど、それを使いこなしたり実行したりすることができる者は限られてくる。職人、なんてのがその最たるものだ。鍛冶、剪定、トラディショナルな工芸品なんてのがいい例だろう」
茜の主張はなんとなくは利害できる、けれどそれを実感することは多くの場合はむつかしいのだろう。それは刻浄も例外ではない。
「もっとも、この国ではそういうものをあまり大事にしないらしいから、君が私の言うことを理解できないのも仕方がない。儲からないもの、マイナーなものは必要ない、なんて世知辛い以外の何ものでもないのにね。……まあいい。要するに、君は生きているだけで価値がある。存在しているだけで意味がある。そういうこと
だよ。それがたとえ、誰かを殺すためだけのものだったとしてもね」
鉛筆を削るように、先端をとがらせるように、煙草の灰を削り取る。そうして出来上がった灼熱の尖閣を見て悦に入って、茜は自身と刻浄の関係性を言い表す。
夏の夜の湿気と紫煙が入り混じる。それが薄ら寒い空調に揺られているものだから、この部屋に入ってくる月明りは病んだようにねじ曲がって反射する。
「辛気臭い話になってしまったな。けれど、本筋からは外れちゃいない。君たちが近々演じるフランケンシュタインも、そんな物語だ。当たり前な願いを叶えようとして、当たり前に恐れて、怒って、悲しんで。そういうのもを怪物とか野望とか社会的意義とかを持ち出して面白おかしく、けれど辛辣に描いたものなんだから」
そうして、思いついたように茜はヴィエについてより詳しく語って聞かせろと、刻浄をせっつく。
「そういえば、君の好敵手がいるんだってね。正確に言えば、君がチャレンジャーで、相手の男子生徒がそれを受ける側。名前は確か……」
奥路、そう言ったか。
茜はおもちゃの前でマテを喰らっている子供のように、うずうずとした笑みを浮かべる。
「さぁ、主役、としか聞いていないわ。ただ、一人二役がどうとか……。そんな噂が流れてる。そんなこと、出来るわけないじゃない」
刻浄の主張に対して、茜は舌を鳴らしながら人差し指を揺らして応える。
「それは言いすぎだぞ、刻浄。確かにヴィエの場外乱闘は話題性と奇抜な小細工によるものだ。けれどそれらをやるからには必ず、最高の感動を与えなければいけない。そうでなければ、ヴィエという伝統ある行事への冒涜になってしまうからね」
君が『深窓の令嬢』なんてヘンテコなあだ名で呼ばれているのもその一環だよ、と茜は付け加えてチェアにもたれかかる。
刻浄はと言うとなぜ月ノ樹丘学園のヴィエには『伝統ある』などと冠が付けられているのか不思議がって(月ノ樹丘学園は演劇の方面で名高いわけでも、卒業生がその方面で有名になったわけでもない)、ついでに自身につけられた『令嬢』という二つ名について頭を痛める。茜はそんなことはお構いなしに、語りを続ける。
「話を戻そう。あの作品の主役は怪物とも博士ともとれる。原作に忠実にするならば、極地を目座す船乗りだ」
茜はすでに短くなってしまった煙草を弄んで消化する。そして間もなく、別の煙草に手を伸ばし、慣れた動作で着火する。その一連の行動に、マッチやライターは用いられない。あるとすれば、彼女の指先だけだ。
パチン
指を鳴らすと火打石を打撃したような火花が舞う。その火花は拡散することなく、彼女の指へと集約されて、小さな炎となる。
ジジジ――—―
電子音の紛い物みたいな、アナログな音が鼓膜を揺らせば、茜は指先を宙にはためかせて小さな灯を消し去る。唇からは、最初のひと息の出がらしが立ち上る。
「一人二役でやらせようというなら、件の生徒はフランケンシュタインとその怪物の両方を演じるのだろう。あの二つはお互いに、自分とそっくりなお化けだからな。そういう解釈は何一つ問題がないし、それを舞台の上で実現できたならそれは素晴らしいものになるだろうよ」
「そうなのですか? 私にはその素晴らしさは想像できませんが」
刻浄の上の空めいた返事に、茜は取り合うことはしなかった。
茜はやはり右手に持った煙草をクルクルと、それから立ち昇る紫煙にも螺旋を描かせて続ける。
「あの作品において、博士に起こったことと怪物に起こったことは同等だ。憎み合い、伴侶を殺し合い。追い、追われる。それを考えると、この二役を一人で演じることは自然なことだ。君のクラスはもっとホラー的な解釈を行っているようだがね」
いつの間にか、茜の手には三組の脚本がおさまっている。刻浄の通学かばんは宙を舞い、中身の教科書も蝶のようにヒラヒラと、浮遊している。
「……確かにそう考えるのもわかります。でも、少し無理があるんじゃありませんか? 怪物と博士のやり取りはおそらく必須でしょう。そのときに舞台に立つのは、二人以上でなければならない」
クククッ
ハハーァ。
茜は嘲笑し、『それが原因か』と一人納得する。
「そうだね。でも、不可能じゃない。影絵のような演出をしてもいいし、メイクと衣装を左右で別人のモノにしてもいい。どちらも荒唐無稽だが、仕掛けとしては面白い。私は後者を推すことにしようか」
「冗談みたいな話ですね」
「そんな冗談を現実にしてしまうのが、あらゆる創作物の原動力だよ。最も、君はどんな物語よりも悪夢めいている現実だけれどね」
刻浄はキッと茜を睨んで、すぐさま『しかたないか』というふうにそっぽをむく。そして、手を伸ばしたさきはこの病的な部屋の窓ガラスで。
「流石に、そろそろ煙たくなってきました。未成年者の前での喫煙はほどほどにしてください」
カラカラと窓枠がサッシを滑る。同時に、夏の潤いと太陽に熱された夜の空気が流れ込む。
「やめないか。私はしけった暑さが苦手だ、煙草がまずくなる」
そう言って慌てる茜を残して、刻浄はその部屋を後にする。
サラりと揺れる黒髪は、この二人だけの空間から去るときでさえ、まるで世界から彼女を切り取るように揺れていた。