宴の後の夜
第十二話 八月三十一日⓵
ヴィエの準期間は終了した。奥路には、八月十七日の後遺症はない。彼は藍那からの告白を受け入れて以降の奥路は生気を取り戻して舞台に立ち、観る者を魅了した。
奥路の復帰に、学園中が歓喜した。それまで流れていた『奥路の退場』という噂は瞬く間に描き消え、代わりに『深窓の令嬢』と奥路久也のどちらがローリエに届くかという話題へと移っていった。
そして、ヴィエの準備期間が終わる。それは即ち月ノ樹丘学園生の夏休みが終わることを意味していた。後に控えているのは、始業式の翌日から始まる学園祭と、何よりも準備期間の終りを祝う打ち上げだった。この打ち上げのときばかりはクラスの垣根を越えて集まり、食事を共にする。歌い、語らい、来るべきヴィエでの健闘を互いに祈る。そんなイベントだ。
舞台準備の終了を告げる学年集会は粛々と進行した。教師たちは受験に向けての心構えなどと言う無粋な説教をすることもなかった。生徒たちは集会の終了直後もその場を離れることもなく、ある号令を待った。
月ノ樹丘学園の第三学年の生徒たちの前に立ったのは二組の委員長である御堂だった。
「諸君、今年の打ち上げは喫茶『陽光』の隠し部屋にて行われる。物騒な日々の中ではあるが、ぜひ参加してほしい」
彼女がそう宣言すると、第三学年の生徒たちは喝采をあげ、コレをもって舞台準備の期間は終わりを告げた。
ヴィエを前にして興奮の治まらない生徒たち、それは御堂も例外ではなかった。そもそも彼女は最後の学年でローリエの座につくという渇望があった。けれどそれ以外にも、普段は冷静と冷徹の象徴たる彼女がヴィエを前にした熱気に浮かされたように振る舞うのは、そうあることがクラスをまとめ上げるために必要であると考えたからだ。
生徒たちは御堂に導かれた羊のように、喫茶『陽光』を目指して移動を始めた。
紫藤の街にはそれと名前を同じくする河がある。その川は街を蛇行しながら流れて、彼岸と此岸を分けるように、街を東西に二等分していた。
紫藤川の東側にある学園が月ノ樹丘学園で、それと鏡合わせの位置にあるのが日ノ出ヶ辻学園だった。
そんな昼と夜が逆転したような造りの街のほぼ中央には今は寂れゆく商店街が(怪物が最初に人を殺した現場)ある。吹けば飛びそうなわびしさを抜けると、紫藤川の畔、その東側にでる。そこに喫茶『陽光』はあった。一戸建てを洋風に改装した外装、周囲にはただっぴろいながらも丁寧に整えられたガーデン。そして、地下室へとつながるガレージがある。
「マスター。これから地下室をお借りします。本日は会場を用意していただき、ありがとうございました」
御堂は店舗の側にいる店主に挨拶をする。『マスター』とだけ呼ばれる、キレイに白くなった髪の壮年とも若者にも見えるその男性が厨房から顔を出す。
「おお、やっと来たかい。待ってたよ。もう準備はできているから、今日くらいは羽を伸ばしていきなさい。あんまり遅くなるようなら、帰りの車も手配するからね」
月ノ樹丘学園の第三学年は、舞台準備の打ち上げを『陽光』の地下室を借り切って行うのが伝統だった。
「なにからなにまでありがとうございます。みんなも喜んでました。学園も反対するだろうと思ってたのですが、意外とすんなり打ち上げの許可を取ることができて、マスターのおかげですね」
「いやいや、毎年ごひいきにしてもらってるからね。先生たちも、知ってる所ならば目が届きやすいと思ったんだろう。さぁ、君も会場に行きなさい。料理はそろそろできるから、開宴の挨拶を始めておいてよ」
冷めてしまっては作り甲斐がないからね、とマスターははにかんで促す。
「わかりました。では、後のことはよろしくお願いいたします」
「うんうん、その調子だ。たのしんでおいで」
『陽光』の地下室と言えば、月野木丘学園の生徒たちにとって不思議がられている場所だ。
第三学年が例年この場所を打ち上げの会場にするという慣習も奇妙と言えば奇妙なものだし、マスターが正体不明であるということもいかがわしさを増す要因だ。そして何より奇妙なのが、地下室の成り立ちだった。
あんまり気になった御堂は、ソレについて質問した。するとマスターは、こんなふうに応えた。
