Loveless monster
プロローグ 五月一日 最初の出来事
その年のゴールデンウィーク以来、紫藤市は異様な空気に包まれていた。
始まりは五月一日、その早朝のことだった。駅前の(地方都市には馴染み深い、寂れ切った)商店街の路地で、一人の女性らしき死体が発見されたのである。
あまりに衝撃的な事件現場のおかげで報道は躊躇われ、詳しく知る者の間には箝口令がしかれた。にもかかわらず、事件発生の状況は瞬く間に紫藤市中に広まった。
その御伽噺じみた(あるいは質の悪い怪談じみた)噂は、古い商店を営む老人が開店の準備にと店先に現れた頃から始まる……。
眼もかすみきり、齢のおかげで長年営んだ店も閉めようかと悩み始めていく度目かの朝だったという。彼は霧か露の残る中に、異臭を嗅ぎ取った。加えて、普段は姿も見ることはないカラスが、もうろくしきった彼の視界を過った。
それは、彼がこの場所に店を構えてから初めてのことだったという。
これは何事かと老人は、カラスに導かれるように件の路地に足を踏み入れた。その瞬間である、老人が感じるすべてが、赤く染まったのだ。
地面は血の池に沈んでいた。そして、路地を囲む建物の壁は、鮮血が塗りたくられたように飛び散り、さながら赤を基調にデザインされた部屋のようだった。
老人はこの異常な光景を目の当たりにして、この状況をどう判断したものか、わからなかったのだろう。嗅ぎ慣れない臭いが何なのかさえ分からない。ただ、舞い踊るカラスの群れが、尋常ではないことだけを知らせている。それでも老人は、好奇心のためか、長年連れ添った土地の異常を確かめるべきという義務感のためか、その霞んだ瞳を見開いてしまったのだ。
老人の目に映ったのは奇妙な形の調度品だった。それは、緩やかな、あるいははっきりと歪曲した、もとは白かっただろう物体が、素材として使われていた。
それらは、静物画というには見慣れない形だった。近くに置かれてある丸まったテーブルクロスのようなものと、あるいはそれに鎮座した果実のようなものが視界に薄っすらと像をつくる。それらは、身に覚えがあるような、ないような、既視感に満ち溢れたような、それでも知るはずのないような――。やはり奇怪としか言いようのない印象を与えるものだった。
もう少ししっかりとみなければと、老人は赤い部屋に足を踏み入れる。
ぴしゃり
ぴしゃり
足元から水音が聞こえる。昨日は雨ではなかったはず。老人は何ともなしにそんなことを考える。
老人は『赤い部屋』の調度品を目にした。それは、かろうじて人体だったことがわかる残骸だった。入り口から数えて二、三歩近づいたところで、老人は再び目を凝らす。これで、この奇妙な部屋に主のごとく存在する調度品が何なのかがわかるはずだと。
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直後に響いたのは、老人の絶叫だった。彼はその場で腰を抜かし、赤いぬかるみに倒れ込む。混乱した脳髄に、すでに熱を失ってしまった鉄と脂の臭いが染み込んでゆく。この段になって、老人は足元のぬかるみが何なのかを理解した。
赤い部屋の奇妙な調度品を合わせて考えると、この路地にあるものはすべて、もとは一つの肉体だったのだ。
調度品の正体は損壊された女の死体だった。肋骨は器のように、内蔵は果実のように盛られていた。腸は細切れにされ(後からの調べによると、半分ほど長さが足りないということだった)、その上に胃袋の半分が(これについても、もう半分は発見されていない)そして心臓、肺、腎臓が飾られていた。また、それらを固定するように大腿骨が、これは地面に打ち付けられていた。死体の損壊状況が、後に事件の犯人を『怪物』などと称する理由となるのだった。
さてこのような異常な死体にもかかわらず、老人がその霞んだ瞳で死体は女性のものと判別できたのは、調度品に付属するように転がされていた生首のおかげだった。
その生首は、きっと生前は快活で血色がよかったのだろう。瞳はくっきりと大きく、唇もみる者を不快にさせないほどの厚み。鼻筋と輪郭はすっきりとしている。そんな細部に至るまで確認できるほどきれいに、それは保存されていたのだった。
