愛の力
第十一話 八月二十日
三年二組の教室にて―――—
「私達に、何の用だ? こっちは手痛いトラブルで四苦八苦しているんだが」
御堂は苛立ちまぎれに、けれど油断ならないという風に、目の前にいる女生徒に対して率直な物言いをする。
教室の机はほとんどが背面黒板の側に片付けられているが、三つだけは教室の中心に、向かい合うように並べられている。
「なんだこれ、三者面談でも始めるのか?」
御堂の傍らに座る篠木がそんな冗談を言ってみせるが、その表情には愉快さは一切ない。なにせ、二人が相対しているのは『深窓の令嬢』刻浄静なのだから。
夕暮れの頃、灼熱の日差しは陰りを見せても、熱と湿気は衰えを未だに見せない。
学園生のほとんどは下校していて、完全に学校が閉鎖されるまであと一時間とない。
「その手痛いトラブルとは、奥路久也の退場のことですか?」
それ以外にないだろうと、御堂は口元を歪める。奥路が舞台から離れたという噂はすでに学園中に広がっていた。それでも御堂はそんな噂を肯定するそぶりを一度も見せたことはなかった。
「そんな噂が流れているね。まったく、ウチのクラスに対する陰湿な攻撃だよ。ヴィエを目の前にしてこの仕打ち、恥ずべき行為だよ」
それを行ったのは『深窓の令嬢』という話題作りを行った三組なのでは? そんな疑念を包み隠さず口にする。
刻浄はそんな誤解に取り合うことはない(実際のところ、噂の出所が何処なのかは刻浄の感知するところではなかった)。
「今は、そのことを認めてもらわなければ困ります。私は彼の不調とその原因を知っていますし、それを解消する方法も知っているのですから」
御堂は警戒の度合いを強くする。篠木もまた、刻浄という女生徒のミステリアスな一面をまざまざと見せつけられて困惑している。
「なん、だと?」
けれども、望外の展開に御堂は瞳の色を変える。彼女にとっては刻浄の提案は救いそのものだった。
「ちょ、ちょっと待て。刻浄さん。それはどうやってやるんだ? 奥路はもうボロボロなんだ。それを無理やり引きずり出そうなんてしないんだよな?」
御堂の強硬な姿勢を知っている篠木は慎重な意見を述べる。彼はそうでなくとも、目の前にいる女生徒の提案に悪魔の契約のような印象を抱いていた。
「はい、私は奥路久也に危害を加える気も、彼の不本意な登場を期待するわけでもありません」
「では、なぜだ?」
御堂は疑わしいモノを視るように片目を閉じて問う。
「君には動機がないんだよ。そのうえに、奥路と君の接点と言えばほとんどないハズだ」
「確かに、おっしゃる通りですね。私は奥路君と話したのは数回ですし、ローリエを目指すのであればライバルが少ない方がいい、のですが――――」
この後に続く言葉を、篠木も御堂も予測することができなかった。けれど、本来ならばこの二人こそ予測して然るべきものだったのだ。
「だって、私以外にローリエにふさわしい者がいない中で最も優れていたとしても、そんなのは本当のローリエとは呼べないのではありませんか?」
この発言に二人ともが言葉を詰まらせた。深窓の令嬢という、主演とはいえ今年初めてヴィエの舞台に立つ生徒が、ローリエを最も誇り高い者として認めている。そして、そうであるためならばライバルを万全の状態にしようという。
「そんな冗談みたいなこと、あってたまるか」
御堂は刻浄の動機が信じられなかった。刻浄の態度がヴィエに最もふさわしいモノあるということを認めていてでさえ。
「けれど、私達にとっては最高の希望だ。どのみち、奥路なしではローリエを争うことすらできない。だから、聞かせてもらおうか、刻浄静。君が考える奥路久也の復活劇を」
篠木は二人のやり取りに呆然としている。いくつか反論の余地はある、けれどそれ以上に奥路の復帰という可能性に心を揺らされていた。
「そ、そうだ。まずは話してくれよ。刻浄さんが考えていることを」
フッと、刻浄はほほ笑んで。
大真面目に、こんなことを言った。
「奥路君を舞台にあげるのは、愛の力です」
聞いた直後、御堂と篠木は眼を点にした。
そして、奥路久也は刻浄の目論み通りに舞台に立つこととなった。それに関して刻浄が何か行動を起こすことはなかった。実行したのは御堂だったが、彼女がやったことと言えば奥路の登校を促して、彼の登校にあわせて二組の舞台練習を彼女が観劇するのを許可したことだけだった。
たったこれだけ。たったこれだけで、刻浄静は自身の願いを叶えようとしていたのだった。
たったこれだけしか、彼女ができることはなかった。
八月二十五日、奥路久也は藍那由記を受け入れ、再び舞台に立つ決心をした。
そのとき、刻浄静は舞台練習の最中だった。彼女は博士の役で、怪物と最後の対面を果たした瞬間だった。
『私は必ず、お前を殺す』
それは必ず起こる出来事への、宣言だった。




