怪物は何体いるの?
第十三話 八月三十一日⓶
そこに現れたのは、まぎれもない怪物だった。
巨大な口、前方に突き出した顎と鼻は犬のよう。けれども、身体のカタチは人間そのもので、ただ体長は成人男性の二倍ほど。身体は、極彩色を混ぜ合わせたような、澱んだ黒い体毛でおおわれている。腕はやはり巨大な掌も合わせれば地面につきそうなほど長く、爪は日本刀のように鋭く、しなやかだ(そして、片手の爪は血に滴っている)。
ガァア、ガアアアアァ
轟々とも聞こえる咆哮が響く。もはや彼は人などではなくなっている。相対する刻浄が視るまでもなく、そこいらを歩く通行人がいれば悲鳴をあげて逃げ出すか、腰を抜かすことは間違いないだろう。
そのくせ当の怪物ときたら、まだ自身が人であるという気でいるのだ。
刎ね飛ばされたのは藍那の首だった。それはシャンパンのコルクのように、血飛沫と共に宙を舞って空中で一回転、二回転。級数的に速度を上げ、ゴンと鈍い音を立てて地面に落ちた。不幸中の幸いか、彼女の頭部には目立った外傷も、鮮血の汚れもほとんどない。
怪物は自身の声を聞いて、凶悪になり下がった巨大な掌をみつめて呻いている。
奥路久也は、もはや怪物にとなってしまった。(そして、彼は人間に戻ることはない)
爪が毛皮を引き裂くほどに頭を抱える奥路に神速の切先を向ける。それは必殺の一撃。怪物の心臓を穿ち、そこからは鮮血がほとばしる、そのはずだった。
刀と牙が交錯する。ざらついた金属音が月明りに弾ける。そして、怪物がその剛腕を振り回すと、それを刀で受け止める形でいた刻浄の身体は抗えずに宙を舞う。
「僕は、何でこんなことになっているんだ」
刻浄が壁に叩きつけられ吐血する。肋骨の何本かは彼女の肺と内臓を貫いて、胸からは穴の開いた風船のように鮮血が吹き出しそうになっている。彼女を受け止めた壁は深くえぐれ、いくつかは刻浄の背中を擦傷している。
怪物にとっては彼女を殺すのに最適な機会だった。けれども、ソレは追撃を行うことはない。ソレはただ、自身の身体が心と同じく醜く歪んでしまっているという事実から目を背けたがっているだけだった。
「そんなことも、分からないのか……」
ぜぇぜぇと唸る声で、刻浄は憐れみの言葉を向ける(本当に哀れなのはもしかしたら彼女の方かもしれないのに)。
『紫藤の怪物事件』、一連の連続殺人の加害者、その最後の一人は奥路久也だった。
「お前はもう、どうしようもなく歪んでいるんだ。それを認めて、私を殺しに来い」
そうすれば、私が殺してやる。彼女は言外にそう含めている。
そうしなければ、私はまだお前を殺せないとも……。
「お前は与えられていたはずの愛を手放したんだ。最初に殺した女とお前がどういう関係だったかは知らない。けれど、堂島楓はお前のことを心の底から愛していたし、藍那由記も同様だったはずだ」
なのに、なぜ――――
刻浄静は、手に持つ愛刀の切先を地面に向けている。
そして瞳は悲壮に満ちていて、そのくせ怒りにたぎっていた。
『憎い、奴は怪物だ、殺してしまえ』
『彼はただ哀れなだけだ、本当ならば殺したくなんてなかった。そうではない道筋を私は……』
目の前の、奥路久也だったものに対して刻浄が抱く感情は背反している。
殺してやる、と。殺したくない。がないまぜになって、藍那由記の死を目の当たりにしたはずなのに、彼女の心は彼女の身体をうまく扱い切れなくなっていた。
だから、最初の(本来ならば必殺であるべき)一撃を刻浄は防がれてしまった。そのせいで、彼女の身体は深く傷ついている。
すべて、彼女が迷ってしまったせいだった。
怪物を殺す怪物であるという役割を刻浄はないがしろにしていたのである。
そもそも、『怪物である』と断定することは不可能なのである。それは魔女である茜杏子も同じだ。それを可能にするために彼女は怪物の心を集める。その蒐集のためには怪物を怪物と断定できる刻浄が必要だった。だから、二人は契約した。そうすることで、刻浄静は怪物の姿になることなく、怪物としての脅威的な身体能力を有している。
そのはずなのに、刻浄は紫藤の連続殺人においてその役割を放棄した。
その理由は、奥路久也が怪物のなりそこないだったからだ。怪物としての素養を持ってはいても、怪物の姿になりさえしなければ、そんな要因さえなければ、人間のフリをしたままで(もしかしたら幸せに)生きられるのではないか。刻浄はそんなことを考えてしまった。それはもはや、彼女の主人の領分であるはずなのに。
けれど、仕方なかったのだ。彼女は奥路久也に自身の生い立ちを重ねてしまっていた。