「あぁ、ここを作ったのはね君たちの先輩の、お母さんなんだよ。僕の古い知り合いでね。やると言ったら何が何でも実現させてしまうから、地下室だって話が出た頃には着工の準備まで整ってたよ」
なんでも、件の学生のアルバイト先にするためだ、とそういうことだったのだ。しかし、それにしても疑問は残る。
「でも、何のアルバイトなんですか? なにか特別な設備が必要ならもともとそれがあるところに行けばいいのに」
それもそうだねぇ、とマスターはなつかしさに身を浸したように微笑んだ。
「僕もそう思った。でも彼、あぁ、君たちの先輩ね。ピアノがうまかったんだよ。彼のアルバイトはピアノの演奏でね、ホラおしゃれな喫茶店とかで時々あるでしょ? 僕の方としてもそういうのがあるのは嬉しい限りだし二つ返事で受けたんだよ。でも、彼は恥ずかしがりやでね、人前に出たがらない。だからここに地下室を作って、演奏をそのままお店の方に流せるようにしたんだ」
「はぁ、でも、コストとリターンがあべこべですね。お金が欲しいから働くはずなのに、お金をつぎ込んで働き場所をつくる、なんて」
常識的な御堂の意見に、マスターは変わりない笑顔でこう言った。
「うーん、確かにさっきの表面的な話だとそういう解釈になるね。でも、彼は姿が見えないこそ素晴らしくてね、なんでも死んでしまったピアニストがとりついていたとか、何とか」
突拍子もない言葉に御堂は眼を丸くするばかりだった。
「はぁ、でもそんな話聞いたことが……」
「それは、とても昔の話だからね。君が知らないのも無理はないさ」
不可思議を解明しようとしてさらなる不可思議を目の当たりにしてしまった最後に、マスターはこう付け加えた。
「彼についてたのはカレンというピアニストでね、生前はとても美しくて、可愛らしい音で弾く女の子だったんだよ」
御堂はこう結論付けた。『この喫茶店は不可思議の巣窟だ』、と。
そんな曰く付きの会場で、宴会は始まろうとしていた。すでに生徒たちは談笑にふけっていて、そのくせ御堂が制すると瞬く間に静かになった。
「みんな、今日までお疲れ様。三年の年は受験もあるけれど、月ノ樹丘の生徒はヴィエからは逃れられない。あとは本番を残すのみ。ローリエを目指し、アンコールの舞台を踏むことを夢見ながら……」
乾杯‼
委員長が発するその合図と共に、集まった生徒たちは思い思いの振る舞いを始める。
ある者はソフトドリンクを呷り。あるものは談笑にふけった。ヴィエへの準備期間を通して親しくなったものとの時間を過ごす者もいれば、クラスでの団結をさらに高めようとする者もいた。
そして、生徒たちの中には今年のヴィエの目玉である奥路久也と、舞台準備期間直前から噂が広まり、今では奥路と肩を並べるほどの知名度を誇る『深窓の令嬢』刻浄静の姿もあった。刻浄には彼女の存在に気づいた者達も話しかけるのを躊躇って、彼らは遠巻きに称賛するだけだった。
一方、奥路は藍那由記と共にいた。彼のクラスメイトは彼の復帰を祝い、藍那との仲を祝福した。特に篠木は。
「いいなぁ、奥路。何でアイツはあんなに持てるんだろう……」
なんてことをぼやいては御堂に「軽薄で、考えなしで、馬鹿みたいなところを直せばちょっとはマシになるんじゃないか?」と言われると。
「って、それやったら俺じゃなくなるじゃねぇの?」
そんな風にアイデンティティの崩壊を危惧した。
「愚かしさを自分の存在価値に結び付けるなんて、はた迷惑もいいところだな」
御堂は容赦なく突き放した。
篠木は地下室の隅っこでクスンと涙を流し始め、彼もまた奥路や刻浄とは別の意味で注目を集めた。
「―———————」
刻浄の視線が奥路と藍那に向かう。二人とも、彼女の視線に気づく様子はない。呑気なものだ、と彼女は思う。けれども、それは彼女も同じだった。
この三人は誰も、怪物がこの直後に殺人を犯すことになると考えもしなかったのだから。
やがて、宴もたけなわ。それは夕暮れが近付いた頃だった。夏も終わりが近づいているはずなのに、この日はまだ蒸し暑く、日差しが陰りを見せたところで熱が冷めていく様子はしばらくなかった。けれども、この年の打ち上げはそんなときに終わりを告げた。
「みんなすまない。今日はこれまでにしようと思う」
どこかでマイクスイッチがオンになる。それと同時にホワイトノイズがスピーカーから流れると、生徒たちは自然と静かになった。(怪物の到来を告げる不吉な音に聞こえたのか、御堂が発現することを予期したのか、それはおそらくどちらもだろう。)