この光景を正確に認識した老人は、一刻も早くこの赤い部屋から脱出しようと身を捩った。しかし不運のせいか、あるいは死者の魂が彼の手を引いたか、血のぬかるみはさながら地獄のように彼の手足にまとわりつき、地面を捕らえる彼の四肢を滑らせた。老人は何の構えもなく、ぬかるみに頭を叩きつけられる。鼻の骨が砕ける音が響く。
老人の絶叫に何事かと走り寄ってくる野次馬。そのうちの何人かは、老人の顔面が地面に落ちる音を聞き取っていた。
老人が必死に顔を上げたのと、野次馬が件の路地を覗き込んだのとは、数瞬の違いもなかった。
そして、再びの絶叫。
二度目の声の主は、駆けつけてきた野次馬達だった。彼らはみな、この寂れた商店街を根城にし、早朝から開店の準備をする者達だった。彼らの視界に飛び込んできたのは、その白髪までもを血に浸し、顔をひしゃげさせ、この世のものとは思えないほど恐怖に歪んだ顔をする老人だったのだ。
先ほどまで静寂に包まれていた事件現場(あるいは赤い部屋)は騒然となった。野次馬達の幾人かは血まみれで絶叫しながら言葉にならない何かを喚き散らす老人に恐怖し、慄いた。そんななか正気を取り戻した者たちでさえ、赤い部屋の本当の主を見つけてまた絶叫した。
以降、この老人をはじめとする商店街の店主たちが目撃した風景を、その類似を、幾人かの市民が目撃することとなる。この紫藤という街で起こる異常な殺人(加えて死体の損壊)について、誰かがこう言った。
「これは、怪物の仕業だ」
「この街には怪物が棲んでいる」
そのような荒唐無稽の言い分に、警察をはじめとした誰もが、異を唱えることができなかった。それほどまでに、この連続殺人が異常であるということは、先ほどの噂話を知った後ならば、納得することも容易いものだった。
そして、時間は流れる。その間にも、『怪物』による事件は断続して起こっていた。
夜、七月の最終日のことだった。少年、奥路久也は紫藤市で起こっている事件とその惨状とを承知していた。もちろん、まことしやかに囁かれる最初の事件の目撃談も。それにもかかわらず彼は、紫藤の街で、日付も代わろうかという夜中、繁華街から住宅街へとのびる、灯りの少ない道の途中で、甲高くざらついたオスかメスかもわからない断末魔を聞いたとき、それに向かって全力で走ったのである。
まるで、惹かれ合うように。そうすることが当然であるかのように。
彼は駆り立てられるままに――――。
自身が、噂話に登場する老人の役割そのままであるということにも、気づかないふりをして。
第一話 七月三十一日 怪物は微笑する月の下に
路地裏はやはり赤かった。そこを照らすのは月光だけで、一つだけあった街灯は何者かに破壊されていた。
そこを囲む壁には鮮血が塗りたくられ、その端は擦れ、斑の模様に飾られている。地面はまだ人肌のように温かくぬかるみ、脂と鉄の臭いが鼻をつく。
「これは、なんだ……」
奥路は、この赤い部屋を見た直後、そう呟いて膝を折った。幸いにも、緩く涼し気なズボンは血に沈んでいない。
かろうじて嘔吐と悲鳴をこらえる。このときになってやっと、彼は噂に聞く老人を思い出す。それに合わせて、彼が味わったのと同じ恐怖をも。
瞳を凝らすと、この景色にお似合いの彫像が、まるで主であるかのように(いいや、この表現は正しくない。なにせこの赤い部屋を成り立たせているのは、その彫像そのものなのだから)鎮座している。
四肢は滑らかに、切り取られている。
首、腕、脚、胴体から枝分かれする根本からは太い血管や骨の断面が露出して、鮮血を吹きあげている。いいや、『いた』のだろう。胴はおそらく、四肢を斬って捨てた次の瞬間には二つに断裂していたのだから。だから、いまはただ、内臓は生きていたときの名残で微動して、どくどくと粘土の高い血液を垂れ流している。
そんな惨状に添えられたのは、あらぬ方向に折れ曲がった四肢だった。それらも本体に倣って、今にも動き出しそうなほどに活き活きとした血色で、赤い部屋に沈んでいる。
特徴的なのは、死に際の、凍り付くような恐怖が滲んだ女の顔。