刻浄静が怪物になり果てたとき、彼女は彼女の両親を殺している。最愛だったはずの人を、内側からこみあげてくる猜疑心のために殺してしまったのだ。父親の首筋に爪を立てる瞬間の、母親の胸元に拳を突き入れる感触を。彼女はありありと思い出せてしまう。怪物としての自覚が乏しかった彼女は、その姿が発現する直前に茜と契約した。
『君がまだ人間のフリをしていたいなら、君は怪物を殺さなければいけない』
そうでなければ、彼女は他の怪物たちを同じように人を殺し続けるか、魔女に殺されるか。いずれにしても破滅的な生涯を送ったことだろう。
そのときの刻浄は、殺人の罪悪感から来るべき自身の破滅を想像して泣き叫んでいた。故に、その償いのために茜の提案を請け負入れるしかなかった。
『嬉しいよ。では、怪物として羽化する直前の状態で止めておこう。そうすれば、君はきっと同族を見抜くことができる眼を持つことだろうよ』
運がよかった、と茜は言った。
怪物になってしまうときに出会えることは、ましてその状態の存在が錯乱していないことは皆無だった。
だから、そんな奇跡がもう一度おこってくれるのだと、刻浄は勘違いしていたのだ。
「こんなことに、ならなければいいと思っていたよ。あぁ、私が全部、悪いんだ」
刻浄は刀を振り上げる。月明りに当たる刀は、涙のような軌跡を描く。疾走する。
奇跡が起こると思って足掻いた先には何もなかった。それどころか、彼女が取り逃がした怪物は二人の人間を殺してしまった。そんな後悔を、懺悔を、彼女は刀にのせて怪物に向かう。
刻浄の殺気を知ったのか、怪物は咆哮する。ソレの命を狩り取ろうとする刀に、爪を差し向けて防御の構え。再びの交錯。今度は、火花が散るほどに鮮烈。
怪物は受け止めてなお迫りくる刻浄を力づくで振り払う。刻浄は身体を浮かせ、回転し怪物の力をいなして殺す。
「どうして、どうして」
奥路久也だったモノは涙ながらに呻く。
ここにきて、刻浄は自身の役割をまっとうしはじめていた。
殺す。
殺す。
刻浄の呼吸は静かに、蛇の舌帆とに微かに漏れるだけ。
瞳は怪物を見詰め、彼女の四肢には目の前の敵と同じ、異形の力が満ち始めている。
二体の怪物の力は拮抗し始めている。差があるとすれば、最初に傷を負ったのが刻浄であるということくらいだ。
「どうして、僕は楓を殺してしまったんだ」
「どうして、僕は藍那を殺してしまったんだ」
その殺意は、彼がいくら殺人を後悔しても衰える。
刻浄静の瞳には目の前の怪物を殺害する未来だけが視えていた。
「二人とも、僕のことを愛してくれていたはずなのに……」
それはきっと心からの願望だったのだろう。狼狽する奥路は、そんな当たり前のことを今更になって悔やむ。
「いいや、二人とも僕を愛してくれてはいなかった。誰も、僕のことを愛してはいなかった。だから……」
だから殺したのだ。怪物はうわ言のように繰り返す。これは怪物の本心だった。怪物は愛を受け取れない。いくら他人から愛されていても、その事実を怪物はうけとめられない。自身に愛情が向けられているとは思えない。それどころか、その行為の裏にはとてつもない悪意や侮蔑が潜んでいるように感じてしまう。故に、愛するということは怪物にとっては許しがたい詐称だった。
奥路は自身が怪物であると未だに自覚できてはいない。だから、彼の言葉は支離滅裂だ。どちらが真実なのかを、刻浄が冷徹に突きつける。そうすることが、彼女の役目だから。
「お前は、確かに愛されていたんだ。堂島楓も、藍那由記も、狂おしいほどにお前のことを愛していた」
堂島楓はまっすぐだった。それゆえに過剰な愛情表現をしてしまうことが未成年である奥路と性行為にふけってしまった。
藍那由記は確かに歪んだ愛と劣等感を抱いていた。それゆえに自身を堂島よりも劣っていると思い込み、堂島の死を喜びさえした。そして、奥路の悲しみに付け込んで恋人となるしかなかった。
「違う、そんなことはない。楓は俺のことが哀れで仕方なかったんだ。だから可愛がるフリをしていた。そうすることで、僕を性のはけ口として側においていたんだ。あぁ、彼女といるのは本当に心地よかったよ。でもそれは、白々しい恋愛ごっこだ」
何度目か、刻浄が怪物の振りかざす爪を真っ向から受け止める。彼女の小さな足がコンクリートの地面にめり込む。筋線維が弾ける音がした。刻浄の白肌はところどころが破裂して、血が滴っている。最初に受けた傷が、時がたつにつれて彼女を痛めつけてゆく。
「藍那だってそうだ。僕がヴィエで主役の舞台を踏んでいるから、ただそれだけでしか僕のことを評価していない。彼女にとって僕はアクセサリの一つでしかない。だから彼女は僕に心惹かれていたんだ」