最初の挨拶とは打って変わって、彼女の声音は酷く落ち着いたものだった。夏が終わると、夜の到来がひどく早くなることと似たものがなしさすらあった。
それを聞いた生徒たちは歓談もそこそこに、三々五々家路につく。怪物の恐怖心が根底に残っていたのか、マスターをはじめとした『陽光』のメンバーたちが学生を送っていくことはなかった。
「おやおや、今年はずいぶんと早く帰るねぇ」
「やっぱりみんな、怪物のことが怖いんでしょう。でも、ちゃんと帰ってゆっくり休めば、少しは気がまぎれるんじゃないでしょうかね。何と言っても、翌日からはヴィエの本番ですから」
御堂は前向きにとらえ直す。そんな彼女でさえ、やはり怪物に対しての恐怖心を抱かずにはいられなかった。けれども、それと同じくらいに嬉しいことがあるのを、彼女は忘れてはいない。
「そういえば、奥路君は元気だったね。聞いた話じゃ、舞台に立てなくなったらしいけど」
そんなマスターの心配に、御堂は意気揚々と答える。
「それは根も葉もないうわさですよ。彼は、今年の彼は、ヴィエの舞台に立つ理由をもって挑んでいますから。誰にだって、負けはしません。あの『深窓の令嬢』にだって……」
マスターは御堂の表情にどこか悔しさを感じ取ったけれど、それも子供たちだけの苦悩なのだろうと思って、ただ「それはよかった」というにとどめたのだった。
「では、私もこれで失礼します」
「あぁ、君も気を付けてね。お、あんなところにボディーガードがいるなら、大丈夫そうだね」
マスターが不意に向けた視線の先には篠木がいた。御堂はそれに気づいて口元を「へ」の字に曲げる。
「マスター、アレは関係ありません」
ニッコリとほほ笑んで、御堂は『陽光』を後にした。篠木はというと、すたすたと歩いていく御堂を追いかけるばかりで、きっと口もきいてもらえないのだろう。
*
そんな御堂と篠木と入れ替わるように、茜杏子が『陽光』を訪れた。
「やぁ、久しぶりだね、マスター」
後頭部で結んだ、赤みがかった髪が揺れる、いたずらな瞳のきらめきが白髪の男性を射抜く。マスターは彼女の来店に眼を丸くして「今日も、いつものでいいのかい?」と、当たり障りのない会話をする。
「あぁ、それで頼んだよ。それにしても、今日の月はキレイになりそうだ」
柄にもない、とマスターは思った。茜杏子という存在の正体を強いる彼にとっては、そんな風に風情に浸るときの彼女は大抵、悪辣であるということも。
*
「奥路君、二人だけで、こっそり帰ろうか」
他の生徒たちが御堂に傾注しているとき、藍那は密やかに(そして、とびっきり可愛らしく)奥路を誘った。奥路もその提案を受け入れ、二人は誰にも気づかれないようにと早足にその場を後にした。
二人の退場に気づいている者達もいた。けれども、それを無粋にも騒ぎ立てる者はいなかった。ただ一人だけ、刻浄静は奥路と藍那よりも微かな気配で、二人の後を追って退場したのだった。
奥路と藍那は紫藤の街をあてどなく、彷徨うように歩いた。寂れた商店街のノスタルジックをかろうじて感じられる店を冷やかし、小道を嫌うように手を握り合って掃き溜めか死体のようなそこを抜ける。怪物が現れたという現場には見向きもしない(それは当たり前のことだが、ことこの二人にとってはそうではないはずだった)。
そして開けた駅前に出たと思うと、すぐさまオフィス街に姿を隠す。このときすでに夜の帳は降りていて、制服姿の男女を見れば警官が邪魔に入ったことだろう。
「ここでね、楓さんをよく待っていたんだ」
小さな書店の前で、奥路が言った。寂しげな彼の表情に、藍那は以前とは違う慈しみの色をもった視線で応える。
「そう、なんだ」
小さく頷くように。藍那は今を生きていて、堂島は奥路の思い出の中に慕いない。このときになって彼女は、その差を彼女は認識した。それによってはじめて堂島楓よりも勝っているということを実感した。
「これからは、ずっと一緒にいようね。私は久也を待たせたりしないし、置いていったりもしない。今みたいに手を取り合って、二人で……」
月は、上弦で笑っている。その光が、赤く染まった藍那の頬を照らす。
「そう、だね」