血色がよかっただろう肌。大きく、くっきりとした瞳。適度な厚さの唇と、良い造形の鼻筋、輪郭……。
奥路はこの光景を目の当たりにして、吐息のように声をもらすだけだった。
そのはずだ、この光景を見た彼の脳髄には身体中を揺さぶって止まない衝撃が走っていたのだから。
走馬灯のように、噂に聞く最初の殺人の情景が彼の脳髄を駆け抜ける。そして、精神は、この極限の惨状から必死に逃れようと、噂と現実の相違点を探し始める。
そのひとつは、奥路が未だ高校生であるということ。
ひとつは、老人は絶叫し、奥路は絶句しているというコト。
なにより、最も大きな違いは。
月は、微笑む瞳のように上弦で――――。
最初からこの赤い部屋にいた少女を、照らし出しているということだ。
彼女は、とても麗しい。白を基調としていたセーラー服。白い月明りで染まる灰色のスカートはプリーツで、どちらも赤く染まっている。(奥路は、彼女の服装が何であるのかに、このときは気づいていない)そして彼女の、制服に包まれた痩身は、それでもくっきりとした曲線を描いている。
赤い部屋の奥から、ピシャリ、ピシャリと音がする。
スカートから伸びる彼女の太ももが、なまめかしく蠢く。ローファーは赤い部屋のぬかるみを躊躇いなく踏んでいる。
携えるは彼女の身の丈ほどもある刀。それに滴るのは血の雫。ビョウと空を切り裂けば、刃からは鮮血が弾丸のように散る。
黒い長髪は人目を引くほどに、夜に溶けるように艶やかで、月明りで輝いている。
彼女という存在は、笑みのように細くなった月明りで輝いているのだ。
しかし、纏う空気ときたら和やかさや愛しみなどみじんもない。上向きに反り返った光は、彼女にとっては笑みを意味していない。彼女の身体にも、手にした刀にも降り注ぐ月明りは、その瞬間をもって冷徹へと変貌する。
少女の口元もまた上弦。それが意味するのは、赤い部屋に鎮座した調度品への嫌悪か?
その場に、奥路が居合わせたことへの不快感か?
奥路には、彼女の表情がそのどちらにも思えた。そしてそれ以上に、彼は思った。
『僕は、彼女に殺される。彼女は、僕のことも殺す気だ』
その考えを肯定するように彼女は口を開く。やはり、機嫌がいいとは言い難い。これは幸いなことなのだろうか? 彼女は殺害を行うことで高揚することはないのだろうと、楽観的な解釈をすることもできる。
「あなた、何者?」
そうして奥路を見据える。眼光は、赤い部屋を照らすもう一つの光源となるほどに煌いている。それを理解できる奥路は、彼女から筆舌し難いほどの殺気を感じた。
刀が、彼の四肢を分断していく。
まずは、腕と脚の付け根。次はあらゆる感情を押し込めた頭の。
続いて、鮮血が吹き荒れる。その合間を縫うように、滑らかに、切先と彼女の眼光が光の尾を描く。出血による絶命など関係ない。名も知れぬ彼女が放つ殺気は、奥路が目撃してしまった残骸の創り方をそのままなぞっている。
…………奥路はそこまでを幻覚してやっと、彼女がこの場で何よりも不吉な存在であるということを実感した。同時に、彼の四肢に感覚が戻ってゆく。手は空を握り締めている。じりり、とあとずさる音は目の前の少女の耳にも届いていることだろう。
月が、夏の湿度をもたらす重い雲に隠れる。地表に風はなくとも、上空はそうでもないらしい。それが、明かりが消えた瞬間だった。
奥路は踏み外さないように、後方に下がった左足を軸に身体を反転させる。すぐさま、踏み込んだ足に力を込めて、その場から走り去る。
絶叫はない。呼吸の一つも惜しむように、彼は奔ることだけに意識を傾けていた。そのはずだ、先ほど彼が感じた、少女から放たれる殺気は未だに彼の身体に突き刺さっている。振り向く暇も惜しむ奥路は少女が追いかけてきてはいないということにすら気づいていない。
恐ろしいから振り向けない。振り向けないから恐ろしい。
恐怖は連鎖し、彼の脚を狂ったように回転させる。帰る方角はどちらだったか、そんなことすらも彼の意識からは遠ざかっている。
けれど、それほど必死になったところで、いつまでも走り続けられるわけもない。呼吸は乱れ、脚は骨から軋むほどに微動している。それゆえに地面を蹴り損ね、絡まり、ついには顔面を地面にぶつけることとなった。