刻浄はかろうじて爪の圧力から逃れる。怪物の爪が地面を抉り、けれどもはじき返されるかのように、再び刻浄に迫る。
灰色のプリーツが引き裂かれる。露わになった太ももには、鮮血の軌跡が描かれている。
「そんなことはなかったさ。いいや、例えそうであっても、お前はせめて、どちらかを手放してはいけなかったんだ」
そうすれば、こんな姿にはならなくてよかっただろう、と。
そうしていれば、私はこんなことをしなくて済んだのに、と。
けれど、それができないということの重大さを、痛々しさを刻浄だって嫌というほどに想い知っている。
だから、彼女が怪物に向けるのは優しい言葉でも、同情でもなかった。彼女が怪物にぶつけるのは、辛辣なまでの現実と、筆舌し難い殺意だ。
刻浄の視線は、二人が初めて出会ったとき以上に死を連想させる。彼女と視線を合わせれば、否応なく自身が袈裟切りにされる幻覚が見えることだろう。
「僕は、愛されてさえいればよかったのに、ただそれだけだったのに。楓も藍那も、僕のことを愛するフリをするだけだった。本当の愛情さえあれば、僕は」
にもかかわらず、錯乱した怪物はそれに怯える様子もない。彼だって自身が何者なのかを未だに受け止めきれていないのだ。
二本目の腕が刻浄の胴体を薙ぐ。掠りでもすれば鮮血は噴水のように辺りを濡らし、胴体で受けようものならば彼女の身体はなますに斬られることだろう。
金属が刹那にこすれ合う。ざらついた音が虚空に響く。
刀と爪は闇夜に軌跡を描いて、持ち主の視線はそれぞれ赤と青に輝いて。ヒトならざる力同士のぶつかり合いは二体以外から見れば美しい光の舞に思えることだろう。
「お前が羽化しかかった理由を私は知らない、知りたくもない。けれど、これだけはもう一度いわなきゃいけない。堂島も藍那も、お前のことを確かに愛していた。それが歪んだ愛だとしてもね。だから、お前はそれを手放してはいけなかったんだ」
彼女の言葉は、自身にとっての最後の希望だった(そして、それは今や砕け散ってしまっていた)。
怪物の咆哮がそれを否定する。彼には『愛している』の言葉はすでに届かない。
それもそのはずだ、刻浄は確信していることがある。それを、絶対の真実だと思いたくないのだけれど。
「奥路、お前は愛を感じられないんだ。どんな行為をもってしても、どんな言葉をもってしても、お前にそれが届くことはない」
刻浄の身体が月明りに照らされて、その人間離れした身体能力が彼女の軌跡を紫電へと変える。怪物の右腕が切り落とされる。神の視線のごとき月光が刻浄に、涙のほのかさで降り注ぐ。
「愛を受け取っていないから、愛を知らない。もうそんなレベルの話じゃない。お前の心は、愛というモノを受け取れないように出来上がってしまった。その不調は憎悪となってお前を蝕んだ。その結果が今の姿だ」
刻浄静という存在が、全身全霊で現実を突きつける。これ以上ないというくらいにはっきりと、どんなに耳を塞いでも、いくら目を反らしても逃れられないほどに。
「そんな、そんなことはない。僕がこうなったのは、誰も僕を愛してくれなかったからだ。みんながみんな、僕のことを都合よく利用して、好き勝手に弄んだから。だから……」
怪物――いいや、それは奥路の悲痛な叫びだったのだろう。けれど、それは彼だけの言い分でしかない。彼は自身が抱く疑念の振り払い方を、生まれながらにして放棄しているのだ。
だから、それはもう彼を殺すことでしか解決しない。
怪物の視界から刻浄が消え去る。残像に腕を振り下す怪物はその手のひらで地面を砕く。。
月光は、逆光だった。けれども闇夜に紛れれば、その弱々しい光は太陽だった。
月と刻浄と怪物とが、一直線に並んだ。
怪物は瞳を細める。がむしゃらに毛むくじゃらの剛腕を振り回す。刻浄は身を捩らせて受け流し、すれ違いざまに刀で裂く、落下する。切先の着地点は、怪物の眉間だった。
「愛があれば人間になれる、だって? 大間違いだよ。お前は、お前である限り人間にはなれない。怪物っていうのはね、自覚するまではかろうじて社会に溶け込めているけれど、一度気づいてしまえばもう戻ることはできないんだ」
『だから、私が殺してやる』
刻浄は呪いのようにそんな言葉を口にする。
怪物の巨体が倒れるのは刻浄がそう言い放つのと寸分の違いはない。地響きと共に地面を血に染めるソレ。頭蓋からは脳漿交じりの鮮血が吹き上がっている。刻浄は血の雨の降る宵闇に降り立って、こうつぶやく。
「もしも人間になれるなら、どれほどよかったことだろうね」
彼女の絶望は、いつだって血の雨が降った後にやって来る。