奥路はそんな月を見上げる。藍那がその横顔を見ようとしていれば、逆光で奥路の表情を見取ることはできなかったことだろう。
再び、二人は歩き始める。
今度は、明確に人気のないところを目指して。
地方都市の繁華街の、控えめなネオンの光を掠めて、住宅街の方に向かう。街灯の光はだんだんと頼りなくなっていく。
「久也、今日はどこまで行くの?」
「そうだね、今日も両親の帰りは遅いし、まだまだ歩くでしょ? ウチで止まっていってもいいんだよ?」
近くを走る車のライトが、照れくさそうな奥路の顔を掠める。「でも、急にお泊りなんて、ダメだよね」とごまかし笑いをする。
「―———————、いいよ。私も、行きたい」
望外の答えに、奥路は硬直して、藍那の手を少しだけきつく握りかえる。
「ありがとう。嬉しい」
「私もよ、久也」
これを学園の生徒が聴いたら何人かは卒倒したことだろう。二人の行先を刻浄だけが知っていた。けれども、そんな噂が流れることはついぞなかったのだ。
刻浄は獣の静寂と鋭敏さをもって二人を追跡していた。ビルの上から、家屋の陰から、月明りに紛れて。星のように瞳を煌かせて、夜を塗りたくったような気配で。けれども、彼女に二人のやり取りは聞こえていない。そのことに刻浄は精神的な疲労を覚悟する。彼女は最後の瞬間が訪れるまで、つけ狙うと心に決めていた。
幸いなことに、誰かに後をつけられていると警戒しているということはなかった。いいや、そうだからこそ刻浄は時間をかけて追跡しなければいけないのだった。
二人は歩き続けている。時折微笑んでいるのが次第に藍那だけになっていくのを、刻浄は知っていた。
「ここは……」
刻浄は言いようのない気配に襲われる。奥路と藍那は、その先に進んでいく。
気味が悪いからか光を消された街灯の上から、藍那は二人を見下ろしている。刻浄はこの場所を知っていた。茜杏子から見せられた記憶が、嫌というほど刻まれていた。
「堂島楓が殺された場所か」
血と脂の臭いは未だに残っている。そのはずなのに、どちらともがそれに気づかないでいる。いいや、片方は気づいていながら平気でいるのだ。
「ねぇ久也、久也はなんで私と付き合ってくれるの?」
ふと、藍那は足を止めて奥路に問う。不安、だったのだろう。藍那は自身が奥路の好みから外れていることを嫌というほど自覚していた。堂島が死んだところで、その不安は消えることはなかった。だから、何度も確かめてしまうのだ。
そうせずには、いられないのだ。きっと、彼女はこの先もずっと同じ不安にさいなまれる。堂島の死を渇望していたくせに、彼女が死んでしまっても奥路の心の奥底には記憶として刻まれている。それがいつ噴き出て藍那と奥路の関係を破壊しないとも限らない。
それは、果てしない猜疑心の始まりで
「それはもちろん、君のことが好きだからだよ。そんなの、当たり前じゃないか」
隠されたように存在する袋小路で月に照らされたところで、奥路から好意的な言葉を受け取ったところで、藍那由記は死んでしまった堂島楓に怯え続けるしかない。
ならば――――――――
『奥路を殺してしまえば、彼はずっと私のモノになるんじゃないかしら』
そんな邪悪な考えが頭を過ってしまう。思わず、殺気めいた気配を放ってしまうほどに。
月光が、白熱級のスポットライトのように二人を照らす。奥路は藍那の肩を掴んで、抱き寄せる。刻浄の瞳は星のように、その瞬間をみつめている。
二人の唇が重なろうとする。奥路は覆いかぶさるように、藍那は涙ながらに、必死に縋るように。
そのとき、秋に向かって吹く風が、月にかかる。終幕のように辺りは闇に包まれる。刻浄の瞳ですらその闇を見通すことはできない。
このときになってですら、刻浄は懊悩していた。やるべきことはわかりきっている。それを行うことに抵抗はない。けれど、『できることなら、そうならない方がいい』と思ってしまう。そんなことは絶対にないと、わかってすらいるのに……。
だから彼女は、早く月が出ろと願うばかりで、ただ身を乗り出すばかりで。
自身の目の前で人が死ぬまで、何もしなかったのだ。
二人の唇が離れる。幸せそうな藍那の表情。寂しさを含みながらも懸命に幸せであろうとする奥路の笑み。
それも数瞬のこと、気まぐれな月が再び顔を出す。
その瞬間、血飛沫が上がり、首が一つ、宙を舞った。