ゴヅン――――
鈍い音を立てて、奥路は転倒する。緊張の極限か、体力の限界か。そのどちらもだろう。彼は受け身を取ることすらできなかった。すぐさま立ち上がろうとするも、彼の腕は震えている。
身体を捩り、腹ばいになってその場を離れようとする。
『早くこの場を離れなければ、あの少女が……。いや、あの怪物がやって来る』
しかし、この転倒によって、彼は背後を見るが機会を得た。
そこには、まだ明るい街灯と、人家から漏れる、カーテンで遮光された光が広がっていた。闇は、それらが届かないところに斑のようにあるだけだった。
ハァ……
はーっ
スゥ、ハハァ
乱れた呼吸を整える。同時に、自分の視覚が正常なのか、そうであれば、あの少女が本当に迫ってきていないのかを確かめる。地面にくずれおちたままの下肢と、それゆえに上体を支えることになった腕は震えている。視界は錯乱したかのように、闇と光の間を往復している。
そんな光景が、いくら続いたことだろう。幸いなことに、(奥路は声をあげながら走っていなかったためか)彼を不審に思う他人も、それが呼び寄せた警察の類も近くにいはしなかった。そして、奥路はそのことを理解できるほど、一先ずは思考の整頓が終わったらしい。吐息も整い、かろうじて立ち上がることができた。
「なんだったんだ。アレは……」
つぶやいて夜空を見上げる。上弦だった月は、雨模様の曇天に囲まれている。うっとおしい湿気に、身体中の汗が呼び寄せられているかのように、彼の身体は濡れていた。
このときになって、彼の中にある疑問が芽生えていた。
『果たして、あの光景は本物だったのだろうか?』
彼の感覚に残るのは、住宅街を走り回った故の疲労感と、虚脱感。落ち着いて考え直してみれば、目撃したらしい惨状も、少女も、彼女から感じる言いようのない威圧感も、それは何かの錯覚だったのではないだろうか?
犬か何かの鳴き声を聞き、それに向かって走り出した。そして、その先で幻覚を視た。その理由は、春以降に散発している殺人事件について彼が知っていたから。
死体に見えたのは、それこそ犬の死骸だったのだろう。
『僕が見たのは、怪物の模倣犯だったのかもしれない』
怪物に見せかけて動物をいたぶり殺す、人の悪行だったのだと、そう思い込もうとする。
そうやって、奥路が恐怖から覚め切ろうとするとき、彼のスマホが震えた。同時に、夜の道にはよく響く呼び出し音が鳴る。
『着信 堂島楓』
その文字を見たとき、彼はこれ以上ないというほどに安堵し、それに応答した。そして、その場をゆっくりと後にし、彼が自宅に帰りつく頃、その通話は終了した。
こうして、彼の恐怖体験は終わりを告げた。
翌日、彼は学園祭でヴィエの準備のために(以前から予定されていた通りに)登校するのだった。
*
――――二人の男女の会話。奥路久也と堂島楓の関係。
『もしもし、久也? って、大丈夫。なんか、息上がってない? まさかあなたっ、他の女とヤってたの?? 悲しい、私は悲しいわ。あなたみたいな清純で健全な男子高校生が、彼女とのデート終りにセフレといたしてた、なんて…………』
「………楓さん。それは流石に妄想がたくましすぎます。飛躍しすぎです。でも、すいません。僕、今はかなり動転していて――――」
『あぁ、わかってるわ。あなた、本当に大丈夫? だから私の部屋に泊るように言ったのに。今は夏休みでしょ? それに、しばらく起きていないとはいえ、怪物だっていつ出てくるかわからないんだし…………。大丈夫? 本当に体調悪そうだけど? というか、もう帰宅してるんでしょうね? こんなに遅くなったのは主に私のせいだけど、道草食ってるならば、悪いのはあなたなんだからね』
「大丈夫ですよ。ちょっと変な人に絡まれて、必死に逃げただけです。それ以外は、本当に、何もないですから」
『むぅ、変な人に絡まれたって、その一言だけで私は不安になるんだけど…………。それに必死に逃げたって? 本当に大丈夫なんでしょうね? 私、あなたのことを本気で想っているのよ。同情や憐憫じゃない。私はあなたの危うさが愛おしくて、脆さが恋しいの。もちろん、それ以外のあなたも。だからね、困ったことがあったら、なんでも私に相談しなさい。私は、あなたの彼女なんだから』
「――――ありがとうございます。本当に、大丈夫ですから」
『やっぱり心配。迎えにいこっか? 今どこ? これを機会に親御さんにもご挨拶しましょうか?』
「楓さんっ。……最近は物騒ですから、こんな夜中に出歩くのはダメです。かい――、怪物が現れたらどうするんですか。それに、僕の両親は今日帰りませんよ」
『わかった、あなたがそこまで必死に止めるなら、私は家を出ません。君が自分の家に帰るのを心待ちにすることにします。でも、帰ったら電話の一つも寄越しなさいよ』
「大丈夫ですよ。もう帰りつきましたから。そういえば、楓さんは大丈夫なんですか? 明日は仕事って言ってませんでしたっけ?」
『う、思い出したくないことを思い出させるなぁ、あなたは。大丈夫だよ、たぶん……。化粧も落としたし、シャワーも浴びた。夕食は君と済ませているし。うん、就寝の準備は完璧だ。あなたも、ちゃんと戸締りをするんだよ。今日はなんだか大変な目にあったみたいだし。あなたのそんな声は、私と初めて会ったとき以来だ』
「そ、そうですか? それは、心配させてしまってごめんなさい。でも、本当に大丈夫ですから。失恋からも立ち直りましたし、今日の出来事も、何とかやり過ごせそうです」
『ならよかった。私のおかげだな』
「はい、楓さんのおかげです。ありがとうございます」
『う、そんな風に素直な受け取り方をされると反応に困る……。あなたが立ち直れたのは、あなただからよ。私は、そんなあなたを愛しただけ。って、何を言わせるんだ。――――もう、こんな夜更けに、また会いたくなったじゃないか』
「それは、ごめんなさい。でも、今日は早く寝てくださいね。もちろん、夜歩きもなしです。あと、その――――、愛しています」
『フフフ、嬉しいことを言ってくれるじゃないか。私の方は大丈夫だよ。あなたも、早く寝なさい。おやすみなさい。私の可愛い男の子……』
「おやすみなさい、楓さん」
ツ―――――――――――
ツ―――――――――――
ツ―――――――――――
ツ―――――――――――
*
――――少女
彼女は名を、刻浄静という。刻み、清め、静す。彼女の漆黒の長髪が、穏やかでありながら鮮烈な瞳が、曲線的かつ凶暴なまでに引き締まった痩躯が、彼女を示す名を現している。
佇むだけならば、彼女が殺人現場にいることなど誰一人として思い描くことはないはずだ。しかし事実として、彼女はその日の夜更け、日付が変わろうとかというそのときに、確かに女性の死体と共にいた。そして今、彼女は自身の主である魔女と対峙している。
「今日はなんだか、君の心が揺らいでいるね」
ゴウゴウと、空調が音をたてる。デスクを照らす月明かりだけが、その部屋の光源だった。
白い壁。リノリウムの床はもとの緑がくすんでいる。そして、すでに粋ではなくなった、壁と同じ色だったカーテン。囲われたベッドは空で、それを見守る位置にあるデスクには、白衣ですら艶やかに着こなす女性が腰かけている。
月光を集めて、魔女の明るい(橙めいた)瞳は輝いている。
魔女はその名を、茜杏子と言った。
「何もないわ。ただいつも通りよ」
刻浄は先ほどまで殺害現場にいたことと、それを目撃されてしまったことを茜には言わなかった。
「ふぅん。まぁ、そういうことにしておこう。君が私に黙って何かをするのは、いつものことだからね――――」
と、茜は言葉を止めて煙草の煙を弄ぶ。人差し指を魔法の杖のように振って、虚空に煙の文様を描く。
「明日からはヴィエの準備が始まるんだろ? 怪物と学生の二重生活は苦にならないかい?」
茜は唇を歪め指先の煙草を紫煙と共に弄ぶ。赤みがかった長髪を後頭部でまとめる、鋭く美しい造形の顔は上弦の月を見上げながら、視線を刻浄に向ける。その耽美なことといったらこの上ない。
「えぇ、なんともないわ。それにしても、春から登校を始めた生徒をいきなり舞台に立たせるだなんて、ここの学校は狂っているわ」
その言葉に、茜はクハハと笑って、煙草を灰皿に押し付ける。
「狂っている、ねぇ。確かに、この学園は狂っている。どころか、この街自体がね」
茜の瞳は赤く、明るい。その両眼は今、月明りに照らされている。そのせいか、さらに爛々と輝いていて、目の前にいる黒髪の少女が隠していることを見透かしてしまいそうだった。
「人間をやめてしまった君にもわかるくらいだろ? 私がここに住み着いたのもそれが目当てさ。ここにいれば、厄介ごとの方から寄ってくる。ここはね、私のために張り巡らされた蜘蛛の巣のようなものだよ」
ニヤリと悪女の笑みを浮かべる茜の傍らで、刻浄は彼女の吐いた非情な言葉に、刻浄の身体が微動していた。
そんなこと、すでに心得ているとでも抗議するかのように。それとも、そんなことはあるはずがないと、未練がましく。
「おや、君はまだ人としてあることに未練があるのかい? 人間かそうでないか、なんてことは重要ではないのに……。まぁいい、そういえば、今日あたり殺人があったらしいな。ちょうど、君が来る直前だ。何か心当たりは?」
刻浄はその言葉に動じることなく、「知らないわ」と応える。
茜はこのときにある刻浄の動揺の原因がそれにあったと直感したが、些事だと思うことにした。その代わりに、刻浄にひとつカマをかけることにした。
「異常を視る者は、それ自体も異常なモノか、それを引き付ける何かだからね。仮に、仮にだぞ。今日起きた殺人が殺害だったとして(その時点で君は私に報告すべきだ)その現場を、その直後でもいい、それを目撃した存在がいたとする。その者はもうすでに怪物だ。君のように手の施しようはない君は君であることが奇跡なんだ。怪物もどきが、そうやすやすとそのままで、まして安らかにいられるだなんて、思わないことだね」
片目を閉じて、茜は刻浄を見据える。薄暗い、白色の部屋に紫煙が漂う。刻浄の白い顔を撫でる。思わず手で振り払う。茜から放たれる香りは、魔女の妙薬だ。
刻浄は茜の道理も理屈もない直感に身震いをしてしまいそうになる。
小さな電灯に刻浄の視界は揺れている。宵闇の中に浮かぶその場所は、とても秘めやかだ。
その静寂が、彼女が冷静でいられるように手助けした。いいや、そうではなく、彼女の判断を狂わせた。
「わかっているわ。殺すべきものは殺す。その現場を見たものも、例外なく」
刻浄の声には、怒気も恐れもない。けれど、彼女の表情は厳しい。
「よくわかっているじゃないか。どうやら、私が君を完全に支配して聞き出す必要はないみたいだね」
茜は刻浄を見詰めたまま、すでに根元まで燃え尽きた煙草を灰皿に押し付ける。
「君の眼には期待している。獲物を捕らえたら、すぐさま私に報告なさい。信じているよ、君は私の使い魔だからね、主人にはそれなりに忠実なんだ。」
私の呪いはよく当たるぞ、魔女はそんなことをヒョウヒョウと言ってのける。
それに重なって、カーテンレールが擦れる音が響く。月明りが部屋に染み込んでくる。続いて、カラカラと。刻浄が窓を開ける。部屋の空気は乱れ、紫煙は外に、夏の熱に潤った夜色の風が流れ込む。
「おい、窓を開けるんじゃない。空気が湿気るじゃないか。私は夏が嫌いなんだ」
室温の上昇を察知した茜が声を上げる。ぬるいと煙草がまずくなるというのが、彼女の言い分だった。
しかし、刻浄はそれを気にすることもない。
「わかっています。そうあることが、私の存在意義なのでしょう?」
「その通りだ。せっかくなんだから、学園生活の方も楽しみなさい。これは、君のこれまでの働きに対する報酬だ」
いたずら好きな子供のような笑顔だ。しかし、それ以上に嗜虐的で……。
「いいや、そんな安らぎは君には似合わなかったかな? それよりも、もっと刺激的なものが好みだったような……」
刻浄は視線をそらし、右手で左腕を身体に寄せる。黒く長い髪が、月明りで艶めいている。
「どちらでも構いません。私は、殺すべきものを殺すために生きている」
茜の口元からは、嗜虐的な笑みがこぼれ続けている。月明りはやはり上弦で、彼女の口元を照らしている。
刻浄は口を結んで、踵を返して部屋を出て行く。
「わかっているわ。そんなこと」
消え入るような声でつぶやいて、彼女はその部屋を後にする。
黒髪は、その持ち主をこの世界から切り取る刃のように、煌くばかりだった。